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D11 夏の夕凪、丘の上に寝転びて星を待つこと

『ほら、あそこに見えるだろう? 白鳥の白いデネブ。あっちには赤いアンタレス。地平線ぎりぎりに蠍が猛毒の尾を垂れている』
 祐二先生が東京に行ってしまったと聞いたとき、僕たちは置いていかれたと思ったものだ。山々の尾根の合間に作られた小さな集落のような町。周りは見渡す限り緑の裾野が続き、中心部には商店街ともいえない短い通りに午後六時で店を閉める商店が軒を連ねている。僕が小さかった当時から町はもう少子高齢化が始まっていて、祐二先生は、そんな衰退の一途を辿る町に小学校の教師として久々に帰ってきた若者だった。
 僕たちと祐二先生が一緒に過ごしたのはたった二年半。三回目の夏休みが終わったとき、祐二先生はこの町からいなくなっていた。
 いなくなった理由は今でもわからない。
 あの頃は置いていかれた寂しさだけが僕たちを包み込んでいたけれど、夏休みが来る度に寂しさは先生がいないことへの苛立ちとなり、憎しみとなり、そうこうしているうちに、みんなこの町を出てばらばらになってしまっていた。僕も燻りつづける感情を持て余しながら町を出たものの、しかし結局忘れられずに戻ってきてしまったのだった。祐二先生と同じ小学校の教師として。
「先生ー、こんばんはー。今日の上映会は何やるのー?」
 夏の夕べに流れる時間は緩慢だ。上映会の行われる寺まで田畑を一直線に突き抜ける農道をひぐらしの声を聞きながら歩いていると、とんぼを糸に結んだ栄子と風見、それから見覚えのない小さな女の子が僕を追いかけて来た。
「今日の映画は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だよ」
 飛びついてきた風見をおんぶして答えると、一昨年、その映画を見て大泣きした栄子が見る間に青ざめ、頬を膨らませて俯いた。
「『銀河鉄道の夜』って、あの青い猫が出てくるやつ? 暗くて冷たくて怖い……」
 暗にやめてくれと訴えてくる栄子に、今年は新しいフィルムを買う予算がなかったんだなどとは言えず、仕方なく僕は先生らしく微笑んでみた。
「『銀河鉄道の夜』は岩手県出身の宮沢賢治が作った代表的なお話だから、みんなにも一度は見て知っておいてほしいんだよ」
「でも栄子は一回見たもん」
「風見は見たっけ?」
「ううん、風見はまだ見てないよ」
 僕の背から期待に満ちた声を発した風見を、姉の栄子はぎろりと睨んだ。
 確かに、まだ小学生の栄子たちにとっては『銀河鉄道の夜』は薄気味の悪い話かもしれない。僕だってその昔夏休みの上映会で見せられて途中で脱落したクチだ。しかし、しかしだ。小さいうちにとりあえず少しでも見ておくと、大人になってから「本当の幸せってなんだっけ」という言葉が頭をよぎるようになったとき、ふとあの青い猫の顔が浮かんだりするものなのだ。
「飛穂(ひすい)ちゃんもまだ見たことないよね」
 背中の風見は、栄子より大きなおにやんまを結んだ糸を握る少女に明るく声をかけた。飛穂と呼ばれた少女は面でもつけているかのように無表情のままこっくり頷く。
「この子は?」
「長常寺のお孫さんの飛穂ちゃんだよ」
「長常寺の、孫?」
 思わず素っ頓狂な声を出してしまった僕を、少女たちはぎょっとしたように見つめた。
「先生、飛穂ちゃんね、ここにはさそりの洞窟見に来たんだって。わたしたち聞いたことないんだけど、先生は知ってる?」
 明らかに動揺してしまった僕の雰囲気を敏感に感じ取ったのだろう。背中から風見がしおからとんぼをわざとらしく振り回しながら無邪気に尋ねる。
「うそじゃないよ。ママが言ったんだもん。さそりの洞窟見に行こうって」
 初めて聞いた飛穂の声は、幼いながらも確かに聞き覚えのあるものだった。
『蠍に刺されたオリオンは、蠍が空に上がってくる夏になると怖がって裏山の洞窟に隠れてしまうんだよ』
 ――祐二先生。
 急くように肋骨の中で暴れはじめた心臓に、勘のいい風見が気づかなければいいと願いながら、僕は忘れかけていた十五年以上も昔の記憶を頭から振り払った。
「オリオンの洞窟なら、昔聞いたことがあったかな。蠍を怖がったオリオンが逃げ込む洞窟が寺の裏山にあるって」
