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F12 誰そ彼は

 あれは小学校二年生のころだったと思う。図工の時間だ。夏休みの思い出を描こう、という課題だった。
「まずはクレヨンで自由に描いてください。空は青色ですから、青色の絵の具でバックを塗りましょう」
 私は家族でキャンプに行った思い出を描くつもりだった。外でご飯を作っている絵。
 家族四人全員を描きたかったので、画用紙を横にした。左から、飯ごうでご飯を炊く父、カレー鍋をかき混ぜている母、サラダのキュウリを切る私、レタスを洗う妹、という順に並べて描く。
 クレヨンで人物を描き終わり、絵の具でバックを塗るという段になって、私の手は止まった。そのときの空は、青色ではなかったのだ。きれいな夕焼け空だった。
 チューブから出したままの赤い絵の具を、白いパレットの上で薄紅色になるまで水で溶き、大きめの平筆にたっぷりと含ませ、画用紙にさっと刷いたような、透明で淡い、赤色だった。
 あんなきれいな夕焼けを見るのははじめてで、妹とふたりで「すごい! きれい!」とはしゃいだのをよく覚えている。
 青色の絵の具で塗りたくっていいような空ではなかった。
 赤で塗りたい。
 けれども、パレットには青と白の絵の具しか出ていない。他の絵の具は先生の指示で鞄の中だ。勝手に絵の具を出したら先生に怒られる。
 悩んだ末、私は赤いクレヨンで空をぐりぐり塗ることにした。水彩絵の具みたいな透明さはないけれど、青く塗るよりはましだった。
 空の半分を赤で塗ったとき、ちょうど先生が私の席をまわってきた。私の絵を見た瞬間、先生の周りの空気が静電気を帯びたみたいに、ぴりっとした。
「どうしてクレヨンで赤く塗るの! 空が赤いわけないでしょ!」
 私はとても驚いた。怒られたことに対してではなく、「空が赤いわけない」という先生の言葉に。
 先生は夕焼けを見たことがないのだろうか。太陽が沈む直前の、混じりっけのない赤色で染められた空を、一度も見たことがないのだろうか。
 先生は水入れの中の平筆を手に取り、それをパレットの青い絵の具の上に置いた。絵の具が溶けていく。青色を含ませた私の平筆を、先生はクレヨンで塗りつぶした夕焼けの上にさっと走らせた。
 赤色の上に、青色が重ねられていく。
 先生の暴挙に、私は「やめて」と抗議の声をあげることすらできなかった。夕空が先生の手によってぐしゃぐしゃにされていくのを、黙って見ていることしかできなかった。
「ああ、ほら。クレヨンで赤く塗っちゃうから、どうにもならないじゃない」
 クレヨンは水彩絵の具をはじく。どれだけ青色を重ねても、青くなるわけがない。青空の中にクレヨンの赤色が不自然に浮いて、そこの部分だけ幼稚園の妹に落書きされたみたいだった。
 あんなにきれいな赤色の空だったのに。青色なんてどこにもなくて、透き通るような淡い赤が広がっていたのに。
「あとは自分で塗りなさい」
 先生は平筆をパレットの上に置いて、べつの子のところに行ってしまった。
 その絵はしばらく教室に貼られた。汚い空を見るのがいやで、絵が貼られている期間中、私は極力自分の絵を見ないようにしていた。絵が手元に戻ってきた日、私は誰にも見つからないようにその絵をびりびりに破いて、家のゴミ箱に捨てた。



 以来、私はずっと赤い空を描き続けている。



 赤、橙、黄色。暖色系の油絵の具がずらりと木製のパレットに並んでいる。赤にほんの少しだけ黄色を混ぜ、けれどもしっかりと混ぜることはせずに、マーブル模様になったところで筆にそれを取った。描きかけのキャンバスに向き直る。
