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C05 sai−ai

「絶景かな、絶景かな」
 悦に入ったような声が癇に障ってシモンはヨハンを横目で見た。蘇芳色の髪に浅黒い肌、まなじりのわずかに吊り上がった瞳は琥珀の輝きを宿している。薄いくちびるは冷淡な印象を与えるが、鼻筋の通った顔立ちの中にあって冷たい魅力を放っている。平凡に目鼻を描いたようなシモンと比べるまでもなく華やかだ。
「ヨハン、静かにしよう」
「静かにしないといけない理由があるか」
 ヨハンの目が車窓からシモンへと移る。琥珀の中に自分を見つけてシモンは後悔した。狭いコンパァトメントの中に逃げ場はない。目的地の駅まではいやでも同席しなければならないのだ。シモンは急いで視線を窓の外に向けた。駅舎の傍で櫻が咲いている。満開の薄紅はどこか現実離れして見えた。ヨハンが鼻を鳴らす。
「櫻の下に女がいるんだ。ふるいつきたいような美人だぜ」
「え」
 ヨハンの指をつい目で追ってしまった。大陸西端を走る鉄道の駅舎はところどころ救いようのない劣化に襲われている。力強い老い櫻はその惰弱さを嘲笑うようだ。だがどこにも人影は見えない。シモンは目を凝らした。ヨハンは不要な嘘は言わない男だ。それなのにシモンには女の影さえ見えない。だから諦めてヨハンの指を見る。整えられた爪は櫻の花弁のようだ。
「いないよ」
「目が悪いんぢゃないのか、シモン」
 呆れたようなヨハンの声にのどの奥で熱いものがわだかまる。シモンは目的地までの長い旅路を思ってすでに疲れ始めていた。四人席のコンパァトメントを二人きりで使っているのに奇妙に湿度が高くて息苦しい。
「女がいるぢゃないか。ほら、あそこに」
「嘘」
「嘘ぢゃない」
 シモンには見えない。ヨハンの手が伸びてきて肩に触れた。窓へと押される。
「女がいるだろう。金髪に青いワンピィス・ドレスだ。靴の色も揃い」
 ヨハンが述べる特徴の女をシモンは見つけられない。困惑したまま肩越しに振り返って……悲鳴を上げそうになった。
「よろしいかしら」
 コンパァトメントの扉を開いて一人の女が立っていた。ワンピィス・ドレスと靴は揃いの青。紫紺の瞳と白い肌。豊かな金髪がやんわりと肩にかかっている。シモンはあわててヨハンを見たが彼は車窓から櫻を眺めてている。
「ええ、と、あの」
「座ってもよろしいかしら」
「ああ、はい」
 二人がけの座席ひとつを独占しているヨハンは振り向きもしない。譲る気がないようだ。仕方ないのでシモンは自分の鞄をヨハンの鞄の上に置いて一人分の座席を空けた。女性はほほえんで腰を下ろす。金髪が揺れてシモンの鼻先を掠めた。悪寒がした。
「アナスタァシアよ」
「……シモン」
 女の自己紹介に渋々と応じる。アナスタァシアと名乗った女の前にはヨハンの長い足が無造作に投げ出されている。部外者には目もくれずにまだ窓の外ばかり眺めているのだ。亡霊のごとくヨハンにだけ見える櫻の下の女。シモンは軽く頭を振る。肩も触れ合わんばかりに並んでいる女が金髪なのは不運な偶然にすぎない。そう思っても背筋に冷たい汗が流れる。
「シモン。魔術師の名ね」
 アナスタァシアの柔らかい眼差しに屈託のなさを探し出してシモンは安堵の息をこぼした。見ず知らずの女だ。アナスタァシア。シモンは何度か心の中で繰り返す。アナスタァシア。よくある名だ。隣にいるのは見知らぬアナスタァシアなのだ。ヨハンはまだ櫻を愛でている。女にみとれているのだろうか。
「発車が遅れているのですって」
「そうなんですか」
「アナウンスがあったわ」
 シモンはふたたび向かいのヨハンを見た。誰もが視線を奪われる横顔だ。隣席の女も見ているだろうか。シモンは咳払いをした。琥珀の瞳がゆっくりとシモンに焦点を合わせる。
「何だよ」
「聞いたかい」
「何を」
 ヨハンは長い睫毛を上下させた。その顔にはシモンにないものばかりが備わっている。人を、特に女を引き付ける魅力。シモンは不安を感じて親指の爪を噛んだ。隣でアナスタァシアが小さく笑った気がした。彼女がどちらの顔を見てどんな意味を込めて笑ったのかはわからない。
