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C07  おばけの道案内

 8月3日、安城市名鉄桜井駅 
 
 着替えや大きな荷物は、宅配便でおとといのうちに粟原のおばあちゃんの実家に送ったから、トートバックと日傘だけを持った。

 駅まで歩く途中で、裕人先輩の家に立ち寄って、裕人さんが読んでいた本を一冊だけ借りて来た。コンピュータ関係の技術者を目指していた裕人さんの部屋には難しそうな本ばかり残されていた。
「私も、あの子がどんな勉強をしていたのか、良く分からないのよ」
 裕人さんのお母さんは、相変わらず明るくって優しかった。なんとなく背表紙だけで、プログラムの入門書らしいのを選んで、「はい」って手渡してくれた。
 夏休みだからね、朝の普通電車だけど座ることが出来た。さっそく借り出した本を開いてみたけど、さっぱりだった。知立で乗り換えるまでの間、一生懸命に目を通したけど……C言語っていうの、めちゃくちゃ難しい。

 8月3日、粟原温泉郷

 中津川を降りたら、お迎えが来ていた。タクシー乗り場のそばに粟原温泉と描かれた実家のマイクロバスが止まっていた。
 TOICAをタッチして改札を出ると、真っ白な着物姿の私と同じ十五歳くらいに見える女の子が待っていた。
「希鈴姫、お待ちしておりました。大婆様より姫様のお手伝いをするようにと、言付かっております――紗枝です」
 この引き継ぎ役の女の子のことは、おばあちゃんから亡くなる前に聞いていた。真っ白な幽霊衣装姿をまとった紗枝ちゃんに「よろしくね」とお辞儀した。
 私、安城市内の学校に通っていたから、おばあちゃんのお仕事は少ししか習ってないの。夏休みや冬休みに……それと、おばあちゃんの具合が悪くなってから慌てて教えてもらったから……色々と細かなことになると、この子が頼りなの。

 中津川駅前の通りではあんなに蒸し暑かったのに、粟原に着くとしっとりとして涼しかった。
 粟原にいる間の私の部屋は、おばあちゃんの部屋をそのまま、引き継いだ。
 ひとつは、「お仕事」のための隠れ家。
 もうひとつは、母屋の西隅のある小さな部屋。お仕事以外のときは、おばあちゃんはいつもここにいた。そして、私以外の孫たちとは、この母屋の部屋で遊んでいた。

 この温泉旅館を経営しているおじさんやおばさんにご挨拶を済ませたら、この部屋で紗枝ちゃんに手伝ってもらって着替えた。
 それから、数日先までの予定や予約を教えてもらう。紗枝ちゃんは、メモも持たないのに、すらすらと私の週末までのスケジュールを読み上げた。

 最初に尋ねて来たのは、粟原温泉の組合長さんや商店会のおじいさんたちだった。毎年、粟原地区の人たちの住所や、転出先を集計した綴りを作って届けてくれるの。
 
 おばあちゃんと同じ格好――白い巫女さんの衣装みたいな袖の長い着物姿で、まるで占い師のように紅い座布団に座る私を見て、地元の名士の皆さんは、口々に可愛いと言ってくれた。
 そして、色紙を追って形を作った花をお供え物みたいな感じで私の前に並べて、お辞儀をした。
 ……なんか、とても不思議な感じだった。

 4年前、12月28日

 湿った重たい雪が、二月初旬の凍った竹林を揺らした。
 そこは、不思議な場所だった。
 民間信仰って言うのかな?
 旅館の母屋から離れた竹林の中に、おばあちゃんの隠れ家がある。「隠れ家」っていうのは、とりあえずの呼び名。おばあちゃんからあわただしく跡を継いだせいね、本当の名前を知らないの。茅葺屋根の落ち葉や苔を被った小さな庵で、何となく昔のお茶室に似ている。だけど、隠れ家を囲む竹垣には梵字のような呪文を描いたお札が張られていた……

