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D06 だから私は解放を願う。

 あの人がいばらの道に足を踏み入れてしまったのは、きっと優しすぎたからだ。

 彼をはじめて見つけたのは5月のおわり、体育祭のリレーの時。
 アンカーになるのは、陸上部の先輩とか、運動部で足が速くて有名な人達だから、私が顔を知らないのは、ひとりだけ。
 だれだろ。ハチマキの色違うから関係ないんだけど、なんでか眼をはなせない。
 彼がバトンを受け取ったのは、5番目。
 なのに、すごい人達をどんどん追い抜いて…すっごい接戦だったけど、2位でゴール。
「凄かったな」ってだれかが言ってる。「1番になれなくて残念だったな」とも。
 うん、凄かった。だから残念じゃないよ。
 おかしいのは結果の方。みんな知ってる。今のリレーで1番なのはだれかって。

「美春?」
 ぼーっとしてたみたい。真琴の声で気づいた時には、リレーの選手はみんな退場してた。
 あの人、どこ行ったんだろ。
 すごく気になった。話してみたいような。
 私は人みしり激しいほうだから、知らない人と会ってみたいなんて、ふつうは絶対に思わないんだけど……今回はトクベツ。
 だって、すっごく綺麗に走るんだもん。
「ちょっと飲み物買ってくる」
「まだ半分以上残ってるのに?」
「別の飲みたくなったの」
「……ふうん」
 真琴は中学からの付き合いだから、私の態度がおかしいって事に気付いたみたいだけど、なにも言わないで送り出してくれた。

 ジャージとハチマキの色で3年C組だってわかるし、背が高くて目立つから、簡単に見つかった。
 同じ色のハチマキの3年生の集団に手を振って、背中向けて歩き出すとこだった。せっかく会いに来たんだから呼び止めようと思ったけど、なんて声をかけていいかわからなくて…とりあえずついてった。向こうは普通に歩いているだけですごく速いから、小走りで。
 あ、ミルクティー持ってる。全力疾走したあとに飲むには、ヘンな気もするけど…好きなのかな。見た目が大人っぽいせいであまり似合わなくて、ちょっとおもしろかった。
 彼は校庭から離れて、校舎に向かった。中に入るつもりはないみたい。昇降口の前を通り過ぎて、校舎脇で足を止める。
 そして、すっごい幸せそうな、いい笑顔。
 オーラみたいなものを感じて、声をかけるどころか、そばに近付くこともできなかった。近寄りすぎると、オーラが壊れちゃうような気がして…悪い事のような気がして。
「大活躍だったみたいね」
 女の人の声だ。冷たいけど、キレイな声。
「見てくれたんだ」
 女の人への返事ではじめて、私は彼の声を聞いた。すごく優しくて、頼もしいカンジ。
「瑛一が私の前でどんな風に走るのか、見てやろうと思って」
 あ、この人、瑛一って名前なんだ。
「ふつうに走ってたから、むかついたわ」
 冷たい声は、悪意をむきだしにしてた。
 傷ついたかな。傷ついたよね。さっきまですごくいい笑顔だったのに、困った顔してる。
「ごめん」
「あんたに謝られても嬉しくないけど」
「そっか。そうだ、喉乾いてない?」
 瑛一サンはちょっとむりやり話を変えた。
「当然でしょ。今日、暑いし」
「じゃあ、はい、これ。好きだろ」
 彼はミルクティーを差し出した。
 なんだ。自分で飲むために持ってたんじゃなかったんだ。ちょっと納得――
 バシッ、て、乱暴な音がした。
 彼が持ってたミルクティーが、空をとんだ。すぐに地面の上に落ちて、ころころ転がった。私の足元まで。
 よく見てなかったけど、たぶん、女の人がたたき落としたんだ。
「暑い日にこんなもの飲みたくないわよ」
 それは、私も少し考えたけど。
 だからって、ひどくない?
「そうだよな。ごめん」
 優しさのかけらもない言葉を投げつけられても、瑛一サンの笑顔の優しさは変わらなかった。それがすごく、私の胸に痛かった。
 私はミルクティーを拾う。少しホコリにまみれてるのを見て、腹が立った。
「別の買ってくるよ」
 女の人のそばを離れて、彼は走り出す。だけど、投げ飛ばされたミルクティーを私が持っていることに気がついて、立ち止まった。
「拾ってくれたんだ。どうもありがとう」
 優しそうで爽やかな笑顔。いい笑顔だけど、女の人に向けていたものとぜんぜん違った。さっきはもっと嬉しそうだった。
 ひどいこと、言われてたのに。

