作品・作者一覧へ

D09  道案内

 着信音が鳴った。待ち合わせに遅れるという、彼からのメールだった。
 彼とのデートは、いつもこんなのばっかり。待つのはいつも私だ。
 ねえ、今日はどこに寄り道しているの?
 彼を探して彷徨わせた視界の隅を、赤い何かがよぎった気がした。
 

「お姉さん、迷子?」
 頭の後ろから声がして、私は慌てて振り返った。
 急に動いたせいでバランスが崩れて、あ、と思ったときには、尻餅をついていた。
「大丈夫? ごめんなさい、そんなにびっくりするなんて思わなかったんだ」
 目の前に小さな手が差し出される。見上げれば、一人の少年が立っていた。
 制服らしい灰色のズボンに紺色のジャケット。顔立ちが幼いから中学生だろうか。それとも小学生? 身近に十代の男の子なんていないから、良く分からない。
「ねえ、僕と握手するのはいいけどさ、立つの? 立たないの?」
 ぼんやり考えていると、声と一緒に腕が少し強めに引っ張られた。私はようやく立ち上がる。
「どこか打った?」
「ううん、大丈夫」
 言いながらあたりを見回せば、細い路地の周囲にあるのはどれもこれも立派なお屋敷だ。人通りも車もなく、閑静な住宅街というのが一番ふさわしい風景。
「ねえ……。ここは、どこ?」
「覚えてないの?」
「ごめん、ぜんぜん分からない」
 男の子は、呆れたように私を見た。
 ついさっきまで、携帯をいじっていたような気がする。誰かを待っていたような気がする。
 でも、思い出せない。時々何かが心に強く引っかかるのに、その端は捕まえる間もなく逃げていってしまう。
 それどころか。
「私、名前も覚えてない……」
 その言葉には、さすがの男の子もぽかんと口をあけた。
「ウソ、冗談だよね? ホントに何も覚えてないの?!」
 その声の調子に何かが引っかかった。この子は、私のことを知っている。
「ね、何で私ここにいるの? 何か、あったの?」
 掴みかかる勢いで尋ねれば、男の子は困ったように目を伏せた。
「お願い、教えて」
 それでも畳み掛ければ、彼は躊躇いがちに口を開く。
「駅前の広場でさ、僕は部活の待ち合わせしてた。お姉さんも誰かと待ち合わせしてたんじゃないかな? そしたら、いきなり車がつっこんできたんだ」
 車? 瞼の裏に、真っ赤な塊が迫ってくる。頭の奥がズンと痛い。
「……その車って、赤かった?」
 彼は小さく頷いた。そして、赤いスポーツカーだったよと、つぶやいた。
「僕、はねられたんだ。お姉さんも、たぶん。――お姉さん、僕の隣にいたから」
私がすっかり忘れてしまった記憶を、この子はきっと、全部覚えているんだ。
「ごめんね、嫌なこと話させて……」
「いいよ別に。ホントのことだしさ。お姉さんが覚えてないなんて思ってなかったし」
 そうかだから、最初に迷子だなんて言ったのか。
「じゃあ、一緒に駅行こうよ」
「駅に?」
「ここに来たらね、みんな駅に行くんだって。駅で、その人が行く場所を教えてくれるんだって」
 この世界の小さな先輩は、そう教えてくれた。ここは、死後の世界の入り口みたいなものなんだろうか。
「お姉さんは道とか分からないだろうし、一緒に行こう?」
「あなたは、道、わかるの?」
「一回行ってみたから、知ってるよ。だから、僕が連れてってあげる」
 男の子は、私の手を引っ張って歩き出した。
「ねえ、あなた、名前は?」
 私は思いついて尋ねた。
 振り返った男の子は、にんまりと笑って言った。
「内緒! お姉さんの名前が分かったら僕のも教えてあげるよ」

