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F08 からたちの歌 

「なにぼんやりと歩いてんだよ。転ぶぞ」
 後ろからそう声を掛けられて、僕は慌てて振り向いた。
「なんだ、コウスケか」
 わざとつまらなさそうに言うと、コウスケがにやりと笑う。いつもの放課後。帰り道。夕日に照らされて、影が長く伸びる。
「コウスケも今、帰りか?」
「うん。今、帰り。前をだらだら歩いているのがいるなと思ったら、お前だった」
「悪かったな。暑いんだよ」
 歩くうちにずれてゆく肩掛けカバンの位置を直し、ついでに手で仰ぐ。
 夏休みが終わって新学期が始まっても、残暑は続く。空の高さに秋の気配を感じるけれど、気温はまだまだ夏のようだ。
「そう言えばさ、進路表出した?」
「聞くときには、自分のを先に言うのが礼儀だろ?」
 思いついた問い掛けにすかさずそう返され、ちえーっと呟く。
 夏休みが終わって、いよいよ高校受験も本格的になってきた。いい加減志望校も決めていかなくてはいけない。僕の学力で行ける範囲を挙げてゆけば大して数もないくせに、いざとなると決められないでいる。
「コウスケ、僕と同じくらいの成績だよな。お互い黙っていても、一緒の高校になったりして」
「そんなの、分からないだろ」
 思わせぶりな台詞に、慌てて斜め後ろを振り返った。
「嘘っ。もしかして、成績上がった?」
 勢い込んでたずねる僕を、コウスケは笑い飛ばす。
「なにあっさり騙されて、焦っているんだよ」
 その言葉にからかわれていたのだと知り、むっとした。志望校の話なんて受験生にとっては重要なことなのに、はぐらかした上に引っ掛けるなんてずるいや。それじゃあまるで、まるであいつみたいに、
「あれ?」
 さっきまで出掛かっていた言葉が、溶けて消えるように抜けてしまった。戸惑いだけが残って、助けを求めるようにまた振り返る。コウスケはさっきからずっと一歩後ろを歩いていて、決して僕を追い越そうとしないでいた。
「ねえ、あいつ誰だっけ。ほら、小学校から同じクラスで、いつも一緒にいた奴。夏休みに講習会行くって言って、それから急によそよそしくなった」
「誰だよ、それ」
「だから思い出せないんだよ。えーっと、なんて名前だっけ」
 思い出そうとすればするほど、イメージが曖昧になる。たった今自分が説明した人物像以外、すべてが分からなくなっていた。
「あのな、中学三年生で来年受験で、この夏休みに夏期講習行って、それ以来真面目に勉強に打ち込んで、付き合いが悪くなっていく奴、わりといると思うんだけど、どうよ」
 心底あきれた様に言われ、言葉に詰まる。確かにこんな中途半端に田舎の場所でも、駅まで出れば塾はあって、僕ですら短期の講習会には参加した。その後付き合いが悪くなっていったかどうかは、本人の自己申告より他人がそう見るかどうかの話だ。でもなぁ。
「誰だったかなぁ」
 コウスケも知っている奴なんだ。だってとても身近にいた。っていうことは最低限、同じ地区で小学校からの付き合いで、なのに、なのに
「男だっけ? 女だっけ……?」
 それすら、忘れている?
 呆然とつぶやくと、コウスケの声がした。
「疲れているんじゃねえの? 暑さにあたったんだよ」
 のんびりとした言い方は変わらないのに、どこかうかがうような口調。僕は息を吐き出すと、気分を変えるように辺りを見回した。
「そうなのかな」
 確かに暑いけれど夕暮れのせいか、昼のゆだるような熱気はおさまっている。
「疲れって、真っ最中よりもひと段落付いた頃のほうが一気に出るんだぜ。お前の場合、それの気がする」
 そういうものなのかなと思いながら、帰り道を歩いてゆく。両脇をからたちの生垣で囲われた、一本道。田舎らしく人気は無く、ここにいるのは当たり前のように僕とコウスケだけだ。
「あともうちょっと、涼しくなればいいのに」
 見慣れた両脇の緑になにか息苦しさを感じ、意味も無く肩掛けカバンの位置を直してみた。
「まだ無理だろ」
「そうだな」
 こもる暑さに押しつぶされそうになって、風が無いことにふと気が付く。
 からたちの棘だらけの生垣は、ただでさえちょっとやそっとの風では動きそうも無くて、葉すれの音が一切しない。
 ああそれに。
 確かめるように耳を澄ませ、小さくうなずいた。
 風だけじゃない。この季節なら当たり前のように聞こえていた、蝉の声がしないんだ。なんの物音もしない、一本道。
 けれど無音であることに気づいた途端、ふわりとかすかにピアノの音が流れてきた。
「カノンだ」
 ほっとして、思わずつぶやく。ピアノの音色は優しく響き、なにかが欠けているような、そんな不安を消し去ってくれた。
「違うだろ。これは輪唱の曲だよ」
 僕の気持ちなどお構いもしない、コウスケの突っ込み。むっとしながら反論する。
「同じだよ。輪唱のことを英語だかなんだかでカノンって言うんだよ」
「違うね。輪唱は同じ旋律で次々に歌ってゆくけど、カノンは別の音程とかリズムで歌っても良いんだよ」
「……そうなの?」
 悔しいけれど、コウスケの説明のほうが僕より理論的だ。
「じゃあ、カッコーが鳴いたり、蛙が歌ったりするのは?」
「輪唱だろ」
 ためらいの無い返答にふうんとうなずき、また黙り込む。
 繰り返し繰り返し、追いかけ続いてゆく、メロディー。すんなりと僕の耳や心に入り込み、なにかの記憶をゆっくりと浮かび上がらせてゆく。
 なにか。
 そう、今まで忘れていた、なにか。
「この曲、……覚えている。小さい頃、歌っていた。コウスケともう一人、女の子」
 そうだ、女の子だ。
「僕が最初に歌って、彼女が次。そして三番目がコウスケだった。繰り返し繰り返し、追いかけ続いていって、いつも最後は笑ってお終いになったんだ」
 彼女とコウスケと僕。いつも一緒にいた。そうだ。さっき出掛かったまま消えていったのも、彼女の記憶だ。
「この曲の最後、どんな風に終わるんだっけ? それと彼女」
「終わらないよ」
 彼女の名前も聞こうと思ったのに、最初の質問の答えが先に返ってしまった。
「終わらないって?」
「この曲はずっと続いていくんだよ」
 振り返ると、コウスケは笑っていた。楽しそうな、無邪気な表情。それなのに黒い瞳が静かに据わっているようで、そのバランスの悪さに不安になる。
「……コウスケ、彼女のことを覚えている?」
 知らないよ。
 そう言われるのではないかと、半ば身構える。けれどコウスケはすぐにうなずいた。
「いつも俺達、一緒にいた」
 優しい表情。でも、瞳の色は暗くよどんだままだ。
「俺とお前と、あいつ。小さい頃から一緒にいた。この曲、いつも一緒に歌っていたよな」
「じゃあなんでさっき、誰だよって聞いたんだよ」
「お前が忘れたからだろ」
 即答され、僕は言葉に詰まってしまう。コウスケは感情のこもらない口調で、ただ事実を告げていた。その言い方に、僕を責める気持ちは感じられない。だからこそ、不安が増してくる。
 僕は大切なことを、忘れている?
「仕方ないよ。気付いてしまったんだから」
「なにを?」
 問い掛けるけれど、答えが返ってくるとは思えない。コウスケの言葉はまるで独り言のようで、僕ではなく自分に向かって言っているようだった。
「気付いて、お前は忘れることにして、あいつは逃げることにした。つまんない。いつもお前達はそうなんだ。大きくなると、すぐにそうやって離れてゆく」
「コウスケ……? コウスケ」
 呼びかけを繰り返すと、ようやくコウスケは僕を真っ直ぐ見つめ、宣言するように言った。
「だから俺も、俺のやりたいようにすることにしたんだ」
 輪唱のメロディが、さっきより大きくなる。そのせいか、自分の考えが上手くまとまらない。僕は少しずつ焦り始めていた。
 コウスケは、なんの話をしているのだろう? そして彼女。
「教えろよ。あの子は、誰だ? なんて名前で、どこに住んでいる?」
「あいつなら今、この生垣の中にいる」
 コウスケはゆらりと片手を上げると、そのままからたちを指差した。
 からたち。からたちの木。

