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D05 払暁

 夜が終わろうとしていた。
 宮城を取り囲んだ静寂は、遠き峰より列を成す篝火に脅かされていた。火は天の星が地へ落ちたかのように、赤赤と燃え連なっている。
 男が一人、宮城の壁際に立っている。その顔に表情は無い。その目は、眼下に広がる家々の屋根を通り越し、じっと峰を降り来る火へと注がれている。それは亡びの火、男に死を告げるものであった。そうであると知っていながら、男の面に一切感情は現れぬのだ。石壁に添えた手は、寒さに青褪めてはいても震えてはいない。下方へ注がれる眼差しは、凪いだ夜の海の如く闇を呑んで静まっていた。そこに、死を前にした者の、恐怖や絶望の影を見出す事は出来なかった。
 不意に山際から風が吹いた。
 幾らか湿り気を帯びた微風は、慈しむ様に優しき腕で宮城を包む。寂寞たる亡びの城に、天が幾許かの慈悲を垂れた様であった。だが、吹き過ぎる風にも男は身動ぎもしない。瞳は先と変わらず、ただただ火を見つめるばかりである。
 背後で靴音が鳴った。音は男のすぐ後ろで止まる。
「父上」
 音の主の呼びかけに、男は瞬きをしたものの、答えを返そうとはしない。彼は聾ではないから、音は聞こえている。盲ではないから、目は見えている。だが、男は何にも動じない。もはや何かを感ずる能力が、失われているのではと思われた。
「父上」
 じっと動かない父の背を見据え、青年は不安の混じる声で繰り返した。
 既に事は成った。他に口にすべき言葉も無い。もはや夜は終わろうとしていた。長く国を苦しめた暗夜は、宮城の亡びによって終わるのである。東の地平より昇り来る陽に押され、苦しき夜は西の方へと退きつつある。
 けれど彼も、父である男もそれを喜ぶ様子は無い。
「なにをお待ちなのですか」
 青年の言葉には、そろそろ諦めが混じり始めていた。
 そこに、応えが返る。
「わからぬか、呂亥」
 振り返ることは無いままに、男は続ける。
 あの丘を下る火が見えぬかと。
 青年が視線を野へと転ずれば、白む東の空を鼓舞する様に、火は丘を覆っていた。もちろん、青年の目にもそれは見えている。だが、彼の見ている物と、男の見ている物が、真実同じであるという確信は無かった。
「じきにあの火がここへ至ります」
 青年の言葉を受けて暁の静けさがふと揺らぐ。
 その背に感情は窺えぬが、男は微笑した様だった。
「それを待っているのだ」
 やわらかな声であった。であるからこそ、青年はよほど辛かったのであろう。精悍な顔に苦痛の表情を浮かべ、切れるほどに唇を噛みしめ俯いた。胸中では、口にされぬ疑問が渦巻いている。それを押し殺して告げる。
「あの火の元へ使者を立てましょう。流れるべき血は既に流れたと」
「よしなさい」
 己の考えを否定されると、青年は気色ばむ。
「王は死んだのです。もはや国を苦しめる王は居ないのです」
「呂亥」
 諌める様に名を呼ばれても、青年の言葉は止まらない。
「あれは王を殺す為の火です。王亡き今、あの火が宮城を、我らを焼く理由はございません。その事を伝えるのに、何を躊躇う理由がありましょう」
「あの火は私を焼くのだ」
 青年が、あれは道を外れた王を焼く火である筈だと、どれほど訴えても、男は背を向けたまま首を振るばかりで、その言を入れない。
「逆臣たる私こそを焼くのだ」
 男の言葉に、青年が顔を強張らせる。彼はすぐさま反論を口にしようとしたが、男が言葉を継ぐのが早かった。
「私は主君を弑逆した」
 だがせめて、新たな宮城の主におもねり、その前に平伏する事はあってはならぬ。己を逆臣と呼びながら、男はそう呟くのである。男が真に逆臣であれば、迫る敵に宮城の門を開き、王の屍を手土産に己の地位を買ったであろう。だが、それはあってはならぬと言う。そう言いながら、その手は王を弑した。
