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C02 峠越え

 大小二つの月が共に隠れる嘆きの夜、足音を殺して獣道を走る、一人の少年がいた。彼の名は、ベルクラム。当代一の知恵者と謳われた軍師ストンデンの、唯一の弟子だ。
 一本の矢が、夜道を急ぐベルクラムの頬を掠める。星明かりのみが支配する闇夜、こんもりとした森の中、黒装束に身を包んだベルクラムには当たる筈もないが、至近距離に達したのは、腕か、それとも偶然か。
『戦いにおいて兵を指揮する者は、自分に都合の良いことが起きることを、信じてはならん』
 師の教えを思い出し、弓の名手が追っ手にいる可能性を考える。或いは追っ手が自分の想像以上に近づいている可能性を考える。足を止めて確認するべきか、それとも、矢が外れた僥倖に従い道を急ぐべきか。答えは瞬時に出た。想定される最悪の場合は、追っ手がベルクラムに肉迫していること。この場合、捕らえられることは、時間の問題であると言って良い。故に、この場合、捕まった後で逃げ出す機会に備え、体力を温存するが正しい。抵抗することで傷を負うのは、愚の骨頂。従って、振り向くことは無駄にはならない。
 一。二。そして、三。
 松明の灯りは、思ったより小さいが、予想以上に数が多かった。
 樹を叩く乾いた音と、木の葉を切り裂く鋭い音が、足を止めたベルクラムの耳に入ってきた。遠い音と近い音、それが間断なく聞こえてくる。痺れを切らせた誰かが、闇雲に矢を放っているらしい。おそらく、山道に詳しい誰かが、案内をしているのだろう。
 追っ手の構成を推測し始めたベルクラムは、思考を断ち切るために、勢い良く首を振った。
『できる限りの情報を集め、ありとあらゆる事態を想定し、戦いの指針を決めるのは正しい。そして、実際の戦いでは、その指針に従い、かつ臨機応変にことを進める肝要じゃ』
 今夜に関して言えば、可能な限り道を急ぐことが、何事にも優先する。
 考えるのはここまで。
 足を動かせ!

 ちっぽけな盆地と、その周りに存在する痩せた山脈。それがガーゴル王国が支配する土地の全てだ。そんな小国であるガーゴル王国が、曲がりなりにも国を保っているのは、良質の鉄を産し、その鉄を加工する技術が優れているからだ。剣、鎧、鏃などの武器、或いは鋤、鍬、鎌などの農具。ガーゴル産の鉄製品を求め、大陸のあちこちから多くの商人が、山を越えてやってくる。そして、商人たちは、ガーゴルの地で育つことのない小麦、獲れることのない干し魚、得ることのない塩といった品々を、落としていく。もちろん、やってくるのは商人だけではない。良質の鉄と高い加工技術。その二つを手にするため、古来から多くの国が、ガーゴルの地に侵入してきた。ガーゴル王国はその都度、欲にまみれた王たちを撃退してきた。険阻な山岳という天然の城壁を、有効に活用することによって。
 そのガーゴルに激震が走ったのは、去年の秋。それまで友好を保ってきた帝國が、突如、軍を起こしたのだ。ガーゴルの王子リグレスが、帝國で犯した些細な無礼を口実に。帝國は大陸随一の領土を支配している。しかも、遠征軍を率いるのは、王弟ハシュドゥール将軍だという。幾多の戦場を駆け抜け、数多の武勲を上げた、生ける戦神。今まで侵略を撥ね退けてきた知恵者ストンデンといえど、今回は勝てないだろう。耳の早い商人たちは、ガーゴルからとっくに引き上げていた。貴族たちは、こっそりと身の回りの整理を始めた。他の国に行く当てのない職人や農民たちは、不安気に天を仰ぐしかなかった。
「帝國は強大じゃ。将は賢く、兵は強い。実際、開けた草原で戦えば、我らは蹂躙されるじゃろう。じゃが、ここは山じゃ。諸君の故郷である山じゃ。山を知らない帝國の兵が、この険しい山で、我らほど馬を操ることができるか。往生するのが落ちじゃ。山に慣れない草原の男が、この険しい山で、我らほど激しく動けるか。息が上がるの落ちじゃ。つまり、我々が負ける道理はどこにもないのじゃ」
 帝國軍が、ガーゴルの表玄関であるロライ峠を越えて、ガーゴルの地に侵入を始めた日、ストンデンは断言した。
 兵士たちが顔を見合わせる。そんな兵士たちの前に、数羽の鳩、軍神アルムの使いが放たれた。注目を無視するがのごとく、鳩たちは皆、一心不乱にばら撒かれた餌をついばんだ。
「見よ。この通り、良い兆しもある」
 ストンデンは、愛用の白い杖を高々と掲げると、麓の方向、帝國軍が構築しつつある陣地に向けて、振り下ろした。
「山を知らぬ帝國の軟弱者を、ガーゴルから叩き出すのじゃ!」
 喚声が、響き渡った。

