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D03 ナキオニ

 ざざと風が鳴っていた。夜の道は昼間よりも草の香が強く感じる。ひと雨降った後だからかもしれない。どこか青臭い、生きている匂いが辺りに漂っていた。私は少しだけ震える。夏に近づいているとはいえ、夜はまだ肌寒さを感じた。虚ろな心に隙間風が通る。
 私はその道で、鬼を拾った。きっとどうかしていたに違いない。

「コンビニ弁当なんか嫌だ、もっと美味しいものが食べたい」
 そう言いながら鬼は私の弁当から唐揚げを摘まんで、ぐずぐずと泣いた。お金を出したのも買ってきたのも私であるというのに、このいい草だ。私は苛立ちに任せて、白くて固いご飯を口へ運ぶ。楽しみにとっておいた唐揚げを食べられ、一層腹立たしかった。
 この鬼を拾ったのは、母の葬儀が終わった夜のことである。鬼は道に背を向けてしゃがみこんでいた。具合が悪いのかと声を掛けると、その顔がゆっくりと振り返った。私の視界を異質なものが覆う。金の角、金の目、大きな鼻、開けられた口。
 鬼だ。直感が告げる。
 しかし、すぐにそれがただの面だと気付いた。般若面と呼ぶのが正しいのかもしれない。どちらにせよ、まっとうな人間が道端でこんな面をつけたりはしないだろう。
 恐怖を感じたはずなのに、なぜか私はその後、その鬼を家へ連れ帰っている。ぼんやりしていたからかもしれない。あまりの非現実差に、連れて行ってくれという言葉に頷いてしまったのかもしれない。あの日の夜のことは、鬼と草の香以外の記憶が曖昧で、よく覚えていなかった。母が亡くなったという非現実さが、私の心のほとんどを占めていたのである。

 それにしても、この鬼はうんざりするほどよく泣いた。
 干した布団がいいと言って泣き、部屋の掃除がしていないと泣き、燃えるごみが溜まっていると泣く。私はその要求に仕方なく答え、白米が食べたいというのであれば、母が病に倒れてから埃をかぶっていた炊飯器を引っ張りだした。すると、今度は味噌汁がないといって泣く。味噌汁を出せば、味付けが塩辛いと言って結局泣いた。私だって、塩辛い味噌汁が飲みたいわけではない。ちょっと、塩を入れる時に手元が狂ったのだ。不可抗力という奴である。
 何が気に入らないのか、鬼は私のやることの一から十までに涙を流した。どうせすぐに出ていくのだろうと、私はその場でぐっと我慢する。怒るにはまだ気力が足りなかった。
 しかし、数日が過ぎ、一カ月が過ぎても、鬼は一向に出ていく気配を見せない。それどころかだんだんと要求が増してきた。遊びに行きたい。あれが欲しい、これが欲しい、などと口うるさく要求する。
 月日がいたずらに過ぎていく中、私はふっとあることに気付いた。根競べの様相を呈してきたこの奇妙な同居生活に、慣れてきているのだった。鬼がいることが当たり前になっている。初めの頃にあった苛立ちや違和感は、とうになくなっていた。
 ご飯を口に運ぶ鬼の姿を私はじっと観察する。最初は、面をつけながらどうやって食べるのかと気になったが、なんのことはなく、澄ました様子で鬼は口元だけ面をずらした。いっそのこと面そのものを取ってしまえばいいのにと思う。そう言ったら、鬼はまた泣くのだろうか。きっと、そんなこと言うなんて酷い奴だといって泣くのだろう。

 私は一組の茶碗を洗いながら、壁に掛けられたカレンダーを見る。赤い丸の日が明日に迫っていた。母の四十九日がやってくる。死者がこの世に留まっているという、最後の日々の終わり。同時にこの生活も終わるような気がしていた。
 洗い終わった茶碗を水切り籠へ入れ、鬼の元へ向かう。
「あんたってさ」
 当の鬼は先ほどまでご飯が美味しいと言って泣いていた。相変わらずな様子である。私はなんだかおかしくて少しだけ笑った。すると、鬼が泣くのを止めて私をじっと見上げる。面で表情は見えないものの、この鬼のことはなぜかよく分った。仕草の一つ一つに既視感を感じる。まるで、知っている誰かであるかのように。
「あんたって、もしかしてお母さんなんじゃ」
 唇が震えた。上手く思いを言葉に出来ない。それでも、尋ねずにはいられなかった。
 母の葬儀の後に拾ってきた鬼。その偶然にしては出来過ぎな出会いを私は疑っていた。今思えば、だからこそ、この鬼を拾ってしまったのかもしれない。僅かな、期待を込めて。母がこの世に何か言い残したことがあるのなら、きちんと聞いておきたかった。
「違うよ」
 ひどくあっさりと、鬼が否定した。あぁと落胆のため息が私の口から洩れる。幽霊でもお化けでも何でもいいから、母であれば良かったのに。私は何度も心の内で繰り返した。そんな私を見透かすように鬼が面の向こうで不服そうな顔をしている。
 鬼が己の面に両手を添えた。真実を突きつけるように面が外される。見てはいけない気がした。心が嫌がっているのに、目を逸らせない。制止の声をあげるより早く、面はあっけなく鬼から剥がれ落ちていった。その下には泣き腫らして左右非対称になった私の顔がある。
「私は、あんたの日常だ」
 ふっと、鬼が溶けた。後には私だけが残る。部屋の中は初めから誰もいなかったように静かだ。溶けた鬼が私へ重なる。私の頬を、また涙が濡らしていった。

 ご飯が美味しくて、涙が出る。こんなに悲しいのに、お腹も空けば眠たくもなるのだ。体は欲求ばかりを訴えてくる。いつの間にか母の死は過去のものとなり、私は日常を取り戻そうとしていた。母がいなくとも私の人生は続いていく。
 少しずつ母を忘れていくことが、どうにも申し訳なく感じられて、酷い奴だと私は泣いた。

D03 ナキオニ
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