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B09 我往此道

 長瀬伸治の人生とは、鬼熊ヒカルに嫉妬しつづけることであったと言ってよい。
 同い年の従兄弟とあって、付き合いの年月は年齢と同じくする。鬼熊ヒカルは勉学こそ同じ底辺であったとしても、無武片道を地で行くようにすべてのスポーツをそつなくこなす男であった。
 この従兄弟に煮えたぎった湯をのまされたことがいくらあったか、もう伸治は覚えておらぬ。ただ思いをはせるとき、奥歯がきりきりと押しつぶされる。
 帰宅途中の鬼熊ヒカルの前に一対の足が行く手をふさいだ。ヒカルは太い眉の下にある異様なほどに白眼の部分が白い三白眼の瞳孔だけを動かして「伸治か」と呟いた。
「我が従兄弟よ。何用であるか」
「用がなければでてこぬわ」
 伸治はうそぶいたがそれは臆する気持ちを鼓舞するためであった。
「従兄弟よ、貴様。野球部を辞めたというのは真実か」
「誰に聞いた」
「顧問よ」
「その言に偽りなし」
 伸治の目がカッと見開いた。
「貴様よくもぬけぬけと! その身勝手さ、身内と言えど、いや身内なればこそ赦すまじ! 言え、なぜ野球部をやめた!」
「すまぬとは思っている。なれど数多の道をめぐりめぐってついに我は生涯をかけるに値する真の道にたどりついたのだ。それを前にしてもはや一秒たりとも別のものにうつつをぬかすことはならなかった。ただの単純な男としての理由よ」
「偽りを申すでない!」
「偽り、だと?」
「ああ偽りである。貴様の行動が解せず我はここ三日貴様の行動を見張ったのだ。そして知った。貴様の今の言が偽りであると。ここ数日、貴様は伯母上の使いを無為に果たしているだけではなかったか! 家電製品売り場、服売り場、そしてスーパー地下一階の日用品売り場! 貴様が足を向けるのはそこだけだった。家での行動も伯母上からすでに裏付けをとっておる! 最近の貴様は家にいる間中、手伝いに従事しているとな。親孝行が悪いとは言わん。むしろとても良い。しかし欺瞞の皮をかぶせたとき、その徳は消滅する!」
 ヒカルは沈黙した。すわ! と伸治は糾弾のまなざしをギラギラと向けた。
「我が従兄弟よ。我は天地神明、神仏信仰、東西南北どちらに向いても顔向けできぬような真似はすまい」
「貴様! この後におよんで――」
「くどい! 漢の言葉を疑うな。吹聴するようなことではないと思い、語りはしなかったが、知りたいと望むなら、明日の放課後、裏山の鬼の一枚岩に来るがよい。我はそこにいる。逃げも隠れも隠しもせぬ」
 欺瞞よ、と思いつつ、伸治はなぜか敗北を覚えた。だが、ヒカルが向けた背が完全に角に消えると、憤りは烈火のように持ち直した。
 大見栄をきり、不覚にもそれにおされたが、ヒカルのすべてが言葉を裏切っているのである。
 決着は明日、つくのだろう。
 伸治は胸にぬぐいがたき一抹の不安を押し殺し、きびすを返した。

 山を半分削った敷地に、両名が通う高校は建設されている。が、山半分はそのままの状態で残り、えぐられたむきだしの山肌は、登頂不可能な崖となってそびえたっている。その奥に鬼の一枚岩はある。
 下草を踏みしだき、伸治が現れたときヒカルはすでにそこにいた。膝上までの下ばきに短いシャツ。その横にはまるで相棒のように細い足を伸ばして自立する、奇妙な台が置いてあった。あれは、と伸治が目を細める。まるきり見覚えのないものではない。だが、いったい――。
 直立したヒカルは伸治を一瞥したが、軽く目を細めただけで声をかけようとはしなかった。膝を曲げて足元に置いたボストンバッグを開く。白いものを取り出し、台の上に広げる。そうして――。
 凍りつく従兄弟を前にヒカルは淡々と課せられた仕事をこなすように動いていた。
「――我が従兄弟よ!」
「なんだ」
「きっ、きさまはなにをやっているのだ!」
「お前が知りたかったことだ」
「それがお前がついに見つけ出した道だと?」
「さよう」
「わからん! 俺にはさっぱりわからん!」
 もはや恐慌に近い声をあげる伸治にヒカルは手をとめた。
「一概に言うのは難しいが――その舞台は、山、または海、川。選択肢は無尽蔵にあるが、どれも厳しい自然環境という点においては一致している。そこで唯一無二の相棒となるべき台をかたわらにおき、自らの手とも魂とも言える武具を取り出す。そしてその熱をもって誤りをただすのだ。すなわち」
 言葉を切ってヒカルは右手に握った自らが言う武具を顔の横に掲げた。尖った先端が冷たく熱く光る。――アイロン。
「エクストリーム・アイロニング――名づけて、究極のアイロン掛け」
 伸治は呼吸をとめた。