 祐二先生が教えてくれた話。思い出した途端に苦いものが込み上げてきた。ここは日本だ。神話とはいえオリオンが来るわけがない。なのに、あの頃の僕たちにとっては祐二先生の話はどれも真実だった。
「あるの? ほんとにあるの? オリオンの洞窟!」
「オリオンじゃないよ。さそりの洞窟だよ」
 背中で飛び上がる風見に飛穂が小さく抗議する。
「ねぇ、先生、風見行ってみたい、オリオンの洞窟」
「うーん、残念ながら、先生も話に聞いただけで行ったことはないんだ」
 連れて行ってくれると約束したその翌日、先生はいなくなっていた。
「あ、明日にでも探しに行こうなんて絶対思うなよ。あの山、昔迷子になった奴がいるんだからな」
「それってわたしのことかな、タル君」
 釘を刺されてふてくされる栄子たちの頭上を飛び越えて、切なく甘い声が夕べの風にのって流れてきた。顔をあげて確認するまでもない。十年前にこの町を出て行った長常寺の一人娘、羽瑠希。
「他に誰がいる」
 羽瑠希。思わず出そうになった間の抜けた声を飲み込んで、僕は昔のように意地悪い笑みを作って声の主を見上げた。
「先生、飛穂ちゃんのママと知り合いなの?」
「ママ? ……あー、幼馴染って奴だよ」
 栄子のつっこみに、明日のPTA、もとい町中の反応を想像して夕焼け空に視線を泳がせた僕の前では、母と娘が涙の再会をしていた。羽瑠希の足に泣いて飛び縋った飛穂の手からは、せっかく捕まえた大きなおにやんまが白い糸をぶら下げたまま夕焼け空に飛び去っていく。
「あらあら」
 どうやらずっと泣くのを我慢していたらしい羽瑠希の娘は、ひとしきり泣いた後で羽瑠希におぶわれると、おとなしく母の背中に引っ付いて目を閉じた。
「じゃ、行きましょうか。映写機の調子が余りよくなくて、みんな二ツ神先生のこと待ってたのよ」
 すたすたと歩きはじめた羽瑠希は、僕に背を向けたまま言い訳がましくそう言った。僕は、片手で背中の風見を支え、もう片手で栄子の手を取って歩き出す。
「いつ帰ってきたんだ?」
「昨日の夜」
「何、しに?」
 流れのまま、十年ぶりに帰ってきた幼馴染にその理由を尋ねた僕は、一歩しかない羽瑠希の背中との間に計り知れない距離を感じて、慌てて問いを撤回した。
「あ、別にそんなのどうだっていいよな。実家があるんだから、帰ってくるのは当たり前だよな」
「お骨、納めに来たの」
 ぽつりと羽瑠希の口からこぼれ出た言葉に、嫌な予感がして僕は思わず足を止めていた。数歩先に進んでしまった栄子が不満そうに振り返る。
「お骨って……?」
「先生の。祐二先生のお骨。タル君なら覚えているでしょ? 祐二先生のこと」
 羽瑠希は振り向かなかった。どんどん、どんどん先に先にと寺への道を歩いていって、立ち尽くしてしまった僕は、情けないことに栄子に手を引かれていつの間にか上映会場に到着していた。それから映写機のねじを一本締めて、木と木の間に大きな白い布を張って、町長の蘊蓄話を打ち切って上映会を開始して、気がついたら簡易スクリーンの中では青い猫のジョバンニがせっせと薄暗い活版印刷工場で文字を拾っていた。
 祐二先生の、お骨。
 吐き出す息とともに、心の中で反芻した言葉の衝撃を外に出す。
 嫌いになっていたはずだ。約束破りの祐二先生なんか、もう二度と戻ってくるなと、何度も心の中で詰り倒したはずだった。なのに、思いがけず目頭が熱くなってしまった僕は、そっと上映会の会場を抜け出した。そんな僕の後を追って忙しない足音が近づいてきたのは、僕が裏山を見渡せる寺の裏で暗闇を深く吸い込んだ時だった。
「タル君! タル君、どうしよう!」
 振り返ると、ちらちらと揺れる懐中電灯の明かりの中で、羽瑠希が息を切らして立っていた。
「どうした?」
「いないの。飛穂がいないの!」
 青ざめた羽瑠希は、拳を握って小さな声で思いつめた叫びを吐き出した。
「いない? どっかに隠れてるんじゃないか? 押し入れとか」
 一笑した僕に、羽瑠希は大きく首を振った。
「あのね、きっと蠍の洞窟に行ったと思うの。来る時に連れて行くって約束したけど、まだ連れてってなくて」
 僕は震えている羽瑠希の肩を遠慮がちに掴んだ。
「蠍の洞窟って、裏山の? ばかだな。あんな小さな子が道も知らないのに行けるわけ……」
