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G10 草いきれの道

 敗戦前年、新米少尉の私は北部三四部隊を原隊とする山二五四七部隊の小隊長に任ぜられた。それまで瀬戸内から一歩も外に出たことがなかった私にとって、赴任直後に迎えた大陸の冬の厳しさは畏れにも似た気分すら覚えさせるものであった。幸いにも山二五四七部隊は山形県出身者の集まりであり、寒冷気候に慣れた兵隊に助けられることも多かった。山形と一括りにされていても、米沢や庄内等、地域によって方言が異なることを知ったのもこの頃である。
 年下の見習い士官とはいえど将校であった私に兵隊が話し掛けることが出来たのは、同隊の中隊長の存在が大きかった。色黒で頑丈な体躯をした中隊長は長崎出身で、両親と妻、一女の家族持ちであった。いかにも九州男児然とした闊達な人物であり、誰彼にも心安く話し掛ける面倒見の良さから兵隊に慕われていた。常に大らかさを失わない人柄に、年齢がそれ程離れている訳ではなかったが、私も兄に対してというよりは、父親に対する様な敬愛を自然と抱くこととなった。
 年が明け、戦況は日を追って悪化して行った。五月上旬には同盟国が降伏したとの報せが届き、いずれは我が国もそうなるのではないかと危惧しつつも夏を迎えた。大陸では景色が一筆で塗り潰される様に季節が変わる。或る日突然宿営地の外に広がる草原が緑に染まり、草いきれが鼻を突いた。そしてそのまま短い夏が過ぎて行き、八月十五日が到来した。
 中隊長が私を連れ出したのは、終戦の詔勅の放送を聞いた直後の事である。宿営地から暫く歩いた処で、中隊長は懐から煙草を取り出すと私にも勧めてくれた。二人で煙を吐き出していると、白い蝶が目の前を横切って行った。
我々は武装解除の上、何処かに連行されることがほぼ確実に予測されていた。抵抗も逃亡も許されず、「生きて虜囚の辱めを受けず」と云う軍訓は有名無実のものとなっていた。「留まるか、行くか、どうする」と中隊長は言葉少なに聞いた。今にして思えば、敢えて逃げるという語句を使わなかった様に思う。
 私が返事に困っていると、中隊長は、喘息持ちのお前には捕虜暮らしは耐えられないと思うし、兵隊にも生きて祖国の土を踏んで欲しいと続けた。そこで、私も漸く「行きます」と答えることが出来たのである。中隊長は頷いたが、私が聞く前に「俺は残る」と言い、私に兵舎に先に戻って準備する様に命じた。
 私は乾いた道を一人で歩いて戻った。表情が見えない程度の距離を置いてから振り返ると、中隊長は煙草を吸いつつ先程の蝶が飛び去った方角を眺めていた。中隊長について覚えているのは、その姿が最後である。
 隊は中隊長と共に留まる者と脱走する者に分かれた。当時は隊員も減って居り、最終的に私と同行したのは六人だけだった。どちらの判断が賢明か判らない儘、我々は互いの無事を祈りつつ別れることとなった。
 私は経理を担当していたので、紙幣を服の裏に縫いつけて持ち出した。敗戦後、頼りに出来るのは金だけであったからである。人目を避けて夜間歩き、現地の住民からそれで食料と水を買った。港に無事辿り着いてからは、密航するために船員への賄賂となった。あれが無ければ私達は無事に帰国出来なかった筈である。
 山形へと向かう六人とは船を下りた後に別れた。私は焼損を免れていた実家に帰り、無事だった両親と再会したその日から、それまで鳴りを潜めていた喘息の発作に苦しめられた。
深夜不意に飛び起き、申し訳無さに空が白むまで寝返りを打ったこともある。隣では知人の紹介で娶った妻が私の煩悶も知らず軽い鼾をかきながら熟睡していた。静かな夜であれば、子供達の微かな寝息もその合間に聞こえた。
 連行された後の中隊長らの消息は分からない。何年か後に無事送還されたとの噂を聞いたが、真偽は不明である。強制収容を生き延びたとしても、体を壊して帰還後若くして亡くなった人も多いと聞く。また中隊長の家族は被爆地である長崎に住んでいた筈である。
確かに喘息持ちの私が連行されたとしても、物事は何ら好転しなかったであろう。併し、私は将校としての責任を放棄し、軍の金を持ち逃げし、中隊長を置き去りにしたのである。それ程までして生き延びたにも関わらず、結局何も為し得なかったと思う事もあった。
 だが人生も終わりに近づき、その様な考えに苛まれることも少なくなった。記憶も感情も風化し、都合良く捻じ曲げられた結果であろう。ただ、あれから何十回夏を越えても、草いきれを鼻腔に感じる度に中隊長の傍らで眺めた風景が浮かんでくる。緊迫した情勢を微塵も感じさせない蒼穹に、晩夏の乾いた風に翻弄される白い蝶が舞っていた。
 見渡す限りの草原を二分して何処までも続く一本の道。私の地獄はそんな貌をしている。
 帰国直後は七名が集まって酒を飲む機会を設けたり、山形から彼らの作った野菜が送られてきたりもしていたが、いつしか連絡も途絶えた。今では、私はあの緑と白の情景を独り反芻している。それにつけても中隊長の名すら思い出せなくなって了ったのは、はなはだ遺憾なことである。

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