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E05  夏椿の咲く庭で

 そのお坊さまを訪ねるのは、わたしにとってささやかな楽しみなのです。もそっときちんとご説明するのでしたら、そのお寺を、と、申し上げたほうがよろしいのでしょうか。こう言ってしまってはいかにも不躾なのですけども、ちょっと見たかぎりではどうってことのない、ただの寂れた古寺なのですよ。昔は檀家さんもそれなりにあったようですが、近頃じゃ人っ子ひとり近寄らなくてねぇ。まぁ、こんな鄙びた山奥だもの、無理もありません。
 そのお坊さまは、いつの頃だったかにこのお寺へとお入りになって、それから少しずつ手入れをなさったそうです。お坊さまがこちらへいらっしゃった頃なんか、お堂のご本尊へ蜘蛛の巣が張り、朽ちた床下や屋根裏、崩れかかった塗り壁のそこかしこには蛇やら百足やら毒虫やらが居着いていたというのだから、まったく罰あたりな話じゃありませんか。
 そんなお堂も境内も、お坊さまのおかげで今じゃすっかりきれいになりました。とりわけ、そこらじゅうに植えられた椿の花がそりゃあ見事なもんなのです。椿といったら、やっぱり冬の雪景色がよく似合います。ほら、想像してみてごらんなさい。いっぺんの混じりけもない白に、彩りを添える椿の紅化粧。まるで白無垢をまとって紅を刷いた、どこぞの花嫁さんみたいじゃありませんか。
 でもね、わたしは寒椿より、ちょうどこの頃になるとお目見えする夏椿の方が好きなのです。まるで綿帽子みたいに白くて小さいあの花びらが、また可愛らしくてねぇ。夏椿は沙羅の木といって、お釈迦さまが悟りをお開きになられたという沙羅双樹と通じるものがあるのですって。・・・ふふふ。どうです、わたしもなかなか物知りでしょう? それもこれも、あのお坊さまから教わったことばかりなのですよ。
 だからわたしなんかは、あのお寺を「つばきさん」とお呼びしています。つばきのお寺。椿寺。あすこに行くと、決まってお庭の椿たちがわたしを迎えてくれるのです。

 そもそもどうして、わたしみたいないやしいものに こんな尊いご縁があったのでしょう。あれは確か、やけに雨の多かったある夏のことでした。今、思い出したって辛くて辛くて仕方のない、いやな夏でしたとも。
 というのもね、その夏にわたしは家族を失ってしまったのです。めとったばっかりの女房と、生まれたばっかりの赤ん坊。両方とも、わたしはいっぺんになくしてしまいました。あんな石ころみたいな鉛礫に、みぃんな奪われてしまった。あいつら、決まって金のことしか頭にないのです。女房と、女房そっくりだった赤ん坊は、そりゃあ別嬪でしたからね。大方、毛皮を剥いで金持ちにでも売ってしまえと考えたのでしょう。
 女房は赤ん坊を連れて、森で苔桃を集めているところでした。わたしはたまたま用事があって、隣山のじいさまのところまで出かけていたのです。それがいけなかった。じいさまのところから帰る途中、どん、と、耳をつんざくような音が山中にこだましました。嫌な予感というよりも、あれはそう、胸騒ぎです。
 必死で走りました。必死で走りましたよ。でも、間に合わなかったのです。わたしがそこへ駆けつけたときには、女房たちはとっくに攫われてしまったあとでした。残っていたのは、地面へ たくさん散らばった苔桃と、その苔桃を潰したみたいな血だまりだけです。あの時の悔しかったこと、居た堪れなかったこと、情けなかったことといったらありません。
 だから、わたしは追いかけたのです。あいつらの足跡を追いました。できるならその尻に齧りついてでも、うんと化かして誑かして、そのまま谷底へ突き落としてやりたかった。だって、あんまりじゃありませんか。女房と赤ん坊が、何をしたっていうのです。この仇は必ずとってやると、わたしは心に固く誓いました。
 だけどね、あいつらの後を追いかけるうちに ぽつぽつと雨が降ってきて、そしたらもう、井戸の水を引っくり返したみたいな大雨になってしまって。気がついたら、わたしはあいつらを とんと見失っていました。あとからあとから落ちてくる雨雫に、あの忌々しい足跡を消されてしまったのです。
 お天道さんまであいつらの味方をするのかと思ったら、そりゃあ恨めしくってねぇ。おまけに、何しろずうっとお山を駆けていたものだから、足はすっかりくたくたで、いよいよ駄目になってしまって、そのまま野道へ倒れてしまいました。
 それから夜が来て、朝が来て、また夜が来ても、お空が晴れることはありませんでした。お日さまも、お月さまも、一度だってお顔を見せてはくれませんでした。わたしはもう、動けなくて、ひもじくて、すっかり冷えてしまって、雨粒が何だか鉛みたいに感じられたものです。あぁ、きっと わたしはこのまま息絶えて、こんな山道の端っこでみすぼらしく果てるのだなぁと、そんなことをぼんやり考えておりました。その頃には精も魂も尽き果てて、きっと夢うつつに今際をさすらっていたのでしょうねぇ。だけど、女房と赤ん坊の仇を討てない無念さだけは、苔がむしたみたいに からだじゅうへびっしりくっついておりました。
 そしたらね、ふっと、雨が止んだのです。気のせいなんかじゃありません。本当に、そこだけ雨が止んだのです。なぜって、野道で行き倒れたわたしのもとへ、番傘をさしてくださった方がいたからです。そうです、そうなのです。それが、わたしと あのお坊さまとの出会いでした。
 お坊さまはちょうど托鉢の帰り道だったようで、山道には不似合いなちょっとした大荷物を抱えていらっしゃいました。なのに、道端ですりきれた襤褸みたいになっていたわたしに目を留めてくださって、まぁ、慈悲心というのでしょうなぁ。一つしかないその番傘を、お坊さまは わたしなんかのために全部 傾けて、ここで出会ったのも何かの縁、思うことがあるなら言ってごらんと仰ってね。雨空の下、息も絶え絶えなわたしの話を、じっと黙って聞いてくださったのです。
 わたしがひとしきり話し終えると、お坊さまは、なんて哀れな、可哀相にと、はらはらと涙をこぼしてくださいました。そして、お前がこのような憂き目に遭うのも前世過去無量却からの因縁なのだよ、この上はしっかり細君と赤子の供養してやりなさいと、やさしく諭してくださったのです。・・・でもね、わたしはどうしても納得できなくって、わたしから女房と赤ん坊を奪ったあいつらが憎らしくって、お坊さまの言葉に素直に頷くことができませんでした。
 そうしたら、お坊さまはこう仰ったのです。お前、今の自分の姿をよく見てごらん。そんな傷だらけの足を細君が見たら、きっととても悲しむよ。そんな萎れた尻尾を見たら、赤子だってがっかりするよ。それなのに、お前はまだ道を踏み外そうとするのかい? 畜生よりもなお業の深い、修羅の道を行こうというのかい? どうしてもそうしたいというのなら、私もこれ以上は止めないよ。けれどね、よく考えてごらん。たとえお前が細君と赤子の仇を討ったって、来世ではまた同じことを繰り返すだけなのだよ。ひょっとしたら、今度はお前が仇に殺されてしまう番なのかもしれない。そうしたら、遺されたお前の家族は今のお前と同じ苦しみを味わうことになるだろう。だから、お前が本当に細君と赤子のことを想うのなら、理不尽でもここでしっかり踏ん張らなければいけないよ。・・・こんなに酷い、かなしい想いを、細君と赤子にはさせたくないだろう?
 とてもとても辛いことでしたけど、お坊さまのお話はもっともでした。前世や来世のお話なんかは正直ちんぷんかんぷんだったのですけど、女房と赤ん坊のことばっかりはいちいちその通りだったのです。いつだって、女房はわたしのからだをいとってくれました。赤ん坊は、わたしのふさふさとした尻尾が大好きでした。それなのに、あんなみっともない姿を女房と赤ん坊に見せるだなんて、とんでもありません。ましてや、わたしとおんなじ、地獄の煮え湯を無理やり飲まされたみたいな想いをさせるだなんて。それなら、わたし一人が辛みに耐えぬいたほうが、ずっとずっと、ましってものです。
 そんなふうに思ったら、わたしも何だか、ずっとこらえていたものが わぁっと溢れだしてきて、たまらなくなってしまってねぇ。まるで小さい童みたいに、大粒の涙を流してわんわん泣いてしまいました。

