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G02  ノストラダムスによろしく

 その日、ほぼ自分の担当業務と化してしまった回覧板運びを帰宅直後に母から言いつけられた凛は、思い詰めた顔で自宅の玄関先に立ちつくした。たった今電撃的な閃きに打たれた十六歳の少女は、およそろくな考慮もせずにぱっとその計画に飛びついたのである。
 今から約五百年ほど前、ある名医にして占い師は世界の終末を幻視する。

 彼の名はノストラダムス。
 今日、地球は滅亡するとのたまった予言者だ。

 さてさて、この“大予言”への反応は多種にわたる。彼の言葉を予測不可能な摩訶不思議の未来に対する畏怖の具現だと鼻で笑い飛ばす者あり、解釈すらせずいつもと変わらぬ生活を淡々と続ける者あり、予言を信じ、山奥にこもって破滅を逃れようとする者あり。
 凛は予言を信じなかったが、級友たちは冗談半分に「終末の日」の過ごし方をかしましく騒ぎながら話し合うところ、満更不信だけが胸中を占めるわけでもないようだ。
 凛とて所詮それは同じで、こうして「その日」になると、もし――という不安がのそのそと、しかし着実に、頭をもたげてきた。
 もし、世界が明日を迎えられなかったら、あたしは後悔しないのかな。
 人生やり残したことなどないと、朗らかに言い切れる人はそうそういるものではないだろう。死期を受け入れた人でさえ、ある種の前向きな諦めを呑み込まなければそうは言えないはずだ。
 凛だって、まだ夏の新作で出たばかりの夏季限定アイスクリームを食べに行っていないし、期末テストが終わったら絶対行こうって友達と約束していたカラオケだって外せないし、ああそれに今年のオールスター大感謝祭には大好きなあの俳優が出るっていうし――
 でも本当に心から後悔することって、そんなもんじゃない。
 凛はぎゅっと回覧板を握りしめた。一番後悔するはずのことを、凛には確信を持って断言できた。
 一番大切な人に、大切なんだって伝えること。
 目標はここから徒歩三分の家にいる。明日からテストなんだから、一夜漬け主義の根は賢いアイツがこもって必死に勉強してないわけがない。
 そいつの名前は龍という。
 かれこれ五年以上、凛はその人を思い続けて、その間今までというもの一度も想いを口にしたことがない。
 理由は至極明快で、凛が臆病だったためだ。遠くから見ているだけなら、憧れの先輩のように諦めもついてすぐに忘れられる。問題は龍が本当にすぐ側に、ずっと近くにいたことだった。いつだって目で追える。探せばすぐに目に入るし、手を伸ばせばきっとすぐに触れられる。
 でも凛は一度も具体的な行動に出られなかった。怖かったからだ。龍に拒否されて、嫌われたり気まずくなったりして心の距離だけが遠のくのが。
 龍はあからさまな拒絶はしないはずだ、というのは、心のどこかで分かっていた。長い付き合い、加えて近しい関係、今まで散々クラスメート達に冷やかされて龍だって自分自身で凛の普通以上の気持ちに気が付かないわけがない。
 決して仲が良くなかったわけでもなければ、龍が完全に来る者拒まずだったわけでもない。手を貸すのに凛が一番適任な時は、龍は何だか悔しそうな顔をしながらも素直に頼ってきたし、その逆も同じだった。だからますます余計な期待が高まる。あたしが一番龍を支えられるんじゃないか、と。――龍がそれを望んでいるか、なんて、考えたらすぐにわかることだ。
 それでも龍は何もしなかったし、態度を変えなかった。それは距離が変わらないという点で凛を少なからず安堵させたものの、長年の観察で一つの事実を確定させてもいた。
 龍はきっと自分を好きにはなってくれない。好きになることはない。
 初めは受動的な形でも、という僅かな希望は、それに気付いた途端に木端微塵に砕け散った。それだってきっと分かっていたことじゃない、と凛は自分を納得させて、これまで何もせずに、ただ距離を狭めないように龍に嫌われないようにどっちつかずの関係はキープしながらとあれこれ邪な気を回して、ここまでやってきたのだ。
 どちらにせよ、大学を選ぶような頃には、二人の道は全く別の方向へ分かれてしまう。龍は国公立大へ、凛は留学を経て通訳になるために外語大へ。それで自然に互いの道が離れていってしまうならば、それに任せてしまおうと思っていた。それでいいと、仕方ないと。
 でも、もし仮に、本当に本当に、今日で世界が終わるなら?
 ――あたしは絶対に龍を想って最期を迎える。どうせだめだけど、って卑屈になって想うのがいいのか、あたしはそれでも龍が好きなんだ、って誇りをもって想うのか。
 今日が最後なら、いくら臆病者のあたしだって、これくらいの勇気は奮えるんだから!
 凛は決意も固く走り出した。そこには往生際の悪い自分を責めながらも突き放しきれなかった、幾年分もの陰湿な夜を越えてきた凛は、もうどこにもいなかった。


