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D07  坂道の効果に関する最新知見 〜女性研究者を対象として〜

 カードをかざすと、ドアが音もなく壁に収納されていく。部屋に踏み込んでから振り返れば、いつの間にかドアは元通りに閉じていた。いつ見ても最先端のシステムには驚かされる。
 中では、疲れ切った様子の女性が一人、デスクに向かっていた。見慣れた光景、普段とそう変わらぬ彼女の姿のように感じる。
「あいかわらずだね」
「ああ、グロットか」
 ベルルックはおれの声で初めて俺の存在に気付いたようだ。大儀そうに片手を上げ、気だるげに応じた。
 幼なじみに対する挨拶にしてはあまりにひどい。扱いの悪さを抗議しようかと顔をしかめたおれは、ベルルックの姿を見て出かかった言葉を飲み込んだ。
 まるで覇気がない。もともと小柄な彼女の体はさらに小さくなったようだ。ゆっくりと上げた彼女の顔色はあまりに青かった。目の下にはくっきりとくまが浮かんでいる。
 おれとベルルックは何の因果か、生まれた病院から学校、果ては仕事までが一緒。
 しかし、二人とも研究員という肩書きをもらっているものの、これまでの経歴はまさに天と地。もちろん彼女が天だ。ベルルックは驚異的な速さで我が所の稼ぎ頭となり、今では研究成果や論文数など、おれとは比べるべくもない。昔から成績優秀だった彼女の能力は遺憾なく発揮されており、本人もその楽しさややりがいをいたく気に入っていた。
 それが、ここしばらく、調子が悪いらしい。そう聞いてご機嫌をうかがいに来たわけだが、これは思っていたよりも重症かもしれない。
 結局、おれの口からは無難なせりふしか生まれなかった。
「今度は、もう少し早く気付いてよ」
「悪い。やや、疲れているらしい」
「かなり疲れてる、んだよ」
「ん?」
「だって見るからに辛そうだし」
「ん」
 表情に乏しい顔で首を縦に動かし、微妙にニュアンスを変えて同じ音を繰り返す。
「研究、行き詰まってるわけだね?」
「そのようだ」
 ベルルックは他人ごとのようにつぶやくと、椅子に深く沈んだ。
 初めてぶち当たるであろう壁を前にもがく姿は、痛々しかった。
 伸ばしっぱなしの長い髪をまとめる努力は放棄したものと見える。足下のサンダルのベルトは切れかかっているし、よれよれの服はこの前会ったときと同じもの。ベルルックが身なりに気を使わないのは確かにいつものことだが、ここまでひどくはなかったはずだ。
 ならば、と、つとめて明るく能天気に、おれは持ちかける。
「ちょっと息抜きしない? 少し時間貸してくれないかな」
「そんな気分じゃない」
「だから、その気分を転換しようって言ってるんだよ」
「それは一理ある」
 彼女は唇をまるで引きつらせたように歪めてみせた。笑ったつもりなのだろうが、とてもそうは見えない。
「坂道、って聞いたことはある?」
「知らないな」
「そうだろうね」
 うなずいたおれに、ベルルックはややむっとした様子だった。国内屈指の研究者という自負があるだけに、彼女は、他人は知っているが自分が知らない物事にはえらく敏感だ。未知の情報への食いつきがすこぶるいい。だからこそこういう釣り方、いや話の振り方ができる。
「で、何だ。さかみち、とは」
「道がね、こう」
 そう言いながら、右手を、左上から右下へ大きく動かす。
「斜めになってるんだよ」
「意味が分からない」
「しゃべってるよりさ。実際、研究室に作ってみたんだけど、どう?」
 ベルルックは無言で立ち上がると、おれの先に立って部屋を出る。
 たとえ口を尖らせていても、それまで表情がほぼ皆無だったベルルックの瞳が輝きだしたことが、おれには嬉しかった。

 おれが籍を置く研究室、こっちの棟は旧式のセキュリティが標準で、彼女がいる建物と比べるとかなり見劣りがする。ロックの解除にはやや時間がかかるので、ベルルックと何気ない立ち話をしながら間を持たせる。
「今は、過去の絵図を解いてるんだ」
「そっちは順調そうで、結構だな」
「いいや、進みは微々たるものさ。きみが早すぎるんだよ」
「普通だが」
 暗に休めと言ったつもりだったのに、全然通じていない。彼女はいつもそうだった。これまで、この鈍感さに何度痛い目を見、そしてある意味では助けられてきたことだろう。だからこそ、おれの立ち直りも早い。
「昔は、この辺の土地もずいぶんデコボコしてたらしいよ。地形が劇的に変わったのは、やはり先の大戦によるところが大きいみたいだね」
 おれの専門は古代史だ。
 おれ達の住む大陸の特徴は、まるで均したかのようにまっ平らなことだ。
 調べたところによると、この世界はもともと起伏に富んだ地形だったらしい。つまり坂道は、大昔にはこの世界のどんなところでも見ることができたのだ。しかしそれが、過去の大きな天災や人災により、今のようなだだっ広い平野に姿を変えたことが分かった。
「先人たちも、ずいぶんと余計なことをしてくれたものだ」
 吐き捨てるように、ベルルックは言った。おれは、穏やかならぬ発言を慌てて返す。
「はっきり言い過ぎだよ」
