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E04 地球全周1/40000000と少しの世界

 ――あらかじめ決められた幅一メートルの道から逃れられないもの、なーんだ?

 ※

 あたしは、妄想が好きで好きでたまらない。

 今日も平和な一日がはじまる。
 朝が訪れ、お日さまがのぼったことを小鳥が告げて、あたしは目を覚ます。白い天井では昨日から点けっぱなしの室内灯が居心地悪そうにしている。布団の中からそれをすこし見つめたあと、あたしはもう一度目を閉じた。また一日がはじまる。はやく目を覚まさなくてはならない……。
 次に目を開けたときには、眠気と重たい体はどこかへ行ってしまっていた。
 立ち上がって、ようやく電気を消してあげると、疲れきった蛍光灯は静かな眠りについたようだった。あたしという人間に酷使されたのだ。夜がくるまでこうして休むに違いない。あたしは独り笑ってベッドから降りる。クローゼットを開け、真新しい制服に着替える。スカートのプリーツはまだ綺麗なままで、それがあたしを憂鬱にさせる。
 教科書を詰めたピカピカの黒カバンを手に六畳の部屋を出ると、階下からは、お味噌汁の匂いが漂いだしていた。

 家を出ると、重苦しい灰色の空があたしを出迎えてくれる。いまにも水滴が落ちてきそうな、かと思えば遠くのほうでは晴れ間がのぞいているような、どっちつかずの空模様。春の天気は移ろいやすいと聞くけれど、毎日がこうだとさすがに嫌気がさしてしまう。空から目を逸らすと、今度はアスファルトに取り残された水たまりが目にとまる。
 いつからだったろうか? あたしが気づいたときにはもう、この水たまりは舗装された道の端にうずくまっていた。
 気づいたときから、ずっとそこにいる。
 水かさがたしょう増えたり減ったりすることはあっても、水たまり自体がなくなってしまうことはない。すこしのブレでは、本質は変わらない。まるであたしの一日みたいだ。朝ごはんの献立が変わっても、曇り空に浮かぶ雲の多寡や大小が変わっても、あたしがむかえる一日のはじまりはいつだってこんなに憂鬱だ。いつもと変わらない朝は今日も同じで、不思議に存在感のある水たまりは、その象徴だった。それを横目に、あたしは昨日を巻き戻したような足どりで学校への道のりを歩きはじめるのだ……。