「我が従兄弟よ! 正気に戻れ!」
 気付くと伸治は叫んでいた。岩壁を背にもくもくとシャツにアイロンをかける男を前に。
「正気とは、なんだ」
 顔もあげずにヒカルは問うた。
「しょ、しょうきとは……お、おのれを見失わないことだ!」
「笑止。ならばこの未熟な今までの生の中で、我は初めて正気を得たということになろう。これこそが我が道。我が正道。そしてたどりつくのは、世界に通ずるアイロニスト」
「アイロニスト!?」
 自らの声が上ずっているのはわかっていた。
「お、ち、つくのだ我が従兄弟よ! そそも様々なスポーツを経てようやく見出したと言ったな。アイロンはスポーツか!?」
「通常、アイロン掛けはスポーツではなく家事。しかしそれをエベレストの山頂で、または激流をくだるポートの上で、または光ささぬ深海で行ったとき、それは家事ではない!」
「い、いやまて、そんなところでアイロンをかけるのになんの意味があるのだ」
「では我が従兄弟よ。足だけを使用して網にボールを入れることに、ボールを棒でぶったたいて飛距離を出すことに、アイロン以上の意味があるのか」
 伸治は息がつまった。
「ス、スポーツというものはそういうものだ!」
「なら我が説明することはもうない」
 そうして黙々とシャツの襟元をかえしてアイロンを滑らせる従兄弟を前にしばらく伸治は立ちすくんでいた。そうして青ざめた頬にどのような変化が訪れたものか一気に赤くなり吐き出した。
「わ、我は認めんぞ!」
「認めん?」
「ああ認めん! 貴様は、貴様は現時点で俺を超える唯一の男! 野球部に戻らずともいい、なんでも――もはやなんでもいい! その狂った電気製品を投げ捨てて王道へとたちかえるのだ、貴様はどんなものとて頂きにたてる男!」
「我此ノ道ヲ往ク」
「認めんと言ったろう!」
「伸治よ。我は未熟故、野外にてアイロンを持ち出したのは今日が初めてだ。まだ歯がゆいほどの未熟だ。だが、立ちふさがる貴様を見て思った。――そびえたつ、壁を壊してようやく、我はアイロニストの道へと一歩を踏み出せるのかもしれん、とな」

 長瀬伸治と鬼熊ヒカルの両名は、学び屋では平面の岩肌に掘りこまれた彫刻のようにくっきりと浮かび上がった存在であった。理由は言うまでもない。
 部活動、または各々の理由で放課後も校内に残っていた生徒たちは昇降口の赤レンガに集まり、円をかいてざわめきを交わしている。生徒たちの中心には、アイロン台をかたわらに腕を組む一人の男がいる。名は鬼熊ヒカル。そのかたわらにはよく似た上背である従兄弟長瀬伸治が仁王立ちになってくわりとむいた眼孔をヒカルに向けている。
 それを遠慮がちに囲む同級生たちの顔には戸惑いと疑問があふれているが、声をかけるものもいない。
「エクストリームアイロニングには三つの要素がある。一、険しい自然環境にアイロンとアイロン台と発電機を担いで入り込みまた自らをおき、そこで精神を統一してアイロンを掛けるすなわちネイチャーアイロニング。二、数々のスポーツにアイロン掛けを組みこみそのスポーツを行いながらアイロン掛けを同時に行うすなわちスポーツアイロニング。三、発想豊かでよりダイナミックなアイロン掛けを競うすなわち競技系アイロニング。我はこのうちどれをも先駆者の進みし道に一歩ふみいることもできまい。ヒマラヤの山頂に登頂しアイロンを掛けることも、100mの深海にもぐりそこでアイロンをかけることも、サーフィンの波に乗りながらアイロンをかけることも。だが、今の我にも挑戦することが叶うものが残っている。第三の道。競技系アイロニング。それをここで実行する」
「……なにをする気だ。本気でわからん」
「競技系アイロニングにおける間違いなき究極の技の一つ。アイアン・ロータス」
「わからん」
「二人のアイロニストが必要だ。アイロンを手にもった一人がもう一人に足をもちあげられ遠心力によって投げとばされる。投げ飛ばす方向は、アイロン台。ジャイアントスイングによって投げられたアイロニストが空中で身体をひねってアイロン台の上のシャツにアイロンをすべらせてアイロン掛けを達成させる。それが、アイロン・ロータスだ」
 伸治は呼吸をとめた。