 ほぼ全速力で走ってしまえば一分足らずで着いた。
 凛は急にしぼみはじめた自分を足の裏で何とか支えながら、表札と睨めっこしていた。
 ちょっと、今までの威勢は何だったの凛! 今日だから言えるんでしょ!
 内なる自分と葛藤して数回足をじたばた、今度こそ意を決して凛はインターホンを勢いよく突き刺した。
 ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
 繊細な機械がけたたましい音を普通以上に鳴り響かせる。びっくりして飛び退くと、はーい、とおばさんの声がして――そっか、もう帰ってる時間だ!――、ぱたぱたという足音の後に明るい顔がひょっこりドアから出てきた。
 こんにちは、と渾身の愛想笑いが微妙に引きつる気がする。笑顔を絶やさないおばさん(基本無表情な龍とは大違いだ)は一層笑みを深くした。
「まあ凛ちゃん! どうしたの、龍?」
「ええ、はい、まあ」
 あらあらどうしよう、おばさんは片手を頬に当て、笑顔は消さぬままに少し眉を下げる。
「ごめんねえ凛ちゃん。――――」
 おばさんが何か言った。途端、凛の何とか保たれていた愛想笑いはそのまま動かなくなった。
 並んで前に向かっていると思っていた龍との二本の道が、龍の方だけぱかりと凛とは反対方向に九十度曲がってしまった。


 凛は往路とは打って変わってこれ以上ないほどに沈んだ足取りで復路を歩んだ。
 ぺたり、ぺたり。見よ、この妖怪も黙る暗澹とした空気。
 ぺたり、ぺたり。どうだ、ローファーでこんな音が出せる女子高生なんてそうそういないぞ。
 ぺたり、ぺたり。一歩一歩、足を進めるごとに、考えてはいけないさっきの言葉の意味が一つ一つ鮮明に凛を貫いてきた。
『あの子、ついさっきばたばたどこかに出て行っちゃって。どうしたのかしらねえ、ニュースでほらあの、ノストラダムスの予言の話を見てたらね、急に血相変えて飛び出していったの。手ぶらで本当、何しに行ったのかしらね。ごめんね、用があったならおばちゃん後で龍に電話させようか?』
 龍が何しに行ったのか、凛にはすぐに分かってしまった。
 一緒だ。きっと凛と一緒のことを考えた。
 よくよく思い直せば、凛と同じことを考える思春期の高校生が今日一日でも一体何人いることか、想像するに足る。
 ――ばかだ。あたし、ばかだ。
 同じクラスのぱっちりおめめのあの子。落とす気満々のボディータッチ含むコミュニケーションの成果か否か、龍が少なからず気になっていることだってちゃんと知ってる。
 だって、あたしが一番龍を知ってる。ずっとずっと、誰よりも近くで、あたしの方を向かないその横顔を見てきた。
 ぺた。足が止まる。夏なのに、風がいつになく冷たく感じて、もう歩けなかった。
――あたしが伝えたところで、龍には届かない。


