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F11  あわい物語

 義希(よしき)はふと気づくと、不思議な空間にいた。
 上下左右の感覚がはっきりせず、ふわふわと浮いているような気分である。
 あたりは黒一色に包まれて、一面の闇の中にいるのではないかとさえ思える。だが、はるか彼方まで伸びる、紙一枚で作られたように薄く、幅のあまり広くない、白の道は、黒の中では大変映えて、はっきりと視界にとらえることができた。
 ここはどこなのか?
 なんでこんな所にいるのだろう?
 思考しようとしたが、ここで気がつく直前までの記憶は、ぼんやりとかすみがかった向こうがわにあり、思い出すことができない。
 まだ成長途中の、あまり大きくはない手で握りこぶしを作り、脳の奥から何か掘り返せやしないかと、こつこつと頭を叩く。
「こんにちは」
 そんな義希の耳に、快活な挨拶の声が届く。声のほうを振り向けば、義希の目線よりも高い位置から彼を見下ろす、銀にも近い青灰色のきれいな瞳と、視線が交わった。
 少女とも少年とも判断しがたい、中性的な印象を与える、義希とさほど歳の変わらなそうな、子供だった。
 ただ、普通の子供と異なっている点をあげるとしたら、義希が白い道に足をつけて立っているのに対して、その子供は、まるで羽根でも持っているかのように、黒い世界に浮いている点だろうか。だから目線が、自分を見下ろす形になっていたのだと、今さらながら、義希は心得る。
「ようこそ」
 子供は、くすくす笑いながら、くるくるとした、天然パーマであろう金色の巻き毛を揺らして、ふわり、と軽やかに、白い道の上に舞い降りた。
「ようこそって、ここ、なんなんだよ」
 相手の鷹揚な態度と、自分の立ち位置がわからない現状に苛立ちを覚え、義希が唇を突き出して問いかけると、子供は、先程よりは控えめに、しかし確実に笑みこぼれて、答えた。
「彼岸と此岸(しがん)のあわい」
 小学4年生の義希には意味をつかみかねる言葉を、わざわざ選んで伝えるのか。馬鹿にされた気分になり、義希が頬を膨らせると、子供は少し困ったように小首を傾げて、言い直した。
「うん、簡単に言えば、この世とあの世のあいだ、かな」
 義希の顔から一気に、血の気が引いた。
 なんでそんなところに、自分がいるのだろう。
 ぐるぐると混乱する頭から、しばし意識を彼方へ飛ばした後、その意識が2周半ほどして脳内に戻ってきた時、義希が出した結論は、ごく簡単なものだった。
 夢だ。
 そう、夢なら全てが納得いく。この不可思議空間も。宙に浮く子供も。この現実感の欠如した世界に、全部理由がつく。
 そう決めてしまえば、義希が開き直るのは実に簡単だった。
「少し、歩こうか」
 子供が義希の顔をのぞきこんで、いたずらっぽく笑いかけるのに、うなずき返すのも、たやすいことだった。
 買ってもらったばかりで、おろしたての赤いスニーカーをはいた足を、一歩、踏み出す。強く足を乗せれば、踏み抜いてしまうのではないかと懸念した薄い道は、しかし予想に反して、新雪の上を歩んでいるかのような、ふんわりとした感触を返した。
 その隣を、子供がゆく。まるで舞うように、道の上を滑るように、軽快に。

