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C09 この道の終わり

 道はどこまでも続いて行くのだろう。
 だけど、私たちの行く末に終焉が待っていることを、私は知っていた。
 出会ったときから、この運命は確定されていたのだ。
 宣託の巫女姫と呼ばれ、華やかな都を見下ろす丘にそびえ立つ神殿の奥。闇に塗り込められた部屋に祀られる私の稀有な力が夢に映す未来は、いまだかって現実と違えたことはないのだから……
 今、私たちが走る道程の先に、私が夢で垣間見た未来を誰かに語ったことはない。口にすれば、現実になってしまうと、幼心が唇を縫いつけた。愚かなことをしたと、今にして思う。私が彼との出会いを夢に見、そして未来を見通したときから、この運命は避けようのない現実になっていたというのに。
 私は何も告げずに、ただ予知夢が外れることを願った。
 それだけが未来を変える術だと思い込んでいたのか。いいえ、恐らくは私の愚かな恋心が判断を狂わせた。
 きっとこの胸に抱いた恋心すら、運命を回す歯車の一つであったに違いないと、今ならわかる。そばにいて欲しくて、私は彼の未来に口を閉ざしたのだろう。
 だから私以外の誰も……。運命を受諾するべき彼でさえ、命をつないだあの日には、凄惨な未来が待ち受けているなど、知らなかったはずだ。
 だが、このときがいつまでも続くわけではないことを彼は既に知っているのだろう。
 終りが来ることをただ漠然とであるだろうが、察知していると、私の手を包みこんだ緊張に凍える指先が、それを教えてくれていた。
 私の唇から白い息が立ち上る。それは肌を刺すように冷え込んだ夜気に、緩やかに溶けて消えた。ままならない呼吸に喘ぐこちらを気遣うよう振り返った瞳に、私は口元の端を持ち上げて微笑みかける。大丈夫よ、そう告げたかったが、声は出ない。
 神殿の奥に閉じ込められていた巫女姫にとって、夜露に濡れた下草を掻き分けて坂道を走る行為を誰が想像したのだろう。もし、それを想像した者がいたのなら、きっと私の足は潰されて、歩くこともできなくなっていたはずだ。
 今現在、私の足は歩くことは可能だったが、激痛に麻痺して感覚がなくなっていた。坂道を転がるように体が前のめりになる。その勢いで棒のようになった足が意思とは関係なく動いていた。心臓が跳ね、息を乱す。体を巡る血がたぎるように熱い。
 不慣れな行為に蓄積された疲労は、体の動きを鈍くしていた。もつれる足元に躓きそうになりながら、それでも歩みを止めたくはなかった。
 私はこの日のために、従順な巫女姫を演じていたのだから。
 夢に見る未来を予言として語り、この国の行く末を導いてきた巫女姫がただ一度、恋に生きるこの日のために、すべてはあった。
 あの日の出会いも、今日までの月日も、予知夢に見た終焉も。
 だから、私は巫女姫で在り続けた。
 変わらぬ運命。夢は揺るがぬ未来が映す。私が死んでも遺した予言によってこの国は百年の安寧を約束されていた。
 地を踏む足裏に小石が刺さる。歩くことを知らない軟肌は簡単に裂けて、血が滲む。痛みは先に云ったとおりに、麻痺して感じなくなっている。
 明日、私の足が使い物にならなくなってしまったとしても構わない。歩けなくなったとしても、何の問題があるだろう。
 夜が明ければ、私は再び神殿の奥に囚われる。この命が果てるまで、夢に見た予知夢を繰り返し語るのだ。それが私に与えられた運命だ。抗う必要などない。この夜だけのために私は生まれてきたのだと信じている。彼がこの夜に死んで逝くように。
 それでも頭上に瞬く数多の星と清廉な月に、願うことくらいは許されるだろう。神殿に囚われたときから外へ出ることも叶わず、陽の光を奪われ闇に生きてきた私に許されたのは、夢を紡ぐことと願うことだけだから。
 どうか、お願い。この夜が終わるまで、誰も私たちの行く手を邪魔しないで……
 あの日に始まった恋心は、今日の出来事を知り得ていたからこそ、私の胸に咲いたのではないかと思う。この恋が歯車の一つであったように……
 すすきの葉が煩雑に伸び、見向きされなくなった寂れた川辺に捨てられていた幼子は、あと数日もすれば、蠅がたかる骸に変わり果てていたことだろう。宣託の巫女姫が不在の世は、都の華やかさの裏で暗い影を落としていた。彼はその犠牲者だった。
