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A11 かえりみち

 参考書を片手に最寄り駅を出た僕は、むわりと全身を包む湿度の高い外気に、思わずひるんで足を止めた。今朝のニュースでは帰省ラッシュ開始という言葉とともに各地の賑わいを伝えていたが、いわゆる灰色の受験生であるところの僕にとっては、そんな光景もああ予備校の集中講座が始まるなあ、という感慨をもたらすものにすぎない。参考書と問題集が詰め込まれた鞄の重みを実際以上にずしりと感じながら、僕はこの春から数えてもう何度目かもしれない溜め息をもらした。
 背後から僕の名前を呼ぶ声に顔をあげたのは、そんなおなじみの倦怠感にどっぷりと漬かりながら、自宅への道をたどろうとしたときだった。
「ヒ、ロ、くん」
 スタッカートをきかせた弾むような声音と、それにふさわしい軽快な足取りで、声の主は僕の隣に立つと少し首をかしげて僕を見上げた。癖のある茶色の髪が、涼しげな白いセーラーの襟の上でふわりと揺れる。
「この電車だったんだ? わたしも家に帰るとこ。ね、一緒に帰ろう」
 にこりと微笑んだ顔をたっぷり三十秒見下ろして、
「――――瑞希?」
 僕はようやっと、その人物の名前を呼んだ。
 瑞希はそんな僕をくすくすと笑う。
「失礼だなあ、幽霊見たみたいな顔して」
「……いや、その……」
「変なヒロくんー」
 笑い続けながら、ほら行こう、と先に立って歩き出した瑞希のあとを、僕は慌てて追いかけた。

「ヒロくんと一緒に帰るのってすっごく久しぶり。お隣なのにね」
「そうだったかな」
「そうだよ? あ、ねえ、ちょっと見せて。……うわあー、ぜーんぜんわかんない」
 僕の手から取った参考書をぱらぱらとめくって、瑞希は大げさに顔をしかめてみせる。
「ヒロくん、どこ受けるの?」
「まだ決めてないけど、一応旧帝大クラス狙い」
「うわっ、難関だ。それで毎日予備校通い? 受験生は大変だね」
 他人事みたいに言うなよ、と言い返そうとして、僕はあやうく口をつぐむ。彼女にとっては本当に他人事なのだということを、すっかり忘れていた。瑞希があんまり前のままの瑞希なものだから。
「大変大変。盆も集中講座だし」
「それでさっきも溜め息ついてたの? だめだよー溜息つくと幸せが逃げちゃうんだから! ほら、笑顔笑顔」
 自分の頬を引っ張っておかしな笑顔を作ってみせながらこちらを向いた瑞希が、なにかに気づいたようにぱちりと瞬きをした。
「あれ。ヒロくん、背が伸びた?」
「あー、今年に入って三センチ」
「そうなんだ。……ヒロくんを見上げるのって、なんか、変な感じ」
 なんとも言えない表情で笑ったあと、瑞希はまたとりとめのない話を始め、僕はそれに相槌を打ち続けた。