 文化祭用の展示のために描いている作品だ。美術部の展示には毎年テーマがあって、今年は『空』。私は当然のことながら夕空だ。美術室の窓から空を見上げ、それをキャンバスに写しとっている自分の姿も入れて、自画像っぽくしてある。
 赤と黄色のマーブル模様の絵の具を窓の向こうの夕空にそっと載せていく。脳裏に小学生のころに見たあの赤い空を思い浮かべて、慎重に。あの日見た空は混じりっけのない赤色だったけれど、実際に赤一色で塗ったらのっぺりとした塗り壁みたいになってしまったので、それ以来、赤をベースに黄色などの暖色系の色を混ぜたりしている。
 赤い空を描くのは私のライフワークみたいなものだ。あの日以来、私はずっと赤い空を描き続けている。小学生のころのように、関係のない第三者に台無しにされることはないけれど、でも網膜に焼きついた赤い空は、目の前の現実から遥か遠くにある。あの空を描きたいとずっと思っているのに、まだ手が届かない。あの日と同じ空をキャンバスに描けるようになるまで、私はずっと夕空を描き続けるだろう。
 どのくらい作業に没頭していたのか。ふいに背後から声が聞こえて、私は筆を持つ手を止めた。
「おお。すごい、ひとがいる」
 ひとがいるって、なんなんだ。いちゃ悪いのか。邪魔をされたことが腹立たしくて、私はにらみつけるつもりで振り向いた。
 出入り口付近に、ひとが立っていた。濃紺のブレザーに赤いネクタイ。ネクタイの色からして、私と同じ二年生だろう。制服と声で男だとはわかるのだけれど、顔はよく見えなかった。
 それは向こうも同じだったらしい。困惑した声が聞こえてきた。
「ごめん。顔がよく見えないや。えーと……あなたはひとですか?」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。絶句していると、向こうはうろたえたようにじりっと後ずさった。
「返事がないってことは、もしかしてひとじゃない!? ま、魔物とか!?」
「……ひとを魔物呼ばわりって相当失礼だと思うんだけれど」
「あ、返事があった。ということは、やっぱりひと? あーよかったあ」
 安堵したように彼はしゃがみこんだ。どうやら、安心して力が抜けたようだ。
 かなり失礼なひとだな、と思いながらも興味をひかれた私は、筆をパレットの上に置いて彼に問いかけた。
「どうして、ひとを魔物だと思ったの?」
「いやあ、だってさあ。このぐらいの時間って『逢魔が時』って言うじゃない。魔に逢う時間なんだよ。それにほら、黄昏時の語源って『誰そ彼は』だし。顔が見えなかったら、魔物かもって疑いたくなるでしょ」
 ならない。
 そう心の中でつっこみながら、私はそっと振り返って窓に視線をやった。赤い、赤い空。混じりっけのない赤というわけではなく、黄色や橙が所々不純物のように混ざっている。まるで、私の描いたこの絵を写しとったみたいに。
 ――いや。
 空を写しとったのは私の方だ。そのはずだ。
 ずきりと頭の奥が痛んだ。痛みに耐えるようにわずかに眉をひそめ、私は彼に向き直る。
「黄昏、と呼ぶには少しはやいように思うけど」
「そこはまあ、気分で」
 意味がわからない。
 私は小さくため息をついて、彼に背を向けた。パレットの上に置いた筆を取る。
「へえ、この絵を描いてたのって君だったんだ。ずっと美術室にあったから、誰のかなって思ってたんだけど」
 いつの間にか、彼は私の背後に立ち、絵をのぞき込んでいた。少し驚いたけれど、私は気にしないことにして、黙々と筆を動かす。
「だまし絵みたいな絵だね。絵を描いているひとがずっと続いている」
 そうなのだ。絵の中央には『イーゼルに立てかけられたキャンバスに向かって、夕空を描く私の後ろ姿』がある。絵の中の私が描いているのも夕空を描く私で、そのまた絵の中で私が描いているのも夕空を描く私だ。こんな風に、夕空を描く私がずっと続いている。