「お願い、一緒に来て」
 腕を掴む力以前に必死な羽瑠希の目に逆らえなくて、僕は真っ暗な寺の裏山に懐中電灯一つ持って踏み込んでいた。羽瑠希はやはり黙々と僕の前を歩きつづけていたが、洞窟に繋がる沢に出た途端、ふと口を開いた。
「さっきの話、びっくりしたでしょ」
「ん? ああ、そりゃあね。祐二先生が亡くなってたなんてさ」
 連絡とってたなら教えてくれればよかったのに。その言葉は口には出さなかった。教えられていても、どうせ僕は先生に拒まれるのが怖くて電話一つかけられなかっただろうから。
「わたしね、ほんとは二度とこの町に足踏み入れるつもりなんてなかったのよ。町中の人たちから軽蔑されてる気がして」
「軽蔑? 羽瑠希を?」
 問い返した僕を、振り返った羽瑠希は哀れむように見つめた。
「タル君は誰よりも祐二先生のことが好きだったね。だからわたし、言えなかった。祐二先生を追いかけて上京するなんて、わたし言えなかった」
 一瞬、僕の頭の中は真っ白になった。
「なん、だって……?」
「祐二先生がいなくなった小六の夏休み、わたし、祐二先生に告白したの。大人と子供だろうって思うかもしれないけど、わたし真剣だった」
 何を、言い出しているんだ? 羽瑠希が祐二先生に告白、したって?
「もちろん先生にはふられたよ。でも、わたし諦めなかった。夏休みの宿題を口実に先生のところに通いつめて、タル君たちが先生をザリガニやカブトムシ採りに誘いに来る度にうんざりしながら付き合って。なのに先生はわたしといるよりもタル君たちと一緒にいる時の方が楽しそうで……だからわたし、隠れたの。先生に気づいてほしくて、先生だけが知っている場所に隠れたの」
 あっという間に口の中がからからに乾いていた。約束を破って僕たちを置きざりにしていった祐二先生のことは許せない。でもそれは、僕たちに大切な思い出を作ってくれた先生だったからだ。
「それって、羽瑠希が裏山で迷子になった時の話、か?」
 結局僕はその時羽瑠希を探し当てられなかった。祐二先生なんて羽瑠希の無事を確かめもせず、翌日町からいなくなっていた。
「ほんとはね、一番に見つけてくれたのは祐二先生だったの。でも、懐中電灯の電池が切れちゃって、山を下りることができなくて」
「じゃあ、どうして先生は捜索隊のみんなと一緒に下りてこなかったんだ?」
 聞きたくない。嫌な予感がする。聞かない方がいいに決まってる。分かっているのに、僕は聞かずにはいられなくなっていた。
「寒いって言ったの。先生、温めてって。でもちょうどそこに捜索隊が来てしまって」
 羽瑠希は小さく溜息をついた。
 僕は初恋の幼馴染を、知らない女を見る気持ちで眺めていた。
「祐二先生ね、半月前に自殺しちゃったの。あの頃はとっても特別に見えていたけど、普通の人だったのよ。町を出て東京の教員試験に合格したまではよかったけれど、大なり小なりいつもわたしとのことで父兄に噂たてられたりしてたみたい。わたしがそれを知ったのはついこの間のことだったんだけどね。十八の春にここを飛び出して、東京案内してって口実作っていろいろ面倒見てもらって……」
「まさか飛穂って……」
 無言のまま頷いた羽瑠希を、僕は絶句したまま見つめ返した。
「わかったでしょ? わたしが帰れない理由。タル君たちから祐二先生を奪っちゃったのもわたし。諦めきれなくて東京まで追いかけて追い詰めて、最後は先生から命まで奪っちゃったのもわたし。わたしが全部、奪ってしまったの」
 ぴたりと羽瑠希は歩みを止めた。その肩が、小刻みに震えはじめる。
「あの人、死ぬ前に飛穂に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の話をしたのよ。死んだ人は電車に乗って星がたくさん輝く空に行くんだって。空には自ら炎となって暗闇を照らす蠍がいるんだって。わたし、何で気づかなかったんだろう。どうして気づいてあげられなかったんだろう。祐二さん、すごく苦しんでたのにどうしてわたし……奪うだけ奪って何もしてあげられなかったんだろう。わたしだけ幸せになって……」
 がくんと力抜けた羽瑠希を、僕は沢に膝が着く前に掬い上げた。
「しっかりしろ、羽瑠希」