 冬休みにこの粟原の実家に遊びに来たときだった。ふいに、お母さんが変な話を始めたの。あのね……粟原の沢には冬でも綺麗な蛍が飛んでいるって、いうの。
「そんなのあり得ないよ」
 初めはからかわれていると思った。
 だけど……
 お母さんは、まるで絵本を読むかのように続けた。
「冬の蛍はね、虫じゃないのよ。昔、むかしに亡くなった大勢の人たちが、蒼い炎になって時々、おばあちゃんに会いに来ているの。
「……希鈴にも蛍が見えるかも知れないわね。
試してみる?」
 お母さんはそういうと、部屋の電気を消した。障子とガラス窓を空けて、先に立って渡り廊下から庭に降りた。私は慌てて追いかけた。
「待ってよ」
 転びかけながら庭へ降りた私を、「しーっ」とお母さんが黙らせた。
「いるわよ……ほら、向こうの楓の木の枝先に……」
 お母さんが指差す辺りに目を凝らした。星空に照らされた雪が微かに積もった庭……その静かな中をすうーと、淡い蒼い光が流れた。
 あ……
「希鈴、見えるでしょ……」
 それはとても綺麗な冷たい炎だった。あまりの美しさに、ゆっくりと歩みだした。
 風に揺らめく炎に向かって歩いた。
 手が届くと思ったら……炎が消えた。
 だけど……庭を出た向こうの竹やぶにたくさんの無数の蒼い炎が蛍のように群舞していた。
 綺麗……
 思わず声を上げた。
「お母さんが手を振った……合格よ、希鈴。おばあちゃんは蛍たちの向こうにある隠れ家にいるわ」 
 え……
 おばあちゃんの隠れ家に入ってはいけないって、ずっと言われていた。「絶対に厳禁」って言ってたのに……こんなに簡単にOKが出るなんて思っても見なかった。
「あなたはおばあちゃんのお気に入りだから、見えたって言ったら、おばあちゃん、きっと喜ぶわよ」
 お母さんの言葉に背中を押されて、蒼い蛍の群れに歩み出していた。
 ……たぶんだけど、あのときの私は何か催眠術みたいなものに掛かっていたんだと思う。
 蒼い蛍の群れの中に入ると、次々に周囲の空中に声が沸いた。
「菊枝さんのお孫さんかい?」
「かわいいねぇ」
「真理子さんの小さな頃によう似てらっしゃる」 
 竹垣に囲われた庭の中で、口々に見えない声が言うの。私は慌てて、きょろきょろ見回した。だけど、蒼い炎が風に揺れているだけ。
「おばあちゃんとお母さんのことを知っているの?」
 もう、髪の周りに飛んでいる蒼い炎に問いかけた。
「はい、そりゃあ、お世話になっていますからね……」
 今に待って思い返すと、不思議だった。怪談とか幽霊とか苦手な私なのに……少しも怖いとは思わなかった。

 その夜は、私はおばあちゃんの隠れ家に泊まった。おばあちゃんと何を話したのかは、覚えていない。
 たくさんの骨董品や古地図が溜め込まれた狭い部屋で、おばあちゃんと夜が明けるまでお話した。不思議と眠くならなかった。
 何となく覚えているのは、火鉢で炭がくすぶる匂いだけなんだけどね。

 でもね、それから私は粟原温泉の中で次第に特別な子になっていた。といってもお年玉が増えた訳じゃない。
 いつでもおばあちゃんに会えるようになったの。おばあちゃん子の私には何よりも嬉しいことだけど、中学生になって、少しは周りが見えるようになったら……複雑な気持ちになった。
 他のお孫さんの中には、もうりょばな社会人になられた人たちもいるけど、おばあちゃんと面会できる順位は私が最優先だったの。

 それから、少しづつ変化か起きた。お正月休みが明けて、安城に帰った。三学期の間は、何となく感じるだけで、粟原みたいに特別な場所じゃないと、蛍火とかは見えなかった。
 変化に気づいたのは、六年生に進級してからだった。
 
 4月5日、学校の中庭

 せっかくの満開の桜が、しとしと雨に濡れていた。冷たい雨粒に打たれて、淡い朱色が枝先から零れ落ちる様子を、校舎と音楽室をつなぐ二階の渡り廊下からぼんやり眺めていると……ふと、気がついたの。
 その子は、桜の花びらのじゅうたんに立って、私と同じく校庭の桜を眺めていた。
 傘も差さずに三ツ編を濡らしていたから、
「ねぇ……そんな所にいたら風邪を……」
 そう、声をかけた途端に目が合う。
 そして、柔らかい含み笑いを返して来たと思ったら……