『からたちの木よ』

 不意に彼女の声を、思い出す。
『からたちの木は、その棘で侵入者を防ぐの』
 そう彼女が言ったのは、いつだったろう。
『ここに居れば、あれは入ってこられないから』
 あれ? あれとは、なに?
 彼女の顔が思い出せない。彼女の名前が思い出せない。それなのに、彼女がおびえていたことだけは、はっきりと理解できる。
 でもなにに? なにに対して?
「馬鹿だよな」
 思い出に被さるように、コウスケがくすくすと笑って言った。
「守るために閉じこもっていても、そこから逃げられなくなるだけなのに」
「コウスケ……」
 目の前の友人の、深く暗い瞳を見るうちにひとつ気が付いた。僕は震える声で、呼び掛ける。
「コウスケって字、なんて書くの?」
 僕はそれを思い出せない。
 浩介? 孝輔? 幸助?
 それと、コウスケの苗字は?
 そして、そして僕の名は?
 僕は誰?
 君は? 君の名前は、なに?
 コウスケの笑い顔がくしゃりとつぶれたようになって、辺りに闇が広がった。
 輪唱のメロディがこだまする。
 終わらないよ。
 この曲は、ずっと続いてゆくんだよ。

 この道も、ずっと続いてゆくんだよ。

「なにぼんやりと歩いてんだよ。転ぶぞ」
 後ろからそう声を掛けられて、僕は慌てて振り向いた。
「なんだ、コウスケか」
 わざとつまらなさそうに言うと、コウスケがにやりと笑う。
 いつもの放課後。帰り道。
 夕日に照らされて、影が長く伸びていた。

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