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E07  花想

「何をしている」
 木に寄りかかり、ぼうっと蒼の果てを見つめていた。
「答えろ、女」
 声が近いのに気付いて見下ろすと、腕を組んだ男の子供と目が合った。その格好は毎日この道を通りすがるものたちとさして変わりないけれど、わたしの何かが「違う」と告げていた。誰もわたしを気に止めなかったから? 誰もわたしに声をかけなかったから? 問いかけても答えは出ない。
「何をしている、と聞いている!」
「……不変は、何に対しての罰だと思う?」
 子供は眉を顰めた。どうしてこんなことを問うのか自分でもわからないから、彼がそうするのも無理はない。こんな子供に話してどうにかなるわけでもないのに、口をついて出た言葉は止まらず、子供へと駆けてゆく。
「周りのすべては移ろうのに、そのものだけが取り残されて変わらない。永い刻をたったひとりで過ごすのは、苦痛でしかないんだ」
 顔を上げて、澄み切った色を見つめる。わたしが「わたし」となる前から、この蒼は今と同じように在った。誰にも触れられぬ高みから、黙ってわたしを見下ろしてきた。ずっと前から、「わたしたち」は互いにひとりだったのだ。
「……かなしいのか」
 そう言った子供の方が泣きそうだった。かがんで目の高さをそろえると、唇をかみ締めているのがわかった。なにか、泣かせるようなことを言ってしまっただろうか。
「なにか、気に障るようなことを言ってしまったか?」
「……先ほどから、おまえが答えないのが悪い」
 そういう子供も答えていないのだが、先に答えなかったのはわたしだ。すまないと呟いて、頭をなでてやる。
「不変を負うものを眺めていただけだ。暇だからな」
 ひとすじの雫が頬を伝った。顔をくしゃくしゃにして耐えようとする子供が似たものに思えて、背中に腕を回した。
「馬鹿だな。おまえが泣くことはないだろう」
「……っいてなど、ない……!」
 小さくしゃくりあげる子供が落ち着くまで、ずっと抱きしめていた。日の光とは違うあたたかさが心地よいことを初めて知った。

 それから、子供は毎日のようにやってきた。いつだったか、木の実や魚を土産だと称して押し付けられたこともあった。食事をする必要はないのだと言っても聞き入れないので、木の実だけ受け取ることにした。口に入れたそれが甘くて「美味しかった」のをよく憶えている。
「おまえ、名はなんと言う」
 名前などあったためしがないと答えると、子供はまたもや眉を顰めた。からかわれていると思ったのだろう。ぷいと顔を背けて、帰ると吐き捨てた。年相応の言動だと笑っていると、笑うなと怒鳴られた。かわいい、というのはこれを言うのだろう。耳まで赤い。
「わたしはそれが必要だったことはないから、よくわからないんだ。おまえ、つけてくれるか?」
「……私がか?」
「名を訊いたのはそっちだろう」
 顎に手を当てて考え始めた子供を、ぼんやり見つめる。少し離れたところでこちらを窺う気配に、小さく笑った。
「そろそろ帰れ。迎えが来ている」
「迎え?」
「そう。あの家の影にいる。――かなり怒っているようだから、覚悟しておくんだな」
「でも、おまえの名がまだ決まっていない」
 まっすぐにこちらを見つめる子供が、なんだか必死に見えたからだ、と言い訳をする。
「これを、預けておく。おまえが返しに来るまで、待っているさ」
 髪をくくっていた紐をといて渡した。見上げてくる表情が捨てられた小犬のようで、また笑えてきた。小さな肩を軽く叩いて促すと、子供は薄紅色の紐をぎゅっと握り締めた。
「私は、定良という」
「そうか。またな、定良」
 らしくない、と小さくなっていく背中に呟いた。名前をつけろと言ったことも、自ら約束をしたことも、自分らしくない。いつか置いていかれるとわかっているのに拒まないなんて、そんな愚かな自分は知らなかった。