「絵に閉じこめられたみたい」
 ぽつり、と彼はつぶやいた。その途端、ぎりっと針金で頭蓋骨を締め付けられたみたいに、頭が痛む。私は筆を止めた。
「そういえば、この絵ってどこかのコンクールに出すの? 三年生のこの時期に絵を描いてるってことは、やっぱり美大志望?」
 やけにのんびりとした声が、背後から聞こえる。
 三年生? さっき確認したとき、彼は赤いネクタイをしていた。エプロンで隠れているが、私の胸元にも同じ色のリボンがある。三年生は緑色のはず。彼の勘違いか、それとも私の聞き間違い、もしくは見間違いか。
 頭が痛い。あまりの痛さに、私はこれ以上考えることを放棄する。きっと私の勘違いだ。
 私はひとまず筆をパレットの上に置き、痛みを口から吐き出すようにして、そっと息を吐いた。
 頭痛が遠ざかっていく。残った痛みを振り払うように、私はゆるゆると首を振った。
「美大なんて、とてもじゃないけれど無理。デッサンとかもしたことないし。いつも好き勝手に描いているだけ」
 私は『絵を描くのが好き』なのではなく、『赤い空を描くのが好き』なので、本格的に絵を勉強したいと思ったことはなかった。赤い空だけをひたすら描いて許されるほど、甘い世界でもないだろうし。
「そうなの? じゅうぶんうまいと思うけどなあ。コンクールとかに出したら、なんかいい賞とれそうだよ」
「そもそも、この絵は文化祭用に描いてるものだから。コンクールに出そうなんて、一度も考えたことない」
 褒められたことがこそばゆくて、私の答える声は必要以上に素っ気なくなった。そのせいか、背後の空気が戸惑ったように揺れた。しまった、褒めてくれたのだからお礼ぐらい言うべきだった、と慌ててフォローの言葉を入れようとして、けれどもかたい声に遮られて、結局私はなにも言えなかった。
「文化祭って……来年の?」
「まさか。今年のに決まってるじゃない。今年のお題は『空』で、来年はまたお題が変わる。来年は来年でまた新しく描くわ」
 毎年のお題は新一年生の入部を待って六月上旬に決まる。今年度の文化祭だって終わってないのに、来年なんて気が早いにもほどがあった。
 そうだよね、変なことを聞いてごめん。
 軽く笑いながら、そんな答えが返ってくるかと思っていたのに、背後から聞こえたのは感情を押し殺したような声だった。
「今年の文化祭は終わったよ? それにお題が『空』だったのは去年で、今年は『道』だって美術部の友だちが……」
 予想外の言葉に、私は目を瞠る。『空』のお題は去年? そんなはずはない。きっと彼の勘違いだ。それとも、私がからかわれているのか。
 私は右のこめかみを押さえた。頭痛がまたぶり返してきた。別に頭痛持ちというわけではないはずなのに、今日に限ってどういうことだろう。きりきりと締め付けられる。そのうち、頭蓋骨にヒビでも入りそうだ。
 頭が、痛い。
「ねえ」
 おそるおそるといった体で、声をかけられる。
「どうしてここには君しかいないの? 他の美術部員は?」
 私はこめかみを押さえたまま、辺りをそっと見回した。そういえば、美術室には私と彼以外、誰もいない。左手首に視線を落とす。高校の入学祝いとして買ってもらった革ベルトの時計は、秒針が止まったままだ。どれだけ見つめても動く気配はない。私は窓の向こうを見る。赤みがかった夕空。下校時刻の音楽が流れるまで、もう少し時間があるだろう。いつもだったら何人か残っているはずなのに、他の部員はどこへ行ってしまったのか。
 そもそも、私はいつからひとりなのか。
「君は……誰なの?」
 怯えたような声は、床の上にぽつりと落ちていった。滑稽すぎて、笑ってしまうような問いだったが、頭が痛くて笑うことなんてできなかった。
 ――私は、誰だ?
