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G01 柵の向こう側へ
まだ幾つもの星を灯している夜明け前の暗い坂道を、たっぷりと水を汲んだ木桶を引き摺りながら、エヴァという名の少女は厩舎を目指して登っていた。
領主所有の厩舎でレクスたちの世話をするのがエヴァの役目だった。
レクスたちは太陽の祝福を受ける生き物だから、朝は早い。日の出とともに活動を開始する彼らを飢えさせないために、必ず明け方には丘の上にある厩舎にたどり着いていなければならない。
レクスは領主の所有物であり重要な軍事兵器であるから、単なる村人に過ぎないエヴァよりもずっと価値があるものと見なされる。だから、その世話には細心の注意を払わなければならない。不用意に接してレクスの機嫌を損ね、見回りに来た監督官に立ち上がれなくなるほど殴られたことも一度や二度ではない。
まだ一六才のエヴァにとって、レクスの世話という仕事は極めて辛いものだった。だが、それでもエヴァはこの仕事が嫌いではなかった。
「フュー、元気にしてた?」
厩舎にたどり着いたエヴァが、ランプに灯を入れながら中に向かって声をかける。頼りない灯に照らされて、闇の中に青白い生き物の姿を浮かび上がらせる。
大きさは、乗用の馬より少し小さい程度。馬と比べればやや足が短く、どちらかといえばずんぐりした体つきをしている。馬と最も異なる点は、体中に毛が生えておらず、代わりに太陽の光を浴びると虹色に煌めく青白い鱗をびっしりと生やしているところだろう。顔つきは馬に似ていなくもないが、その口の中には馬とは違う、尖った牙が並んでいる。頭の後ろには鬣ではなく魚の鰭のような鶏冠がつきだしていて、その色は個体によってそれぞれに異なるが、エヴァに「フュー」と呼ばれたこのレクスは、炎のような鮮やかな橙色だった。
それから、背中には翼がある。鳥のように羽毛に覆われたものではなく、巨大な船の帆のような力強い翼。
そして、サファイアのような深い碧色の瞳。それは、この獣の持つ高い知性を物語るかのように透き通っていた。
暗闇に浮かび上がったレクスの姿を見て、エヴァはため息を漏らす。もはや見慣れたものなのに、レクスの美しい姿は今もエヴァの心を揺さぶることをやめなかった。
美しい。そう、美しい。
レクスの姿は、完成されたガラス細工のそれではなく、命を持った生き物としての脈動を感じられる美しさだった。レクスと向き合うものは例外なく、命そのものの美しさを感じるという。
この美しい生き物の世話をすることは、エヴァにとって誇りであった。たとえ、その背に乗ることが永久にかなわなくとも。
「ヴァンも、元気そうだね」
フューに桶の中の水を与えてから、エヴァは奥にいた緑の鶏冠を持つレクスに声をかける。
この厩舎に現在いるレクスは二頭だけだ。本来四頭分のスペースがあるこの厩舎の残る二頭は、現在、隣国への戦争に駆り出されているのだという。
その話を監督官から聞かされて、エヴァは心の奥がざわつくのを抑えられなかった。
こんなに美しい生き物が、鎧甲を着けた騎士によって使役され、人殺しの道具として使われているなんて。
レクスたちが争いを好まないことは、穏やかな碧い瞳を見ればわかる。彼らがその意志に反して兵器として扱われていることが、エヴァには耐えられなかった。
「でもだからといって、私には何もしてあげられないの。ごめんね」
そう言ってエヴァは、ヴァンの鱗を優しく布で拭いてやる。気持ちよさそうに目を細めたヴァンは、まるで何もかもわかっているようだった。
太陽が天頂にたどり着きそうな頃。朝の勤めを終えて、エヴァは坂を下っていた。
お昼はレクスたちが穏やかに微睡む時間。その間に一度家に帰り、昼食をとってからまた午後に厩舎を訪れるのが日課だった。
坂を下りながら、エヴァは村がいつもより騒がしいのに気づいた。坂を下りきった広場のあたりから、ざわざわと人の話し声が聞こえてくる。そして風に乗って微かに聞こえてくる高い音は何だろう? 鳥の鳴き声のようだけどもっと連続的で……。
なんだか胸が高鳴り始める。いつもより少し足を速めて、エヴァは坂を下っていった。
近づくにつれて音ははっきりとしてきた。鳥の鳴き声なんかじゃない。もっと意図的なものを感じる音だ。もしかして、これは……音楽?