 結局話しかけられなくて、彼のことは少しもわからないままだった。教室に行けばよかったのかもだけど、違う学年の教室って行きにくいし。
 だから、男の子に詳しい真琴にきいてみた。
「芦田先輩かな?」
「下の名前は?」
「瑛一。芦田瑛一」
 さっすが、真琴。たぶんその人だ。
「すごいね真琴。よくわかるね」
「あの人色々目立つから」
 たしかに。背が高いし、けっこう顔いいし、足速いし、優しそうだし、モテそうだ。
「やっぱり人気あるの?」
 質問すると、真琴はヘンな顔をした。
「人気は…あるような、ないような」
「意味わかんない」
「みてくれとか色々いいけど、環境が最悪だから。入学してすぐは、うちらの学年のコ達からもけっこうモテたけど、今はもう」
 入学してすぐって、たった二ヶ月前?
「そんなにひどいの?」
「ひどいと言うか、複雑みたい。小さい頃に両親が亡くなって、預かってくれる親戚とかいなかったんだけど、父親が働いていた会社の社長さんが引き取ってくれたんだって」
 う。普通の家庭に生まれ育った私には、ちょっと重い家庭環境だ。
「その社長さんにはひとり娘が居たんだけど、兄妹みたいに仲良く育ちました、なんてうまい話にはならなくて、芦田先輩は、ワガママ娘の召使いみたいに使われてたんだって」
「うわー」
 昨日の、綺麗だけど冷たい声をした人が、「ワガママなひとり娘」なのかな、やっぱ。
「そのお嬢様、去年まではちょっとワガママなだけだったらしいんだけど、去年の冬に彼氏の家に遊びに行った時に、火事にあったんだって。駆けつけた芦田先輩が助けたおかげで命は助かったんだけど、キレイな顔に火傷しちゃったり、杖なしで歩けなくなったり。で、とりあえずキレイならいいやってチヤホヤしてた人達が離れちゃって、元々悪かった性格が悪化したらしいよ」
 ふつうに走ってたから、むかついた。昨日の女の人は、芦田先輩にそう言ってた。
 走れなくなった人にとって、走る人は、見てて辛いのかもしれない。私だって、追いつけないくらい速い人見てると、辛くなるし。
 かわいそうだと思うけど…でもやっぱり、悪意をぶつける理由にはならないよ。
「最近の芦田先輩は、ほぼ奴隷だって。杖があればひとりでも歩けるのに、どこに行く時も運ばせて。放課後も付き合わされるから、部活もできなくなって、やめちゃったって」
「やっぱ部活やってたんだ」
「サッカー部のエースだよ。去年の県大会なんか、芦田先輩が抜けてすぐに負けちゃったくらい。だからお嬢様は相手の性別問わず恨み買いまくり。彼女をいじめようとした人達もいたみたいだけど、逆に芦田先輩が殴りかかったって。あの優しい先輩が、『葵に手を出すな』って……葵ってのは、そのお嬢様の名前ね。一ノ瀬葵先輩って言って、そんなのどうでもいいか。とにかく、すごい剣幕だったらしいよ。ちょっとした伝説」
 イメージ湧かない。だから周りの人達も、伝説にするくらいビックリしたんだろうな。
「それ以来、みんなふたりを遠巻きに見ているわけ。芦田先輩は、クラスメイトとそれなりに仲良くやってそうだけど」
 でも、賞賛の言葉とか全部捨てて、一ノ瀬先輩のとこに駆けつけちゃえるんだよね。
 一ノ瀬先輩が行きたいところに行って、できるかぎり欲しいものをあげて、自分のしたいことなんてなにもできなくて。
 それって悲しくない? 辛くない? いくら、一ノ瀬先輩のご両親に恩があるからって、そこまでやる必要、あるのかな。