 陽が山間に沈んでから三刻、激戦をくぐりぬけ、手柄を上げたことを喜んだ兵士たちの、賑やかしい宴が終息した頃、ベルクラムは天幕を訪ねた。
「なぜ、後詰めの部隊を投入しなかったのですか?」
 包囲網は十中八九完成していた。後詰めの小隊を、もう半刻早く投入していれば、ハシュドゥール将軍を捕らえることができた筈。逸る部下の進言を、慎重論で退けたのは、他ならぬストンデンだ。
 ベルクラムは、今日の戦いが終わる直前から腹に抱えこんでいた疑問を、ストンデンにぶつけた。
 ハシュドゥール将軍を捕らえることは、山間の小国であるガーゴルが、大国である帝國から完全勝利をもぎ取ったことを意味する。ガーゴルの名声は大陸中に轟き、小国と侮っていた他国はガーゴルに一目置くことになるだろう。それに、庶出とはいえ、ハシュドゥール将軍は王弟だ。身代金が莫大な額になるは確実で、ガーゴルを潤すには、お釣りがくる金額が見込める。もしかすると、国境であるロライ峠の麓に広がる、豊穣なラメリアの地を、得ることができるかもしれない。
 拳を握りしめるベルクラムに対し、ストンデンがやんわりと尋ねた。
「戦争の目的は、なんじゃ?」
「勝つことです」
「では、今回の戦いにおいて、どうなったら、帝國に勝利したと言えるかの?」
 答えに窮したベルクラムが、唇を噛みしめる。ストンデンは、そんなベルクラムの肩を、軽く叩いた。
「交渉の席、お前も出席するがええ」

 峠の麓まで退却した帝國軍との折衝の結果、ロライ峠の中腹で、停戦交渉が開かれることが決まった。出席者の陣容は、帝國側がハシュドゥールと幕僚四名、ガーゴル王国側がストンデンとベルクラムと武官二名。武装を解除した状態で、話し合うことになった。そして、その席上、ストンデンの提案が物議をかもした。勝利国は敗戦国に対し、賠償金を分割払いで要求するのが常であるが、その賠償金として小麦を要求したのだ。
「商人が来なくなって、困っておっての」
 ストンデンが肩を竦めた途端、帝國の幕僚たちの目に光が燈った。国をしめ上げるのと城をしめ上げるのでは雲泥の差があるが、交渉を拒否し、ガーゴルを餓えさせれば、降伏させることができるかもしれない。
「まあ、山の者たちは粗食に慣れておるが、帝國さんの兵士には、ちと、きついかもしれんがの」
 その喜びに水を差すかのように、ストンデンが嘯く。意味するところは一つ。ストンデンは、交渉に応じなければ捕虜になった帝國兵が餓えることになると、半ば脅しているのだ。
 天幕の中に沈黙が下りる。そんな中、帝國軍の中央に座る偉丈夫、ハシュドゥールの声が、低く響いた。
「陛下の勇兵を、見くびってもらっては困る」
「それは失礼した。将軍殿」
 飄々とストンデンが謝罪する。怒気をはらんだ声を、柳に風とばかり受け流している。
 狸が。どこからともなく呟きが洩れた。その瞬間、ハシュドゥールが眼だけを左に流した。殺気を感じた幕僚が謝るよりも早く、ストンデンが目尻を下げる。
「山には狸もおるし、狐もおる」
 跛足の狸爺というのがストンデンを蔑むときの、通り名だ。だが、狐というのは誰のことだろう。交渉の席に座る殆どが内心首を傾げる中、ベルクラムはつい、俯いた。二つ名で呼ばれるには、知識、経験とも圧倒的に不足している。
「しばらく、時間を頂きたい」
 一刻後にと告げるハシュドゥールに、ストンデンは言葉を投げかけた。
「八千人を養うのは、ちと、大変での。後払いを確約するなら、士官以外は連れて帰るがええ」