 それがなぜなのか話すには、まずこの男の身元を明らかにせねばならない。
 男の名は江朴青、あざなを沈申という。
 彼は、王の教師を務めた人物であった。

 国に長く苦しい夜をもたらしたのは、国王庚未であった。
 庚未は決して愚鈍ではなかったが、生来躯が弱く、憐れみ深かった。専ら古人の言葉に親しみ、古の事物に憧憬を憶える。そうした性向であった。
 その憐れみ深さは罪人にも向けられ、王子であった頃から事ある毎に、今の刑罰は厳し過ぎると悲しげに呟いていたという。ここで庚未が、己の意思をはっきりと訴える人物であったなら、違う道を歩んでいたやも知れない。だが、そうするには、彼は柔弱でありすぎた。
 一人の人間の性質として考えた時、憐れみ深いことは悪いことではない。だが、一国の国主の性質として、あまりに憐れみ深いことは良いこととは言えまい。この点、庚未は憐れみが過ぎたのであろう。ましてや、気が弱く大人しい性質である。その憐れみは罪人を救うことは出来ず、徒に無力な己を苦しめるばかりであった。時に決意して意見を口にしても、前王から仕える老臣たちは、王の憐れみ深さに苦笑を浮かべるばかり。その言葉を入れることはなく、逆に庚未をやんわりと諭す。子供をあやすように、己の甘さを諭された庚未は恥じ入り、以後彼らに意見する気力を失っていった。
 意思ある言葉の一つも口にできぬ、国を左右する問題一つ己では決められぬ、そんな王を老臣達が侮ったのも、無理の無い事であったかもしれない。老臣達は子をあやすような優しい侮りでもって庚未に対した。だが、彼等が宮廷にいる間に国が乱れる事は無かった。老臣達は皆、前王に恩義があり、庚未を支え国を安んじることに腐心する、忠義の者ばかりであった。ために庚未も彼らに政を任せきり、目の前で決められる事柄に肯くだけの日々に、不満を抱くことも無かった。問題は、庚未をあやすように甘やかした老臣達が、宮廷を退いて後である。
 全てを他人任せにして来た庚未が、老臣が退いたからとすぐさま主体性を持ち、政を操ることなど出来よう筈も無い。己にも他人にも甘い王に、擦り寄る奸臣が現れるのは時間の問題であった。とはいえ、容易く国が乱れたわけではない。忠義な臣はまだ多く、江朴青も宮廷に居た。それまで若年であるため、老臣たちの後ろへ控えていた江朴青であったが、この頃には、他に遠慮する事無く王に意見を述べる事の出来る立場にあった。
 周囲の努力により、当初は平穏な治世が続いていた。だが時経れば経るほど、庚未は重圧に苦しめられるようになる。それまで、他人が肩代わりしていた現実を目の当たりにし、いまや己がそれを背負わねばならぬという重みに、耐えられなかったのである。江朴青はなんとか、王の心労を和らげようと言葉を尽くしたが、重責を前にした苦しみは、そう簡単に取り除ける物では無い。
 折りしも、国は数年置きに旱害と不作に見舞われていた。餓死者は膨れ上がり、農民が各所で蜂起を始める。心優しい王はそれに酷く傷つけられ、己を慰める言葉だけを受け入れるようになった。
 忠言は耳に逆らう。庚未の耳に諌めの言葉は辛すぎたのか、終には江朴青の言葉にさえ、耳を塞いでしまう。
 庚未は己を見失い始めていた。
 苦言を口にする者たちを排し、甘言を弄する臣ばかりを重用する。政は乱れ、官の心も民の心も王から離れた。だが、現実を見たくないと目を塞ぎ、苦言を聴きたくないと耳を塞いだ庚未は、それに気づかない。いや、たとえ気づいたとて、見ない振りをしてしまっていた。