エヴァは生まれてこの方、音楽というものを聞いたことがほとんどなかった。
唯一の例外はまだエヴァが三つか四つの頃、この街を訪れた旅芸人が奏でていた琴と笛の音。それに、彼らの喉が紡いだ唄。
その調べは村人たちを熱狂させ、陶酔させた。幼いながらその記憶はエヴァの心の中にしみ込み、ふと気づくと今でも頭の中に微かな管弦の旋律を思い出せるほどだった。
――もしかして、また旅芸人が来たのだろうか。
エヴァの心は期待に膨らみ、彼女はもう、走り出していた。木桶を胸に抱え、転ばないように気をつけながら一心に坂を駆け下りる。
広場には人だかりができていた。その中心にあるのは、もう間違いない、旅芸人たちの奏でる楽器の音色だった。
息せき切って走ってきたエヴァを見て、親切な村人が場所を空けてくれる。礼を言いながら人だかりの前に進んでいくと、不意に人の背中が途切れて、旅芸人たちの姿が目に飛び込んできた。
この村では決して見ることができない、色とりどりの衣装。楽器を奏でているのは、年齢も性別もばらばらな五人だった。
中央で歌っているのは、おそらくは最年長と思われる年老いた女性。その見た目からは想像もできない迫力のある声で、のびやかな唄をあたりに響かせている。リュートと呼ばれる弦楽器を奏でているのは、ひょろりと背の高い中年の男で、その隣でまだ一〇歳前後といったところの少年と少女が、それぞれ太鼓のようなものを一心に叩いていた。
そして、一番端の、ちょうどエヴァの目の前のあたり。おそらくはエヴァと同年代の少年が、木製の横笛をくわえ、軽やかに体を揺らしながら軽妙な旋律を奏でている。
エヴァがたどり着いたのは、演奏の終了間際だったようだ。老女の高く伸びやかな歌声が最後に響き渡り、楽器の音が止まる。まずはじめに老女が、そして他の面々が続いて一礼すると、村人たちからの盛大な拍手が鳴り響いた。
「皆々様、多大なるご声援と拍手、誠にありがとうございます。本日の夜、領主様の館にて我々オルランド楽団の公演を催させて頂ける運びとなりました。皆々様におかれましては、お誘い合わせの上、こぞってご参加されますよう……」
背の高い男が、ひょうきんな言い回しで口上を述べる。どうやらこの演奏は、今夜の本番に向けた宣伝のためのものであったらしい。
男の言いぐさによれば、すでに領主の了解を得ているようだ。一般に、旅芸人が訪れた時には慰みを村人たちにも分け与えるために盛大なパーティーを開くことが徳の高い領主の証であるとされているから、世間体にこだわるあの領主には断れるはずもない。十数年ぶりの祭りの開催の知らせに、村人たちが歓声を上げる。
エヴァはあまりに突然のことに喜び方もわからずに呆然としていた。ふと目を上げると、笛吹きの少年と目があった。
「是非、おいでよ」
エヴァにだけ聞こえるような声で、少年がそう言って片目をつむってみせた。彼の見せた無邪気な笑みに、エヴァの心臓がドクン、と音を立てる。
――どうしてあんな顔ができるのだろう。何者にも縛られない、自由な表情が。
そんな表情をする者を、エヴァは村の中で見たことがなかった。
――夜なら、レクスたちの世話を終えた後でも間に合うわ。
今日の夜のパーティーには必ず行こう。エヴァはそう心に決めたのだった。
パーティーは、領主の館の庭で盛大に行われた。
娯楽に飢えた辺境の村において、旅芸人たちは歓声と拍手でもって迎えられたのだった。
庭の中央部分には、領主とその家族が座る貴賓席が設けられ、それに向かい合う形でオルランド楽団の演奏するステージが設置された。村人たちは思い思いにその周囲に集まり、楽団の演奏に耳を傾けるのだ。会場では食事やワインが振る舞われ、人々はひととき、日常の厳しさから解放されているようだった。
オルランド楽団の演奏は、非常に巧みだった。ある時は軽妙かつリズミカルな音楽で人々の心を沸き立たせ、ある時は叙情的な曲を奏でて人々の心を揺さぶった。
エヴァは、夢見心地で舞台を見つめていた。音楽というものが、これほどまでに心躍らせるものだったなんて。自分の心が、感情が、こんなにも豊かに動くものだとは思ってもいなかった。今までの日々の暮らしの中で、ほんのわずかな感情の起伏だけで生きてきたのだということを、初めて思い知った。