 角をあとひとつ曲がれば瑞希と僕の家、というところで、びっくりするくらい唐突に瑞希は口をつぐんだ。
「――瑞希?」
「………………」
「瑞希、どうしたの」
「ヒロくん、……わたし、こわいよ」
 僕のひじのあたりに、瑞希はすがるように手をかけた。盛夏だというのにその手はひんやりと冷たい。
「怖いって、なにが」
「お父さんとお母さん……わたしのこと、待ってると、思う……?」
 本気で怯えている様子の瑞希には悪かったかもしれないけれど、僕はそのとき瑞希に対してものすごく腹を立てた。なにを言ってるんだ、おじさんやおばさんの気も知らずに、と。
「ばか。あたりまえだろ。ほら、行くよ」
 僕は瑞希の手をつかむと、ずんずんと歩き出した。背後で瑞希が、待って待って心の準備が、とかなんとか言っていたけれど、聞こえないふりをした。
 角を曲がって、三軒目が僕の家。そのひとつ向こう、瑞希の家の門のあたりから、うすく煙がたなびいているのが目に入った。ああなるほどそういう時期か、と僕はひとり頷いた。坂口のおじさんおばさん――瑞希の両親――は几帳面なひとたちで、毎年この時期にはちゃんと門の脇で迎え火を焚く。仏前にはキュウリの馬もちょこなんと置いてあるはずだ。おじさん曰く、「うちはおじさんの代でここに引っ越したから、ご先祖様が迷わないように案内してあげないとね」ということらしい。同様に自分の代でここに家を買ったうちの両親が同じことをしたところを、僕は一度たりとて見たことがないが。
 僕は瑞希の手を握ったままさらに進んだ。ようやく覚悟が決まったのか、いつの間にか瑞希の抵抗がやんでいて、僕が一方的につかんだはずの手を瑞希の手が握り返していた。手をつなぐなんて小学生のとき以来じゃないだろうか。気が付いたら妙に恥ずかしくなって、僕はできるだけさりげなく手を離した。実際すでに僕の家の前まで来ていて、手をつないでいる意味もなくなっていたのだ。
 隣家の門に目を向ける。予想したとおりに煙を上げるおがらがあって、門灯はまだ明るい夏の夕のなかで控えめに、やわらかに存在を主張している。いつものとおりの坂口家のたたずまい。
「ほら」
 僕は瑞希の背をぽんと押した。
 不安げに振り返る瑞希に、にっと笑ってやる。
「大丈夫だって」
「……うん」
 瑞希が頷いたのを見届けて、僕は自宅の門をくぐった。
 暑い、と唐突に思った。
 

 僕の勉強机の二段目の抽斗の奥には、しばらく前から煙草の箱がひとつ眠っている。得意げな顔の悪友に押しつけられたものだ。奴に限らず、僕の周囲には煙草を持ち歩くことがステータスだと考えているような輩もいるが、僕にはかえって子供っぽいこだわりのように思える。でもまあそれを面と向かって指摘するほど野暮でもないので、ありがたく受け取っておいたというわけだ。実を言うと一本だけこっそり試してみたのだけれど、苦いばかりで美味しいとはとうてい思えなかった。
 その日の深夜、そういう来歴の煙草の箱を僕は引っ張り出してみた。一本を抜き取ると、下の階から持ってきたマッチで火をつける。これまた持ち出しておいた小皿に、火を消したマッチと煙草を――少し考えて、口をつけるのはやめにした――載せる。
 それから僕は部屋の窓のカーテンと網戸を開け放ち、窓枠に煙草を載せた小皿を置いてみた。紫煙が細く上がって、ゆうらりと窓の外へ流れていく。
 部屋の電灯を消してベッドに掛け、窓にともった小さな赤い光を見つめた。
 ご近所に気付かれたらやばいかも、せっかく好青年の比呂志君で通っているのに、などと考えながら、四、五分ほどぼうっと座っていただろうか。
「いけないんだー、ヒロくん、不良」
 窓の外から、ひょこりと瑞希が顔をつきだした。