「発車が遅れるらしい」
「そんなアナウンスは聞いてないぞ」
 いきなりヨハンが立ち上がった。車内に向かった鋭い視線が無情にもアナスタァシアを素通りした。組まれていた長い足が動く。さりげなく女が体の向きを変えてヨハンを避けた。
「車掌に聞いてくる」
「ヨハン」
「荷物を頼む」
 聞く耳など持たずにコンパァトメントを出て行ってしまった。残されたのはシモンと鞄と見知らぬ女だけ。シモンはまたあの息苦しさを感じた。姿勢を直した女の手がシモンの服に触れた。こめかみを鈍い痛みが襲う。得体の知れない不安が這い寄ってくる。ヨハンがアナスタァシアに目もくれなかったようにシモンには見えた。
「まさか」
 小さく呟いたつもりが大きく響いて驚く。アナスタァシアが不思議そうに覗き込んできた。シモンは顔をそむける。鼓動が早鐘のようだ。
「どうかなさったの」
「いいえ。いいえ」
 シモンは車窓に映ったコンパァトメントの扉を見た。ヨハンが一刻も早く扉を開けて戻ってくることを一心に祈る。だが願いは叶わずヨハンはなかなか戻らない。不安が増す。アナスタァシアと二人きり。考えるだけで叫び出しそうになる。沈黙だけが救いの中で女は悠然と口を開いた。
「お戻りにならないのね、お連れの方」
「そうですね」
 声がかすれているのが自分でもわかる。
「あの方、ヨハンとおっしゃったかしら」
「ええ」
「おふたりはお仕事上のお付き合いかしら」
「いえ、ヨハンは市警の刑事です。僕はただの事務屋で」
「ではご旅行なのね。どちらへ」
「同窓会です」
 踏み込んでくるような質問にシモンは顔をしかめた。同窓会。考えるだけで気分が悪くなる。行きたくなかった。だがヨハンに誘われるとシモンには断りようがなかった。ヨハンは幼い頃から他人を意のままに動かすことに長けていた。シモンはいつでもヨハンの言いなりだった。優秀で皆に慕われて大人まで手懐けられたヨハン。成人してもそれは変わらなかった。魅惑的なヨハン。今日のこの旅路も誘ったのがヨハンでなければシモンは決して同行しなかっただろう。かつての同級生など顔も見たくなかった。それなのにヨハンが誘うから。どれほど不愉快でもヨハンには逆らえない。
「素敵な方ね、ヨハン」
 不意に全身を突き上げるような衝動が湧き上がる。シモンは目を剥いて車窓の中に映り込んだ女を見た。白い肌、金の髪。紫紺の瞳。薄紅のくちびるが動いている。見知らぬ女が見知った女に見えた。同じ女のはずがないのに同じ女に見える。シモンは疑った。これはどのアナスタァシアだっただろうか。
「琥珀色の瞳が印象的。少し冷たそうな微笑もたまらないわ」
 心が止めるのも聞かずにシモンは肩越しに女を振り返った。いたずらっぽく光る瞳が真正面から彼を見た。心臓を苦痛が突き抜ける。見知らぬ女の聞き覚えのある声。
「ヨハン。黙示録だわ。素敵」
 神経が凍りつく。ついで全身の血が沸騰するような激情に駆られた。自分で自分を制止することができなかった。シモンは叫んだ。苦痛が全身をさいなむ。波打つ黄金の髪が腕に絡みついた。ああ、災いだ、災いだ。シモンは指に力を込めていく。女のくちびるがわずかに開いている。白い手が虚空に伸びる。シモンは目を閉じた。見知らぬアナスタァシア。金の髪、金の茨の亡霊。
「シモン!」
 声がした。強い手が突風のように彼を襲った。突き飛ばされたシモンは車窓に背中を打ちつけて激しく咳き込んだ。肩甲骨の辺りで痛みが渦巻いている。顔を上げたシモンはヨハンを認めた。琥珀の瞳が険しい色に輝いている。黄金の亡霊はいつの間にか消えていた。ただ腕にはまだ茨が巻きついている。呆然としているシモンの前でヨハンの顔が消えて代わりに屈強な大男が現れた。荒々しく腕を掴まれて引きずり出される。抵抗などできなかった。シモンは恐怖のためにめまいを覚えた。
「ヨハン。ヨハン、ヨハン、ヨハン」
 シモンは友の名を呼んで助けを求めた。喚き散らして視線をさまよわせたがヨハンの姿はどこにも見当たらない。シモンは慟哭した。大男の声など耳に入らなかった。
「シモン・カディヤック。殺人未遂の現行犯で逮捕する」