 痩せ細った体は野犬に齧られでもしたのか、あちらこちらで赤い血肉を見せていた。一番大きな傷は頸にあった。声の代わりに、ひゅうひゅうと、笛を鳴らすように息をもらして私を呼んでいた。
 それ以外にも肌には、まだら模様に紫色に変色した痣が染みていた。血の気の失せた顔は道行く人々を絶望的な眼差しで見送っていた。誰も助けてくれない薄情さに絶望するほど、彼は人間という生き物に希望を抱いていたのだろう。動くこともままならなくなった傷だらけの飢えた体を抱えて、ただ一人、彼は助けを求めていた。
 そのまま放置すれば、彼の命はなかっただろう。救い出したところで、彼の死を私は知っていた。数刻後に死ぬか、十年後に死ぬか、彼の未来には二つの選択肢しかなかった。
 そして、私の選択肢も見捨てるか、拾うかの二つしかなく、私は一つの未来しか知らなかった。もう一つの未来を見たことが一度もないのなら、私が彼を拾わないことで、別の未来を築けたのだろうか。思い返してみても、彼を見捨てる自分など想像できなかった。
 血を失い凍える指先を伸ばしてきた彼の手を取ったとき、私は恋を恋と知らぬうちから、夢に見ていた未来の彼に恋をしていたのだと確信した。
 どこから私の運命が始まっていたのか考えれば、彼に手を繋がれて月の下を走る夢を見たときからだろうか。それとも神和ぎの家系に生まれたときからだろうか。
 後に、私が神殿の闇に囚われることを知っていた家族は、幼き私を様々なところへ連れ出してくれた。そんな秋祭りの帰り道、振り返るなと、隣で制した兄さまの声を無視して、私は土手を下り川辺の彼のもとへ駆け寄っていた。
 私は知っていたのだ、その捨て子が私の運命を確定付ける相手だと。
 彼に出会ってしまったが最後、私は巫女姫として生涯を生きるのだと知っていて、それでも逆らえずに、彼の手を取ってしまった。
 背後で舌打ちした兄さまは、私の未来を知っていたのではないかと勘繰りたくなる。
 代々続く、神和ぎの血筋にあっても、予知の力は女にしか宿らないという話であった。穢れを知らない女だけが夢を見る。穢れを知った母さまの腹から、時を同じくして私と兄さまは生まれた。男と女の違いで、受け継がれる力が変化するものなのだろうか。
 十六を迎え神殿に向かう私を悲しげに見つめていた兄さまは、私には優しい兄さまだった。生まれたときから、今は人づてに伝言を受け取ることしかできなくなっても、神殿の奥に届けられる兄さまからの言の葉には、私の息災を気遣う優しさがあふれていた。
 宣託の姫巫女という誉れの裏にある悲壮な現実。だからこそ兄さまは、私の運命に怒りを感じていたのではないだろうかと思うのは、私の穿った見解であったのだろうか。彼の手を取ってしまえば、自由がなくなると知っていたからこそ、私を制したのではないだろうか。しかし兄さまは、彼を嫌ってはいなかったと思う。
 家に引き取られた彼は、私たちと兄弟のように育った。兄さまは彼を弟のように可愛がった。私が女だから甘やかされたのなら、彼は男だから鍛えられた。
 剣術を仕込まれた彼の体は、少年期特有の成長の早さで瞬く間にしなやかな筋肉を張り付け、そこには痩せ細った棒きれのような男の子はいなかった。
 兄さまが見込んだ彼の剣の腕は、年頃の男の子たちの中では一番で、その自信が彼の背筋をまっすぐと伸ばした。
 家に引き取られたばかりの頃は誰に対しても怯えを見せては、人と視線を合わすことを恐れていた。誰もが彼を見捨てた過去を思い出せば、人に縋るのが怖かったのではないだろうか。もう一度、絶望してしまったら、きっと立ち直れないと本能的に悟っていたのかもしれない。
 だけど力をつけたことによって、彼は怖れを克服し、私の瞳をまっすぐに見返してくるようになった。
 喉を傷つけたことで彼は声を出せなかったけれど、器用に動く指先が言葉の代わりとなって、私の手を引いて連れ出しては、様々なことを教えてくれた。
 出店が集う市場、雨上がりの空に弧を描いた虹、若葉萌える散歩道、緑の木陰に隠れた鳥の巣から覗く小鳥たちや野原に咲いた花、その蜜の甘さ。本当に美味しいのかと疑心に囚われる私に、彼の手が私の口に花を含ませるのに時間はそうかからなかった。
 花の蜜の甘さに目を見張る私に、彼は熱心な眼差しでこちらを見つめ、そっと微笑む。幼さを残しながら、穏やかさと頼もしさを醸し出す端正な顔立ち。そこに浮かべた甘い笑顔に心はおおいに揺さぶられて、私の方が彼から目をそらすようになった。
