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C06  ワン・ラスト・キス

 シャンと整えられた輝く前髪が隠れてしまうほど深く、細やかな刺繍の施されたフードを被り、少女は揺れる荷馬車に身を任せ、わずかに見える空を眺める。夏の高い青が広がり、ところどころに点在する雲は、風に吹かれ、ゆるやかに西へ流れている。
 フードの影になった瞳は、黄金のように艶やかに。つい先ほどまで泣いていたのか、少しだけ赤くなった白目、涙の跡は、少女のふくよかな頬を辿り。
「落ち着いたか?」
 少女が上を向いたのに気がついたのか、馬の手綱を握る御者が、一度だけ振り返り声を出した。
「…ぃ、ぁ……ござぃま……」
 消え入りそうな声で少女は答える。
「まだ後1日ある、落ち着いたなら、寝てたらええ」
 フードが一度だけ軽く揺れる。御者は前を向いたまま、手綱に力を込める。それに応じるように、馬車を引く2頭の馬が、まるで離れていても血がつながった双子が同時に歌を歌いだす様、いななく。
 少女の瞳は後ろの、荷馬車が作る轍を見つめる。遥か先、見えないほど小さくなってもなお、轍は交わることない。
 まだ幼い、ふっくらとした頬が揺れ、少女の口角が一度上がる。申し訳程度に着いた小さな口が動き、音を出す。
「……ね」
 あまりにも小さくて、何と言ったのか聞きとることができない。きゅっと結ばれた唇は、少女特有のものなのか、わずかに濡れ、震えている。黄金のような瞳は、けれど死んだ鴉のように虚ろに、ゆっくりと流れる風景をただ映している。
 瞳に映るのは、轍さえも見えないほど遠くの、越えてきた山よりも、遠くの。
 何年もの間閉ざされていた塔の中と、最後は、あの人のまっすぐな……
「……ね」
 少女の口が、もう一度だけ動く。


 早い時間が流れる。走る。走る。二人で、森の中を、止まることなく。走る。走る。お互いの、切れてしまうそうな息さえも聞こえるほど近く。走る。走る。少女の手は、青年の手と繋がり。走る。走る。ただ、一心に。止まることは、許されない。止まってしまえば、すべてが、失われてしまう。だから。ただ、走る。走る。夜という鉄壁の闇が、四方を覆う。だから、少女には前を走る青年のわずかな後ろ姿と、その手から伝わる温もりだけが、すべて。だから、だから。ただ、走る。走る。走る、走る。
 青年が立ち止ったのは、東からの日がわずかに上がる頃。それまでずっと走っていたにも関わらず、青年の息はそれほど乱れていない。よく鍛えられているのだろう。それとも、少女の早さなど、青年からすれば、大したものではなかっただけかもしれない。
「ここまで来れば、大丈夫だ」
 端正な顔つきの青年は、少女と同じようにフードを被っていて、振り返るとちょうど逆光となり、細かな表情は分らない。
「……とぅ」
 青年は余った手をぽんと少女の頭に乗せると、フードの上から優しくなでる。それから再び東に向かうと、手をつないだまま歩き始める。少女はただそれに従い、ゆっくりと歩く。少女は今自分がどこにいるのかまるで分かっていない。けれど、いつしか森の中の、少し整えられた道に出ていた。
 刹那、青年は立ち止まり、道を外れると少女と一緒に適当な大きさの岩の陰に隠れた。道の先に、逆光に黒く人の影が見える。青年の後ろで、少女の胸がはげしく打つ。影は次第に大きくなり、それが人だけではないことが分かってくる。
「よかった、あれは味方だ」
 言いながら青年が立ち上がる。
「お前を国外まで連れて行ってくれる。あの荷馬車に乗ってしまえば、もう安全だ」
「あ……」
 ぱっと青年は少女の手を離すと、その人影に走り寄る。ややしてから、青年は戻ってきて、再び少女の手を握ると、再びその人のもとへと急ぐ。青年よりもかなり年配の、少女からすると、幼少の頃に社交界のマナーを教えてくれたバトラーに似た風貌の男性だ。
「よろしく」
 けれどその男は慇懃とはほど遠い態度でただそれだけを言うと、荷馬車の前へと回ってしまう。
「無口だけどいい奴だ」
「あの……い……に?」
 青年は少女の両脇に手を入れると、軽々と持ち上げて荷馬車に乗せる。屋根はあるが、ところどころ傷んでいて、節の間から空がのぞけるほどの状態だ。荷馬車というだけあって、積み荷はいろいろとある。ちょっとした家具から、シーツのようなもに、いくつかの粗末な衣類に、はさみだろうか、裁縫道具も揃っている。小柄な少女であれば、その荷物に紛れることができるであろう。それを一通り見てから振り返ると、青年はまだ荷馬車に乗ろうとしない。
「いっしょ、に?」
「それはできませんよ。これ以上は、俺にはできない。だけど罪を償ったら、必ず追いかける」
「そんなの、だめょ」
 青年の背後から、いつの間にか複数の、よく知った装束をまとった人影が、東からの光に照らされて追ってきている。
「行って」
 青年の声に応じるように、荷馬車がゆっくりと動き出す。少女は状況を頭で考えるより先に、青年の首に腕を回す。
「だめです」
 青年の制止を振り切るように、少女は青年にキスをした。青年はまるで頭突きでもするように少女を突き飛ばすと、振り返り、脇に刺していた剣を抜く。
 少女は、青年の名を叫んだ。