 ……消えた。

 それが、「見えた」の始まりだった。

 4月6日、裕人さんの部屋

 ……あの桜の木は、出るっていうウワサがあるんだ。

 その話を裕人さんにしたら……神妙な顔でこう言われたの。
 去年になって引っ越しちゃったんだけど、裕人さんと、その頃、マンションでは隣だった。裕人さんは、四歳年上で、名古屋の私立高校に通っていた。数学が得意な人だったから、私は計算ドリルを抱えて教えてもらいに良く通っていた。
 図形の問題を解いている途中で、気分転換に何となく、「見えた」って話したの。
「……まさか、幽霊だなんているはずない……」
 ごまかし笑いの途中で、不意に気づいた。
 あの、冬の夜の蒼い蛍は、もう亡くなった人たちの炎……つまり……
「今頃、気づいたのか……」
 私が鉛筆を握ったまま固まったのを見て、裕人さんが呆れたように笑う。幼馴染みで、兄妹みたいだったから、私は何でも身の回りの出来事を裕人さんに話していた。
 おばあちゃんが大好きな私は、頭の中で、「おばあちゃんがおばけ相手にお仕事をしている」とは結びつかなくって、つまり、何が起きていたのか理解できてなかった。


 でも、それから暫らくして、おばあちゃんは具合が悪くなった。初めて風邪をこじらしたって聞いてたけど……私が中学二年生にあがって間もなく、入退院を繰り返すようになってしまった。

 おばあちゃんのお仕事は、おばけ相手に道案内をすることだった。大昔に亡くなった人たちは、お盆やお彼岸や法事のときにこちらへ帰ってきても、道に迷ってしまうことがあるの。道路も町並も昔とはすっかり変わっているから、それに子孫の人たちも引っ越しているから、会いにいけない。
 私は、お仕事が忙しくなるお盆は、おばあちゃんの傍で出来るだけお手伝いするようにした。
 おばあちゃんも、昔の古地図や字絵図の見方を教えてくれた。市町村合併とか、土地改良とかで住所が変わるなんて、知らなかった。
「希鈴さんの住んでる桜井は、もともとは碧海郡桜井町といったんだよ」
 おばあちゃんの教えてくれることは、昔のことなのに新鮮な驚きがあるの。
 だから、もっと傍にいて、色々教えて欲しかった。

 2月8日 安城市桜井町

 その日は、何の前触れもなくやってきた。
 いつもどおり夕ご飯を食べて、いつもどおり入浴とシャンプを済ませた。最近、ちょっと伸ばしている髪を乾かしていると、ドライヤーの風音に携帯電話の着信音が混じった。
 裕人さんのお母さんからだった。
「希鈴ちゃん……裕人が……」
 裕人さんのお母さんの声は震えていた。背景には病院らしい慌しい声が飛び交っていた。

 それから、慌てて家を飛び出した。名鉄電車に地下鉄を乗り継いで、名古屋市にある国立病院へ駆け付けた。 

 集中治療室のガラスの向こうに裕人さんが眠っていた。包帯だらけで、点滴や心電図や……管だらけになっていた。

 力が抜けて、私はぺたんと病院の冷たい床に座り込んでしまった。
 裕人さんは最近になって、オートバイの免許を取ったの。上手になったら後ろに乗せてやるって、得意そうに話していたのに……交通事故だった。信号を見落として飛び出したトラックに跳ねられたらしいの。
  
 3月22日 お葬式

 菊の花もたくさん集めたら、綺麗な匂いがするって、初めて知った。泣き続けたまま車に乗せられたから、どこなのかも覚えていない。読経が続く間、ハンカチをぎゅっと握り締めていた。たぶん、私の心は壊れていたと思う。不思議と涙が出てこない。
 ご両親の隣に席を用意してもらったから、参列した方々は、私のことを妹と勘違いした人もいたと思う。
 裕人さんの学校からも大勢の先生方やクラスメイトが来ていた。だけど、どんな弔辞だったのかも覚えていない。

 放心状態だった私の心に突然にスイッチが入ったのは、お葬式も終わりになってから。
 
 さあ、お兄さんにお別れをして下さい。

 誰かの声がそうささやいた。
 見ると、参列してくれたみんなが色とりどりのお花を白い棺にあげていた。

 えっ……?