 空に舞ったのは影だった。重力にからみとられた不自由な肢体はぐしゃりと赤レンガにたたきつけられた。もう生徒たちの間からは悲鳴も出ない。幾度か揺れた後、その下半身はむくりと起き上った。悲鳴が少し上がった。
「今の投げは先ほどより高度があがった」
 両腕に子どもにぶらさがられたような重い倦怠感を覚えながら伸治はぞっと後ずさった。
「……従兄弟よ、もはや無理だ」
「かまわん。飛行距離が届かずとも、練習にはなるのだから」
「貴様の身体が無理だと言っている!」
「我には限界はまだ来ていない。そのことが問題点なら、かまわず続けるぞ」
「無理だ! 死ぬぞ!」
「死なん! 志半ばで倒れる男などそれは我ではない。故に我は死なん!」
「断る!」
「伸治よ! 頼む。我を飛ばしてくれ。道があるのだ! その先に道があるのだ! 進むべき道がたどるべき道があるのだ! 頼む! 我をとばしてくれ!! 我に見せてくれ!」
 従兄弟がおかしいように半ば伸治の中も熱で徐々に溶けだしていたとしか思えない。巨体を投げ飛ばすのは伸治にとっても相当以上の負担であり、腕も腰も笑いそうだ。だが、回転をはじめた。ぶんぶんっと一回しするたびに自分の体がもっていかれる引きに耐える。やがて眼がかすみ、自分がなにをしているのか、わからなくなる。ただ白く染まった世界に残るのは、恥も外聞もかなぐりすてて故に誇り高い漢の瞳――。
 最後の瞬間、腕が引きちぎられるような感触の中に、瞳は捕らえた。ただ待ち続ける直立するアイロン台を。あそこに向かってこの男を投げられるならば腕がもげたとて構うまい――!
 碧空に影を落とすジャンボジェット。生徒の中からどよめきがあがった。明らかにかつてなく高度がある。アイロン台の高さを――超える。
 倒れる寸前にぐっとふんばった伸治は朦朧とした頭で必死に従兄弟の姿を目に入れようとした。そして息をのむ。折れたアイロン台と共に両手足を投げ出した、――ヒカル。
 伸治は絶叫した。
 その時、彫像のように凍りつく生徒たちの生垣を破り、数人の教師が血相を変えて飛び込んできた。
「鬼熊! 何をしている!」
「ウオオオオオオオオオオオオオオオっ!」
 突如、ぴくりとも動かなかったヒカルが顔をあげて吠えた。脳天から血が噴き出している。一拍後、誰かが呼んでいたのかサイレンの音が聞こえてきて、硬直していた教師たちはそちらに向かって矢のように駆けだした。
「伸治、我を投げろっ!」
「む、むちゃだっ!」
「なげろ! なげろ! なげろおおおっ!!」
 血は空に向かって吹きあげている。伸治は言葉も出せない。そのとき。
「そのへんにしておくんだな」
 冷たいしわがれた声がかかり、伸治はハッと顔をあげた。その先には、生徒の生垣からひらりと現れた白衣の中年男がいた。
「生物担当の上田教諭……」
 細面の顔につまらなそうな表情を浮かべた男の白衣がひらりと揺れた。表れた右手に、急にヒカルが反応した。それまで何も見えていなかった眼が釘付けになり、わなわなとふるえた。
「あれは――コンフィグリップ!」
「こ、こんふぃぐりっぷ?」
「EIJ(エクストリームアイロニングジャパン)公認エクストリームアイロニング発祥の地、英国が生んだ屈指のスチーム量とパワーを誇るアイロンだ!」
「で、ではやつも」
「――アイロニスト」
 視線の先で生物教師はちっとも面白くなさそうに口の端をつりあげた。
「も? まるで自分もそうだというような口ぶりだ。これはどうやら、はっきり引導を言い渡さないと通じないようだな。君たちのやっているものは、エクストリームアイロニングなどではない。こんな衆人の中で、誤解をまねくような真似をされるのは、全世界数十人におよぶすべてのアイロニストにとって侮辱以外の何物でもない」
「なっ……」
「ネイチャーアイロニング至上主義者か」
 軽く肩をすくめる相手に向かい、ヒカルは身を起こした。
「自然の中でアイロニングをする、それ以外のすべてを邪道とみなす派か」
「僕は確かにネイチャーアイロニストだが、競技系アイロニングを否定するわけじゃない」
「ならば、なぜ――」
 タッと軽く赤レンガを蹴る音が響いた。そして白衣が揺れる。生物教師の身体は舞いあがり、その手から黒いボディのアイロンが矢のように放たれた。空を滑るように裂く三角の先端。ジャンボジェットの離陸のように、スムーズに着陸し勢いのままに台の上を駆ける。台の果てに行きつき、あわや落下の直前、それは白いコンセントによって引き戻されて、再びのそのグリップは生物教師の手に戻る。また、白衣が揺れた。見事なまでに皺のない、ノリのきいた白衣が。
「ジャックナイフっ!?」
「じゃ、じゃっくないふ?」
「空中に飛び上がると同時にアイロンをリリースして皺を伸ばす空中技エアリアルのひとつだ」
「い、いちいち技名があるのか?」
 伸治の問いかけにも答えずヒカルは魅入られたように教師を見つめるだけだ。
「エクストリームアイロニングは鍛え上げられた大人のみに許されるスポーツだ。安全を度外視し、周囲の人間を不快にさせるようなアイロニングを行ったものに、アイロニストの魂などありはしない」
「そ、それは承知していた。だが、それでも」
「だが? いいか、道だ道だと暑苦しく叫んでいたが、道を進むには肉体が必要なんだ。己が必要なんだ。君の行為は自分自身を捨ててアイロンを手にすることだ。自分自身を捨てるかわりに道を見出していったいなんの意味がある!」
 吠えた植田は般若のようだった。
「表面だけにこだわって道を汚すこわっぱが! アイロニング道を口にするなど百年早い! 貴様にはアイロンを掛けた服に袖を通す資格すらない!」
 ヒカルはすでに言葉もなく、ただ赤レンガに膝をついた。