 しばらく二人は無言で、白い道を進んだ。
 やがて、道が二手に分かれていた。なんとなく右へ進もうとした義希の手を、しかし、義希より少しだけ小さい手が、引いて止める。
「なにすんだよ」
 基本的に、自分が決めた行動を、制止させられたり、邪魔されたりするのが大嫌いな義希は、鼻白む。だが、子供は、青灰色の瞳をまっすぐ義希に向けて、ゆったりと首を横に振った。
「そっちはだめだよ」
 子供が指差すのにつられて、右の道を見やる。続いていたはずの道が、白い炎をまとって燃えあがり、そうして、消えて無くなった。
「なんで?」
 ほぼひとり言のようにあぜんとつぶやく義希に、子供が答えた。
「かつて、キミが悪いことをしたから。そちらに続く道は消えてしまった」
 悪いこと?
「義希くん」
 怪訝そうに子供を振り返る義希の心臓は、続けられた言葉に、どきりとはねた。
「キミ、万引きをしたことが、あるでしょう?」
 あれは、2年前。
 義希は、節制を旨とする生真面目な両親を持つせいで、今よりもさらに少ないお小遣いで、ひと月をやりくりしなければならなかった。
 駄菓子屋の店頭に並んでいた、前々から欲しかった、かっこいいヒーローのフィギュアが同梱された菓子。どうしても、あと10円が足りなくて。
 店番の老人がうたた寝している隙をついて、ひとつ、ポケットに入れた。
 結局それは、母親にばれて、父親にこっぴどく叱られた後、両親に連れられ駄菓子屋へ謝りに行った。駄菓子屋の老人は、欲しくなる気持ちもわかるから、とにこやかに許してくれて、警察沙汰になることは無かった。
「そんな、昔のこと」
「うん、キミにとっては終わったこと。でも、盗ったものは盗った」
 子供は先ほどまでの、邪気のまったく無い顔に、神妙さを加えて、まっすぐに義希を見つめる。真正面から視線を受けるのがなぜか後ろ暗くて、義希は目をそらした。
「先に、進もうか」
 子供にうながされて、義希は、再び足を踏み出す。最初に歩き出した時より、足が重くなったような気がした。

 また少し行くと、再び道が二手に分かれていた。さっきは、右が焼失したから、左に行けば安全だろう。進もうとした義希の眼前で、左の道が、先ほどと同じように燃えあがり、消えた。
 目をみはってしまう義希に、子供が声をかける。
「女の子を、いじめたことがあるね?」
 1年生の時だ。
 今思えば初恋だったのだろう。クラスに、人形のように愛くるしい女の子がいた。明るく、利発で、誰にでも優しく話しかけるので、クラスじゅうの男子にも女子にも、人気があった。
 その笑顔を、自分一人に向けて欲しいという欲があった。だが、どうやって気を引いたらいいか、心の機微などわからない7歳の義希は、からかい、いじめるという形で、彼女の注意を自分に向けようとした。
 かわいらしく編みこんだ彼女のみつあみを皆がほめれば、それをきつく引っ張ったり。虫が嫌いと聞けば、毛虫を木の枝の先に乗せて、追い回したり。
 結果、ものの見事に嫌われた。義希の姿を見れば、彼女はおびえて、他の子供の背後に隠れてしまうようになった。
 和解するどころか、言葉を交わすタイミングさえのがしたまま、彼女は家の都合で転校し、二度と会うことは無かった。
「キミは後悔しているね。彼女も傷ついたままだ」
 日々の記憶で、胸の奥深くにうずめてしまおうと思っていた心残りを指摘されて、義希の心はしくしく痛む。返す言葉もなくうつむいてしまう義希。だが子供は、さしたる問題でもないかのようにあっけらんとした調子で、まるで「じゃあ遊ぼうか」とでも誘うかのごとく、義希に告げた。
「さあ、先に行こうか」
 足は、先ほどよりさらに、重たく感じられた。