「祐二さんのお骨を持って飛穂の手を引いて新幹線に乗って、バスに乗って……飛穂がね、パパとママの故郷はどんなところかって聞くのよ。わたし、一体何を話してあげればいいかわからなくて、一つだけ思い出したの。洞窟で暗闇を恐れるオリオンのために蠍が自ら身を燃やした話」
「だって裏山の洞窟は蠍を恐れたオリオンが隠れたってだけの話だろ?」
「あの晩、先生がわたしだけに教えてくれたの。後悔した蠍と隠れたオリオンの後日談を。そしたらね、飛穂がその洞窟に行けばパパに会えるかもしれないって」
 こんな疲れてやつれ果てた羽瑠希の姿を目にすることになるなんて、あの頃、誰が想像したことだろう。恋に猛進するタイプにはとても見えなかったのに、知らぬ間に母親になってしまっていただなんて。それでも、僕にとっての羽瑠希の魅力は色褪せてはいなかった。むしろ、不思議なくらい愛しさが湧き上がりはじめていた。
 羽瑠希は小さく嗚咽を漏らした後、体を支えていた僕の腕を押し返した。
「飛穂には洞窟に連れて行くって約束したけど、わたし、ほんとはそんなところ行くつもりなんてなかったの。あそこに行ったって思い出が蒸し返されるだけ。この町だってそう。全部わたしが悪いのに、みんなは祐二先生が悪いと思ってる。先生の方が大人だったから、全責任背負わされて町を追い出されたのよ。わたしだって先生がいないと、もうどこにも居場所なんてなくて……だから、だからわたし、ほんとにもうどうしようもなくなったら飛穂連れて……」
 後を追うつもりだった、か。
 僕は押し返された手で静かに羽瑠希の頭を撫でた。
「帰ってくればいい。帰ってこいよ、羽瑠希」
 あの頃の僕は鈍感で、自分の気持ちを天邪鬼に表現するしか能がなくて、それこそ羽瑠希が祐二先生に本気で初恋していたなんて気づくどころか疑ったこともなかった。祐二先生のことだって、僕は先生の時の顔しか知らない。
「祐二先生にはもう答えは聞けないけど、でも、先生が自分を責めてしまったのは許されたかったからじゃないかな。羽瑠希と飛穂と一緒に生きていきたかったから、だから――」
 羽瑠希は張り詰めた目で僕を見上げた。喉に詰まっていた嗚咽は、やがて箍が外れたように咽び泣きに変わっていた。きっと、祐二先生が亡くなってから今まで、まだ一度も泣いていなかったのだろう。
 そこから五分も登っただろうか。重なり合う岩間からほのかに赤い光が漏れ出していて、羽瑠希は迷わずその隙間に滑り込んでいった。僕も後に続き、ぱっと広がった内部の光景に思わず息をのんだ。真っ暗い宇宙に放り出されたかのような暗闇の中、天上天下四方一面に散りばめられた赤い結晶が懐中電灯の灯を受けて蠍の火のごとくゆらゆらと瞬く。飛穂はその中央、父親を探すようにぼんやりと座り込んでいた。
「飛穂!」
 駆け寄って愛娘を抱きしめる羽瑠希の母親らしい姿に、僕は無理やりセピア色に塗りこめていた初恋が色を取り戻していくのを感じていた。いや、これは初恋が蘇ったのとは違うのかもしれない。僕はまた、彼女に恋をはじめようとしているのかもしれない。
 かすかな予感を胸に押し込めて、僕は飛穂をおぶい、羽瑠希と共に山を下りた。
 翌夕方。そろそろ傾いた太陽が銅色の光を山際におさめようかという頃だった。大して寝てもいないだろうに、羽瑠希は片手で飛穂の手を引き、もう片手にスーツケースを引いて町はずれの丘の上にやってきた。
「昨日は本当にありがとう。それから……ごめんなさい。わたし、やっぱり一度飛穂を連れて東京に戻るわ。マンションの荷物の整理もあるし。でも、多分わたし、帰ってくると思う」
 言葉の後に続いた沈黙に期待しそうになる自分を戒めながら、僕は寝不足で赤い目をした羽瑠希に笑って頷いてみせた。
「いつでも帰ってこいよ。待ってるから」
 羽瑠希は泣きそうな表情で僕を見上げ、しかし下から見上げる飛穂の視線に気づいて慌てて口元を引きしめた。
「ありがとう。じゃあ、行くね」
 飛穂の手とスーツケースとを握りなおすと、羽瑠希は颯爽と僕に背を向けて歩き出した。
「行ってらっしゃい。羽瑠希、飛穂」
 君が望むなら、君が歩むその道の先で僕はいつでも君を待っていよう。丘の上に寝転んで、夕凪の空に一番星を探しながら。

D11 夏の夕凪、丘の上に寝転びて星を待つこと
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