 慣例として、捕虜となった兵士は、身代金の引き換えに身柄が解放される。捕虜を先に解放して、帝國が約束を反故にすることはないだろうか。それより、捕虜を解放した途端、帝國が攻めてくることはないだろうか。
 ベルクラムは、交渉の場となった天幕をしきりに振り返る。そんなベルクラムを諭すかのように、ストンデンがやんわりと指摘した。
「将軍の服を見たじゃろ」
 ハシュドゥールは、光沢がある絹の礼服を纏っていた。寸鉄を帯びている気配は皆無だった。そう、すぐに戦場に出れるような服装ではないのだ。身代金を払うことなく解放された兵士を組織して攻め込んでくるのは、誇りが許さないだろうと、ストンデンが断言する。
 では、約束を反故にする可能性はないのか。帝國は、その長い歴史の中で、書面で交わした契約を反故にしたことがないことが、広く知られている。だから、仮令、一度でも反故にすれば、帝國の信用は低下する。衛星国の離反もありうるだろう。
「まあ、額や量は、多少変動するじゃろうが、将軍は受け入れるじゃろ」
 仮に、停戦交渉が決裂した場合、帝國兵の命は風前の灯火だ。身代金が払われなかった兵士は、奴隷として売られるのが通例だが、商人がいないので、売られることもない。そして、金にならない以上、敵国の兵を養う王はどこにもいない。ガーゴルの民に払い下げられるか、八千という集団は危険なので殺されるかの、どちらかだろう。民に払い下げられた場合、腹が減る原因となった帝國兵を、ガーゴルの民が丁寧に扱う筈もない。一方、殺される場合、民の溜飲を下げるため、悲惨な殺され方をする可能性が十分にある。
 もちろん、戦いに訴え、捕虜を取り戻す手段もある。しかし、これは危険性を伴う。例えば、ストンデンが敢えて晒したように、ガーゴルそのものを兵糧攻めにすれば、勝てる可能性がある。しかし、現実には、一国を兵糧攻めにするのは困難だ。仮に可能だったとしても、城を攻めるより長期の時間がかかるので、帝國兵が餓えるのが確実だ。なので、捕虜を無事に取り戻そうとする場合、五千人の敗残兵を奮い立たせ、短期決戦に訴えるしかないのだが、山間の地でハシュドゥール将軍がストンデンに勝てる保障がない。しかも、負けた場合は、帝國の威信は地に落ちる。
 帝國が、捕虜である兵士を守るには、停戦に応じ、身代金で購うしかない。そして、帝國には支払い能力が十分にある。しかも、先に捕虜を解放するという破格の条件までつけている。支払いを待つ間、捕虜が餓えることもない。つまり、断りようがないのだ。
 ベルクラムは、そのとき、師匠の意図を悟った。
 確かに、王弟であるハシュドゥール将軍を捕らえれば、国境であるロライ峠の麓に広がるラメリアの地を、身代金として得ることはできるだろう。だが、得るまでには相当な時間を要する。つまり、ガーゴルの民は餓えることになる。そして、豊穣なラメリアの地を手に入れたとしても、維持が大変だ。三方が開けたラメリアは、攻めるに易く、守るに難い。帝國が威信をかけて、ラメリアを奪回に来るの目に見えている。帝國が支配しているからこそ、隣国は手を出さないのであって、小国であるガーゴルがラメリアを支配すれば、他の国も手を出してくる。
 そして、最悪なのは、兄王であるアファルベイドがハシュドゥール将軍を見捨てること。ハシュドゥール将軍は、帝國内での人気が高いと聞く。そのハシュドゥール将軍を捕らえたとして、帝國が交渉を拒否したら。それこそ帝國はその全ての威信をかけて、ガーゴルに攻め込んでくる。
 ストンデンの思惑は二つ。一つは、主食である小麦を安定して確保すること。産地を確保するのは手段であり、目的ではない。もう一つは、平和を維持すること。賠償金を払っている間、すなわち和平条約が締結されている間は、お互いに戦争を仕掛けないのが慣例だからだ。そして、ストンデンは、和平交渉の相手として、ハシュドゥール将軍を選んだ。
 昨日の戦いの途中、包囲網がある程度完成した時点で、ストンデンは、帝國兵をなるべく捕らえろと、指示を出していた。それは、帝國との交渉を有利に導くため。そして、乱戦の中、ハシュドゥール将軍を殺してしまうことを防ぐため。ハシュドゥール将軍が死んだ場合、それこそ帝國は、全戦力を小国のガーゴルに振り向けてくる。