もっと新しいことをたくさん知りたい、という思いと、それは自分には叶わないことだ、という思いの間で、胸がきしむのを感じた。
パーティーは、いつしか終わりにさしかかっていた。楽団たちの演奏はフィナーレを迎え、疲れ切った彼らは舞台裏に退いていた。人々はだんだんと家路につき始め、泥酔して動けなくなったものがそこここで倒れている他は、残る人の数もほとんどいなくなった。
エヴァはまだ、興奮した心を静められず、呆然と立ち尽くしたままだった。彼女の瞼の裏には、汗だくになりながらフィナーレの曲を演奏する楽団の、特にあの笛の少年の姿が焼き付いていた。
だから、近づいてくる人の気配に気づくのが遅れた。エヴァがその存在に気がついたのは、「おい、そこの娘」と乱暴な口調で声をかけられてからだった。
ハッと我に返り、顔を上げる。一人の男と目があった。二〇才そこそこの、でっぷりと太った顔。領主の息子だった。
「な、何かご用でしょうか」
答えながら、エヴァの表情は強張っていた。
領主の長男、アルフォンソについてはよくない噂ばかり聞いていたからだ。父親は有能だが彼自身は無能で、そうでありながら自らの生まれを笠に着て、領民に対して横暴を働いている。特に女性関係に対しては暴力的で、めぼしい女を見つけると権力に物言わせて強引に手に入れようとし、拒否されると決して許さない、という話だった。
「お前、なかなか悪くない。俺の寝室に来い、かわいがってやるぜ」
アルフォンソの言葉は、まさに噂の通りだった。
エヴァは、全身から血の気が引いていくのを感じた。高揚していた気分が、一瞬にして絶望に変わる。激しい嫌悪感。
だが、同時に村の噂が頭を巡る。彼を拒んだ女の子がその後どうなったのか。何者かによって自宅に放火され、両親を失った子がいた。恋人が無実の罪で捕らえられ、悲しみのあまり湖に身を投げた子がいた。
恐怖が、エヴァの心の奥にしみ込んでくる。このまま、身を委ねてしまおうか。おとなしくしていれば命までは取られないだろう。激しい嫌悪感は、自分が死体になったと思えばいい。
「どうした、緊張しているのか? 俺がエスコートしてやるぜ」
下卑た笑みを浮かべながら、アルフォンソが手をさしのべてくる。
麻痺した頭でその手を取ろうとした時、脳裏に、一瞬だけ笛の少年の笑顔が浮かんだ。思わず、差し出された手を払いのけていた。
アルフォンソの顔が、怒りのあまり一瞬で赤黒く染まった。
「ききききさま! この俺様を、拒むだと?」
次の瞬間、エヴァは顔を殴られて地面に倒れ伏していた。
「ゆるさん、ゆるさんぞ! 力ずくで貴様を思い通りにしてやる!」
怒り狂ったアルフォンソが、そのままエヴァを押さえつけようと迫った。
「本日は誠にありがとうございました」
そこに割り込むようによく通る声が響き渡り、アルフォンソとエヴァは思わず顔を上げる。見れば、着替えを済ませたオルランド楽団の笛の少年が、目の前で起こっていることになど気づかぬかのように、営業用の笑みを浮かべてアルフォンソに対して深々と礼をしている。
「あ、ああ。ご苦労だった」
毒気を抜かれたアルフォンソが、そう言いながら立ち上がる。旅芸人に見られて旅先で噂が広がるのを恐れたのだろうか。憎々しげに一つ舌打ちをすると、そのままその場を立ち去ろうとエヴァに背を向けた。それから、思い出したように振り返り、エヴァにだけ聞こえるように耳元に口を近付け、
「俺を拒んだこと、絶対に忘れない。貴様を破滅させてやるからな」
低い声で囁き、のしのしと肩を怒らせて歩き去った。
アルフォンソの言葉は、本気だった。それを、エヴァは翌朝に思い知ることになる。
いつものように木桶をもって厩舎に入ったエヴァは、言葉を失った。
「レクスたちが……いない」
厩舎の鍵は外され、柵が開け放たれていた。その中にいたはずの二頭のレクス――フューと、ヴァンの姿はなかった。
「アルフォンソの仕業だわ……」
