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B10 夢の中、水の彼方、道の果て

 夢をみた。

 神殿と呼ぶのが相応しいだろう、美しい建物の夢だ。
 周囲に人気はない。さらさら、水が流れる音だけが聞こえていた。水辺特有のしっとりした空気が、ひやりと肌にまとわりつく。――滝だ。
 優美な門と外壁の一部が、とうとうと落ちる水の奥に揺らいで見える。どうやら、神殿の内部は滝の中に造られているようだ。
 滝が光をまといながらとめどなく流れるさまは、まるで風にそよぐ紗幕のよう。ひとときも留まることはなく、水流は滝から川へと姿を変え、ゆらりゆらりとうつろい流れる。
 神殿に至る通路には、繊細な装飾の施されたアーチが架けられていた。それらはすべて乳白色のつややかな石で造られており、射し込む光に淡く輝いている。
 滝そのものがせいぜい大人二、三人分の高さであるせいか、威圧感や圧迫感はない。しかし、その建物を一見して「神殿」と思わせる、ただびとを拒むような厳然とした冷たさがはっきりと感じられた。
 禁忌感、いや、畏怖か。美しいと思うのに、どこか異質で近寄りがたい。それなのに切々と心をひっかかれるような、どうにも不思議な建物だった。
 何の物音もない。生き物の気配もない。恐ろしいほどの静謐。
 ぼんやりとした日射しの中、ただ、水のせせらぎだけが、さらさらと聞こえていて――。