 王子リグレスが帝國に謝罪することを条件に、交渉がまとまった。ハシュドゥールは、後で身代金を払う保障として、愛用の剣を置いていった。
 ストンデンの名は、当代一の知恵者として大陸中に響き渡った。

 嗚呼、なんと愚かなことか。
 戦争に勝ったのに謝罪させられたのが、気に入らなかったのか。ガーゴルの民が王家よりストンデンに敬意を払うことに、怒りを感じたのか。小国の王子の名は知らぬとも、大陸の誰もが知恵者ストンデンの名を知っていることに、嫉妬したのか。
 王が病で倒れ、王子リグレスが即位した直後、極秘裏にストンデンは捕らえられた。帝國から支払われる小麦を横領したという罪で。ガーゴルの民には、ストンデンが重病だと、嘘の告知がなされた。英雄が横領したことが広まると、民が動揺するという理由で。
 もちろん、ベルクラムは、冤罪であることを知っている。そんなベルクラムの許には、夜な夜な、密かにストンデンを連れてガーゴルから脱出することを薦める人間がやってきた。
 笑止千万とはこのことだろう。ストンデンが捕らえられたことを知っているのは、ごく少数の者ばかりだ。左足が義足のストンデンを連れて、山を越えるのは困難だ。脱出した場合、追撃のどさくさに紛れ、殺されるのが落ちだ。そして、ストンデンとベルクラムが死んだ後、リグレスは、嘘の真相を重臣に告げるだろう。ガーゴルの英雄の名誉を守るためと言って、沈黙を強要するだろう。そう、死者は何も語らない。
 脱出を断り続けることに痺れを切らしたのか。ストンデンが捕らえられてから一月、面会が、ベルクラムに許された。
「二十年は、長すぎたかの」
 獲物を狩りつくした場合、猟犬は殺されるという。敵対国が存在する場合、ストンデンの存在は盾になるが、帝國が敵対しない以上、安全が保障されている。だからリグレスは、気に入らない目の上の瘤を、排除しようとしたのだろう。
 リグレスが、勘違いしている点が一つある。ガーゴル王国と帝國は、安全保障条約を結んだのではない。ガーゴル王国が攻められても、帝國は兵士を派遣する義務を負わない。その逆も然り。つまり、ガーゴル王国が、周りの国に攻め込まれる危険は残っている。
「流石に、この老体に、絶食は堪えるわい」
 これは餌だ。脱走させる余裕があることを見せつけるため、十分に与えられていた食事が、面会が許された途端、消えた。焦ったベルクラムに、脱走を急がせるためだ。
「好きに生きるがええ」
 その言葉を残し、ストンデンは、獄中で死んだ。英雄の病死を、誰もが悼んだ

 ベルクラムは山を走る。懐に地図を携えて。記されているのは、道。山に囲まれたこの、ガーゴルの要所に通じる道。
 ベルクラムには、ガーゴル王となったリグレスを討つ力はない。後ろ盾もなければ、兵もない。リグレスを倒すことを誓ったベルクラムにできることは、ガーゴルへ辿る道を手土産に、野心家の王に身を寄せること。そして、ガーゴル王国への侵略を促し、ガーゴル王国の存在を、この地上から消し去ること。
 裏切り者と罵られても構わない。卑怯者と非難されても構わない。金も、地位も、名誉も要らない。
 望むものは、首。
 リグレスの首。ただ一つ。それだけ。
 復讐の道を歩むベルクラムを、天国の師匠はどう思うだろうか。多分、回答は聞けないだろう。
 ――復讐のために戦争を起こすという、人の道を外れた自分は、天国に行くことはない。
 空が白んできた。夜が明けた。ロライ峠の頂上からは、ラメリアの地が望める。
 振り向いて二組に減った追っ手の位置を確認したベルクラムは、懐にした地図を、明後日の方向に、思いきり投げた。ガーゴルに辿りつくための道は、全てに頭に叩き込んである。捕まる危険を冒し地図を盗んだのは、地図を回収したリグレスを安心させるため。ベルクラムが攻め込むまで、道を変えさせたいため。
 次にこの地を訪れるのは、ガーゴル王国を滅ぼす使者としてのみ!
 誓いを胸に秘め、ベルクラムは峠を下った。

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