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B08  分岐エゴイズム

「聞いたよ、八田ちゃんの好きな人」
 帰りのホームルーム前。掃除の済んだ図書室はひと気がない。残っているのは俺――柴崎リョウと戸塚タカシだけだった。
「はぁ!? まったく、お前ってやつは」
 驚き飽きれるタカシに、俺はニヤリと笑う。
「あ、別にいいんだよ。知りたくなければ」
 タカシは俺を恨めしそうに見た……かと思えば勢いよく、パンっと手を合わせて。
「ゴメン、俺が悪かった! お願いだから教えてくれ!」
 予想通りの見事な反応。なんといっても八田ちゃん――八田アユミはタカシの想い人。気にならないはずがないんだ。
「よろしい」
「で、どうだったんだ?」
「あー、んー。いないってさ」
 俺は視線をそらせて小さく頭をかく。タカシのほうをちらりと見やると、なんだか口元がほころんでいた。まったく、はお前のほうだ。
「そっか」
「「そっか」、じゃねーよ。ニヤニヤすんなー」
 俺はタカシの肩をつかんでぐらぐら揺らしてやった。なんだかこんな会話が気恥ずかしかったんだ。タカシも「痛てぇーな」と笑って反撃してくる。そんなバカ二人を呼ぶようにチャイムが響いた。
「やべ、ホームルーム遅れる!」
「おい、待てよ」
 チャイム音に慌てて教室まで戻るのはいつものこと。セーフとばかりに間に合うから、懲りないものだった。
「よし、帰るぞ!」
 かったるいホームルームが終わってようやく放課後。俺はタカシの肩を勢いよく叩いた。
「こらこら、慌てんじゃない。待っとけ」
 タカシの制止に、俺は一人欠けているのに気がついた。まだ来てないお姫さまと俺たちは一緒に下校することになっている。
「待たせちゃってゴメンね」
 お姫さま、改め八田ちゃんは急いで来たのか、少し息を切らしていた。
「あまり無理するなよ」という気遣いはまさに騎士様か。心配するタカシに八田ちゃんはえへへと笑った。
 八田ちゃんは体が弱いから、子供の頃からタカシが一緒に帰っている。それに俺というオマケがつくわけで。正直、俺は邪魔者なんじゃないかとも思えたが、タカシにとってはそうでないらしい。幼い頃からの習慣も、高校生にもなれば、特有の照れがあるんだそうで。そういうところがなんともタカシらしいけど。
 ま、そういうわけで三人で帰っているわけだが、これが結構楽しい。三人でだべっていれば、この坂の多い帰り道も気が滅入ることはなし。気がつけばあっという間にいつもの二差路についてしまう。いつもここで俺はお別れだ。
「またな、リョウ」
「柴崎君、また明日」
 じゃあなと、軽く手を振ると俺は二人と別れて左の道に歩を進めた。一人になると自分の足音が響いて聞こえる。俺はふと、あちらでは二人はいつもどんな感じなんだろう、と思った。
 タカシは、なんていうか奥手で気持ちをうまく伝えるのが下手なヤツなんだ。「付き合うとかはやっぱり無理なのかもな」とか、すぐ言うし。その度に俺は威勢をつけてやってるんだけど……。
 俺はふと立ち止まり、道を引き返す。分岐点に戻るまでさほど時間を要しなかった。ちょっとは様子を見てやりますか、と俺はこっそりと電柱の影から二人を覗く。二人の背中は少し遠かったが、時折、八田ちゃんの笑顔がちらりと見えた。やっぱり相変わらずだな。やれやれ仲良きことは良きことかな、というやつだ。
 俺はしばし二人の背中を目で追った。背の高いタカシと並んでいるからか、八田ちゃんの背中は妙に小さく見える。その儚く頼りなげな背中を、まるで何かを惜しむ気持ちで見つめ続け、俺はふと我に帰った。そろそろ帰路に着こうと、そう思ったのに、何故か足は一向に動こうとしない。疑問に思った瞬間、大きく鼓動がなった。視線はただただ彼女に釘付けになって、ある感情に心を奪われる。焦げるような感情。衝動。俺はその正体に気づいてしまった。気づいた途端、俺は激しく狼狽した。信じたくない、分かりたくもない。しかしそれは隠し様のない事実だった。気づかないうちに、俺は八田に……。