「言うべきだろう? 大地は尊い財産だ。人間の都合で、軽々しくえぐったりしていいものではない。少なくとも私は、常にそう頭に置いて仕事をしている」
 ベルルックの、研究者としてのスタンスが見えた言葉だった。
 彼女の専攻は都市工学。彼女はある種の正義感を持って、おれ達の住む、どこまでも平らな国土の効率的な利用方法を考え続けている。
 そんな彼女でさえも知らない、坂道。
 それはそうだ。おれ以外にこのことを知っているのは、おそらく、おれと一緒に古い文献に当たってくれた同僚達ぐらいなのだから。これでおれの株も少しは上がるだろうかと、ほんのひとしずく程度の下心を抑えながら、ようやく開いた扉の向こうを手で示す。
「これが、坂道だよ」
 研究室の真ん中にどっしりと鎮座する『坂道』の実物大モデル。気分転換と言って連れ出したわりには大げさな舞台装置だと、我ながら思う。設置スペースは、同室のみんなの了解を得て、デスクを部屋の隅に寄せてひねり出した。
 坂という部分だけをこうして切り取ると違和感はあるが、実際に周囲の景観も含めて見てみると、なかなかどうして、自然な地形に無理せず合わせた美しい形なのだ。向かって右手側はだらだらと長く、傾きが小さい。一方、左手側は登るのが少々大変そうな急傾斜。上から覗き込めば、吸い込まれそうなくらいの角度だろう。
 そのスケールに驚いたのか、初めて目にする坂道自体がインパクトがあったからなのか、さすがのベルルックも部屋の入り口で足を止めていた。
「すごいな。なるほど、斜めだ」
 ベルルックの顔が今日初めて緩んだ。
「だろ? 実在したやつをそのまま作ってみたんだよ。昔は、こういう坂を駆使して街が作られてた。土の下にも上にも、そして空にまで道が続いてたんだ。空中や地下で道路が交差したりとかね。限られた陸地を合理的に使う、うまい方法だと思うよ。昔の人たちはすごかったんだね」
 そんな説明の間にも、彼女は坂を見上げてみたり、傾斜に合わせて顔を傾けてみたりと落ち着きがない。いろいろと苦労して作り上げたかいあって、ベルルックからはそれに見合った反応はもらえそうだった。
「わずかな昔の資料から、当時の様子を推測できたんだ。でも、いちばん骨が折れたのは、アスファルトとかいう旧時代の舗装材を手に入れることだったかな。他の部分に使う資材は現代のものでも代用できるんだけど、走ったとき足が押し返されるようなあの感触を得るためには、それがどうしても必要で」
「まるで見てきたような口振りだな、グロット」
 雲行きが怪しいぞ、と思ったときにはすでに遅かった。
「まさか、過去で見てきたとは言うまいな?」
 ベルルックから核心をつく言葉が飛び出してきて、おれは思わず彼女から目をそらした。しかし、そんなことで追求が止むはずもない。たちまち硬い表情に逆戻りして、彼女はまくしたてた。
「時間を飛ぶのは法律違反だろう? だいたい、今となってはほんの数点しか現存しないような古文書から、これほど精密な復元ができるわけがなかったな。もっと早く気付くべきだった。これは問題だぞ、グロット」
 過去へ行ったのは確かに事実で、反省はしている。しかし、言い訳になるが、歴史を操作するようなことはしていないし、そうするつもりもまったくなかった。まあ、あの場に居合わせた人たちからは、坂を何度も上り下りする怪しい人物、とは思われたかもしれないが。
「ちょっとくらい悪いことをしてでも、これを作りたかったのさ」
「研究とはいえ、そこまでする気持ちは理解できかねるな」
 ベルルックは不審げにおれを見返し、ため息を一つついた。
 彼女に坂道を見せたいという一心だったのだが、案の定通じてない。もっとも、研究のためじゃないと言ったとしても、こちらの本当の意図をくみ取ってはくれないだろう。
 だからといってすぐにフォローのための名言が浮かぶわけもない。おれはとりあえず、当初の目的を果たすことにした。
「責めは後で負うよ。さて、じゃあいちばん上まで行ってくれる?」
「どうしてだ?」
「坂道の最大の効用を、きみに教えたいんだ」
 まだ不満そうなベルルックを、騙されたと思って、とうながし、右手側、つまりなだらかな方から登らせた。渋々ながらにも思えたが、ふらつく足で、それでも彼女は頂に立ってくれた。下で待つおれを見下ろし、「次はどうするんだ」と尋ねてくる。
「こっちに、走って下りてきて欲しい。全力で」
 勾配の大きい左側の坂の下から、おれは声を掛けた。彼女は一度その傾斜を確認したのち、首を振った。あいかわらず青白い顔には、らしくない薄笑いが浮かんでいた。
「駄目だ。無理に決まっている。きっと、足がもつれて無様に転ぶだけだ。今のわたしには、できない。できる気がしない」
 ベルルックは消え入りそうな声で呟くと、深くうつむいた。束ねられていない髪の毛が揺れて、彼女の表情を隠してしまう。しかし、ベルルックの肩が震えているのは、下にいるおれのところからでさえも見て取れた。
 気分転換だなんて、軽い言葉で済ませられるような状態ではなかったのだろうか。彼女の心は、おれの思いつきなんか何の役にも立たないくらいに疲弊しきっていたのではないのか? 回復なんか見込めないほど、ぼろぼろだったんじゃないのか?