 みっつめの分岐路が現れたのは、義希の予想より少しだけ長く歩いてからだった。
 さすがに3回目になれば、もう、どちらかが消えることは予測がつくので、二手に分かれる前の道で足を止め、相手が罪状を読み上げるのを待つ。
 義希の心の準備を、感じ取っているのかいないのか、子供はたっぷりと間を置き、そうして、まるで天気の話をするようにのんきな口調で、口を開いた。
「キミは、弟を死なせそうにしたことが、あるよね?」
 子供ゆえの、無邪気で残酷な興味だった。どこまでやれば死ぬのだろう、という疑問から、義希は、ベビーベッドですやすや眠る、生まれたばかりの弟の口と鼻の穴を、手でふさいだのだ。
 その時は、大事になる前に、顔を真っ赤にした弟が大声で泣き出し、気づいた母親がすっ飛んできて、一発、激しいはり手をくらった。5歳の義希はふっ飛んで、弟に負けず劣らぬ大きな泣き声をあげた。
 今では、あれは義希が全面的に悪かったと自覚しているし、弟のことは、たまに生意気で反抗的だと感じ、時にとっくみ合いの大ゲンカをしながらも、放っておけない存在として、大切に思っている。
 しかし。
「大した悪ガキっぷりだよね」
 子供がくすくす笑うのが、許されない罪だと通達されているようで、義希は背筋がゾッとする。
 ところが。
「でもね」
 こちらに向けられた子供の顔は、まるで慈悲をくだす神仏のように、穏やかなものだった。
「キミはひとつ、いいことをした」
 その途端。
 義希の足が、踏みしめている感覚を失った。続いていた白い道が、全て消え去り、足元に広がるは、黒い虚空。
「うわああああああああ」
 宙に浮く子供の姿が、急速に遠ざかり、小さくなっていく。
 黒い世界に悲鳴の反響を残して、義希は、暗闇を落ちて落ちて、落ちてゆき……。

「……ちゃん、義希ちゃん!」
「おにいちゃん!」
 必死に呼びかける声が聞こえたので、義希は、重たいまぶたへ、持ち上がれと懸命に指令を送って、目を開いた。
 まだぼやける視界に、涙顔の母親と、弟の顔が映った。次第にはっきりしてくる意識を向けると、母親の後ろで、父親も、ほっとした表情を浮かべている。
 天井を見れば、見なれない、家のものではない電灯が目に入り、視線を落とせば、真っ白な布団。
 病院のベッドの上だった。
 どうしてこんなことになったのだろう。義希は自分の記憶に問いかけて、そして、思い出す。
 下校中、車にひかれそうになった猫を助けて、自分が、はねられたのだ、と。
 どうやら、生死の境をさまよっていたらしい。家族のこれほどの表情から察するに、相当危険な状態だったのだろう。
 義希は、両親に素直にわびる。
「心配かけて、ごめんなさい」
 それから、弟に笑顔を向ける。
「元気になったら、いっぱい遊んでやるからな」
 意識が戻る前に、なにか大事な、とても大事な夢を見ていたような気もする。
 だがそれは、義希の頭の中では、くもりガラスの向こうがわのように不鮮明で、思い出そうと手をのばしても、どんどん遠ざかる。そしてしまいには、思い出したいと考える気持ちさえ、消散しているのだった。

 黒い世界に、彼でも彼女でもないその子供は、浮かんでいた。
 いや、子供の容姿をしていたのは、今回同道する相手に合わせたまでだ。超絶美形の青年の姿をとることも、年老いた男性になることも、妙齢の女性に化けることも。その気になれば、人が「神」や「悪魔」と形容する姿へ変化するのさえ可能なのだ。
 そう、自分はまさに死神なのだろう。人を、死後の世界へ連れてゆく、水先案内人なのだから。
 道の分岐点で、罪の重量を咀嚼して、天国と地獄、どちらへ進めるか判決をくだすのが、仕事。
 だが、ほいほいと誰しもを天国へ導いてしまえば、罪深い者まで楽園へ素通りだ。だからといって、誰も彼もを地獄へ突き落とせば、地の底はあっという間に死者で溢れかえってしまう。
 だから、全員が全員を、あの世へ案内するわけでもないのだ。
 ついうっかりこの、生死の狭間に迷い込んでしまった者を、現世へ戻すかどうか、判断する役目も、担っている。
 あの少年のような者を。
「まったく」
 金の巻き髪をひとふさ、指先でくるくるもてあそびながら、ひとりごちる。
「楽な仕事じゃないよね」
 そうして、舞うように一回転すると、中性的な子供の姿はどこへやら、アラサーの中年を目前にひかえながら、美しさを十分に残した、小悪魔的、と称されるような女性へと、変貌する。
 そうして「彼女」は、黒い世界に新たに生み出された白い道の、スタート地点へと飛んでゆく。
 次にこの道を進む者を、見きわめるために。

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