 菊の花を渡されて、ぼんやりとしたままの私が歩み寄ると、他の人たちは場所を空けた。私が最後にお別れする順番になっていた。
 掌に包んだ白い花を棺の中に入れた。

 葬儀社の人たちが、それを待っていたように棺に蓋を被せた。

 やめて……っ

 「出棺です」という言葉を聞いた途端に、わたしは差し伸べられていた誰かの手を払って、棺にすがりついた。
「いやだ、裕人さんを取らないで……」
 後は、泣きじゃくった。結局、出棺も、斎場へ行くもの三十分以上も待たせてしまった。

 8月4日 隠れ家

 さあ、お仕事って、張り切った。
 だけど、ここへ来るお客さんたちは、行列を作ったりはしない。ノックもしない。
 ……気が付くと、この狭い部屋の中に佇んでいるの。
「こんにちは、道案内ですか?」
 誰か、いると感じたから、部屋の片隅に向かって声をかけた。すると、昭和初期の紳士のような丸眼鏡の老人が、よれた帽子を取って会釈してくれた。
「高沢の孫娘のところへ行きたいのだが……」
 老紳士は、困った顔でそう話し始めた。七十年以上も昔と今とでは、町並みも、地形も、地名までも違うの。
「土地区画整理がありましたから、高沢はもうありません。いまは……星ヶ丘ハイランドっていう地名になっています」
 驚いた顔の老紳士の前で私は、自治会長さんが届けてくれた綴りを捲った。
「お孫さんは、その星ヶ丘ハイランドのN棟412号室にお住まいですよ」
 ため息をついている老紳士の前に、地図を二枚重ねて広げて見せた。
 ひとつはおばあちゃんが大切にしていた古地図で明治中期の字絵図らしいもの。その上に現在の地図を重ねる。

 次に来たのは、着物姿のおばさんだった。
「せっかく、息子兄弟に会いに来たのだけど、家を覗いたら誰もいなかったんですよ」
 慌てた様子のおばさんにお茶を勧めながら、綴りをあたる。
「えっと、お兄さんは、豊橋市へ転出されています。それと……」
 私はちょっと困った顔で、書箱の中から一通のエアメールを取り出して見せた。粟原で育った人たちは信心深くてちゃんと居場所を知らせてくれるのだけど……
「キャンベラっていう外国の町に出張中です」
 私は困った顔で笑った。

 8月23日 隠れ家
 たくさんの人たちが、道を尋ねて私のところに来た。だけど、私が会いたいって思う人は来てくれない。
「裕人さん……」
 待ち疲れて眠った頃になって、髪を大きな手がくちゃくちゃと撫でた。
 顔を上げると、少し日焼けした笑顔と目が合う。
「裕人さん、遅いよ……」
 Tシャツの袖を肩口まで捲り上げたバカ元気な格好で、裕人さんは現れた。すがり付くとあの頃と変わらない匂いがした。
「わるい、わるい、バイクで事故るなんて恥ずかしくってな……」
 まるでちょっとこけた時みたいな笑い声が返ってくる。また、髪をくちゃくちゃと撫でられる。
「……ひどいよ、そんな言い方って」
 半泣きの私の声を、急に低くなった声が遮った。
「わかってる……俺だって、やりたいことが色々とあったんだ。夢だって、友達だって……希鈴とだって……」
 急に、裕人さんの声が悲しげに震えた。 
「希鈴、おまえ……おばけの道案内をしてるんだよな……」
 うん。うなずく。
「導いてくれよ……どこへ帰ればいいのかも、
何を願えばいいのかもわからない」
 怒りや悲しみが入り混じった熱い言葉の石つぶてが降って来る。裕人さんは、家がどこにあるのか忘れた訳じゃない。気持ちが、突然に未来が途切れたことについていかない。
 それだけだった。だけど……
 誰かを導いてあげるって、こんなに難しいとはじめて思った。おばあちゃんは、こんなとき、柔和に微笑んだまま、教え諭していた。地図に書ける道案内は簡単だけど、心の行き先を教えてあげるのは、どうしたらいい?
 おばあちゃんの真似は、私には出来ない。
 だから、一生懸命に考えた。
「わたし……私、じゃあ、だめ、かな……?」
 消えそうな声で答えた。
「私、裕人さんの分まで、一生懸命に生きるから、裕人さんが叶えたかったことを私がするから……だから、そばにいて、私のこと、応援してっ!」
 最後は、力いっぱいに叫んだ。これじゃあ道案内じゃなくって、私の気持ちだった。そう気づいた。そうしたら、視界が揺れていた。後は、涙が止まらなくなって……私、泣いちゃったって思ったら、どんどん涙があふれてきた。
 最後は、声をあげて泣いた。
「希鈴は本当に強いな……」
 裕人さんの声が笑っていた。
 えっ……?
「少し、安心した。これからも傍にいる」
 そう、笑顔を残して裕人さんは、消えた。

C07  おばけの道案内
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