 おれがもっと頼りになったなら。ベルルックを支えることができるような存在であったならと、おれは唇を噛んだ。
 坂道の復元は、しがない研究員であるおれにできる精一杯だった。過去に行くという思い切ったことができたのも、彼女のことを思えばこそだったのだ。例えレベルが違ったとしても、同じく研究で食っているベルルックなら、おれが坂道に掛けた思いは伝わるはずなのに。
 おれは首を思い切り上に曲げ、叫んだ。
「好きなものに向かって突っ走って行くベルルックがいいんだ。転んだって胸張って、さっそうと風を切ってくきみが!」
 息が足りなくなり、深呼吸。そこまでしか言えない自分の臆病さを呪いながら、おれはその場にへたり込んだ。

 しばらくの沈黙ののち、カサ、という衣擦れで、おれは我に返った。坂の上では、ベルルックがわずかに体を起こしたところだった。ゆっくりと立ち上がり、よれよれの服の袖で目元を乱暴に拭う。そして、下り坂の先にいるおれを見据え、顎を引き、叫んだ。
「そんなに言うならよく見ていろ、グロット!」
 次の瞬間、ベルルックは何の前触れもなく飛び出してきた。急な坂道を、一気に駆け下りる。彼女の体に見合った軽い軽い足音に合わせて、髪がなびいた。そんな中でも、力強さがにじむ鋭い視線が、おれを真っ直ぐに捉えていた。
「だめだよ、ちゃんと足下を見ないと!」
 おれと目が合った瞬間、案の定、彼女は転んだ。きゃあとか何とか、意外に可愛らしい悲鳴を上げながら、ベルルックは坂を文字通り転がり落ちてくる。とっさに落下地点へと動いたおれにぶつかりながら、彼女はおれもろとも研究室の硬い床へと倒れ込んだ。
「ベ、ベルルック?」
「は、はは、はははははは」
 返事の代わりに飛び出したのは笑いだった。いかにも楽しげな感情が乗った、からりと乾いた声だった。
 通常、声を出して笑うことなどめったにないベルルックのけたたましい声に、変なところを打ちでもしたのかと思ったが、心配は無用だった。ひとしきり笑って満足したのか、彼女は突然真顔に戻り、けろりとして言う。
「道を斜めにするとは斬新だ」
「斬新、って。古い文献に載ってたんだよ」
「新しいさ。気鋭の研究者である私が言うのだから、間違いない。道が傾いていてもいいなど、私の中にはそんな常識はなかった」
 言い切ると、片頬だけを動かしてにやりと笑う。
「それに、爽快だ。実に爽快だな。すばらしく気分がいい。これがお前の言う、坂道の効用か?」
 泣いて転んだのが功を奏したのか、はたまた思い切り笑ったからなのか。彼女は何か吹っ切れたような表情で、早口で続けた。自信に満ちあふれた調子は本来のベルルックらしい喋りだ。
 思惑通りの展開になって本当に良かったと、おれは胸をなで下ろした。過去に飛んだおれがいちばん感銘を受けたのが、初めて坂道を駆け下りたときの妙な高揚感だった。あの鼓動の高鳴りを彼女にも味わって欲しい、という目標は、どうやら達成されたようだ。
「その顔を見ると、少しはすっきりしたのかな?」
「うむ。その、何だ。一応、感謝はしている。いいや、一応ではなく、多分にな。しかし、法律違反の件と相殺で借りはなしだぞ」
 おれの問いかけに、ベルルックは不自然に口ごもりながら、ぼそぼそと答える。今こそ攻勢に転じるとき、そう読んで、おれは重ねて尋ねた。
「もう一回落ちてきてよ。今度は受け止める準備、万端にしとくから」
「あんな恥ずかしいこと、二度とやれるか!」
 ベルルックは頬を染めたかと思うと、よくわからない捨てぜりふを残し、猛烈なスピードで部屋を出て行った。
 遠回しな言葉も、今回はちょっとだけ効いてくれたらしい。おれと彼女の間にある坂を登り切るまでには、どれくらいかかるのか。いつか二人で駆け抜けたいものだと、おれは苦笑しつつ斜面を見上げた。

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