 いつもは部活の練習で帰りが遅いんだけど、今日は久しぶりの休み。学校を出るのが、いつもよりずっと早かった。
 だから、いつもは見ないものを見た。
 芦田先輩だ。車椅子を押しながら、車椅子に乗っている女の人に話しかけてる。
 だけど車椅子の女の人は、冷たい表情で、ちっとも笑ってなかった。
 彼女が、一ノ瀬先輩かぁ。
 声と同じですごく綺麗。優しく笑ってれば、芦田先輩とお似合いだって思えたかも。
「瑛一、日傘は?」
 一ノ瀬先輩は、外の天気を見て、言った。
 日傘さすような時期かなあって思うけど、一ノ瀬先輩みたいに白い肌の人は、気にするのかな。どうせ、自分でささないだろうし。
「あ、ごめん。上に忘れてきた。取ってくるよ。少し待ってて」
 芦田先輩はひとりで来た道を駆け戻った。
 優等生っぽい芦田先輩は、廊下を走るのも似合わない感じがするんだけど、一ノ瀬先輩をあんまり待たせないようにしてるのかな。
 どうしてそんなに優しくするんだろう。
 優しくしたって、優しさで返してくれる人ではなさそうなのに。
 それでもいいと思っているなら、辛いな。本人がよくても、見てるほうが辛い優しさ。
 私は我慢できなくて、一ノ瀬先輩に近付く。
「なにか用?」
「用って言うか…日傘くらい、自分で取りに行ったらどうですかって、思って」
 一ノ瀬先輩は、私をにらむ。すごく怖い眼。
 前髪のむこう、おでこのとこにうっすら見えるやけどのあとが、余計に怖い。けど…せっかくキレイなのにもったいないって、ちょっと思った。
「瑛一が取りに行ったほうが早いでしょう」
「でも、自分の事なんだから」
「いいのよ。やらせておけば」
「いいわけないですよ! 芦田先輩、すごい選手だったのに、あなたのために、サッカーやめちゃって……」
「あいつが好きでやってるの。そもそも私がこんな風になったのも、あいつのせいだしね。あいつがもっと早く、私を助けに来れば…」
 なに、それ?!
 芦田先輩が助けに来てくれたから今も生きてるんでしょ? 助けに来るのが遅かったせいで怪我した、なんて、逆恨みじゃない?!
「もしかして瑛一が好きなの?」
 ……へ?!
「残念ね。瑛一は、小さい頃からずっと私が好きなの。私がどんなにひどい女でも、私が大好きでたまらないの」
 それは、なんとなく感じてた。
 一ノ瀬先輩はひどいって、何回か思ったけれど、でも芦田先輩は、不幸せそうには見えなかったもん。いつか心を開いてくれたらいいなって、夢を見ているみたいに。
「奪いたければ奪っていいよ」
「へ?」
「瑛一のこと。私は別に、いらないから。寄ってくるから、使ってやってるだけ」
「ひどっ……」
「葵!」
 廊下を走ってくる足音がした。
 日傘を持った芦田先輩が、手を振ってた。
 3Fの教室はけっこう遠いのに。全力で走ったのかな。一ノ瀬先輩を待たせないために。
「ともだち?」
 芦田先輩は、私を見てから、一ノ瀬先輩を見下ろして、きいた。
 私のことなんて覚えてないか。しゃべってないもんね。あたりまえかも。
「余計なこと言ってないではやくして」
「ごめん」
 芦田先輩は、一ノ瀬先輩の車椅子を押して、ゆっくりと歩き出した。
 あんなに速く走れる人なのに。
 遅い人に合わせて歩くことが、悪いわけじゃないけど…幸せなんだろうけど。
 でも、私、知ってる。全力で走る芦田先輩は、だれよりも速くて、顔とか、背が高いこととか、関係なく、キレイなんだって。
『あなたは瑛一が好きなの?』
 一ノ瀬先輩の質問の答えはわからない。
 でも、芦田先輩が走る姿は大好き。もう一度見たくて泣きたくなるくらい。
 でも、一ノ瀬先輩から解放されないかぎり、芦田先輩は自由に走れない。