――親友が好きな人に恋をしていた。

 翌朝、俺はひどく眠かった。昨晩は一睡もできなかったから無理もない。
「おはよ」
「――っ!?」
 俺は思わず椅子からずり落ちそうになった。目の前に八田がいたのだ。心臓が跳ね上がる。
「び、びっくりさせんなよ、八田ちゃん」
「えへへ。だって柴崎君、さっきからぼけーっとしてたから、つい」
 つい、でそんなまぶしい笑顔を向けないでくれ。
「あんまり夜更かしはだめだよ」と、八田はそういって席へつく。それを無意識に目で追っていた。俺は重いため息をついた。どうもこの感情が何かの間違いでないらしい。何かの間違いだったらよかったのに、と思う。恋愛感情は嘘をつけなかった。

「俺、今日からしばらく先に帰るから」
 のっけからタカシはそう話を切り出した。俺といえば、今までどおりの自然な振る舞いをなんとかやっていたところである。
 タカシの祖母に介護が必要になったらしい。手伝いやら何やらで早く帰らなければならないらしい。内心、何の話かと思ってビクビクしていただけに、俺は胸をなでおろした。
「なんか大変そうだな。俺が手伝いに行ってやろっか?」
「お前はただ遊びに来るだけだろ。夕飯が一人分増える」
「そりゃそうか」と、そういって俺たちは笑う。
「ただひとつ頼まれてくれないか?」
「おう、なんなりと」
 俺は胸を張った。これから大変そうなタカシの力になりたかった。タカシは俺を真っ直ぐ見つめた。
「アユミのこと頼むな」
 その名前を聞くだけで、どきりと大きく鼓動がなる。そんな動揺に気づいた様子もなく、タカシは朗らかに笑った。
「俺が今までみたいに帰れなくなるとすると、お前しか頼める人がいないだろ」
「ん、まぁ、そりゃそうだけど」
「よろしくな」
 タカシに押し切られる形で俺は頷いた。タカシにとっての当たり前の三人の関係が、俺の中では崩れつつある。そのことをタカシは知らない。いつも通り友達として信頼している。だからなおさら、苦味を感じて。俺はそれ以上何も言えなかった。そしてその放課後、俺は八田といつもどおりに待ち合わせた。
「タカシ、しばらくの間、先に帰るってさ」
「そうなの?」
「なんか、いろいろ大変みたいで」
 なんとなく俺は言葉を濁す。八田は小さく溜息をついた。
「忙しいんだ、タカシ君。なんだかつれないね」
「別にそういうんじゃないだろ。それに八田ちゃんはタカシじゃなくて俺が騎士じゃご不満?」
 冗談めかして言うと、八田はクスクスと笑った。
「騎士だなんて。別に面倒見てもらうほど弱くないよ、私。でも、ありがとう」
 八田の笑顔があまりに可愛くて、少々惚けてしまいそうだ。俺が顔が綻ぶのを押さえにかかっていると、八田は静かに続けた。
「ここだけの話ね、私、本当はタカシ君にいつも無理させてるんじゃないかって思っていたの」
「そんなこと……」
 八田は首を振る。子供の頃から貧血になりやすかった八田は、遊んでいてもよく倒れることもあったのだという。俺はそこまでのことは、知らなかった。少し驚いた。でも不思議と戸惑いはしなかった。どんな事情があっても八田は八田だから。
「そっか。でも心配すんなよ。大丈夫」
 八田は顔を上げる。俺は努めて笑った。八田が安心するように。
「迷惑とか、無理してるとか、そいうのはない。タカシはそういうヤツじゃないから。俺が保障する」
 それだけは胸を張って言える。八田の頬がようやく緩んだ。
「そうだね」
 八田は伏し目がちに柔らかに微笑む。小さく「そうだよね」ともう一度呟いて。俺はその微笑にずきりと胸が痛んで、言いかけた言葉を飲み込んだ。八田の微笑が誰に向けられたものなのか、あまりに明らかだったから。俺と八田の距離は近そうに見えて、全然遠い。それに比べてタカシは……。
「柴崎君、また明日ね」
 俺は八田の声に我に帰った。
「あぁ、また明日」
 手を上げて八田に別れを告げる。本当にあっという間だ。
