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G12  エバーグリーン

 二本の電車と二本のバスを乗り継げばもうそこは見知らぬ国だ。

 バスのステップを降りる。ほほにふれた風には見知らぬ香りがまじっていて、ここはもうわたしのテリトリーではないのだな、なんてふと思った。寂しさはなく、静かな高揚感と幽かな不安だけがわたしのなかでくるくると渦巻いている。
 わたしの住む街は都会だった。あの人ごみは、わたしから色んなものを吸いあげる。たとえば酸素とか。けだるく、いつもどこかが醒めていて、どこかが眠っている街。美しい街ではないし、優しい街でもないけれど、やっぱりわたしはあそこが好きだと思う。

 ベンチに腰かけ、水筒の麦茶をとりだすと目を細めた。初夏の日ざしはわたしにはちょっとまぶしすぎる。視界がかすかににじみ、ひかりに満ちた景色はほんのわずかに明度を落とす。これでいい。こんな風にあわい輪郭の世界がいい。
 古びたバスの待合所で、色あせた海のポスターを眺めていると、遠い木々のざわめきも潮騒のように聴こえてくる。待合所の古びた木の匂いと、耳に届く波の音はちぐはぐで、わたしは小さくくしゃみをした。
「カゼかい?」
 ほっそりとした脚が二本、わたしの前に並んでいた。視線をずらすと真っ白なシャツが光る。洗い立ての洗濯物の匂いがしそうなくらい。
「ウタさん、来たんだ」
「来たよ」ウタさんはうなずくと、「きみの前に私がいるってことは、私がきみに会いに来たってことだもの」などと哲学的なことをうそぶく。
 ウタさんはいつもこうだ。人を煙に巻くのがとても上手い。実のところわたしは哲学を学んだ経験がないので、彼女の台詞が哲学的かどうかは自信がないが、とにかく、ウタさんはヘンな人だ。
「あの人はいいの? 待ってるみたいだけど」
 ウタさんの肩ごしに指をさす。道路には、真っ黒な車が止まっている。よく磨かれていて、近づいたら顔が映りそう。
「ああ、忘れてた」
 ウタさんはふり向くと、軽く手を挙げた。
 黒い車は音もなくすうっと走りだすと、すぐに見えなくなった。最初から存在しなかったみたいに。もしかしてあれは雲の影か何かではなかったのだろうかと空を見上げてみるが、そこには雲ひとつない快晴がのっぺりと広がっているだけだった。

「行くかい、ミツ」
 わたしはうなずき、腰をあげた。慣れないスカートにシワがついていないか確認する。大丈夫みたいだ。
 水筒を鞄に戻すかどうかちょっと迷い、結局首にかけた。
「何それ、カワイイ。遠足?」
「ウタさん。ここからだとどれくらい?」
「きみってさりげなく人の話聞かないよね」
 ウタさんは苦笑いで、「入り口まではすぐ」と答えた。「そっから森の中が長いけど、今からだったらたぶん二時前には着くわよ」
「なら良かった」
「バスだったら気にしなくていいわよ。私が送るから」
 ウタさんはそう言ったが、わたしが気にしていたのはバスの時刻ではなかったので、首を横にふった。ウタさんの「彼氏」の車に同乗するなんて御免こうむりたい。