 それから、お坊さまは わたしをお寺まで連れて帰って、あたたかい粥やら白湯やら、足傷によく効く軟膏やらを施してくださいました。おかげさまで一月もする頃には心もからだもすっかり癒えて、わたしはお坊さまのもとをお暇したのです。
 それからなのですよ、わたしが そのお寺へ通うようになったのは。そのたび、お坊さまはわたしの女房と赤ん坊のためにいっとう有難いお経を読んでくださいます。法華経を諳んじて唱えることのできるお坊さまなんて、そうそう滅多にいらっしゃるものじゃありません。こんな尊い功徳にあやかれるだなんて、それもこれも、みんなお坊さまのおかげです。
 お坊さまは、わたしの女房と赤ん坊の墓をこしらえる代わりに、お寺へ夏椿の木を植えてくださいました。そうです、わたしの好きなあの木ですよ。わたしが夏椿をいとしく想うようになったのには、そういう所以があったのです。

 おや、ついつい長話になってしまった。歳を食うと昔話が長くなっていけないや。いやぁ、お恥ずかしい。ほれ、日の暮れないうちにお山を下りたほうがよろしいのじゃありませんか。ここらは木も鬱蒼としているし、何より賊が出るって評判ですよ。
 えっ、やけに物知り顔じゃないかって? ・・・それがね、ほら、くだんの女房と赤ん坊の仇のやつら。あいつらも、どうやらあれからその賊に襲われて身包み剥がされたらしいのですよ。ふんどし一丁で助けを乞いにきたと、ふもとの村じゃもっぱらの噂でしたからね。まぁ、もともと悪さばっかりする連中だったらしいから、村人もそっけなく追い払ったって話です。・・・いやいや、そんな、滅相もない。わたしの仕業じゃありませんよ。本当ですったら。あのお坊さまに誓って嘘じゃありません。
 はぁ、お坊さまですか? そりゃ、お坊さまも托鉢のために月に何度か お山を下りなさるけど、いっぺんだって賊に襲われたことなんてありませんよ。それどころか、いつも抱えきれないくらいの御供物をお寺に持って帰っていらっしゃいます。それで必要のないぶんは、わたしたちみたいなものにも たんと分けてくださるのです。やっぱり、徳の高いお方は為さることも違います。賊だって、そのあたりの分別ってものをきっちり弁えているのですよ、きっと。

 それにしても、お坊さまがよくお話してくださる通り、因果応報っていうのは本当にあるのですねぇ・・・・・・。

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