 友人を連行する同僚刑事を見送ったヨハンは肩を落とした。すぐ隣に無言でたたずむ相手に対して何と言葉をかけたものか迷っていた。金髪のウィッグから解放された彼女は、短く切った黒髪を風になぶらせながらシモンを凝視している。もっともヨハンの懸念は彼女の声で打ち破られた。
「いつ姉を殺したのがシモンだとわかったの」
 声は驚くほどアナスタァシアに似ている。ヨハンは目を閉じた。黄金の髪と白い肌。青をこよなく愛したアナスタァシア。だが美しい残影はすぐにも死に顔へと変貌する。通報で駆け付けた廃工場跡に横たわっていた聖女。
「遺体を見た時にそんな気がしたんだ」
 ヨハンは目を開けて頭上の櫻を見上げた。優しい薄紅。脳裏にアナスタァシアの声がよみがえった。
「シモンを愛しているの。ごめんなさい、ヨハン」
 あれは振られた時だ。ヨハンはアナスタァシアに惚れていた。しかし彼女の一言で引き下がらざるをえなかった。アナスタァシアは友人シモンを愛していた。
「ごめんなさい、ヨハン。あなたはいい人よ。とても。ごめんなさい」
 ショックではあったがシモンを恨む気はなかった。幼い頃はいつも泣きながらヨハンの後を追うばかりだったシモン。成人しても変わらず人の後ろに隠れて損ばかりしているシモン。ヨハンにとってシモンは常に心配ごとのひとつだった。だからアナスタァシアの言葉は半分は嬉しかった。彼女はシモンの真価を認めてくれた。二人が婚約した時には素直に祝福した。シモンをよろしくとアナスタァシアに頼みもした。
「どういうこと」
「遺体の損傷がほとんどなかったこと、それに……」
 ヨハンは出発を前にして足止めを受けた列車を見た。他の乗客が不安そうに見ている。鉄道員のアナウンスが遠くから聞こえてくる。ヨハンはくちびるを舐めた。アナスタァシアが彼を訪ねてきたのは遺体で発見される一週間ほど前だった。やはり不安そうな表情だったことを今でもはっきりと思い出せる。
「シモンの様子が変なの」
 警察署まで会いにきた彼女をともなって昼食に出た。ちょうど連続殺人事件の捜査に駆り出されていたヨハンは目の回るような忙しさに自宅からもシモンの家からも足が遠のいていた。シモンとアナスタァシアが同棲を始めてから半年が経った頃だ。
「仕事を終えて帰宅すると家が真っ暗なの。シモンは灯りを全部消した居間で私を待っているの。そして、あれこれと訊ねてくるの」
「あれこれって」
「こんな時間まで何をしていたのか、とか。昼間に電話があったけれど誰なのか、とか。それに……」
 急いでランチをたいらげるヨハンの横でアナスタァシアは少しばかり躊躇した。
「何だい」
「ううん、いいの。とにかく、そんなことを延々と繰り返し聞いてくるの。だから不安で」
 今になって思い出せば意地がなかったとは断言できない。男としてシモンに敗北したのはアナスタァシアが初めてだった。やはり嫉妬していたのだろうか。その日のヨハンはアナスタァシアの言葉を単純に受け止めた。
「君みたいな美人と婚約して急に不安になっただけだよ。心配しなくても二ヶ月後の結婚式が終わればシモンも落ち着くさ」
 戻れるなら戻りたい。ヨハンは今でも折に触れて夢想する。あの時に仕事を抜け出してでもシモンに会いに行けば。アナスタァシアの不安を受け止めていれば。そうすれば彼女は殺されずに済んだのではないか。後悔ばかりが苦い。アナスタァシアを殺したのはシモンだが、止められなかった責任はヨハンにもあった。廃工場跡の死せるアナスタァシアを見たヨハンはみずからを責めた。責める以外に何ができただろうか。
「それに通り魔とは思えない現場だった。だからシモンだと思った。でも証拠がなかったんだ」
「それで連絡してきたのね」
 アナスタァシアにマァリアという妹がいることを聞いたのはいつだったかもう記憶に定かではない。ただ目の色が同じなのに髪の色が違うのだとアナスタァシアが話していたことを記憶していた。ヨハンは捜査が行き詰まりを見せた頃にマァリアへ電話を入れて捜査協力を要請した。犯人はシモン以外にはいない。マァリアはヨハンの言葉を信じてくれた。もしかしたら彼女も未来の義兄を疑っていたのではないかとヨハンは思っている。アナスタァシアの現場写真を見た者は誰しも思わずにはいられないだろう。死せるアナスタァシアには美しい薔薇が手向けられていた。もっともヨハンはそれ以外にも確証があった。