 誕生日が近くて、母親同士が隣同士のベッドで示し合わせてつけた一文字の名前。
 幼稚園も小学校も中学校まで、龍がそろそろ恥ずかしいんだけどって言い出すまで一緒に撮っていた校門前の入学写真と卒業写真。
 学校の仕事で遅くまで残っていたら、薄暗い空の下に龍がランドセル抱えて座り込んで待っていた通学路。
 猛プッシュしてくる男子に困った凛が相談したときに、「いいんじゃないの付き合ってみれば?」と一言で済ませた龍に泣き明かした夜。
 ストーカーに遭って怯えきった凛が無我夢中で呼び出したコールに、息せき切って走ってきて庇うように引き寄せた龍の、驚くほど強い腕の力。
 龍の初カノにやきもちを妬いて泣いていたときに、不器用な気を回してどうしたんだと訊いてくる龍にさらに激しく泣きじゃくった。
 どうやら失恋だと察すると今度はド天然を爆発させて、お前もそろそろ彼氏とかどうなの、と言ってくるのに、龍がいいんだってば!なんて言えずたまりかねて食らわせたアッパー。
 何とか忘れようとして来る者拒まずで作ってしまった彼氏を連続二人振って、結局だめかと溜め息をつくのに長続きしないなと苦笑した諸悪の根源。
 数ある学校の中でも進学校に進むと決めた龍に何とか追いつきたいと、必死に勉強して滑り込んだ高校。
 いつだって龍はあたしの世界の真ん中で、あたしの人生にはこんなに龍が溢れてる。
 あたしを強くするのも、弱くするのも、笑わせるのも泣かせるのもみんな龍だった。
 龍にとってもあたしがそうであればって、そう願いたいけど、それはもうとっくの昔に諦めた。
 どんなにつらくったって、龍が誰の方を向いてたって、――それがあたしじゃなくったって。
 龍を一番知ってるのも、一番支えられるのも。
 一番、大好きなのも。絶対にあたしだと思ってた。
「……りゅう」
 その場で膝を抱えた。ああ、家はまだ五十メートルくらい離れてるのに、辿り着ける気がしない。
 膝に顔を埋めて名前を呼んだ。
 自分でもぞっとするほど、鼓膜に虚しく響いた。
 小さな小さな声が自分にすら届かない。もう一度、呼んでみる。
 だめ、これじゃ届かない。もう一度。ううん、これでもだめ。もう一度。もう一度。
 届け、届け。龍に届け。
 どうか、どうか。あたしの想い、届いて。
 りゅう。りゅう。りゅう。りゅう。りゅう。りゅう。りゅう――
 涙がじわりと湧いてきた。届かないのかな。届かないのかな。
 りゅう。
「……何だよ、そんなとこで人の名前呼びまくって」
 あまりに驚いて、ひぎゃ、と変な声が出た。
 ああパンツ見えたかな、今日勝負でも何でもないや。制服の裾でごしごし目をこすって、一度鼻をすすって、顔を上げた。どうしたよ、と微妙に唇を尖らせた龍は、おばさんの言った通り手ぶらで両手をポケットに突っ込んで立っている。
「…………龍?」
「はい、そーですけど」
「な、んで、こんなとこいんの」
「いちゃ悪いか? てか、道端でしゃがんでる不審人物に言われたくねーな」
 言いながら龍は自分も凛の前に胡座を掻いて座りこんだ。凛は目をぱちくりさせて、夢じゃないかと龍を見つめる。
「何、してんの」
「いやだからそれも俺の台詞なんだけど」
「じゃあ、何してたの」
「凛おまえ……」
 ひくりと呆れ顔で口の端を上げられて初めて言わんとしたことが分かった。凛はぺたりとアスファルトに座って言葉を探す。
「あたしは、…………」
「ちゃんと話せよ、おまえ今日変だぞ。言わなきゃ分かんないだろ」
 責めるみたいな言い方だけれど、これは龍なりの困っているという主張が混ざった促しだ。しかしうん、とだけ言って凛がぐずぐず目をこするので、龍はがしがし頭をかいた。変な図だろうな、道に向かい合って座り込む高校生二人。