 隣り合って立つ瑞希の家と僕の家は、どちらも狭い敷地にいっぱいに家屋を建てたつくりで、一階の屋根はもう少しで触れ合いそうなほど近い。そして瑞希の部屋と僕の部屋は土地の境界線を挟んでちょうど向かい合わせになっている。男女の違いを意識せずにいた小学生のころは、よく屋根伝いに行き来したものだ。
「もらいものだし、吸ってないし。だいたい不良はどっちだよ」
 部屋に下りる瑞希に手を貸しながら、僕は瑞希に憎まれ口をきく。
「高校生にもなって、男の部屋に窓から侵入してるのは瑞希じゃないか」
「ヒロくんが呼んだくせに。そもそも『男』っていったって、ヒロくんじゃない」
 ぽすんと軽い音を立てて、瑞希は僕の隣に腰を下ろした。
「あのなぁ。そんなこと言ってると、襲うぞ」
「いいよ」
 さらりと返された思いがけない返事に、僕は思わず瑞希を凝視する。
「いいよ。できるんだったら、襲ってよ」
 笑わない瑞希の顔を、月明かりが青白く照らし出した。
「――ごめん。ふざけた」
 僕の謝罪に、瑞希はひとつ息を吐いて、首を振った。
「ううん。わたしも八つ当たり。ヒロくんが呼んでくれて、よかった。わたしの部屋なのに、わたしの部屋じゃないみたいなんだもの」
 瑞希は片足を胸にひきよせて、独り言のようにつぶやいた。
「お父さんとお母さんと、話せなかった」
「……え?」
「待っててくれたの。それなのに駄目だった。ヒロくんとはこうやって話せるのにね」
「瑞希」
「どうしてかなぁ……」
 瑞希は僕の肩に頭をすりよせる。僕はそのふわふわした頭を、ぽんぽんと撫でた。そうするよりほかにできることが見つからずに。
 僕と瑞希はそうして肩を寄せ合ったまま、長い時間を黙ってすごした。
 ひとつだけ瑞希に言いたいことがあった。けれど、僕は最後まで言い出せないままだった。

   *

 その日もやはり、夕方になってもじっとりと暑かった。以前より酷い気がする。いや、気のせいでなく、地球全体の温度が確実に上がっているとメディアは盛んに報じているのだが。
 学生服を着ていたころ毎日通った改札を、Tシャツにジーンズ、肩にはスポーツバッグといういかにも帰省客らしい出で立ちで抜ける。
「ヒロくん」
 ある程度予期していた声を聞いて、僕はゆっくりと振り返った。
 白い夏服に身を包んだ、あの日と全く変わらない姿の瑞希が僕に笑いかける。
 ――あれから、十年が経っていた。

「ヒロくん、また、背が伸びた」
 並んで歩きながら、瑞希は感心したように言った。けっきょく大学に入っても伸び続けた僕の背丈は、いまでは同世代の平均よりもいくらか高い。瑞希のつむじが見える身長差は瑞希と僕との隔たりをことさらに強調するようで、僕を落ち着かない気持ちにさせた。
「十年ぶりだよね。ヒロくん、ずっと帰ってなかったでしょ」
「年末にはたまに帰ってたけど」
「わたしは年末にはいないもん、同じだよ」
「……瑞希は、毎年帰ってきてた?」
「だって、わたしの帰るところはあの家だもの」
「そっか」
「そうだよ。……お父さんとお母さんに、わたしが見えなくても、ずっと、そうなんだよ」
 ひんやりとした風が吹いて、瑞希の白い襟をふわりと浮きあがらせた。


 隣に住んでいた同い年の幼馴染、坂口瑞希が死んだのは十一年前。高校二年生の二学期が始まってすぐだった。
 死因はありふれた交通事故だ。野良猫を追って道路に飛び出してきた幼児を避けようとハンドルを切ったトラックが、道の反対にいた瑞希を跳ね飛ばした。明確に誰かが悪かったのではない、強いて言うのなら瑞希の運が悪かったのだろう。すぐに意識を失ったから、あまり苦しまずに逝けたことだけが救いだと、真っ赤に泣きはらした目をしたおじさんが教えてくれた。
 僕が予備校の帰りに瑞希に会ったのは、それからおよそ一年後の夏のことだ。


 夜になり、僕はスポーツバッグから煙草の箱を取り出した。当然だが、今の僕にとっては簡単に購入できるものだ。こんなものを、なんだかんだと言いながらも大事にしまいこんでいたあのころの僕は、やはり子供だったのだと思う。
 ライターで火をつけた煙草を軽く一口吸ってから窓の桟において、カーテンと網戸を開く。細くたなびく煙が隣家の方向へ流れていくのを、久しぶりの苦みを味わいながら見送った。
 ずいぶんと変則的だが、これは僕なりの迎え火のつもりだ。
「ふ・りょ・う・む・す・こー」
「八年前から合法なんですけど」
 妙な節をつけた台詞とともに現れた瑞希に、僕はそう言い返すと煙の混じった息を吹きかけてやる。
 笑顔も明るい声も変わらない。いつまでもひんやりと冷たいままの手も、十年前の瑞希と同じだった。