「どうして来たんですか」
 この森の木はとても背が高い。だから、すべては上からやってくる。
 蝉の声や葉の合間をこぼれ落ちてくる太陽の光はもちろん、わたしが発した言葉もまた一旦地面に吸い込まれ、根を通り、幹をよじ登り、再び梢から降ってくる。
 一度木のなかをくぐった言葉は、まるでちがう発音に感じられた。これではまるでわたしが、ウタさんを憎んでいるようではないか。
「だって呼ばれたもの」間をおいてウタさんは言う。
「行きたくないって言ってたのに」
 ウタさんは私の半歩前を歩いている。さきほどから追いつこうとして足を速めているのに、どうしても隣に並ぶことができない。ウタさん、わざとやっているな。
「それは私ひとりなら。ミツがいるなら大丈夫よ」
 だいじょうぶよ、と降ってきたウタさんの声はひんやりとしている。
 わたしはふとウタさんの顔が見えないことが不安になった。今彼女がふり返ったら、それはもう既にヒトのものじゃないかもしれないと、子供じみた妄想が脳裏をかすめる。
 馬鹿らしい、と思ったのに、わたしの両目はすうっとウタさんの足元に吸い寄せられた。苔むした石段にじとりと伸びた影。ウタさんのそれは、やけにくっきりとして濃い。墨をまいたように。
 今日は太陽の光が強いからだろうか。それとも、ウタさんがすべての光を呑みこんでしまったから、なのだろうか。
「わたしがいるから」
「うん。きみがいるから」
 こちらを見ずに言ったウタさんの平坦な台詞は、愛の告白にも、憎しみの呪詛にも聴こえた。あるいはどちらでもないのかも。
 すくなくともそれを言ったとき、ウタさんは笑っていなかっただろう。

 ふう、とウタさんは息をつく。
 東屋の長椅子にわたしたちは座っていた。石段は目の前で踊り場を作り、左手に折れてまた上へと伸びている。こんな場所があるということは、ここにも定期的に人が訪れるんだろうか。
「思ったよりもかかるかな」
「かもしれないわね」
 うつむいたままの、気のない返事が返ってくる。何かを待っているような、意識がこちらに向いていないような。
「いま何時ですか」
 ウタさんは意外そうにわたしを見る。「時計、もってないの」
「はい」
「ケータイは?」
 わたしは首を横に振った。
 ちょっぴり困ったようにまばたきをして、どことなく残念そうにああ、そうなの、と言う。しばらくわたしを見つめてから、ウタさんはスリムジーンズから携帯電話を取り出した。
「時代に逆行してるミツも嫌いじゃないけど」
 一時四十分、と答える。
「じゃあ二時には間に合わないかな」
「いや」
 じっと携帯の画面を見つめたまま「だいじょうぶ」と言うウタさんの横顔には幽かな微笑。わたしにはそれがやはりヒトのものに見えない。ヒトのものではないからといって、じゃあ何かと考えれば、よくわからない。
 ウタさんがときどき見せるこういう表情を、わたしはあまり好きではない。これは何もかもを知っていて、それでいてそれを誰にも隠している、そういう微笑だから。
「でも、あと二十分しかないのに」
 ウタさんはディスプレイから目を離さない。「だいじょうぶ」とだけ言う。だいじょうぶ。だいじょうぶ。とくり返す。
 ヘンだな、と思ったら、辺りがいつの間にか暗くなっていたせいらしい。影がこちらに向かって地面を滑ってくるような、嫌な暗さだ。空には雲ひとつないのに。
「そうか」
 風がぴたりとやんだ。
 眉間に指を突きつけられたときみたいに、ヘンな気配が耳の奥でぞわっとふくらんで、わたしは上手く呼吸ができなくなる。
「もう着いてたんだ」
 ケータイをぱたりと閉じ、こちらをふり返らず、ウタさんはそっとうなずく。その横顔には、深い影が、濡れたように落ちている。


 水音が響いている。これは、魚が跳ねる音だ。
 喩えではなく、わたしの前では、魚が水面から踊り出して、ぽちょんぽちょんと波を立てていた。あざやかな錦鯉の群れ。どこからか湧いた流れに逆らい、鯉たちは遡行していく。体をよじって水面を割り、いくつもの波紋を残しながら、再び跳びあがる。石段の上へ上へと。
「ええと」
 これはなんですか。何が起きているんです。鯉って遡行しましたっけ。この水はどこから。ここはどこ、わたしはだあれ。突然目の前ではじまったことに、うまく言葉がつながらない。どれも疑問詞ばかり。
「ミツ、行こう」
「どこに」
「この上よ」
 手を引かれるままに、ひざまで浸す水のなかに立つ。鯉たちのしぶきで小さな虹ができている。手を伸ばすと、すこし濡れた。
 ウタさんが見ているのもまた、鯉たちと同じ石段の上だった。
 