 
 住宅街は延々と続いていた。もう、いくつ交差点を通り過ぎたかもわからない。
 気が動転していたせいでさっきは不思議に思わなかったけれど、そもそも本当に、ここは“死後の世界”なんだろうか。
 町並みはどこにでもありそうで、私の知っている世界との違いなど見つからない。
 風が吹き始めた。陽は暖かいけれど、少し寒い。
 どこからか、薄く色づいた花びらが飛んできた。私より先に気付いた男の子が、嬉しそうに手を伸ばす。
「あ、桜! ここにも桜が咲いてるんだね」
「桜が好きなの? でも、すぐ散っちゃうよ」
「いいよ。毎年咲くじゃん。蕾も咲き始めも、散ってるのも好きだし。夏の葉っぱも秋の落ち葉も好きだもん」
 少し意地悪な気持ちで言った言葉は、あっさりと肯定されてしまった。
 恥ずかしくなって逸らした視界の隅を、黄色がよぎる。生垣の上を、蝶が飛んでいた。風に流されているのか右に左に揺れながら、こちらに近づいてくる。
 蝶までいるなんて、ますますここは現実みたいだ。
 そういえば、街に蝶って合わないねと言った私に、コンクリートとアスファルトばっかりだってちゃんと生きていけるんだと、そう教えてくれたのは、誰だっただろう。
「ねえ、あの蝶、なんていう種類だっけ」
「知らないよ、蝶なんてどれも一緒じゃん」
 男の子に聞けば、驚くほど固い声が返ってきた。
「蝶は嫌い?」
「気持ち悪いじゃん。大嫌い」
 そういって近づいてきた蝶から逃げるように、私を軸にしてぐるりと移動する。
「次の角、右だから。大通りに出たら、駅まですぐだよ」
 そう不機嫌そうに言うと、彼は後ろも見ないで歩き出した。交差点の右手は、緩く下り坂が続いている。今まで気付かなかったけれど、この町は丘の上にでもあるらしい。
 正面に視線を戻せば、少し向こうに緑に覆われた小山が見えた。木々の間から、朱色の鳥居が覗いていた。お社でもあるんだろうか。
「置いてくよ!」
 怒鳴られて、私は慌てて男の子の背中を追いかけた。角を曲がるときに振り返ってみたが、蝶はもう何処かへ消えていた。