 こんな天気の日には、お決まりのように傘が欠かせない。
 右手に重たい黒カバン、左手にビニール傘。あたしは右利きだけど、これをときどきひっくり返すことがある。どんなときかと問われれば、こんなときだと答えるだろう。あたしは駅前通りに出る直前の交差点で、すばやく右手に傘を持ち替えた。
 信号待ちの交差点には、ふたりの人間がいた。
 ひとりはおじさんだった。男の人の歳なんてわからないけれど、あたしの父さんと同じくらいに見えるから、四十歳をいくつか過ぎたくらいなんじゃないかと思う。そいつが父さんに似ているのは、歳だけじゃなくて、姿だってよく見ればそっくりだった。柄物の半袖シャツと、安っぽいベージュのスラックスをはいて、剃刀みたいな鋭い目つきなんてしているところが。あたしの好きになれない顔だ。踏みつけてやりたいくらいに。
 もうひとりは、男子学生だった。こっちはあたしと同じくらいの歳だ。勇ましい茶髪のくせ、眉の下がった気の弱そうな顔つきをしている。見覚えのある黒の学生服は、あたしと同じ高校の制服だった。顔は知らない。茶髪という特徴を除けば、どこにいてもわからないような平凡な顔の男の子。
 その子が、あたしの見ている前で、ふいにおじさんにつかみかかられたのだ。そのまま、ふたりは口論をはじめてしまった。
 だんだんと交差点に近づくにつれて、あたしにも言い争いの内容が聞こえてくる。言い争いとはいうけれど、遠目には悪いおじさんが男子学生に言いがかりをつけているだけのように見えたし、ふたりのすぐそばまできて会話がしっかり耳に入ってしまえば、やっぱりそれは正しいとわかってしまった。
「何をしているんですか?」あたしは言った。「その子が何かしたんですか?」
 おじさんが驚いたようにふり返る。男子学生の襟元をつかんでいた手を緩めて、不思議そうな顔をこちらに向けてくる。でもそれも一瞬のことで、一度まばたきをすると、まぶたで瞳を砥いだように鋭さが戻ってくる。細い黒目の下では、切れ味の良さそうな唇が待ち構えている。そいつがなにか言うよりはやく、あたしは右手の傘をおじさんに突きつけた。
「警察を呼びますよ」
「こいつは髪を染めてるんだぞ……学生の、ぶんざいで。私は、それを注意した」そう言って、黙ったままの男子学生を小突くと、おじさんは神経質に笑った。笑うと口元が左右非対称につりあがって、あたしのますます嫌いな顔になる。やっぱり踏みつけてやりたい。内心をおさえて、あたしは言った。
「でも、いきなりつかみかかることはないでしょう」
 ここで、あたしは傘を下ろして、意味ありげに黒カバンをさぐる。大事なのは、わざとゆっくりすることだ。あたしの手の動きを見ておじさんは面白いくらいに動揺しはじめる。
「私は、私は間違ったことなどしていない。だいいち、校則でも黒髪を指定されてるんだろう? 注意してやったのはこっちのほうだ、それをおまえは」
「だとしても、あなたのはただの暴力に見えるわ」
 言いつのる語尾をぴしゃりと封じて、あたしは携帯電話を取り出してみせる。それを片手で開いて、ボタンを三つ押したところで、おじさんはついに退散した。足早に交差点から去っていく半袖シャツをちょっとの間見送って、あたしは男子学生へと向き直った。気弱な目が、いまは安堵に揺れている。こんなときのあたしは、すこしだけ意地悪な気分になる。
「威勢がいいのは髪の毛だけなの?」我慢できずにあたしは言った。
 ぼーっと立ち尽くす男子学生を置いて、あたしは堂々と横断歩道へ足を踏み出す。もちろん一度も振り返らない。
 ――そうだったらいいのに。
 妄想のあたしはさっそうと悪者を追い払って、見かけ倒しの男子学生に説教を垂れたけれど、現実のあたしは交差点をとうに通過して、もうふたつ目の角を曲がってしまった。あたしが離れてしまうと妄想のあたしたちはどんどん薄まって、あやふやになっていく。次の妄想に備えて休眠状態に入るのだ。まぼろしの争いはふわふわと溶けてしまい、背後には無人の交差点だけが残される。あたしはため息をついた。
 この場には、はじめからだれもいない。

 あたしのクラスは、玄関から階段を上がった二階の廊下の一番奥にある。おはよう、おはよう、と飛び交う挨拶を避けながら、あたしは木造校舎の床を慎重に歩いていく。もしも突然足下が抜けても、いつでも飛びのけるように。もちろん、そんなことは起こらないのだけれども……。
「おはよう、宮本さん」
 教室に着いて、自分の席にたどりついたあたしに、隣の机の女子が話しかけてくる。あたしはおはよう、と返しながら、黒カバンの中身を引き出しに移していく。まだ折り目のついていない教科書が四冊、ノートも四冊。筆箱だけは机の上に残す。軽くなってしまったカバンは机の金具に引っ掛ける。
「宮本さん、今日の放課後、空いてる?」
「うん」
「よかった! じゃあ、ちょっと寄ってかない?」
 そう言って、隣の女子は右手にまぼろしのスプーンを握って口元に運んでみせた。高校ちかくの甘味どころへ行こう、というサインだ。学校という狭い社会でだけ通じる仲間うちの合言葉。あたしも真似して、まぼろしのスプーンを作る。こちらはオーケー、のサイン。
 ――そうだったらいいのに。
 あたしが窓際の席でほおづえをついて独りぼんやりしている間に、教室には先生が来てしまった。先生はホームルームの開始を告げる。
 起立。礼。
 さあ、一日がはじまってしまう。