 ゆっくりと振り返る。彼は私のすぐ背後に立ち、こちらを見下ろしていた。こんなにも近くにいて、ブレザーの左袖のボタンが取れかかっているのもわかるぐらいなのに、顔だけがよく見えない。
 逢魔が時。
 ふっと頭の中に言葉が浮かぶ。
 魔に逢う時間。顔が見えないこのひとは、いったい誰なのか。
 ああ……頭が痛い。
「あなたこそ」
 声はかすれていた。それが頭痛からくるものなのか、それとも別のなにかが原因なのかはわからなかったが。
「誰なの?」
 頭を締め付けられる。孫悟空の気持ちが今なら理解できる気がする。
「俺は」
 彼の両手がのろのろと動く。左脇腹を押さえたその瞬間、彼の濃紺のブレザーが水を吸ったみたいに色を濃くした。押さえた手と、袖口からのぞく白いシャツが赤く染まる。
 血だ。
 私は息を呑んだ。
「俺は……学校からの帰宅途中に、すれ違った男に腹を、刺されて」
 彼の返答は独り言めいていて、「あなたは誰」という私の質問には答えていない。けれども、彼の言葉の中に私の記憶を喚起させるものがあったのか、突然目の前にある光景が広がった。フラッシュバック。
 夕方。ちょうど薄暗くなりはじめたころ。夜の色に浸食されつつある中で、あがくように太陽が空を赤く染めていた。
 家に帰るその途中、ひと気のない住宅街で、私はカーキ色の作業服を着た男とすれ違った。顔がよく見えなくて、男のまとう異様な雰囲気に「いやだな」と眉をひそめたその瞬間、鋭い痛みを腹部に感じた。なにが起こったのかわからなくて、とっさに腹を押さえたら、ぬるりとした感触とともに手が、赤く、染まって――
 そこで私は現実に引き戻される。目の前には住宅地ではなく、見慣れた美術室の光景が広がっている。
 私は自分の手を見やる。赤くない。左手首にはめた時計に視線を向けると、動かない長針と短針が示しているのは、五時三十六分だった。
 刺されたあと、私はどうなったのだろう。
「さっきからずっと不思議だった。でも、気のせいだと思ってたんだ」
 ふるえる声に私は顔を上げる。顔はやはり見えなかった。彼は机の上に置かれたパレットを指さす。赤く染まった手で。
「油絵を描くときってさ、テレビン油とかの独特な臭いがするよね? 君は油絵を描いているのに、そういう臭いがまったくしないのはどうして?」
 あたまが、いたい。
 なにも考えたくない。この痛みは思い出すなという警告か、それとも反対に思い出せと急かしているのか。
「臭いもなくて、ひともいない、ここはどこなの? 君は誰? 俺は」
 私は。
「死んでいるの――?」
 あたまがいたい。私はその場に頭を抱え込んで、低く呻いた。じっとして、痛みが通り過ぎていくのを待つ。
 どのくらいの時間をそうやって過ごしていたのだろう。ようやく痛みが治まり、私は顔を上げて窓の向こうを見る。先ほどと変わらない、黄色と橙が混じった赤い空。光に照らされて赤く染まった雲も、同じ場所に浮かんでいた。
 風に流されることなく。
 私は慌ててキャンバスと空を見比べる。色の濃淡、雲の形を確認したら、笑いがこみ上げてきた。
 私の描いている絵と、窓の向こうの空はまったく同じだった。ならば、答えは簡単だ。
 ここは私の描いた絵の中なのだ。
 どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。愛すべき、私の世界だというのに。
 笑いながら、私は背後を振り向いた。そこには誰もいなかった。現れたのも唐突だったが、いなくなるのも突然だった。きっと、彼のいるべき世界へ戻ったのだろう。そこが死者の世界か、それとも生者の世界かはわからないけれども。
 私は筆を取り、キャンバスに向き直る。
 彼との噛みあっていない会話から考えるに、私が死んだのはだいたい一年前なのだろう。一年前の秋、ちょうど文化祭の準備に追われていたころ。学校の周辺で通り魔騒ぎが起こっていた。必ずふたり以上で下校しろ、という学校側の指示を無視してひとりで帰ったその日に、私は刺されたのだ。一年後に彼が刺されたことを考えると、どうやら犯人はまだ捕まっていないらしい。もっとも、私と彼を刺したのが同一人物だとはかぎらないけれども。
 そもそも、ひとかどうかも怪しいところだ。なにせ、すれ違ったのは黄昏時で、そして逢魔が時なのだから。
 誰そ彼は。顔が見えなければ、ひとか魔かもわからない。空が赤く染まるころは、そんな危うい時間帯。
 私は筆を使ってキャンバスの上に絵の具を載せていく。どれだけ筆を動かしても、キャンバスに描かれた空が変わることはない。不毛な作業だ。記憶にあるあの美しい夕焼けには二度と手は届かない。時折思い出して、懐かしむことできるのみ。それでも私は筆やペインティングナイフを動かす。パレットの上で絵の具を混ぜる。脳裏に、あの日見た赤い空を思い浮かべながら。小学生のころみたいに、誰かに邪魔をされることなく。



 私はずっと赤い空を描き続けている。

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