 たどりついた大通りには人が溢れていた。
 これが皆、死んだ人だなんて。私は呆然と、一つの方向へと進む流れを見つめた。
 皆、顔色が悪い。俯き加減に歩く姿には、どことなく覇気がない。そして、通りを埋め尽くすほどの人がいるにも関わらず、あたりはささやき声さえ聞きとれてしまいそうな静けさだった。
 やっぱりここは、私の知っている世界じゃない――。
 私の困惑など知らない男の子は、小さな体を上手くいかしてすいすいと人混みをぬっていく。手をつないだ私は、それにひっぱられて進んだ。
 ふっと視線を動かすと、すぐそばに杖をついたおばあさんがいた。立ち止まっているわけではないけれど、その歩みは周りに比べて極端に遅い。
 私は危うくおばあさんの横をすり抜けた。
「ぼーっとしてちゃダメだよ! 少しは自分で歩かなきゃ」
 男の子が呆れたように注意してくる。
 誰か別の人が前、同じことを言っていた気がした。
 あれは、誰だったのだろう?
 直後、腕を引かれて我に返った。おぼろげな記憶は、また消えてしまった。
「疲れたんだね。顔色悪いもん。あそこで少し休もう」
 男の子が指さす先に、古びたベンチが見えた。道を斜めに横切る私たちを、足早に歩くビジネスマン風の男性が迷惑そうにかわしていく。
「なんか飲み物があるか探してくるから、座っててよ」
 いいよと止めるまもなく、小さな背中は人混みに紛れたてしまった。
 ベンチの端に、遠慮がちに腰掛ける。ふっと息をついたら、一緒に体の力も抜けてしまった。
 あの時、携帯をいじっていたような気がする。誰かを待っていたような気がする。
 でも、思い出せない。時々何かが心に強く引っかかるのに、その端は捕まえる間もなく逃げていってしまう。私はこのまま、誰のことも思い出せないままなんだろうか。
 俯くと、膝の上に薄黄色の蝶がいた。
 きっと、さっきのあの蝶だ。なんとなくだけれど、そんな気がした。
 蝶は、差し出した指先にためらいなく乗ってきた。わずかな重みがくすぐったい。
「ダメだよ!」
 いきなり、尖った声が乱入した。
 男の子が、険しい顔をして立っていた。
 駆け寄ってきた男の子は私の手首を掴み、乱暴に引っ張った。加減のない力が私を無理矢理に立ち上がらせる。
 私の指に乗っていた蝶は、いつの間にか飛び立っていた。
 あ、と思ったときには、男の子が怒声をあげて拳を振り上げていた。
「お前なんか邪魔だ! お姉さんは僕と一緒に行くんだ!!」
 恐ろしい顔をした男の子が蝶を睨みつけている。その表情の険しさに、私は怖くなった。思わず逃げるように腕を振った。
「ねえ、痛いよ。離して」
 私が抵抗したことに、彼は驚いたようだった。顔つきがより険しくなる。
「僕と一緒に行くんだよね、置いていったりしないよね?!」
 怖かった。それでも私は、まっすぐに男の子の顔を見つめた。どうしてか、彼の顔が泣き顔にみえたからだ。
「大丈夫、置いていったりしないよ」
 男の子は、はっと息を呑んだ。私から逃げるように顔を伏せる。
「――ごめんなさい」
 唇を噛んだ男の子の大きな瞳から、涙があふれ出した。
「お姉さんを見つけた時、僕、一人じゃなくてよかったって、そう思ったんだ」
「私があなたでも、きっとそう思うよ」
「違う、違う」
 男の子は、強く首を振った。
「お姉さんは駅に行かなくていいんだ。だって、お姉さんは死んでないはずだから」
「ちょっと待って、どういう意味?!」
 思わず大きな声が出る。男の子は、あ、と慌てて言葉を継いだ。
「こっちで最初にあった人が教えてくれたんだ。本当は死んでないけど、間違って来ちゃう人もいるんだって。その人にはちゃんと迎えが来るんだって」
「迎え? そんなの私、知らないよ」
「ほら、そこにいるじゃない」
 その言葉に呼ばれたように、黄色い蝶がひらりと舞った。
「きっとこの蝶が印だよ。お姉さんから離れないもの。家族か友達か、蝶が好きな人はいない? 迎えの印は、そういう身近な人の気持ちなんだって」
 ああそうか。私はやっぱりこの蝶を知ってる。
 いい年をして、虫や花ばかり追い回してる人。デートだって、珍しい蝶が飛んでたなんて理由で遅刻するような人。
 それなのに、何があっても絶対迎えに行くって胸を張っていた人。
「そうね、うん、私、知ってる」
 男の子が、嬉しそうな、それでいて泣き出しそうな、そんな顔になった。
「最初に見たとき、僕、蝶がお姉さんの迎えだってわかったんだ。なのに、ここまで連れてきちゃった。一人がこわかったんだ。――ごめんなさい」
「いいよ、誰だって怖いもの」 
 蝶が駅と反対の方へと動いた。そしてすぐに目の前まで戻ってくる。私を呼んでいるみたいだ。
「その蝶についていけばいいよ。ちゃんと帰れるはずだから」
 涙の後を袖で拭った男の子が、私を急かした。
「ほら、早く」
「君は――君はどうするの?」
「僕? 駅に行くよ。これ以上迷惑かけれないもん」
 俯いて言う言葉が強がりだと、気付かないわけがない。私は今にも消えそうな彼の手を、強く握った。
「じゃあさ、途中まででいいからついてきてよ。私方向音痴なんだもん。また迷子になっちゃう」
 とても残酷なことを言った自覚はあった。けれど男の子は、頷いてくれた。
「――いいよ、僕が連れ回したんだもんね。ちゃんと送ってくよ」
 私たちはまた、手を繋いで歩き始めた。