 退屈な授業だ。
 そういうとき、あたしは目を窓に向けて空想を遊ばせることにしている。あたしは昔から雲の上に行きたい、と考えていた。そこには雲の王国があって、国民はみんな幸せに暮らしている。飢餓も疫病も争いもない平和な国。死んだ人さえお星様になって、ときどき雲のちかくまで降りてくる。きっと、音楽の教科書に出てくる偉大な音楽家たちの伴奏つきの結婚式をすることだってできる。花嫁と花婿は偉大なる歴史たちに見守られ、永遠の愛を誓うのだ。
 雲の国ではあたしが女王さまだ。地面にはりついている父さんや、先生や、あのおじさんみたいなのを、あたしはずっと見下ろして、見張っている。あいつらがのぼってこられないように。
 そのとき、コツン、と机にぶつかったなにかが、あたしを窓の外からつれもどした。机の上に、見覚えのない丸めた紙が転がっている。先生は真面目な背中をこちらに向けて、黒板から目を離しもしない。あたしは思い切って教室を見わたした。彫像のようにノートを書き写す丸まった背中がひとつふたつ、たくさん――いや、ひとりだけ、目が合った。委員長だ。
 どうして、と疑問がわきたつのと同時に、ほおに血がのぼった。なぜなら、あたしは委員長のことが好きだからだ。この退屈な日々から抜け出すため、あたしは委員長に恋をすると決めていた。なぜって、恋は人を狂わせるからだ。あたしは恋に賭けてみたいのだ。こんな規則正しい、狭苦しい、決まりきった道を往復するだけの毎日から、コースアウトしたい。それが恋にふらついた足どりでもなんでもかまわなかった。
 眼鏡の下の、どこかじらすような黒目にうながされて、あたしはそっとくしゃくしゃの紙を広げた。とたんに指の下で、〈ねぐせついてるよ〉と、たった八つの文字が躍りだす。あたしはびっくりして、一度委員長を非難がましい目で睨んでから、照れ隠しに乱暴な手つきで髪をすいた。委員長は、楽しそうに笑っている。
 ――そうだったらいいのに。
 開かれたまま、ちっとも埋まらない白いノートを見つめて、あたしはため息をつく。ほかに机の上にあるのは、筆箱と、そこから取り出した消しゴムと、教科書だけ。もちろん手紙など転がっていない。