 江朴青はそれでも王に忠言を繰り返した。時に血が流れるほどに額を地へ打ちつけ、王が目を覚ます時を待ち、いくどもいくども誤りを正すよう訴えかけた。他に、王に忠言を告げられる者は居なかった。同じ事をした者はすべて、王によって排されていたからである。ただ、幼き頃の教師であり、一際の尊敬を寄せている江朴青に限っては、庚未も排そうとはしなかった。だからと言って、その言葉を聞き入れる訳でも無い。
 江朴青は言葉の限りに主君を説得しようとした。だが、それは終に叶わなかった。
 ――数え切れぬほどの訴えにも、王は耳を貸してくださらぬ
 江朴青もじきに、聞き入れられない訴えを繰り返すことに疲れ、口を閉ざすようになる。
 そうして、王に苦言を呈する者は誰一人居なくなった。

 宮城の壁際にある江朴青の姿は、血で汚れている。
 それは国王庚未の血であった。
 気弱な人物は、一度乱れれば己を正す事が出来ない。それは、処断を嫌う柔弱な性質に帰する部分も大きい。彼らは、他人の謗りを逃れる為に、努めて善良で在ろうとするが、一度その道から外れれば、善良で無い己を認め難いばかりに、間違いから目を背ける。
 正道を外れれば、人の謗りは免れぬ。心強き人は、己が間違いを知ればすぐさま道を改める物だ。たとえ一時の謗りを受けようとも、再び正しき道に戻る。そうせねばならぬという、強い意思を持つからである。心弱き人にはそれが無い。己を可愛がるばかりの彼等には、悪が無いというだけで、選び取られた善も無いのである。彼らが善を好むのは、その居心地が良いからにすぎぬ。故に己の悪を認め、人の謗りを受けてまで、正しき道に戻ろうとはしない。誤った道であろうと、歩むのに不自由ないと気づけば、その道の先になにが在るかを考えもせず、そのまま進んで行く。
 庚未もそうであった。
 心のどこかでは己の間違いを知りながら、それを認めるには自己愛が過ぎた。結果どうなったかは、江朴青が纏う血と眼前にしている景色が示す通りである。
 東より叛乱の気運が高まると、それは野火の如く野を走り、都へと近付いた。幾度か鎮圧の兵が差し向けられた。だが、道も人心も失った王に、勝機のあろう筈も無い。士気は揚がらず、兵達は果敢な戦いを見せるどころか、叛乱側に組する者も現れた。もはや、一直線に近づく烽火を止める術は無かったのである。
 多くの者達が、王朝の終焉を予想し、早早に王都を逃れた。
 叛乱の火はいまや、宮城から見渡せる丘にまで迫って来ている。それを目の当たりにし、動揺した庚未が、江朴青に取り縋ったのが、前日の昼の事である。
 庚未は、子供の様に泣いた。
 縋られた江朴青は、暫く身動ぎもせず、泣き伏して喚く主君を見下ろしていた。庚未は、恐ろしい、助けてくれ、と涙声で繰り返す。それを見る江朴青の胸に、憐れみがあったのか、失望があったのかは、判らない。あるいは、どちらの思いも混じりあった、複雑な物であったのやもしれぬ。ともかく、江朴青は主君にこう告げた。
 ――私が居ります。どうぞ、お心安く
 庚未は、幼い頃からの師の言葉を、すぐさま信じた。江朴青はそれを見て取ると、優しい微笑を浮かべる。王は安堵して体の力を抜いた。
 ――沈申がなんとかしてくれる
 庚未は単純にそう考えた。だが、軍を率いたことの無い江朴青に、叛乱を鎮圧する術など無い。もしその術あらば、既に叛乱を鎮めていた筈である。それに気付けぬほど、庚未は追い詰められていたのである。近づく恐怖をどうする事も出来ず、苦しみのあまり向かった先が、江朴青の元であった。王に媚びていた奸臣たちは、旗色が悪いと見るとすぐさま宮城を捨てていた。その為、他に行く当てのなかったこともあろうが、庚未が江朴青に篤い信頼を寄せていたのもまた事実である。
 最後の最後で己に縋った王に、江朴青がどう応えたかはお解りであろう。彼は庚未の恐怖を終わらせてやると、その血に濡れたまま部屋から出た。未だ滴る血で床を汚しながら、宮城に残る者達に告げる。
 ――王は亡くなられた