 ばしゃんばしゃんと音を立てて、わたしとウタさんは石段を登る。
 小さな滝のように水が流れてくる。足元で、すぐ隣で、一歩先で、誘うように鯉たちが跳ねている。白と赤と黒のまだら。流れる血と乾いた血のまだら。しぶきがつめたくて気持ちいい。
「きみが来た。その時に全部わかった」
 石段を登るあいだ、わたしはウタさんに色々たずねたが、答えとして返ってきたのは見当はずれなもの。
 流石にむっとして「来たって、わたしが誘ったのに」と強く言う。
「馬鹿ね。ちがうのよ。きみが私をここに誘ったんじゃなくて、私がきみが私をここに誘うように誘ったの」
 ウタさんは隣でくすくす笑う。
「だいいち、きみにここの話をしたのは私じゃない」
 さっきウタさんの横顔に感じたものは正しかったみたいだ。
「わたしに何をさせたいんですか」
「べつに。見てほしいだけよ。私がずっと、ずうっと逃げ続けていたものを、いっしょにね」
 ぞくりとした。わたしははじめてこのひとを怖いと思った。このひとは何者なのだろう。なぜこんなにも赤い、とても赤い唇をしているのか。
 思えば、わたしはこのひとのことをほとんど何ひとつ知らないのだ。
 このひとの本当の名前を果たしてわたしは知っていただろうか? 出身も、家族構成も、職業も、好きな食べ物も、住んでいる場所も。わたしは何ひとつ知らない。何も知らないひとと、わたしはこんなところまで来てしまった。それが今になってひどく愚かで、怖ろしいことに思える。

 急に視界がひらけた。本当の静寂が広がった。神の前に立ったような静寂が。鯉たちが跳ねる水音、鳥の羽音、風鳴り、木々の葉ずれ、虫の足音、足元の苔がのびる音、わたしのミトコンドリアが呼吸する音すらも、止んだ。世界が息をひそめていた。
 わたしの前には長い石畳が続いている。参道、という言葉を思い出す。
「紹介するわ。これが私の『かみさま』よ」
 緑色をしている。
 わたしははじめ、それが緑色であることしかわからなかった。それほどまでに深く、濃い、夜の闇にも似た緑だった。
 石畳の道の果てに、遠近感を狂わすような、巨大な樹があった。
 幹の直径だけでわたしの視界を半分埋める埒外の大きさに加え、梢の位置ははるかに高く、かなり離れたここから首をひねっても視界には入らない。生臭い緑の匂いを感じて、わたしは今すぐここを逃げ出したい気分になった。
 あれはまるで森だ。苔や蔦におおわれた、ちいさな森が道の向こうにそびえている。
「かみさま……」
 ウタさんの言葉は間違っていない。この世界に神が存在するなら、こういう姿をしているに違いない。理性や理屈を超えてわたしは理解する。
 これが神なのだ。これがウタさんの神。
「ミツ、おいで」
 ウタさんは樹のすぐそばで手招きしている。いつの間にあそこまで行ったんだろうか。わたしは誘われるがままに歩き出した。

 参道を半分ほど歩いたところで、違和感を感じて立ち止まる。足元を見ると、びっしりと苔が生えた石畳が目に入った。ふかふかとしてなんだか緑色の座布団みたいだな、と思ったときに、気づいた。やわらかく湿った苔の感触など、なぜ感じるだろう?
 いつからだったのだろうか。わたしは靴をはいていなかった。
 足の裏から頭のてっぺんまで、波のように悪寒が走った。わたしはこの緑に触れているのだ。あいだに何もはさむことなく、直接に触れている。
 もしくは、触れられているのだ。
 走り出した。苔に足をとられ、何度も転びそうになる。そのたびに悲鳴を上げて、また走る。
 ひきずりこまれる。ひきずりこまれる?
 自分の考えていることが自分でも上手く理解できない。とにかく怖くて怖くてたまらない。あの深い緑のなかにひきずりこまれるその前に、早くウタさんのところへ行かなければならないのだと、その確信にも似た衝動がわたしを駆り立てていた。
 走っても走っても距離が縮まらず、わたしの背中には次第にじっとりとした汗がにじみはじめた。石畳の道がどんどんのびて行くような錯覚に襲われる。足をもつれさせて走りながら、わたしは場違いにあの錦鯉たちのことを考えていた。鯉たちはいったい、どこへ消えてしまったのだろうと。