「おぬし、ついに夢と現実の区別もつかなくなったか。末期じゃの」
 門番は、馬鹿にしたように言った。
「夢の話だと最初に断っただろう」
 手にした鍋の熱湯をぶちまけてやろうかと思ったが、俺は理性を総動員して耐えた。ぷるぷる震える手で、ポットに湯を注ぐ。ふうわりと立ち上る湯気を閉じ込めるように、蓋を落とした。
 ポットとカップをテーブルに運ぶと、椅子にかけたままだった門番が、無表情に背後の戸棚を指差す。
「焼き菓子があるでの、持って参れ」
「……」
 おまえは何様だ。今まで幾度となく口にしかけ、飲み込んだ言葉を今日も飲み込む。腹をたてても仕方ない、俺がどう足掻こうと、門番には勝てないのだ。言われるままに戸棚の菓子を運んでやった。まったく、人使いの荒いやつだ。
 門番は当然のようにそれをつまみ、満足そうに頷いている。俺もひとつ、頂戴する。……美味いが、喉がつまるな、これは。
 猛烈な勢いで焼き菓子を口に運んでいる門番は、その合間をぬって器用に口を開いた。
「穴掘り屋。夢と一口に言っても、色々あるぞ。いちばん恐ろしいのが、目を開けたままみる夢じゃ」
 門番は俺のことを穴掘り屋、と呼ぶ。
 俺は、砂と瓦礫と灰に埋まった古代都市遺跡の発掘を生業としている。ふり積もったそれらを撤去したりはするが、穴は掘らない。何度訂正を求めても応じてもらえないため、穴掘り屋と呼ばれて返事をするようになってしまった。後悔している。
「夢をみている本人が、夢か現実か妄想かを判別できぬのじゃ。恐ろしいことよ」
「寝ているときにみた夢のつもりだ」
 言いながら、門番のためにミルクティーを作ってやった。木の匙にたっぷり一杯のはちみつ。紅茶と新鮮な牛乳の割合は、俺だけの秘密だ。
 カップを両手で包み込むようにして持ち、門番は一口飲んでにこりと笑った。
「今日も絶品じゃ。褒めてつかわすぞ、穴掘り屋」
 俺は紅茶にはちみつだけを入れる。門番のお相伴をしているうちに、甘いものが平気になってしまったのだ。それに、門番が常備しているはちみつは相当の高級品だ。俺のようなしがない穴掘り屋が手に入れられるような代物では――おっと。
 自分で自分を穴掘り屋と認めてどうする。
 俺はひとつ空咳をしてから、姿勢を正した。
「で、その神殿が、どこにあるか知らんか? うまくすりゃあ無傷で残ってるかもしれん」
 門番は猫のような仕草で鼻を鳴らすと、細い腕を組んだ。
「神殿、とな」
「おう。滝の裏にあって、川が流れていて、白くて……静かだった」
 門番は、かつて世界中を旅したという。密林の奥、砂漠の果て、幻の島、世界の隅々まで、知らぬ道はないと噂されていた。なんでも、天国への行き方までも知っているとか。
 天国に行ったことがあるのかと、尋ねる勇気は俺にはない。しかし天国への道を知っているというのは、でたらめではないような気がした。俺の勘はよく当たる。
 ともかく、門番が世界中のどこへでも、望む場所へ転移の門を開けることは事実だ。転移の門はかつて訪れたことのある地点にしか開けないというから、天国の話ははったりにしても、知らぬ道はないというのは本当なのだろう。門番は転移の術を用いて、人や物を遠く離れた場所へ送り届けることで日々の糧を得ているが、門を開けなかったことは俺の知る限り一度もない。
 その知識を見込んで、俺は夢でみた光景が実在するのかどうかを教わりに来たのである。
 夢にしては、いやにはっきりとした質感があった。痛いほどの静寂。流れる水、淡く光を放つ白い石、穏やかな光。神殿の入り口だけが虚ろな暗闇をたたえていて、印象に残っている。
 門番は俺と目が合うと、気まずいやり方で視線を下げた。長い睫毛の影が頬に落ちるさまは、いつ見ても無駄に色っぽい。
「のう、穴掘り屋。おぬしには何度か話したが、わたしはかつて、世界中を旅した。晴れの日も雨の日も。わたしの知らぬ道、知らぬ地はない」
 俺は頷く。子どもが寝物語をねだるように、幾度も話してもらったものだ。今では、自分が世界中を見て回ったかのような錯覚に陥るほど、門番の話は俺の一部になっている。
「じゃがの、それも昔の話じゃ。あの恐ろしい災厄で、大地は瓦礫と灰に埋もれてしもうた。わたしがこの目で見た世界は、もうこの世には残っておらぬ」
 門番は、俺たち人間とは違う、魔法を使いこなす長命の種族である。
 俺が生まれるうんと昔のこと、高度な魔法文明に支えられて、門番の種族が繁栄と栄華を誇っていた。
 しかし、ある日突然、山が火を噴き、大地震と津波が街を襲った。街という街は破壊しつくされ、溶岩と灰の奥深くに閉じ込められた。魔法文明はこうしてあっけなく終焉を迎える。
 その後の文明を築いたのが、災厄をしぶとく生き延びた人間だ。
 人間は魔法を使うことができず、魔法文化は完全に廃れてしまった。呼応するように、長命種も相次いで死んでいった。災厄で負った傷が癒えなかった者もいるし、自ら命を絶った者もいるという。
 門番は長命種の数少ない生き残りである。仕事以外では人間との接触を好まないようだが、俺とはどうしてかうまが合って、お茶汲み兼茶飲み友達という名誉ある称号を頂戴していた。
「そうだったな。で、それが何だ? まさか、天国の入り口だとでも?」
 昔話を蒸し返す理由がわからず、俺はおざなりに答えてテーブルの上で指を組んだ。幼い頃から遺跡の発掘に携わっていた手指は節くれだって歪み、かさかさに乾いてひび割れている。
 俺が古代遺跡の発掘を始めたのは生活のため、金目当てだ。何となく性に合って続けていたのだが、その縁で門番に出会い、親しく話をするうちに明確な目的ができた。
 門番の、故郷を発掘するのだ。
 地中深くに眠る門番の思い出の土地に、再び太陽の光を当ててやりたい。懐かしい場所に帰してやりたい。
 けれども、発掘には時間と金がかかる。門番の故郷は遠く、思うように作業が進んでいなかった。
「……どうした?」
 門番は珍しく口数が少ない。困ったような、怒っているような、何かをこらえているような、複雑な顔をしている。悪いものでも食べたのだろうか。
「穴掘り屋。わたしは、その神殿を知っておる」
「本当か」
 問い返すと、門番はこくりと神妙に頷いた。教えてくれ、と乗り出す俺の目の前に、ぱっと指を広げる。
「じゃがの、そこはいかん。絶対に近づいてはならぬ」
「どうして」
「どうしてもじゃ! よいか、そのことは忘れよ」
 まったく答えになっていない。俺は食い下がったが、門番は頑なだった。唇を結んだまま、何も答えようとしない。
 その場は、諦めるしかなかった。


 その後、俺は発掘の準備に追われて、しばらく門番のところへは顔を出さなかった。
 発掘の準備と言っても、調査計画の提出や人の手配、道具の手入れと整備、食料の買出しなど多岐に渡る。発掘の指揮を執る俺の忙しさは尋常ではない。門番とのやりとりなど、すっかり忘れてしまっていた。
 そうして忙しい日々を過ごすうちに、再びあの神殿の夢をみた。