「ひとつ、聞いていいかな。――瑞希は、幽霊じゃあ、ないんだろ?」
「そうだよ」
 瑞希はうなずいて、窓の外を指さす。
「未練がなかったわけじゃないよ。十七で死んじゃうのなんて、すっごく悔しかった。でも、わたしはたぶんそういう運命だったんだ。――いつもは、ずうっと遠くにいるの。今はお盆だから、わたしも里帰り」
「そうか」
 僕は安堵した。そのことだけが気になっていたのだ。もし瑞希が現世に未練があってこの世を去れずにいるのなら、僕はなんとしてでも瑞希の助けになってやりたかった。幽霊の成仏のさせ方など知らないが、瑞希が苦しんでいるのに僕だけがのうのうと生きているのは許しがたい。
 情けないことに、そう思えるようになるのに十年もかかってしまったのだが。
「ねえ、わたしも聞いていい」
「ん」
「ヒロくんがずっと帰ってこなかったのは……それはわたしのせいだって、うぬぼれても、いいのかな」
「……いいよ」
 僕は瑞希の顔を見ないまま、頷いた。
「怖かったんだ。瑞希に会うのが。……僕は瑞希が、好きだったから」
 十年前、生きていたころそのままの瑞希に会って、僕の心は歓喜した。一年に一度でも、それが死者であっても、瑞希に会えるのならそれでいいと思いさえした。だが僕の心の違う部分が警告を発した。会えば駄目になる。瑞希を忘れられなくなる。瑞希を好きだった僕だからこそ、瑞希への思いに引きずられてはいけない。
 弱虫の僕は、この土地を離れることでしかその決意を果たせなかった。県外の大学に進学し、そのまま就職した。帰ってこいという親の要請をのらりくらりとかわしながら、ゆっくりと、瑞希への思いの形を変えていった。
 ようやく、年末になら帰れるようになったのが、数年前のことだ。
「でも、ずっとそれじゃ駄目だろう。だから今年は帰ってきた。瑞希に報告したいこともあったし……」
 言葉が喉につかえた。僕は窓に手を伸ばして煙草を取ると、今度は瑞希にかからないようにゆっくりと吐きだした。
 いつもほとんど吸わないくせに、こんなときだけ大人の男のポーズをする自分は、なんだか滑稽だと思った。
「結婚するんだ」
 瑞希がゆっくりとした動作で僕の横顔を見上げた。
 それからしばらく、僕も瑞希もなにも言わなかった。僕は窓の外の暗い夜空を見つめ、瑞希はたぶん、僕のその顔を見ていた。
「……そっか」
 ずいぶん経ってから、瑞希がぽつりと言った。
「もう、ヒロくんの帰る家は、ここじゃなくなるんだね」
 僕は黙って頷いた。
「お嫁さん、いいひと?」
「少なくとも僕には」
「そうだよね。ヒロくんの選んだひとだもん。――おめでとう」
 瑞希は頭を僕の肩にそっともたせかける。
「ね、ヒロくん。わたしのこと、忘れてね。忘れて、幸せになって」
 瑞希の声が震えていた。僕は瑞希の肩に手をまわして、細い身体を引き寄せた。
「いやだ。忘れない」
「――――」
「忘れないために、帰ってきたんだ」
 瑞希が驚いたように僕を見上げた。
「心配しないでもちゃんと幸せになる。でも忘れないよ、瑞希。好きだったよ」
「ヒロくん……」
 つめたい、つめたい瑞希の身体を、僕は長いこと抱いていた。
「ありがとう、ヒロくん。わたしも、ヒロくんが好きだった。わたしも忘れない、ずっとずっと忘れないよ」
 涙を大きな目いっぱいにたたえて笑った、そのときの瑞希の笑顔を、僕は生涯忘れることはないだろう。

   *

 そしてまた夏が来た。
 瑞希と歩いた帰り道を、僕は妻と並んでたどる。

 十一年目の、八月十二日。

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