 その瞳に見つめられていたら、私が胸の奥に仕舞った未来を見透かされそうな気がしたのだ。恋の浅ましさに負けて、未来を告げられずにいた私の愚かさを彼に知られたくはなかった。動揺する私が足元に躓いて転びそうになれば、彼は逞しい腕で私を支えてくれた。抱き留めた腕が彼の胸に私を寄せれば、胸の奥でとくとくと心臓が鳴っていた。その速さが私と同じであったような気がしたのは、私の耳の聞き間違いか。
 彼の瞳に宿ったものがはたして、どういった感情であったのか、私は知らない。命の恩人に対する忠義であったのか、それとも私と同じ恋心であったのか、訊ねる意気地を私は持ち得なかった。
 ただ彼が私の運命に巻き込まれて死んでいく未来が、私と彼を繋いでいた。
 私が神殿に囚われる日、兄さまは彼を私の護衛として大神官に推挙していた。若いながらに剣士としてもまた術師としても優秀な兄さまは、帝にお仕えする大将軍の片腕として、神殿に口を利く力をつけていた。
 兄さまは神殿の奥に囚われる私を哀れんでくださったのだろう。それすらも私の運命に組み込まれていた皮肉だと知っても、私は兄さまの厚意が嬉しかった。
 彼を神殿に供として連れて行けば、予知夢のままに彼を死の淵に追いやるのだとわかっていても、私は別れを決断できなかった。
 私と彼が結ばれることは一生ない。私は穢れを知らないまま、巫女姫としての生涯を送るのだ。ならばせめて想い人をそばにと望んだ私の行いは、やはり彼の死が定められている以上、私の我儘でしかなかったのだろうか。
 私は陽もささぬ神殿の奥の一室に閉じ込められた。壁の向こう、食事が運ばれる折、外に控える彼と視線を合わせるだけの日々。それでも、そばにいてくれることを感じられたのなら、私は闇の中でも孤独ではなかった。
 私は夢を見、予言で国を導いた。瑣末ないざこざがあっても、決して国が傾くことはないと、百年の安寧を夢は語っていた。
 ただ、彼の死は決まっていた。それだけは私が巫女姫である限り、変わらないのだ。
 そして私は予言が外れない限り、巫女姫の座から追われることはなかった。
 私は予言を繰り返す。定められた運命を語り、それにのって国が動いているかのような錯覚は、ある者にとっては脅威であり、邪魔であったのだろう。
 私が消えれば、この国は傾くと邪推し、実行に移した者たちがいた。
 首謀者が誰であったのか、外界を知らない私には語ることはできなかったが、それが愚かな企みで徒労に終わることを知っていた。私が巫女姫として生きる以上、それも定められたことであった。彼の運命が変わらないように……
 私を排除しようとした動きが今宵、神殿を襲った。火が放たれ、神殿のあちらこちらで悲鳴が上がった。不穏な動きがあることを予言し注意を促して万全の対策を敷いていても、定められた運命は間隙を突いて訪れる。
 焔がはぜる音、床を踏み鳴らす幾つもの足音、戸板を蹴破る音、肉を切る音。恐怖に泣き叫ぶ声、断末魔の悲鳴、怒号が飛び交う。悪夢に見た、阿鼻叫喚の地獄図が広がっているのを予測させた。
 混濁する音の渦が私を取り巻き、恐怖で縛る。外から鍵が掛けられた塗籠の中、褥の上で縮こまって動けなくなった私の手を掴んで、連れ出してくれたのが彼だった。
 私たちは夜陰に紛れて神殿から逃げ出した。神殿裏の森をさまよい、獣道を辿って、月の下に出る。
 息を切らせて走る私を導いて、彼も走る。開けた草原に獣たちが敷いた坂道を私たちは走った。運命から逃れるように、ただ走った。走り続けていれば、何も終わらないと信じて走った。
 白く煌々と輝く月の明かりは、草原の緑を幼き頃に見た碧き大海原のように見せていた。風にざわめき、波のように寄せてくる草が私の足を絡めとろうとする。足裏の皮膚が裂けて血が滴る。下草の葉が衣の裾から剥き出しになった足を切る。麻痺した足がもう自分のものではなくなりつつあった。
 弾ける心臓が胸の奥で破裂しても構わない。
 いっそこのまま、私も彼とともに逝けたのなら、それはどんなに幸せなことだろう。
 一瞬、私は夢を見た。それは予知夢ではない、私の願望。
 決して叶うことがない願いに囚われた私の意識が、視界に紗をかけ目隠しをした。
 繋いだ手を、走る道筋を私は見失って、足を滑らせる。強かに打ちつけた頬と口の中に広がった熱に、私は現実に目覚めた。
 凍えた手が私の頬に触れる。夜の外気より冷たくなった彼の手に、温もりは感じない。長い距離を走ってきたというのに息の乱れはなく、汗を一つもかいていない。