「でも、容疑は四人の殺害だって言ったわよね」
「実は同じ頃に連続殺人事件の捜査でも進展があってね」
 殺されたのは三人のコォルガァルだ。その最期を追っていた刑事が新たな事実を拾って捜査本部に帰ってきた。最後の客の情報だった。曰く、平凡を絵に描いたような特徴のない男。名はヨハン。捜査課の誰かが同じ名だとヨハンに軽い口調で言った。アナスタァシアの死に衝撃を受けていたヨハンには怒る余力さえなかった。被害者がそろって紫紺の瞳に金の髪だったからだ。薔薇を手向けられて美しく葬られた三人の娼婦。それはアナスタァシアよりもなおざりだったが同じ有様だった。
「まさかと思った。柄にもなく動転したよ。すぐにシモンの写真を目撃者に見せた」
 苦い勝利だった。目撃者は顔写真を見て思い出した。もう間違いなかった。目撃者にも覚えられなかった平凡で特徴のない、悪意の感じられぬシモンの青白い顔が捜査のあわいに浮かび上がった。そこで連続殺人事件を洗い直したヨハンは絶句した。最初の殺人はヨハンがアナスタァシアに求愛して断られた夜。二人目はシモンとアナスタァシアの家にヨハンが泊まった翌日。三人目はアナスタァシアが警察署まで会いに来た日。アナスタァシアに呼応するヨハンを名乗る顔のない連続殺人者。しかし捜索されたシモンの家からは決定的な物証が出なかった。目撃者も法廷で証言することを嫌った。メディアの注目を恐れたのだ。このままではシモンに手が出せない。ヨハンは上司に直談判した。
「おとり捜査をやらせてください」
「民間人を使ってか。無茶を言うな。相手は証拠も残さずに四人も殺しているんだぞ。罠にかからなかったらどうする気だ」
「かかります。俺にはわかる。シモンは必ず罠に落ちます」
 捜査課に現れたマァリアはアナスタァシアと雰囲気だけはよく似ていた。私、シモンには会ったことがないの。だから大丈夫だと思います。マァリアの懇願もあって上司は折れた。罠は用意された。ヨハンはふたたび櫻を見上げた。薄紅の花弁が風に舞う。贋の同窓会。列車の旅。ヨハンの言葉にしか存在しない櫻の下の女。シモンのためだけにアナスタァシアを演じるマァリア。
「動機はわかっているの」
「……わからない」
 ヨハンもそれだけはわからなかった。嫉妬なのか。だが誰に対してなのだ。ヨハンか。それならなぜアナスタァシアが殺されたのか。三人のコォルガァルはなぜ死なねばならなかったのか。美しく装飾された死体は何の理由があったのか。ヨハンを名乗りながらヨハンを陥れる工作をしなかったシモン。ヨハンから贋の同窓会に誘われても断らなかったシモン。連行されながら救いを求めたシモン。彼はいったい誰に嫉妬したのか。ヨハン、ヨハン、ヨハン。気弱そうな声が耳の奥に残っている。ごめんなさい、ヨハン。甘い声が重なって響いた。ごめんなさい、ヨハン。
「これからの聴取でどこまで解明できるか。あの様子ぢゃ筋の通った供述は望めないかも」
「そう。そうね。そう思うわ」
 ヨハン、ヨハン、ヨハン。空耳が哀しくてヨハンは俯いた。
「すまない」
「あなたが謝ることぢゃないわ、ヨハン」
 薄紅色の櫻が静かに降りしきる中にヨハンとマァリアは無言で立ち尽くす。かげろうのごとく逝ったアナスタァシア。たおやかな櫻花は彼女の微笑を思い出させる。その薄紅のカァテンを押し開くように黒い列車が動き始める。ヨハンの手にマァリアの指が触れた。反射的に握りしめる。細い指が握り返してきた。友と想い人を失った男と姉を失った女。指と指が絡まる感触。それは互いの喪失を補う自然な行為だった。琥珀の瞳が紫紺の瞳を見る。紫紺の瞳が琥珀の瞳を映す。痛みに震える心に互いのぬくもりが心地よかった。

 そうしてどちらからともなく二人は寄り添って歩き出した。

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