 帰路はぐるりと遠回りになったが、大して苦にならなかった。二差路の後、この時間を今までタカシと八田と二人っきりで歩いてきたんだと思うと、正直羨ましかった。他愛もない会話をして、盛り上がって。そういう二人を想像すると、どろりとした感情が渦を巻く。今までの俺はそういう二人が微笑ましく思っていたはずなのに。そう思えない自分が嫌で嫌でたまらなかった。
――それから数週間。
 毎日、俺は八田と帰る。それがいつのまにか自然になっていた。タカシには悪いけど、この時間が俺にとってささやかな幸福だった。当然の報いのように、罪悪感に駆られようとも。ただほんの少しだけ八田と楽しく過ごしたって罪にはならないだろう、と思う自分もいた。俺自身、コクる気は全くないし、それに。俺は一呼吸おいて八田を見る。タカシの話をする八田はとてもいい表情をするから。きっと好きなんだろう、八田は、タカシのことが。俺はそれでいいよ。それでいい。
 そう思っていたのも束の間、唐突に八田は終わりを告げた。
「こういうのは、もうやめよ」
 俺は正直うろたえた。
「どうして? やっぱりタカシの代わりにならない、とか」
「そういうわけじゃないよ。タカシ君が戻っても一緒に帰るのはやめるつもりだし」
「何で、そんな!」
「ほら、私も子供じゃないから。ゴメンね」
「おい、八田ちゃん!」
 その場を逃げ出す八田を、俺はとにかく追いかける。小柄な体で懸命に走っているのは分かるが、残念ながらあっという間に追いついてしまった。
「おい、待てって」
 とっさに八田の手首をつかむ。か細くてひ弱な手首がひどく心細い。だからぐっと心配にもなるし、守ってやりたい。八田の体がぐらりと傾いだ。それをとっさに支える。
「八田、大丈夫か?」
「うん、ただ貧血っぽいだけ」
「まったく、無茶するなよ。とりあえず、休もう」
 俺はとっさに休めるところはないか、思考を巡らす。八田の肩を抱くとそのまま公園のベンチで休ませる。俺が自販機でジュースを買って戻ると、八田はブランコに座っていた。
「落ち着いたか?」
「うん、ありがと」
 缶ジュースを受け取った八田の顔色は回復しており、俺は安堵した。
「タカシ君が忙しくなって、しばらく経つよね」
「あぁ」
 ブランコが小さくキィと音を立てる。俺は柵に腰掛けた。八田は俺を見上げる。黒い大きな瞳が揺れた。
「いつか、離れて行っちゃうんだろうなって。だから強くならないとって思ったの」
「離れていかねぇよ」
「そうかな」
「そうだよ。……それにタカシは離れていかない、絶対に」
 これは断言できる。俺はずっと前からタカシの気持ちを知っているのだから。
 タカシは出会った頃から、時折ぼーっとしていることがあった。その視線を追うと必ず八田にたどり着く。八田が好きなのか確かめるのにカマかけたら、やっぱりそうで。タカシは本当に分かりやすい。でもそういうタカシだから応援したかった。本当に純粋にそう思っていた。ずっとそのままだったら良かったのに、と思う。俺の中の羨望、嫉妬、独占欲はどうしてこうも湧き上がってくるのだろう。何故……。
「ありがとう」
 ぐるぐるとした思考に迷う俺を、八田の声が呼び覚ます。俺はふと空を見上げた。タカシに向けられた微笑を見たくなくて。
「タカシは、優しいよな」
「ふふ、過保護なんだよ」
「確かに」
 それに比べて俺は。こんな気持ちで会っていることだって、狡猾なんだ、本当に。
「でも、柴崎君だって、優しいよ」
 八田は大切なことのように、そう言った。「八田だって優しいよ」と、そう口にしようとした瞬間、ちょうど八田と目が合った。吸い込まれそうな大きな瞳。八田があまりにも優しいから、魅入られて、鼓動は大きく打つ。
 身を焦がす罪悪感も苦しさも、いっそ全て忘れられたらいいのに、と思う。それでも脳裏にちらつく、親友のこと。だからすぐ現実に引き戻される。分かってるよ。分かっている。だからもう、終わりにしよう。
「俺、八田のことが好きだ」