 その現実に私は涙を流した。目を背けていた事実に気付かないわけにはいかない。
 頬を滴る熱に比べて、彼の手の冷たさ。それは死人の冷たさだ。
 彼はもう既に死していた。神殿の奥に押し入ろうとする侵入者たちの前に立ち塞がり、彼は戦って命を落としたのだ。
 兄さまによって鍛えられた彼の剣術は、神殿に侵入した狼藉者たちを斬り捨てた。鞘から抜き放たれた銀の刃が、神殿内に灯された明かりを受けて煌めくのを私は何度、夢に見たことだろう。緊迫した顔つきで、侵入者たちと相対する彼の姿を夢に見るたび、私は悲鳴を上げて飛び起きるのだ。
 彼は洗練された太刀さばきで侵入者を屠る。手首の返しによって、左右に刃は踊り、肉を斬り、骨を断つ。心臓を突いて、首を断って、朱色の雨が降らせながら、次々と敵を血の海に沈めていく。黒装束に身を固めた侵入者たちを鮮血でより黒く染め上げて、幾人もの敵を斬っては薙ぎ倒す。刃が脂で鈍り、敵を仕留めそこなったところで、彼の動きが乱れた。その隙を敵は見逃さない。
 敵の刀が彼の背後から肉を貫き、骨を削り彼の心臓を裂いた瞬間を。痙攣した腕が救いを求めるように虚空へ伸ばされる様を。私は夢の名残として網膜に焼きつけていた。
 あの悪夢が今宵、現実になった。彼は命を落として骸と化した。冷たくなった屍を脱ぎ捨てた彼の魂が私の手を取って、安全な場所まで逃す。
 私が幼き頃から繰り返し見た予知夢が現となったのだ。
 縋るように伸ばした私の手が現実を認識した瞬間、彼の体をすり抜けていた。
 認めたくはなかった。信じたくはなかった。ずっと手を繋いでいたかったのに、夢は終わった。未来は現在になり替わり、彼はもう私の手に触れることのできない次元に属す。
 逝かないで……、喉を突く嗚咽に声が出せず、私は瞳で訴える。月の下で見る彼は困ったように微笑んで、手を持ち上げると道の先を指差す。
 道はどこまでも続くだろう。だけどもう、彼は行けない。
 私たちの道程はここで終わるのだと、言葉の代わりに冷たい指先が語っていた。
 この道の先を行けば、誰かが私を保護してくれる。それが誰なのか、私は夢を見ていないので知らない。確実に言えることは、私はまた明日から神殿の奥に囚われ、今までのようにこれから先も巫女姫として生き続けるということだ。
 それが私の運命であり、彼の運命であったのだから。私が彼とともにあることをあの日に選んでしまった、ただ一度の恋の結末であったのだから。
 彼を突き放せば、未来は変えられたのだろうか。夢を見るため闇で塗り込められた神殿の奥で、私が恋を諦め孤独に生きていれば、彼は死なずに済んだのだろうか。多くの者たちが平穏に暮らす安定した未来を裏切れば、私と彼は結ばれたのだろうか。
 私が選んだ運命は、ただただ私の我儘で、私が隠した真実を知れば彼は私を憎むだろうか。憎んで、その凍える手で私の頸を絞めてくれたのなら、私は喜んでこの身を彼に差し出そう。
 でも、私は知っている。彼は私を殺してはくれない。魂だけの存在となっても私を救おうとした彼は、例え私自身が死を望んでも殺してはくれないだろう。己と同じ境遇の子供たちを苦しげに見つめた彼は、自らの死とこの国の未来の平穏、そのどちらを選ぶのか、わかりきっていた。そんな彼だからこそ、私は恋い焦がれたのだ。そして、この運命に巻き込んでしまった。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……と、謝罪の代わりにこぼれた涙が、氷に変わる。彼の冷たい指先が触れた先から、涙は熱を奪われ、宝石のように煌めきながら私の膝の上に落ちた。
 涙がすべて凍らされ、私は彼を見上げる。生と死の、二つの温度が重なり合うなか、冷たい指先が私の唇をなぞって、彼の指は私の熱に溶かされるように消えて……逝く。
 そっと微笑む彼の唇が夜に儚く溶けて消える刹那、ある言葉を刻んだ。
 彼に伝えたくて、胸に仕舞っていた想いを語る言葉が、音もなく私のなかに沁みる。
 夜の静寂に私の慟哭が響き渡った。
 明日から私は再び巫女姫の役割を果たすため夢を見、予言を語り、百年の安寧を導こう。彼が守ってくれた未来のために、私は生きよう。
 だけど今だけは、泣かせて欲しい。恋に殉じた彼のために……

C09 この道の終わり
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