 何日かが過ぎたけれど、小さな訪問者はぱたりとその姿を見せなくなった。そういうこともあるだろうと思った。
 子供は、定良は言わなかったけれど、おそらく名のある武家の子なのだろう。毎日のように家を抜け出し、どこの馬の骨とも知れぬ女と親しくなるなんて、とでも詰られたのかもしれない。己を否定するつもりはないが。ただ、あの子供ならきっとそう言われれば反発しただろう。耳まで南天の実の色に染めて、あの目で食って掛かるのが目に見える。
 わたしはここに佇み、子供は進んでいく。いっとき同じ場所に在ったとしても、いつかは別れのときが来るのだ。それが今であってもおかしくはない、それだけのこと。知らずため息をつくのも、百年も経てばそのうちしなくなるだろう。
 風に煽られる髪が鬱陶しい。虚空を睨んで手を伸ばし、一本の枝を掴んだ。
「……春でないのが、惜しいな」
 あの色は気に入っていたのに。
 力を込めようとして、はたと気付く。小さな気配がこちらへ駆けてくる。
「定良?」
 目の前で荒い息をしているのは、少し顔色は悪いが間違いなくあの子供だった。
「遅、く、なっ」
「落ち着け。生憎、水を持ってないんだ。ゆっくり息をしろ。大丈夫、わたしは逃げないから」
 息を整えさせる間、周囲に気を巡らせた。追われているわけではないらしい。しゃがんで背をさすってやると、うっすら汗をかいた顔がこちらを向いた。
「……すまない。遅くなった」
「気にするな。おまえと違って、わたしは特にすべきこともないんだ」
 眉を顰めた定良が、知っていたのかと呟いた。風にかき消されそうに小さく、溶かしきれない感情をこめて。
「何をだ? おまえがどこぞの武家の子供だということか? そんなもの、所作を見ればわかるだろうに」
「だから、だから私の相手をしたのか!?」
「ばかもの」
 キッと睨みつけてくる目は鋭く、どこか懐かしい。
「武家に尻尾を振って、わたしに何の得がある? 人間ごときに媚を売ってどうしろと言うんだ」
 突っぱねてしまえばよいものを、と思う。わざわざここまで教える必要があるのかと問われれば、答えは否。けれど言葉は止まらない。
「おまえも、もう気付いているだろう?」
 着物と同色の紐で髪を結い、いつも同じように樹の下にいる女。食事をする様子もないのに、具合が悪そうにも見えない。名前が必要だったことのない女。そんなわたしが、普通の人間であるはずがない。
 わかっているだろうに返事をせず、定良はおもむろに懐から紐を出して差し出した。淡い紫色の紐だった。
「やる」
 預けた紐ではないそれを、わたしの手にむりやり載せる。首を傾げると、定良は目だけで笑った。
「そなた、これより『紫桜』と名乗れ」
「しお?」
「紫の桜。空の青を溶かした桜の花。――私が、頭を絞って考えたのだぞ?」

 定良は、わたしが何を言っても会いに来るのをやめなかった。
 兄が死に、家の世継となっても、父の死で家督を継いでも、頻度は減ったが変わらずに姿を見せた。歳を重ね、周りに求められるまま落ち着いた振る舞いをするようになったけれど、会いに来ることだけは譲らなかった。政はどうしたと問えば、紫桜は気にするなとそればかり。病弱ゆえに何度も寝込み、療養のために城を離れてもなお会いに来る定良に、わたしは何もできなかった。寝込んでいる間、人目につかぬよう城に出向いてやるくらいしか、できることはなかった。何度も城に来いといってくれたが、それはできないと知っていたから。
 定良には妻がいない。そこでこの年頃の女を城に入れれば、縁談の話も滞るだろう。第一、そうと見えなくともわたしは「化け物」だ。いったい誰が、化け物と寝食をともにしたいと思うだろうか。それを言えば定良が落ち込むから、理由は言わずにただ駄目だと言っていたけれど。
 療養からの帰り道、定良の容態が急変した。「あの桜」を見たいと言い遺し、帰らぬ人となった。
「……馬鹿だよ、おまえは」
 どういうわけか、定良は先祖代々の菩提寺には葬られなかった。
「まだそれを言うのか? 何年前の話だと思ってる」
「百年以上経っても馬鹿なままだから言ってるんだ。化け物に操を立てて死んだ男など、ついぞ聞いたことがない」
「紫桜は化け物ではないと言っているだろう」
 腰に手を当てて偉そうにのたまうのは、あの日のままの定良だ。半分透けているけれど、そういうところはまったく変わっていない。
「まさか、こんなところに墓を作らせるとは……」
 見上げた先には立派な寺。定良の体はあそこで眠っている。生前足繁く通った樹の目の前に、寺を建てさせてしまったのだ。
「作らせたなどと、人聞きの悪い。皆、私のためを思って『自発的に』建ててくれたんだぞ? 私は一言も、命じたりなんかしていない」
「それは、そうだろうよ……」
 今の定良と会ってから気付いたことのひとつに、コイツは何も言うことなく相手に要求を飲ませる天才だということがある。時に哀しげに、時に嬉しそうに微笑うことで、相手の感情を揺らし意のままにする。そうと知っていても拒めない強さで、自分の道を――想いを貫くのだ。
「紫桜は、私と会えて嬉しくなかったか?」
 こんな風に、捨てられた小犬が目をきらきらさせて「拾ってくれ」と訴えているような表情をしやがるのだ。そうすればわたしが拒みきれないと知っているから性質が悪い。
「…………った」
「ん? 聞こえないぞ?」
「嬉しくなかったと、誰が言った」
 じゃあいいじゃないかと笑う男を、視線で射殺せるものならばと睨んだ。否、もう死んでいるのか。かわいくない。
「私はこれでよかったと思ってる。ずっと欲しかった花を手に入れられたから、他には何もいらないんだ」
 目の前の男が、ちいさな子供に重なる。木の実をはじめて受け取ってやったとき、誇らしげに笑ったあのこどもとまったく同じ顔をしている。照れもせず、恥じることもなく、臆面もなくそんな台詞を告げて笑う男にため息をついてささやかに抗う。
「……だから、おまえは馬鹿だというんだ」
 こんな自分にそこまでするなんて、馬鹿以外の何だというのか。そしてそれを嬉しいと思ってしまう自分も、なんて愚かなんだろう。
「素直でない紫桜も、私は好きだよ」
「言ってろ」
 遠慮がちに触れてきた手を、ほんの少しだけ握り返す。薄紅の降り注ぐ中、近付く気配にまぶたを閉じた。

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