 人の流れに逆らうのに疲れた頃、蝶はふっと脇道にそれた。アスファルトから石畳になった小道が、古い木造家屋の軒先をぬうようにして上へ上へと伸びていた。
 蝶に案内されるまま、私たちは急な坂道を上っていった。
 その間中、男の子はいろんな話をしてくれた。入学したなかりの中学校のこと、新しくできた友達のこと、甘えんぼうの妹のこと。
「さくらはさ、いっつも僕のあとばっかりついてくるんだ。パパもママも僕には一人でやりなさい、って言うのに。甘えただよね。そうじゃなくてもさくらばっかり可愛がられてるのにさ」
 息切れした私の分まで、彼はしゃべり続けた。
 さくらという名前の妹が可愛くて仕方がないらしい。両親が小さな妹ばかりを構うことで少し寂しがりになっているようだけれど。でも本当は、妹に冷たくあたっていたのを後悔しているんだ。
 蝶は疲れも知らぬように飛んでいる。だらだらとした坂道は、いつの間にかでこぼこの石段に変わっていた。
「神社だ」
 男の子の声に顔を上げれば、家の屋根の隙間に朱塗りの鳥居が顔をのぞかせていた。
 私を引っ張って、男の子はどんどん登っていく。私も、小走りで階段をかけあがった。
 突然、視界が開けた。目の前に朱塗りの鳥居。その向こうの境内には、満開の桜の木が見えた。
 蝶が鳥居をくぐり、そこでかき消えた。
「ほら、やっぱり。ここから戻れるんだ」
 立ちすくむ私の腕を揺すって、男の子は自分のことのように笑った。それは、とても悲しい笑顔だった。
「僕のわがままに巻き込んじゃってごめんなさい。もし、――もし僕の家族にあったら、ごめんなさいって伝えてくれる?」
 突然強い風が吹いた。境内を染めていた桜の花びらが波打つように舞い上がり、私たちの周りで渦をまく。
「きれいだね!」
 無理をするように歓声を上げる彼の周りに、花びらが集まっていく。
 なんだ、そういうことか――。突然ひらめいた考えに、私は泣きたくなるくらいの安堵を覚えた。
「桜はきっと、君を迎えにきたのね」
 男の子は目を丸くして、力いっぱい首を振った。
「違うよ、僕は違うよ」
「なんで? 身近な人の気持ちが迎えにくるんだっていってたじゃない。この桜はきっとさくらちゃんだよ。さくらちゃんはまだ小さいから、遠くまで迎えにいけなかっただけだよ」
「ホントかな。さくらが迎えにきてくれたのかな。僕も――僕も、帰れるかな?」
「そうだよ、だってさくらちゃんのこと大好きでしょ? 気持ちは伝わってるよ。だから、大好きなお兄ちゃんを迎えに来てくれたんだよ」
 正直いって、確信があったわけじゃない。それだけはなぜか、信じられた。
 一緒に帰ろう。今度は私が手を引く番だ。
 彼は今度こそ本当の笑顔で、頷いた。
「帰れたら僕、ちゃんとさくらに優しくするよ。それから、迎えに来てくれてありがとうって、ちゃんと言うんだ」
 二人揃って一歩を踏み出す。二歩目で大きく息を吸って、三歩目で鳥居をくぐる。四歩目の足は地面に着かなかった。
 体のまわりを虹色の光が通り過ぎていった。落ちている、そんな感覚はあった。でも、不思議と怖いと思わなかった。
「今度あえたら、名前教えてね!」
 男の子が叫んでいる。叫ばないと聞こえないくらいに、風が唸っていた。
 固く握っていたはずの手がほどけていく。ありがとうの声は切れ切れにしか聞こえない。
「またね! きっと会いにいく!」
 私の声が届いたかどうか、男の子の姿はあっと言う間に見えなくなった。
 一人になった私は、両手を広げた。風を抱き込むように落ちていく。
 虹色の雲をくぐるたび、忘れていた記憶が戻ってきた。自分の名前、家族の名前。一つ一つ捕まえていく。遅刻魔の彼の名前も、思い出した。
 いつのまにか姿をみせた黄色い蝶が誘うように目の前を横切っていく。
「私は、ここよ!」
 伸ばした手が何かに触れて、がくんと引っ張られた。音と匂いと身体の重さと、いろんなものがいっぺんに押し寄せてくる。
 規則正しい電子音と、きつい消毒液の匂い。
 戻ってきた――。
 視線を動かせば、枕元に座って号泣している彼の姿があった。
「ただいま。迎えに来てくれて、ありがと。でもあんまり遅刻しないでね?」
 かすれてた声でそう言えば、彼は私の手をぎゅっと握ったまま、泣き笑いみたいな顔で何度も頷いてくれた。
 あの男の子に、きっと会いに行こう。そして、ちゃんと名前を教えてもらわなきゃ。

 彼の身体越しに見える窓の向こうには、満開の桜が咲いていた。

D09  道案内
作品・作者一覧へ

inserted by FC2 system