 私は、表札に「一ノ瀬」って書いてある、大きい家の前に立っていた。
 さすが社長さんち。テレビで見る豪邸ほどじゃないけど大きいし、高そうな車が三台も。
 私は勇気を出してインターホンを押して、出たおばさん(お手伝いさん?)に名乗った。葵さんをお願いしますって言ったら、私服で、杖をついた、一ノ瀬先輩が出てきた。
「なんの用? 瑛一は出かけてるけど」
「いいです。一ノ瀬先輩と話しにきたので」
 一ノ瀬先輩は、急に不機嫌そうになった。
 すごく怖いけど、負けない。
 私だって、覚悟決めてきたんだから!
「芦田先輩を解放してあげてください」
 一ノ瀬先輩は驚いた顔をした。冷たい顔しか見たことがなかったから、こっちがびっくり。
 なんでだろ。すごく不安になる。
「ごめんなさい」
 突然先輩は、そう言った。
「この間言ったことは冗談。私から瑛一を奪わないで。私達から離れて、どっか行って」
 なにそれ。この間と言ってることも態度もぜんぜん違う。違うって言うか、変わりすぎ。
「本当は、芦田先輩が好きなんですか?」
 あまりの豹変っぷりに、Sっぽい態度は全部ひねくれた愛情表現だったのかって好意的に考えてみたけど…やっぱ違和感感じる。
「そうって言えば、だまって従う?」
「束縛しないで自由にしてあげるなら」
 一ノ瀬先輩は眼を覆った。もしかして泣いてる?
「なにも知らないくせに勝手言わないで」
「私だって言いたくないですけど、だれも言わないから……とにかく、約束してください。芦田先輩を解放するって」
「できるものなら……!」
 叫ぶ一ノ瀬先輩は、やっぱり泣いてるみたいだった。涙は出てなかったけど、歯を食いしばって、耐えようとしてる感じ。
 その、閉じていた口が、突然開いた。なにか叫ぼうとしていた。でも、叫ぶ前に、私の首に、男の人の腕が回った。
「きゃっ!」
 ちょっと息苦しい。それに、怖い。
 私は腕がだれのかを確かめようとして、背後に立つ人を見上げて、もうこれ以上ないだろうってくらいびっくりした。
 芦田先輩だった。
 女の子に乱暴しているのに、幸せそうに笑ってて……それが余計に怖かった。
「その子をはなして、瑛一」
 一ノ瀬先輩の声は、ふるえてた。
「はなしなさい! 私の言うことはなんでもきくって、約束したでしょう?!」
「したね。僕らを引き離さないならって」
 私、この時、ようやくわかった。
 さっき一ノ瀬先輩が言おうとしたこと。「できるものなら」の、続き。
「き……去年の火事は」
 息がおもいきりできないからかな。少しぼーっとしてきた頭で思いついたことを、言う。
「偶然、に?」
 一ノ瀬先輩は、ものすごく迷ってから、うなずいた。
 そっか。火事そのものは、偶然なんだ。でも、それだけなら、一ノ瀬先輩は、もっと素直にうなずいたんじゃないかなって、思う。
 だから、前に一ノ瀬先輩が言ってたことの意味も、わかった気がした。
「もっとはやく助けに来れば」
 火事のあとに芦田先輩がどれだけ変わったかしか考えてなかったけど、大きく変わってしまったのは、一ノ瀬先輩もだ。まわりには、芦田先輩以外、だれもいなくなったんだから。
 それがわざとだとしたら。そうした人にとって、ふたりの世界を壊そうとする私は…。
――――こわい。
「わ、私」
 声を出すのは苦しくて、辛かったけど、必死で出した。ここから逃げだしたくて。
「二度と、ふたりの邪魔をしようなんて、考えませんから、許してください……!」
 一ノ瀬先輩は、杖を使って私達のところに駆け寄ってきた。
「瑛一。はなしてあげて」
「信じられる?」
「信じられる。もしその子が裏切ったら、その時は、瑛一の好きにすればいい」
「しょうがないなあ」って言いながら、芦田先輩は私を解放した。
 私は怖くてたまらなくて、必死に逃げた。
 逃げながら、ちょっとだけ振り返る。
 私のことなんてすっかり忘れてしまったみたいな芦田先輩が、一ノ瀬先輩を支えてる。一ノ瀬先輩は、家の中に戻ろうとしながら振り返って、私に、ちょっとだけ、笑った。
 それがすごく優しい笑顔だったから、私は、家が見えなくなるころ走るのをやめて、歩きながら泣いた。すれ違う人がいたら不審がられるだろうなってくらい、思いっきり。

 それきり私は約束どおり、ふたりには近付いていない。誰かに話してもない。
 だけど、遠くにふたりの姿を見つけると、眼を細めて眺めてしまう。
 もう、芦田先輩の走る姿を見られないことを、残念だとは思わなかった。あの人は、走ってる。自分が思うとおりの道を、思いきり。
 だから私は解放を願う。
 冷たいふりをしながら、けして嘘をつかなかったあの人が、自由になる日を、祈ってた。

D06 だから私は解放を願う。
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