「あー、んじゃ俺が先に言う。そしたらおまえも言えよ?」
 ん、となぜだか素直に頷けた。龍が静かに促すと、それを「言う」ことへの躊躇いがこれまで何年あったか、すっかり頭から抜け落ちたみたいだった。
 今度は龍がうーと一度唸って、ぱし、と両膝を叩いた。
「俺は今までおまえんちの前でおまえが帰るのを待ってた」
「――は?」
「いや、は、じゃなくて」
「……まじ?」
「家行ったら回覧板うちに持ってったって言うから、そんならその内帰ってくるだろと思って待ってたんだよ。なのに全然帰ってこねーし、諦めて帰ってきてみりゃ道端で泣いてるし、こっちはさっぱり意味わかんねーよ」
 だんだんと口調が八つ当たりのようになるほど、龍のいつも泰然と構えた小癪な顔が少しずつ赤くなる。
 凛は夏の暑さと混乱したせいであまりうまく働かない頭を軽く振った。
「何か用あった?」
「…………おまえなー…………」
 この場所このタイミングでそこまで言わせるか、と憎々しげに龍が言う。それよりおまえは、と大きめの声で訊ねられて、少しだけほころんでいた心がまた萎縮した。
「あたしは……何でもない。回覧板届けに行ったら、帰り急にお腹痛くなって動けなかっただけ」
 ばか、ばかばか。そんなんじゃない、そんなんじゃないのに。
「おまえは腹痛かったら俺呼ぶって、俺は正露丸か」
「ああ、うん。そんなかんじ」
 目線も合わせられず、凛は立ち上がってスカートの埃を払った。おい、と声を掛けられるのに答える余裕がもうない。目が合ったらきっとまた涙が出てしまう。わざわざ彼女ができた報告ですか、それとも振られた慰めが欲しいんですか。
 ごめん、龍。ごめん。支えてあげたいのに、今のあたしから純粋な自分がどんどん零れる。
「とにかく何でもないから。――じゃね!」
 駆け足で側を通り過ぎる。まてよ、と引き止められても、もう止まれない。急いで家に駆け込みたい気持ちで一杯だった。だめ、こんなのじゃ、嫌われちゃう。
 走り出すと後から追ってくる足音がして、すぐに右腕が掴まれた。
 ちゃんと言えよ。何で俺のこと呼んだ。
 抑えられた声が今度こそ責められた気分になる。分かってんでしょ、そんなの。
 好きだからじゃない。
 やけくそになって凛は泣き顔で振り向いた。きっと睨んだ相手はたじろぐ。
「す!」
 一文字目だけ大声、後が続かない。す、と龍は訝しげに復唱した。
「す、す…………――酢こんぶに似てるよね!」
 龍は呆然と目を丸くして、はあ!?と叫んだ。
 会心の一撃、フェイントは大成功してその隙に逃げ出した。
 凛、今日最大のチャンス逃したよ。誰かが笑いながら言った。
 わかってる。わかってる、全部わかってる。あたしには無理だ、最後の日にさえ弱虫で。
 こんな意気地なしなのに、龍に届くわけないじゃない。
「ったく!」
 苛ついたような声の直後、今度こそ本気で引き止めた龍は、捕らえた凛を反転させた。
 両肩をしっかり持って、真正面から視線がかち合う。
「凛」
 次に龍が吐き出した「す」から始まる三文字の呪文。
 それだけで、凛から言葉を奪ってしまうのに十分だった。


 今から約五百年ほど前、ある名医にして占い師は世界の終末を幻視する。
 彼の名はノストラダムス。一九九九年七月一日、恐怖の大王の出現を著した予言者だ。
 さてさて、この“大予言”への反応は多種にわたる。
 ここにも若き二人、暑い夏の夕に額を合わせて囁く姿。


 ――あのおめめパチ子ちゃんは?
 ――さっき電話きて、振った。で、ニュース見て、閃いた
 ――へへ、あたしの方が気づくの早かったもんね!

G02  ノストラダムスによろしく
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