 救急車の中で、付添いの伸治は傍らで上ずりながら声をかけた。
「我が従弟。き、気を落とすでないぞ」
 しばらくの沈黙の後に、台の上に横たわったヒカルは口を開いた。
「気を落としていない。ただ未熟な己があるのみだ」
「従兄弟よ……。あの教師は傲慢だ。確かに貴様よりは一日の長はあるのかもしれぬ。だが、あそこまでの暴言を」
「あれは真のアイロニスト。そして俺はそれに気づけなかった。それは真の魂を持っておらぬ故だ」
「わかるはずがないではないか!」
「いや、俺は気付くべきだったのだ。あの白衣の一片の皺なき様を目にしたときに。……あれは真のアイロニスト。皺ひとつ伸ばせなかった俺には、遠すぎる境地だ」
「ヒカルよ、あきらめるのか?」
 否、と短い言葉で言いきって担架の上から、男は上半身を起こした。
「ここから戻ったら額をつこう、何度でも。師と呼べるかはわからぬが、俺はあの人に、俺のアイロンがけを見てもらいたい」
 呟いてヒカルは真っ直ぐに伸治を見すえた。
「まだ、止める気か。我が従兄弟よ」
 伸治はその問いにしばらく沈黙をしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「我が従兄弟よ。貴様は、自らをさして皺ひとつ伸ばせなかったと言ったな。だが、それは誤りだ」
 なに、と怪訝に呟く従兄弟にむかって伸治は思い返した。あきらめぬ、と断ったときの不思議な心の静まりを。この心境は
「貴様は、俺の心の皺を伸ばしたのだ」
 それは、アイロンが敷くひとつの皺もない道。
 ――2009年9月。エクストリームアイロニングの世界大会は、ドイツにて開催を迎える。



参考文献 松澤等 著「そこにシワがあるから――エクストリーム・アイロニング奮闘記」
     作中の技は松澤さん考案の技を使わせていただいています。
     EIJ公式HP「http://www.exironingjapan.com/about/index.html#gotop」

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