 以前は、遠くから神殿を眺めているだけだったが、今回はどうやら近づけるようだ。走ろうとして足をもつれさせながら、川に架かった橋を渡る。しっとりと肌を撫でる冷たい空気が、ひどく懐かしい。
 忙しくて神殿のことを考える暇もなかったが、こうして夢をみると、忘れていたことが嘘のような切実さで、空気の色や匂いは俺の胸を揺さぶった。
 どうして忘れていたのだろう。こんなにも心惹かれる場所を。
 どうしてこんなに懐かしいのだろう。ただの夢でしかないのに。
 早足でアーチをくぐり、門の手前まで進んだ。とうとうと、尽きることなく流れ落ちる水の幕。その奥は光さえ遮る暗闇、神殿の入り口だ。
 喉がふいごのように大袈裟な音をたてている。一人で浮き足立っているのが恥ずかしくなるほど、周囲は静かだった。呼吸が落ち着くとともに、絶えない水音までも飲み込んだ静寂が、ひたひたと迫ってくるように感じられる。
 あらゆる音が吸い込まれてなくなってしまいそうな、冷ややかで平らかな静謐。
 生の気配は、どこにもない。
 急いだからだろう、喉の渇きを覚えて滝壺に手を伸ばした。水は鏡のように澄んで、俺の姿を映す。
 ――しわくちゃの、しみの浮いた顔。落ち窪んだ双眸。白く頼りない髪。すっかり年老いた男の姿が、水面にゆらめいた。
 己の姿から目を逸らすように、両手を水に突っ込む。
「やはり来てしまったのう、穴掘り屋」
 背後から声をかけられ、口元を拭いながら振り返る。
「近づいてはならぬ、と言ったのに」
 そう言って、門番は顔をくしゃくしゃにした。
 俺は奇妙に冷静だった。門番がいることも、とても悲しそうな顔をしていることも、不思議には思わなかった。魔法を使うことに長けた種族なのだ、夢と現の境を乗り越えるくらい、わけはなかろう。
 神殿を指差して、俺は尋ねる。
「この中には、何があるんだ?」
「道」
「どこへ通じてる」
 門番は笑った。心がふるえるほど悲しく、透明な、美しい笑みだった。
「天国へ」


 ああなるほど、と俺は思った。門番の門番たる所以、近づくなと言った理由、すべてに納得した。
 門番は黙っていたが、観念したようにぽつりと呟く。
「おぬしの勘は本当によく当たる」
 言葉と同時に、涙がこぼれた。
 門番の白い頬を、あとからあとから涙がつたった。とうとうと、さらさらと。
「俺は死ぬのか」
「そうじゃ」
 涙まみれの声を紡いで、また泣く。
 俺は萎びた手を伸ばして、涙を拭ってやった。門番の手が、ふんわりと重なる。
「この川を下って人は生を授かり、またここに戻ってくる。その繰り返しじゃ」
 ならば、と俺は言った。
「また、おまえと会えるではないか」
「わたしのことなど忘れる」
 この先へ進めば死ぬのだ、と理解しても、動揺はなかった。
 いつか辿り着くべき場所に辿り着いたのだと、妙な達成感を覚えるだけだった。それが死期だというのなら、そうなのだろう。
 心残りは、たったひとつだけ。
「おまえとの約束を果たしていない。忘れるものか」
 門番はいやいやをするように首を振った。
「無理じゃ」
「大丈夫だ」
 門番の涙は止まらない。俺は強引に門番の両手を握った。こいつの手はこんなに小さかっただろうかと、ふと胸の奥がさざめく。
 どんな宝石よりも美しい蒼の目を涙で濡らし、しゃくりあげる門番と視線を合わせた。
「俺を忘れるな。俺は必ず、おまえを故郷に帰してやる。約束だ」
 この世の終わりとばかりに泣き続ける背を撫でていると、やがて門番はぎこちない動きで涙を拭い、歪んだ笑みを浮かべた。
「わたしは気が短いぞ、穴掘り屋。長くは待てぬ」
 ああ、よく知ってるとも。
「いいな、穴掘り屋……!」
 俺は笑って、流れ落ちる水の幕をくぐり、暗闇の中に踏み込んだ。





 ――はるか昔、遠い遠い昔に灰に埋もれた懐かしい場所が、眼下に広がっていた。
 記憶の中の街並みは、まだ半分以上が土の中にある。しかし、夕陽に照らされて眩しく輝き、長く影を伸ばしている建物や見覚えのある通りに、鼻の奥がつんと痛んだ。
 わたしは、隣に立つ男を睨む。
「長くは待てぬと言ったであろう」
 正当な抗議にも、やつはまったく悪びれた様子がない。精悍な肩をひょいとすくめた。
「こんなにしわくちゃになるまで待たせるとは、最低じゃの」
 やつに握られているわたしの手はしわしわで、かさかさで、しみが浮いていた。
「大丈夫だ」
 穴掘り屋は、朗らかに笑った。
「俺もすぐにしわくちゃになる。もう待たせない」

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