 いつしか眠りに落ちていた少女が目覚めたのは真夜中のこと。荷馬車に置かれていたシーツをかけられていた。ほど近くに御者も眠っている。窮屈そうに体を曲げていて、少女がいなければ十分な広さがあるだろうに、あの人がいい奴だと言ったのだからそうなのだろう。少女はもそもそと、その御者を越えて、荷馬車の縁に来た。
 高い空には一面に星が瞬いている。
 塔にいたころ、狭い窓からあこがれていた世界そのものが、全面に広がっている。まるで硝子細工を扱うように、大切に大切に育てられた少女は、そこから出たことなど数えるほどしかなかった。狭い窓は南を向いていたから、この季節には火星のように赤い星が少女の視線の先に輝いていた。けれどもっと高くに浮かぶ、天の川に輝くアルタイルやデネブ、ベガのほうを好きだと義務のように言わなければならない。少女は、後ろからケンタウロスに狙われている蠍そのもので、だから、逃げ出した。
 ふと笑ってしまい、首を振る。
 そのために、犠牲にしてはいけないものを捧げてしまったのだ。少女のお願いをあの人は断らなかった。
 いいえ、ただ断ることができなかった。
 荷馬車に揺られて考えていたのはそのことばかりだ。少女のお願いは、あの人にとって命令でしかない。この塔を抜け出して、自由の身になりたいという少女の浅はかな思いは、あの人にとってその生すべてをささげなければならないほどの重罪だ。
 首を振る。
「なんだ、起きてたのか」
 むくりと御者は体を起こすと、縁に座っていた少女をまっすぐ見る。ぷいと少女は顔を背ける。
「いまさら後悔してるのか」
 遠慮のない御者の質問に少女はこたえない。
「あいつは俺の親友だ。親友の頼みだから、俺はお前を運んでいる。お前が誰かなんて興味がないし、たとえそれを知ったとしても俺は態度を変えるつもりはない。お前のせいで、あいつが死んじまうなんてことになったら、俺はお前を許さない」
 死、という単語に少女の体がびくんと震える。
「といっても、あいつにゃ死神がついてる。殺そうったって、楽に殺せやしない。心配すんな、あいつは死なないよ」
「ですが、あの人の……」
 少女の声は相変わらず小さいが、夜の澄んだ空気のためか、聞き取ることができる。
「ですが、あの人の意思ではなかった。わたくしが、あの人の自由を奪ってしまった。自分が自由になりたいからと、かけてはいけない天秤にかけてしまった。あの人が断れないことを知っていたのですから」
「あの人、ねぇ。あいつはそんな奴じゃないと思うが」
 少女の黄金の瞳が御者をにらむ。御者はそれに気がついたが、そのまま続ける。
「そんな奴じゃないってのは、もっと前向きな意味だ。断ることくらい器用なあいつならできるだろうさ。だけど断らなかった。俺は断るべきだって進言したね、危険すぎるし、見返りがない。だってそうだろう。あいつがお前を国外に逃がしてやったとして、あいつに何が残る? その上あいつはお利口ちゃんだ。頭が悪ければ、今ここにいるか、あるいはすでに捕まっているか、だ」
「そんなこと」
「それで、お前は利口か、馬鹿かどっちだ? このまま国を出るか、それとも、戻るか」
 御者はそれきり口を閉ざす。少女はすぐに答えることができなかった。けれど、荷馬車を降りることはなかった。


