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D08 御堂関白の御犬を可愛がる事

 薄闇とでも言うのだろうか。
 全体に境がぼんやりとしていて、どこかもやが掛かっているようで、はっきりとしない。
 暗い。
 だが、明るい。
 降っているか降っていないのかわからないほどの霧雨の中をじっと佇んでいるうちに、衣の袖がしっとりと濡れゆくように、いつの間にかこの薄闇に捕らわれていた。
 露を含んだような重い空気が身体へ絡みつく。
 ぐるりとあたりを見回す。
 ここは、どこだろう。
 踏みしめる大地の危うさを気にしながらも、先へ進む。そちらから光が洩れている。
 だからここが真の闇でなく、薄く仄かに、辛うじて自分が自分の形をしていることを確認できるのだ。
 しかし、光は小さく穿たれた隙間から洩れゆくのではない。そちらが、全体的に淡く光を放っている。
 その奇妙さに不安を抱くでもなく、彼は歩いていた。
 と、匂いがした。
 良い香りではない。物が焦げた、木が焼けた匂いだ。
 不安を誘う臭いだ。
 光の中に人がいる。男だ。そして、鼠や犬や蛙や蜘蛛といった獣や虫が。
「だからといって、なぜ我が屋敷に」
 男は、烏帽子を被らずに、長い髪を垂らしたままであった。
 木賊とくさの狩衣が、似合っている。
 燈台の灯りがちらちらと男の顔を照らす。その陰影によって、三十より若く見えたり、反対に五十、六十と老け込んで見える。
 だが常に、脇息に身体を預け穏やかな言い回しで、口元には微かに笑みがある。決して怒っているようには聞こえない。
 なのに、何故かこちらまで不安になる。
 彼が吐く呼吸いきに合わせ、自分の肩が上下に揺れる。それは男の周りに在る彼らも同じだった。
 鼠が、一歩前に出る。
あるじに言われた通り、屋敷の護りを怠りなどしてはいませぬ」
 左右に伸びるひげが細かく震えるのは、怯えか、怒りか。
 蜘蛛がかさかさと足を動かし顔を拭う。
「犬でございます」
「そう、犬が」
「犬が?」
 男の言葉に犬は目に見えて縮こまった。後ろ姿しか見えぬが、白く綺麗な毛並みで、尻尾を後ろ足の間に入れて項垂うなだれている。
「お前が?」
 男が再度問うた。
「吠えました」
「犬が吠えたか」
 そこで初めて、男の呼吸いきが乱れる。ふっ、と鋭く漏らす。笑っているようだ。
「犬が吠えれば、雷が落ちる。古来よりの約束事だ。よりにもよって雷公の一振りとなれば、流石の我が屋敷もたまらぬわ」
 蛙が犬へ詰め寄る。
「おまえのせいで我らの苦労も水の泡じゃ」
「ですが、我は主の言いつけを守ったまで」
「私の言いつけ?」
「はい。の男の身に異変がないように、と」
「嗚呼、あれか」
 始め怪訝な顔をしていた男が、犬の言い訳に意を得たりと頷いた。
「確かに、言ったなあ。だが、私というよりもあれは保憲様の言葉なんだが……そうか、あの雷は右大将の屋敷に落ちるところだったのか」
「えっ?」
 光の中の彼らの話をじっと聞き耳立てていたが、そこで父の話が出て思わず声を上げる。
 すると、男の周りに在ったモノたちが一斉にこちらを振り返った。
「人の臭いがする」
「ああ。の子の臭いだ」
「こちらぞ」
「こちらにおるぞ」
 ぞろぞろと、足並みを揃えて迫るそれらが恐ろしく、後ろへ逃れようとする。
 が、背に何かが当たった。そのまま上を向けば、先ほどまで円座わろうだの上にいたはずの男の顔があった。
「名は?」
 先ほどと同じような微かな笑みを浮かべて、男が問う。
「み……」
 勢いに圧され答えかけて危うく言葉を飲み込む。
「お主のような者に、そうそう名をくれてやるわけにはいかぬ」
「惜しい」
「あと少しであったものを」
「ほんに、惜しい」
 彼の足下で騒ぎ立てるモノたちを、男は五月蝿いと追いやる。そのまま彼を見て、ふうんと漏らす。そして横を通り過ぎ、元の円座の上へ戻った。
 いつの間にか彼らとの距離が近づいている。
「さて、どうしようか」
 男は白い犬に目をやった。自然、彼も同じものを見る。ちょうど犬もこちらを見ていて、目が合う。
「罰を」
「橋の下に戻してしまわれるがよいかと」
「おまえの顔などもう見たくないわ」
「主は保憲様の言葉にはい、と応えた。我は主のそれに応えただけ。今際いまわきわの約束を違えんがため」
 皆が責める中を、小さな声で反論する。
 話には聞いていた。陰陽頭であった賀茂保憲が先日亡くなられたと。そして、この男が何者かもようやく確信した。周りに仕えるのが式であることも。そういったものを使うという話を、先日兄より聞いたばかりだ。
「雷を避けることもできぬのかと、宮中でたいそう噂になっていてな、私の面目は丸つぶれだ。もう少しやりようがあっただろう」
「とっさのことにて、申し訳ございません」
 さらに深く頭を垂れる犬に、蛙と蜘蛛が罵りの言葉を投げる。
「罰を」
「この面汚しが」
「犬めなど、消してしまうがよろしいかと」
 鼠の言葉に初めて犬が顔を上げた。
「それは……」
「消えるか?」
 最初からまったく変わらぬ表情で男が問う。
 犬は、何も言わずにあった。
「待たれよ」
 反射的に洩れた言葉に、自分自身が一番驚いている。
「なんじゃ男の子よ。主が見逃したというに、まだおったのか?」
「早う帰らねば戻れぬぞ」
「そうじゃ去ね去ね。帰って乳母の乳でも吸うておるがよい」
 式たちの中にあって、男は好奇の目で彼を見ている。視線が絡む。だがやはり、男から問うてくることはない。
 誰もが彼の次の言葉を待っていた。 
「その、犬を、消してしまうのか?」
「さあ、どうしてくれよう」
 男は面白そうに彼と犬を交互に眺める。
「そなたが、要らぬと言うならば」
「ならば?」
「私がもらい受ける」
 鼠が尻尾を立てて嗤う。
「何を言い出すかと思えば、可笑おかしなことよ」
 蜘蛛が八本の足を交互に踏みしめる。
「貴族のわらわが式神を使うと言うのか」
 蛙がげこげこと喉を鳴らす。
「可笑しや」
 そんな中、犬だけがじっとこちらを見ていた。
「式を譲れと?」
「譲れなどとは言っておらぬ。ただ、消えろ、要らぬと申されるのなら、私が連れ帰ってもよかろう。我が屋敷、我が命を救うてくれた功労者じゃ」
「あいや、判った。そうか右大将の倅か」
「長男次男はすでに元服を済ませていたはず。こんな童直衣わらわのうしではなかろう」
「三男も違うぞ。あれも二年ほど前に終わっておる」
「では四男か」
「出世を望めぬ四男か」
 言われていることは確かに本当であった。彼自身も常に思っていることである。だからといって言われ続けることに慣れているわけではない。
 己の顔が朱に染まっていくのが判る。
「だが、かおは良い」
 ざわつく式たちがぴたりと口を閉じた。
「良い相をしている」
 そんな風に言われたのは初めてだった。
「よし、こうしよう」
 男は脇息から身を起こす。
「おまえにそれを貸してやろう」
「貸す、とは」
「言葉の通りだ。おまえの元へ犬を貸してやる」
 意図が読めない。
「私には返すものがない」
「言ったろ。おまえは良い相をしている。今に出世するぞ」
 ふっ、と呼吸いきが洩れる。
「上がつかえているのに?」
「この私の言葉を信じられぬか」
 黙る。
 稀代の陰陽師と名高いこの男の言葉。そして、それ以上に、腹に何を抱えているか判らぬ御仁と聞く。
「だが、何を返す? 富か? 名誉か? そんなものに興味があるようには見えぬ」
「童が言うわ。だが、その通り。そんなものどうでも良い。ただ、世の中は面白い方が良い」
「私が世に出れば面白くなると?」
「さあ」
 最初はなから判っていることだが、食えない男だ。
「それで、犬はいるのか? いらないのか?」
「いる」
 即答する。
「では名前を付けよ」
「名前?」
「ああ。それでおまえの犬になる。おまえの手元に届くまでには少し時間は掛かろうが、次に会ったときその名前が証となろう」
 犬が、目の前に座る。そして真っ直ぐに彼を見つめた。
 一点の曇りもない真っ白な毛並み。彼の好きな季節である冬の雪のような白さ。
雪丸ゆきまろと」
 犬が吠える。
「では雪丸、新しい主をうつつまで案内あないせよ。離れずについて行け。闇の中もその白さなら見失うこともなかろう」
 男は帰って行く彼らに向かってまた、微かに笑う。
「私も楽しませてもらおう。これからおまえがたどる長き道を。長く、波乱に充ち満ちたその生を」