 これを耳にした者は皆足を止め、場は水を打ったように静まり返った。
 どこからも安堵の吐息が落ちなかった代わりに、血に塗れた江朴青の姿に、疑問を投げかける声も聞こえなかった。
 江朴青は宮城に残っていた者達を外へ逃がし、身を隠しなさいと告げた。そうして城には、息子と他に数人が残るだけとなった。

 江朴青は再び丘にある火へと目を向ける。その胸中には、余人には計り知れない思いがあった。無理に言葉で現せば、満足に近い物であったろう。死を前にして満足とは、まったくおかしな事だが、江朴青は近づく火を見据え、その様な思いを抱いていた。
「そろそろお前も行きなさい」
 江朴青の声に、息子は弾かれた様に顔を上げる。
「なにを仰るのです。父上も共に」
「私は、ここで待たねばならぬ。大逆を犯した者として討たれる定めだ」
 死を覚悟した父の言葉を、実の息子がそう易易と受け入れられる物では無い。彼は声を荒げた。
「王は民を苦しめておりました。父上は正しい事をしたのです。断じて大逆などではございません」
 瞬間、空気が凍え、硬く張り詰めた気配がした。
 それまで動かなかった江朴青が、振り返る。その顔には、明瞭な怒りが宿っていた。眦も切れよとばかりに瞠目し、震えだすほどに顔を強張らせ、息子を睨み据えたのである。
「臣下たる私が、主君を弑したのを正しい事とお前は言うのか。甘言に惑う王を諌める事も出来ず、いよいよ戦火が宮城に近付いた今、王に刃を向けた。私になんの正しさがあろう。まして、王は私を信頼してくださっていた」
 涙し取り縋った庚未の姿を思い出し、己の手を睨む。
 そこには乾いた血がこびりついたままになっていた。大気を震わす言葉には、血を吐く様な苦渋がこもっていた。
「主君の信頼に漬け込み、その命を絶った。この様な事をする者が、正しい訳があるまい。私ほど道に悖る行いをした者が、どこにあろう。この身は大逆を犯した、こうなればせめて東齋候に討たれ、民を安んずる国が建つことを願うばかりだ」
 東の地にて叛乱を起こしたのは、東齋候である。候は王の臣下、臣下が主君に刃を向けるのは叛逆である。もし、東齋候が叛乱の勢いのまま、王を廃して玉座に昇れば簒奪となる。だが、王は既に江朴青の手にかかっている。ここで東齋候が江朴青を討てば、逆臣を誅した人物として名が残る。
 東齋候が兵を起こすのと、江朴青が王殺しをした順序が逆だが、そこはそれ。勝者には幾らでも時間がある。王が逆臣に弑されたという事実さえあれば、後はどうとでもなるのである。
 王に取り縋られた時に、江朴青の心は決まっていた。
 庚未が生き延びれば、幽閉の憂き目に遭う事は火を見るより明らかである。柔弱な王はそれに耐えられぬであろう。だが、東齋候は義のある篤実な人物として知られる。主君の血で義を汚すことを善しとすまい。
 庚未を先に待つ苦しみから救う術は、一つしか無かったのである。
「夜が明けきれば、火は宮城へ至ろう。呂亥、お前はここを出なさい」
「父上を置いては行けませぬ」
 頑なな息子の表情にため息を落とし、江朴青は再び「行きなさい」と言う、息子は「行けませぬ」と応じた。父子は暫く同じ問答を繰り返したが、最後に江朴青が「お前まで居無くなっては、誰が亡き妻の菩提を弔うのだ」と言うと、息子は口を閉ざした。
「行くのだ、呂亥。今はここを去り、じきに出来る国の有様をその目で確かめておくれ」
 しばらくの沈黙の後、息子は深く頭を垂れる。江朴青はそれに肯ずると、背を向けた。去り行く靴音を聞き、昇り来る陽を待つ。地平に現れた白白とした光明が、闇を払う。
 江朴青は言葉に出来ぬ感慨に目を閉ざした。
 夜は、終わったのである。

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