「どうしたの、そんなに慌てて」
 わたしは首を横にふった。息が切れて言葉が出てこない。
 そう、と小さくつぶやくと、わたしの息が整うのを待って、ウタさんは自分の前のものにそっと触れた。
「見てごらん」
 ウタさんに言われて気づいた。凶暴な緑のなかに一点、絵具を落としたような朱色。この樹はただそこに立っていただけではない。鳥居と、その奥に祀られた祠を飲み込み成長していたのだ。
「人が作ったかみさまを、この樹はやすやすと呑みこんでしまった。まがい物のかみを、本物のかみさまは許さなかったの」
 恍惚とした声で、ウタさんはあせた朱の鳥居をなぜる。
「これをわたしに?」
「そう。見せたかった」
 かみさまを、見せたかった。
 ウタさんはいつまでも、鳥居をさすり続ける。憑かれたようにずっと。


「ウタさん」
「なあにミツ」
「こっちを向いて」
 鳥居に触れていたウタさんの手がぴたりと止まった。
 ややあってから肩が静かにゆれ始めた。笑って、いるんだろうか。
「ミツ。私、賢い子って好きよ」
 不意にウタさんがふり向いた。赤い唇がにっと吊りあがって、白く硬そうな歯が見える。ウタさんは微笑んでいる。それはすくなくとも、あの寒々とした微笑よりはずっと美しい表情に見えた。
 こちらを見る二つの目は、深い、緑色をしていた。
「あなたは、だれ」
 足が震える。一歩、下がった。
 ぱちゃんと音がし、ふり返ると、ほほに水が飛んだ。三色のまだら。錦鯉たちが再び群れをなしていた。足元に再び水が満ちはじめる。
「心配要らないわ。その子たちについて行けば、ちゃんと森を抜けられる」
 混乱していた。自分のなかに突如あらわれた感情が理解できない。この足の震えは、恐怖のせいではないという漠然とした確信だけがあった。わたしはウタさんや、その背後のものを怖れているのではないような気がする。
 そうだとしたら、これは、喜び?
「知ってる? 世界はとても多層的なの。きみが今まで立ってたのはその表層。でも今日、きみはひとつ層を降りてきた。一枚めくればもう一枚、もう一枚、もう一枚、そうしてきみはこれから、もっと下まで降りていく。これがどういうことかわかる?
 私たちはきみをずうっと待っていた。でも、同時に怖れていた。きみが目覚めれば、取り返しのつかないことが起こるんじゃないかって。怖かったの、きみが私たちにとってどういう存在なのか、どういう存在になってしまうのか。敵なのか、味方なのか。あるいはどちらでもないのか。でも今日、きみが来たときに私はわかった。どっちでもいいのよ。きみは私たちの可能性。新しい世界のページをめくる音。
 私たちは楽しみにしてるわ。いつかきみがまたここに戻ってきたとき、きみがどんなものになっているかを。たとえそれが私たちにとって、危険な存在であったとしてもね」
 一息に言い終えると、ウタさんはそっとまぶたを閉じた。びっくりするほど長いまつげが、ほほに影を落とす。
 もしかしたら相談しているのかもしれない。彼女のかみさまと。

「それじゃあ。行くね」
 と言って、すこしためらってから付け足した。
「また会いましょう」
 うすく緑の目を開け、ウタさんはくすりと笑った。
「またね。楽しかったわよ」
 先を行く鯉たちがぽちょんぽちょんと跳ね、水滴が飛びちる。この鯉たちに導かれて、わたしはどこに行くのだろう。わたしは何になるのだろう。
 でも今はひとまずあの街に帰り、酸素を奪われながらあの家に帰り、やわらかい布団のなかにもぐりこんで、眠りにつこう。そして目がさめたら、いろいろなことを考えるのだ。
 今までのこと、これからのこと、ウタさんのこと、この世界のこと、ここではない世界のこと。
 そして何よりもわたし自身のことについて。

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