「そろそろご出立のお時間かと」
 御簾みすの向こうから声がする。
「ああ。ゆこう」
 現在建築中の阿弥陀堂を見みようと車の手配をさせていたのだ。つい、寝入ってしまった。そのほんの少しの間に、たいそう懐かしい夢を見た。
 すだれの隙間から時折外を眺め、ふっ、と笑う。
 あの男は満足したのだろうか。
 いつの間にか住み着いた雪丸を見るたびに、夢を思い出す。いや、夢ではなかった。あれは現だ。
 と、牛車が止まった。雪丸が吠えている。
「どうした?」
「車の前に」
 家人けにんの言葉に外へ出る。いつもは穏やかな雪丸が吠え続けている。
「どうした雪丸」
 もう門の所まで来ている。あまりに吠えるので、牛も怯えて進もうとしなかった。
「何が不満だというのだ。さあ、ゆこう」
 気をそらそうと先へ進む。だが、すると今度は裾を掴んで離さない。
「雪丸、何があった」
 門へ背を向けると、白い犬は吠えるのを止めた。
「そうか。……しじを持て」
 家人が彼の前に置いた搨へ腰掛けると、次なる命令を出す。
「晴明を呼べ」
 借りが増える。
 だが、あの男はいつものように薄く笑うだけだろう。富も、名誉も、あの男にとっては後から付随してくるものでしかない。
「おまえにはまた助けられた」
 首の周りをかいてやると、犬は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
 頭の上を季節外れの蝶がひらひらと舞っている。
「解っている。お主が来るまで手は出さぬ」
 蝶はその言葉に満足してか、雪丸の鼻先に優雅に止まる。
 これまでも長き道のりを経て来たが、あとどのくらいそれが残っているのかは判らない。
「楽しいか? 晴明」
門の向こうに見えるのは、我が人生の終着点か、それとも、栄華の名残か。
 輝く金色の道が延びるのは、過去うしろ未来まえか。
「私は、楽しいぞ」

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