 次に少女が目覚めると、すでに太陽は昇っていた。馬車はゆっくりと動いており、後方には、ずっと先まで続く轍が、少女のこれまでの軌跡のように続いている。日の影になっているせいか、少女の顔はよく見えない。それでも、フードのかかっていない顔には銀の髪がさらさらと揺れて、いくらか顔色もよく見える。
「食いな」
 少女が起きたことに気がついた御者が、手綱を握ったまま袋を投げる。少女はそれを受け取ると、中を見た。どうやらパンのようだが、今まで見たことがない種類だ。
「不味くてもな、なんか腹にいれときゃなきゃだめだ。飲みもんは、もう少しがまんしてくれ、あと少しで国境を越える。そしたら、じきに村に着く」
「ありがとう」
 はっきりとした口調で、けれどもか細く少女が答える。少女の中の変化が、その声に現れているのだろう。黄金のように輝く瞳から、憂いの多くは取り除かれている。
 少女は袋の中のパンを少しずつちぎりながら口へ運び、再び轍の残る道を眺める。ふと、指が唇に触れ、あの人との別れのシーンを思い出す。なんと大胆なことをしたのだろう。あの塔を飛び出して、国を出る決心をする以上に、あの瞬間の決断は大胆だった。少女にとって……少女の身分にとって、口づけは婚姻を意味する。あの人の首に回した手、ぐいと引き寄せて、そうすることでしか、つなぎとめることができないかのように。
「食っとけつったのに、全然進んでないじゃないか」
 御者が、荷馬車の後ろに回り、ため息をついた。荷馬車は止まっていた。
「もう国境が見えている。で、だ。国を出るってのは、簡単にはいどうぞってわけじゃない。ちょいっと検査があるわけなんだが、そこでお前さんに相談だ。ここで荷物として、じっとしているか。まあ、人形として、国を出るか。それとも、俺の娘ってことにして、前に座っているか。だが、どっちが安全か、俺には分からない。人形じゃないことがばれたら終わりだろうし。お前が俺に娘に見えるか? まるで似てない」
「それでは、恋人ということにしてはどうでしょう」
「ほほぅ、それは大胆な意見だ。だが俺に少女趣味はない」
「人形でも同じだと思います。ただ国を越える間だけの関係です」
「……んにゃ、俺はお前を見捨てるつもりはない。少なくとも、お前が安全な場所に着くまでは」
「ありがとうございます」
「まあいい、じゃあ、恋人ってことにしておこうか。けど、俺にはやっぱり不釣合いじゃないか……身分って意味で」
「生まれながらの身分など、捨ててきました」
「拾われているかもしれねぇだろうが。その髪の色と、瞳は、高貴な徴だ」
「わたくしの、顔を知るものなど、外におりません」
「……オーケー。分かった。俺もお前が誰なのか知らねぇしな。だったら、フードは外しておきな。もっと安っぽい服が、そこらにある。適当に着替えて、前に来るんだ。そしたら、出発だ」
 納得したのか、御者は腕を組んでから、うんうん、と頷く。
「お前、声出るんじゃないか」
「もう、大丈夫です」
 御者が離れるのを確認してから、少女は辺りの荷物を適当にあさった。あの人に生きてもう一度会うまで、自らの力で生き続けなければならないのだ。そのために、弱さは捨てなければならない。
 ローブを脱ぐと、そこにあった中でも最も粗末な、ただ一枚の布に少し手を入れただけの服に着替える。それから別の荷物の中にはさみを見つけると、自らの髪を切っていく。
 短く、
 過去を捨てるように。


 御者の隣に座る。一瞬驚いて言葉を失った御者であったが、一度だけ口笛を鳴らすと、馬に鞭を入れる。
 荷馬車はゆっくりと動き始め、少女と御者を乗せて、国を越えていく。
 轍とともに、少女の白銀の髪をその道に残して。

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