――しかし、俺が玉砕し恋情を忘れるための告白は、罪悪の苦しみから逃れるための告白は、受け入れられてしまった。

 告白の余韻。淡い幸福感は甘く、しかしそう長くは続かなかった。タカシのことを考えると、何をどうしたらいいものか、言葉にならなかった。考えていると自分がどうにかなってしまいそうなので、俺はコンビニまで散歩することにした。漫画雑誌でも読んで、辛い現実から逃げ出したかった。しかし現実はそう甘くはなかった。
「久しぶりだな」
 背後から声をかけてきたのは紛れもない、タカシだった。
「おう。元気にしてたか?」
「まあな」
 俺たちはそれぞれ用件を済ますとコンビニを出る。タカシと話すのは本当に久しぶりだった。タカシは変わらない、元気そうだった。でも俺にはタカシの話が全くといっていいほど、頭に入ってこなかった。
 告白のことをタカシは知っているのか、それだけで頭がいっぱいだった。知っていたらどうしたらいいのか、あるいは知らなかったら俺はそのことを伝えるのか。どうやって? どうすれば……。
 俺はいつもの帰り道を他愛のない会話でなんとか埋める。ようやくあの二差路にさしかかったので、俺は内心ほっとした。とりあえず、この場はしのげた気がした。
「それじゃあ、ここで」
 そう言った俺に対し、タカシは立ち止まり静かに口を開いた。
「待ってくれ。リョウ」
 俺は振り返る。
「……お前、八田に告白したんだな」
 静かな声だった。俺は自分で顔が強張るのを感じた。もう、嘘はつけない。
「あぁ」
 ややあって、俺は答える。
「そうか」
 タカシはうつむいた。辺りに沈黙が落ちる。世界から音というものが失われたみたいだった。
「……正直、驚いた。お前に告白されて、八田、嬉しそうだったよ」
 俺には何も答えられない。
「ひとつ聞いてもいいか」
「何だ?」
「何で、俺に八田のことが好きなこと、言ってくれなかったんだ?」
 再び沈黙する。タカシにとってはあまりに当たり前の問いだった。そして俺にはどうしても受け入れがたい問いだった。
「……のか」
「聞こえない。はっきり言ってくれ」
「言ったら何か変わったのか!?」
 俺は声を荒げる。タカシは彼らしくない険しい表情をしていた。
「そんなの分からないだろ」
「いいや、違う。タカシには俺の気持ちが分からないんだ」
「知るかよ!」
 タカシが大きな声を出すのを初めて聞いた気がする。
「ただ俺は……言って欲しかったよ。それだけだ」
 苦渋に満ちた表情で呟いたその言葉が、俺の胸につき刺さる。こんなことになるはずじゃなかった。そんなつもりじゃなかったんだ。そもそも俺は元通りの関係を願っていたのだから。
「俺は八田と付き合うつもりはない」
「は? お前は何考えて」
「そもそもそういうつもりで言ったわけじゃないんだ、だから――」
 俺は本心を伝えたくて続けるが、タカシは眉をひそめた。
「何なんだよ。お前、わけが分からない」
「タカシ、聞いてくれ。俺は……」
 俺は必死だった。しかしタカシは頑なに俺の言葉を拒んだ。頭を振って、大きく嘆息して。
「もういい。聞きたくない。たくさんだ」
 と、そう言葉を残して去る。取り残された俺は、ただ立ち尽くすしかなかった。
 その後、八田は大きな病院に入院することになり、結局付き合うことはなかった。最後に会ったときは本心から俺たちの仲を案じてくれ、嬉しい反面、胸が痛んだ。八田にも悪いことをしたと思っている。本当に。
 タカシはあれ以来、俺が何を言ってもまともに取り合ってくれない。メールをしても、返信は必ず同じ『無理だから』というものだった。前のように笑いあうことももう二度とない。俺は自業自得と分かっていながら、しかしどうしてこうなってしまったんだろうという気持ちを拭えずにいる。分岐点の行く先が見えず途方に暮れ、俺はただ後悔の海を漂うだけだった。

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