 今日の授業は午前中で終ってしまった。あたしは急用を思い出してしまったので、隣の子とは一緒に遊びに行けなくなってしまった。あたしがごめんね、と謝ると、彼女は理想の世界にしかないようなとっておきの笑顔で、じゃあ今度の金曜にね、ともう一度約束してくれた。
 黒カバンの中に、筆箱、教科書四冊、ノート四冊をまったく逆の手順でしまいこみ、最後に傘置きから傘を取りあげて、あたしは帰路についた。今日一日のできごとを思い返しながら――今日もつまらない一日だった――、校門を出る。お日さまはまだずっと高いところにいるのに、あたしを含めた高校生たちが家に向かっているというのは不思議な光景だ。どこか不全で、すこしおかしい。
 ところが、学校から五分も行かない路上で、あたしは不自然に置かれたスーツケースを見つけてしまった。側面に透明なケースがついていたけれど、ネームプレートはもとから入っていなかったのか、それとも抜かれてしまったのか、ともかく姿が見当たらなかった。辺りを見わたす。だれもいない。あたしは仕方なしに、それを交番まで持っていくことにした。持ち上げたとき、妙な重さが手のひらに残ったのが、すこしだけ気になった。だから、それをのぞいてみたいと思ってしまったのだ。
 鍵もなにもかけられていないスーツケースを開けるのは簡単だった。ぱかんと開いた大きな口の中に、黒光りするなにかが鎮座している。もしかしなくても、拳銃に見える。もしかしなくても、危険な香りがする。あたしは悲鳴を上げそうになるのをこらえて、慌てて蓋を閉じた。もう一度あたりを見わたす。やっぱりだれもいない。でも今度は、そのだれもいないことのほうが、怖かった。
「お手柄じゃないか」
 なんとか交番にたどりつくと、お巡りさんはいかつい顔を優しくして、あたしににっこりと笑いかけてくれた。
「新聞の記事に載るかもしれないよ。お手柄女子高生、って」
「やめてくださいよ。あたし、目立つの苦手なんです。……それじゃあ」
「あ、きみ!」
 慌てたようなお巡りさんを置いて、あたしは交番からさっさと逃げ出す。こういうことは、自分の胸にだけおさめていればいい。それでも、もしだれかに――たとえば委員長とかに言ったとしたら、彼はあたしに感心してくれるかしら? そう考えると、自然に顔も歩みも緩やかになった。お手柄女子高生。いい響きかもしれない。翌朝、新聞の地方欄に小さく写るあたしの名前を見て、みんながびっくりする。
 ――そうなればいいのに……。
 もちろん、あたしはこれが妄想だって知っている。
 あたしは時刻を、六時間目が終って掃除を済ませてホームルームを待つばかりのところまで巻き戻して、憂鬱なため息をはいた。
 本当のあたしはクラスの隅から動かない。今日もだれとも話していない。いつもの登下校の道から一歩もはみ出したりなんかしない。「宮本さん、どうかした? ちょっと疲れてる?」なんて委員長から心配されるようなことを考えたりしながら、おや、ホームルームがいつの間にか終ってるわ、とわざとらしく首をかしげるのがせいぜいなのだ。

 ばかなことをしている、と思う。妄想なんて非生産的だし、無意味だ。そんな時間があるなら、もっとほかのことをしたほうがずっといい。たとえばノートを睨みつけて先人の残した数字の組み合わせについて考えたっていいし、今日の制服の着こなしに思いをめぐらせてみたっていい。どうしたってそっちのほうがまともだ。いもしない友達と、起きもしないケンカをしたとき、「もう気にしてないから」って苦しげに微笑むのと、「絶交よ」って切って捨ててみせるのとどちらがいいかしらとか、そういうことを午前中いっぱいを使って考えるよりは、ずっと。
 閉ざされた世界。ここから抜け出すために必要なのは、ほんのなぐさみ程度のコースアウト、それだけでいい。でも、そんな簡単なことが、あたしには身がよじれるくらいに苦しくて、難しいのだ。このさしわたし一メートルの世界から外れることが。
 学校では一日が終ろうとしている、そして、あたしは布団の中にいる。
 なにが悲しいかって、結局のところ、あたしは現実から〈本当に〉足を踏み外すことができないということだ。あたしはいつだって自分のことをよくわかっている。度を過ぎた妄想癖があることも、その脆くも甘美な世界に完全におぼれることができない臆病者であることも。なにもかもがあやふやな、紫の霧がたちこめる雲の上で生きていけたらいいのに。
 布団の中から出られないあたしが通ることができるのは、たった一本の道すじだけだった。入学式の朝に歩いたその道のりを、妄想の中でなんどもなんども反芻するようにくり返す。憶えているクラスメイトも、あの日たまたま学級委員長を押し付けられてしまった、不運な彼のことだけだ。
 さだめられた一メートルの道。その世界よりほかを、あたしは知らない。
 そう、あたしは、もうずっと学校に行っていない。

 ※

 ――もしそうなら、一メートルの世界からはみ出すことができないのも道理でしょ?
 ――うん。でも答えは電車なのよ。ほら、線路からはみ出せない。
 ――あらまー。

 ここは平和な教室の中。仲のいい女子学生が、ふたり顔を見合わせて、笑いあっていた。

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