エヴァは呆然とつぶやく。仮にもエヴァはレクスたちの世話を任されている身だ。レクスたちに何かあれば、その責任を問われることになる。今回の件が厩舎の鍵を預かっている彼女のせいにされることは明らかだ。そして、重要軍事兵器であるレクスの価値は、エヴァの命よりも遙かに重い――。
エヴァはすぐに監督官によって領主の館に引き立てられた。「領主の宝であるレクス二頭を故意に逃がした」罪人として。
「軍事兵器であるレクスを逃がすことは、国家に損害を与え、敵を利することである。それはすなわち、反逆罪にも通じる大罪である。よって、被告人を極刑に処す」
刑の執行までの間、エヴァは村の広場の中央に両腕を縛られた状態で放置されることになった。
近づく者は誰もいない。アルフォンソの噂は誰もが知っており、事件の真相は皆が分かっていたため、エヴァに対して同情の気持ちはあったが、下手に肩入れをして巻き込まれてもたまらない、というのが皆の本音だった。
エヴァの両親は病気で他界しており、後見人である叔母夫婦は七人もいる実の子供たちを守るため、エヴァとは一切関わらないことを宣言していた。エヴァもそれでいいと思う。自分のために従兄弟たちに影響が出ることを一番恐れていたから、叔母がそう言ってくれたことにほっとしていた。
とは言え、刻々と迫ってくる死の恐怖は、じわじわとエヴァを苦しめていった。何を考えようとしても、気が狂ってしまいそうになる。いや、いっそのこと狂ってしまえたら。そうすれば何も恐れることはなくなるのに。
「泣いているのか?」
どれだけ時間がたったのかは分からない。エヴァは耳に響いた優しい囁きに、静かに目を開けた。太陽はすっかりと沈み、夜になっていた。
「どうして誰も君を助けようとしないんだ?」
目の前の少年は――あの楽団の、笛の少年だ――憤っているようだった。
「仕方ないのよ。誰も、自分が同じ目に遭いたくはないもの」
「でも、悪いのは君じゃない、ってみんな知っているんだろう?」
「それでも、よ。あたしたちは領主様には逆らえないもの。領主様に逆らったら、この村では生きられない」
エヴァの言葉に、少年は、激しく頭を振った。
「そうやって、君もあきらめるのか?」
「だって……じゃあ、どうすればいいのよ!」
声を荒げた少年に、エヴァは怒鳴り返した。言葉に涙が混じる。
「村で生きられないなら、村を出ればいい」
少年の言葉に、エヴァはハッとして目を見開いた。村を出る、なんてこと、考えもしなかった。
改めて少年の顔をじっと見つめる。「道の民」と呼ばれる、定住する村を持たない旅芸人の少年。
「君は気づいていないようだけど」
そう言って少年は、エヴァの瞳をのぞき込む。深い碧色の瞳。そう、レクスたちと同じ。
「村を囲む柵の外、その向こうには、道が無限に続いているんだ」
少年はエヴァに言い聞かせるように優しく囁く。エヴァには想像することもできない、柵の向こう。そこに少年は生きている。
「君が望みさえすれば、僕は君を連れ出そう」
そう言って少年は、横笛を取り出して口元に当てる。
「いいかい?」
少年の言葉にエヴァは小さくうなずく。すべての希望を込めて。
満足そうに笑って、少年は笛を奏でた。レクスの翼が風を切る時のような鋭くて力強い音色。高く遠くまで響くその音は、何かを呼ぶ声のようだった。
「フュー! それに、ヴァンも!」
エヴァが目を丸くする。少年の笛に呼ばれて空を駆けて現れたのは、逃げ出したはずの二頭のレクス。
「こいつらも、君のことが心配だったみたいだ。村外れでうろうろしていたよ」
少年がエヴァの両手を縛る縄を解いた。自由を取り戻したエヴァがゆっくりと立ち上がる。
「さぁ、これで僕らには地上どころか空まで含めて、あらゆる方向に道が広がっているんだ。後は君の合図を待っているだけ。準備はいいかい?」
「待って……最後に一つだけ」
「なんだい?」
「あなたの名前は?」
「……ヴィア。古い言葉で、『道』って意味さ。いい名前だろう?」
「本当に」
二人が微笑み合う。
そして、レクスの背に乗って飛び出した。
柵の向こう側へ。
無限に続く道の先へと。
G01 柵の向こう側へ
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