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A09 空の果て、あの道に

 ひっそりと部屋の隅に座る姿は一輪の花のようだった。
 花瓶に挿したものでもなければ、人の手により育てられ、すっくとたちあがった花でもなく。道端の隅に誰にも気づかれることなく咲いて、枯れていく花。儚く、美しい花。
「あら、時間?」
 白い。目に焼けるような肌が眩しくて、キリは目を眇める。
 小さな部屋だった。そこには簡素なベットと小さな腰掛椅子しかない。ただ一つ、彼女が持ち込んでよいと許可されたのは一冊の聖書だった。窓もない。常に湿った室内は死と絶望が染みついている。
 キリを見た黒い双眸は泉の水面のように穏やかに凪いでいた。
「ああ」
「そう」
 彼女は膝の上に載せていた聖書を閉じ、二度、瞬きした。部屋に入ったまま立ち尽くしているキリを不思議そうに見ている。彼女が手招きするのにふらりと近づき、その体を抱きしめた。細くて華奢な体は少し力を入れれば壊れてしまうようだった。
「大丈夫か」
 そう言うと、ええ、と頷いた声が笑っている。何をいまさらと小馬鹿にしたものではない。大丈夫よと言ってくれるその声がひどく優しくて、キリは不覚にも泣きそうになる。泣いて喚いても誰も助けてくれない。そのことを誰よりも彼女が知っている。
 それでもいまだ諦めきれず、キリは神へ祈らずにはいられなかった。
「キリは?」
「大丈夫だ」
「なら、私も大丈夫よ」
 抱きしめた体をそっと離し、目を合わせた。彼女は笑っている。つらくても、怖くても、泣きたくても、寂しくても、彼女は笑った。
「いってきます」
 震えをこらえ、キリは言った――いってらっしゃい。


 カツ、カツ、カツ。断続的な音が響いている。
 それが自分の足音だと思うと笑みが浮かんだ。これほどまでに落ち着いていられることが、彼女は不思議でならない。しかし泣き叫び、助けを求めて神に祈った昔の自分が愚かしくも思えた。
 長い階段を上っている。前後についた看守はピタリと同じ距離を開けている。彼女の細い手首には武骨な銀の手錠が嵌められ、前の男の手に繋がれていた。天井に明かりはなく、看守が持つランプの頼りなく揺れる光のみが暗闇を照らす。肌にじわりと張り付くような淀んだ空気。聞こえもしない死人の断末魔が耳の奥で木霊しているような気がした。

 この階段を登り切ったら何が見えるだろうか。

 彼女の心には、もう二度と見ることのない故郷の青い空と緑の景色が広がっている。暗闇とは無縁の世界で生きていた、あの頃。何も知らず知りたいと思うことなく生きてきた自分たち。悔いがあるかと聞かれたら、ないとは言い切れない。しかし自分の未練を残して死ぬなど許せなかった。そうして、それは一生叶わない望みでもあるから誰に残す気もなかった。
 もういいの。
 口の中で呟き彼女は目を瞑る。今は瞼の裏に焼きついた、あの空の下での古い憧憬があればいいと、願う。


 地図にも書いていないような小さな村だった。茅葺屋根の家々がぽつりぽつりと緑の地面に建ち、青い空の下で林檎の木が揺れる。人の姿より羊を見る方が多いくらいだが、会えば誰もが温かな笑顔を返してくれた。その村長の娘として育ったのがレンとキリだった。
 二人の娘は、特に村の人たちから愛された。そうして、二人も村の人を愛し、村を愛し、将来は二人で支えていこうね、と互いに口約束を交わしていた。
 そんな穏やかな村の春の午後。二人の娘は林檎の木の下で寝そべり、何をするのでもなく空を見ていた。
「姉さまは、結婚するの?」
 幼い瞳を輝かせて突拍子もない質問を投げかけた妹の顔を、レンはぎょっとして見た。ませているとは思っていたがとレンは火照る頬を手で抑える。姉をびっくりさせているというのに隣にいる妹は澄ました顔なので、動揺してしまった自分がなんだか恥ずかしくなった。
「な、なんで?」
「だって村の人がみんな言っていたもの。レンちゃん、そろそろ結婚の時期ねって」
「やだ、みんなって誰よ」
 小さな村の悪いところの一つである。歩きだした噂は、口と言う道具を通してするすると伝っていく。それは止まる術を知らなくて、いつの間にか誰もが知っている、なんてことはいつものことだった。
「みんなはみんなだよ。ねえ、結婚するのでしょう?」
「……ええ」
「相手はヨウにいさま?」
 したり顔で見つめてくるので、ごまかしはきかないようだ。ませていて無邪気で好奇心旺盛なキリは、ついでに頭もよい。利口そうな広い額にかぶさっている前髪が風に揺れた。
 レンが頷くと、妹はあどけない顔立ちを綻ばせる。やったあ、と諸手を挙げて喜ぶ妹をレンは愛おしく思い、火照った顔を同じように綻ばせた。


 幼馴染のヨウは隣村の長の息子であり、レンとキリの幼馴染でもあった。レンたちの村と同じように小さな村で、昔から互いの村長同士の仲が良かった。同い年であり小さいころから一緒だったレンとヨウは、結婚を出来る年になる前から互いを大事に想うようになった。その微笑ましい関係を傍らで見てきたのがキリである。キリはレンもヨウも大好きで、二人が結婚したらいいなあと思っていたのだ。だからレンの報告はこれ以上なく喜ばしいことで、噂の真相を聞いた夜は興奮が収まらず、なかなか寝付けないぐらいだった。
 次の日の朝、早速キリはレンを外へ連れ出した。
「朝からどうしたのよ」
 いつもなら本を読んだり刺繍をしたり、木の下でだらだらと過ごしているというのに。ぶつぶつ呟くがキリはまったく聞いていなかった。
 姉の細い手首を握り、ぐいぐい前へ引っ張っていく。隣村までは馬車に乗っていかなければいけない。偶然にもすぐ馬車は見つかり、それに乗りこんた。何が何だか分からないと困惑していたレンだったが、ようやくキリがなにをしようとしているのかわかった。徐々に頬が赤くなり、忙しなくあたりを見回す。
「キリ、もしかして」
 うん、とにっこり笑ってキリは答える。
「ヨウにいさまのところだよ」
「どうして! 朝から迷惑じゃない」
「そんなことないよ」
 だってお姉ちゃんは結婚するんだから。そう言われてさっと頬に熱がともった。にこにこと笑いながら「姉さま、可愛いね」というキリを睨みつけるが無駄だった。すぐ顔が赤くなるのは昔からだ。そうしてそんな部分を、妹のキリは面白がっている節がある。
「なんだか、ここを通るのも久しぶりね」
 頬の熱を冷ますために風に身を任せていると、黙っていたキリが驚いたようにこちらを見た。小さくくりくりとした瞳が、大きく見開かれている。
「姉さまも久しぶりなの?」
「うん」
 目を細めると、遠くなった林檎の木に幾つも赤が見える。カタカタと荒い音がして、体が時折揺さぶられても、この馬車に乗るとどうしてこんなに胸が高鳴るのだろう。
 キリがじっと見ている。その問うような視線には答えず、レンは風になぶられる長い髪をそっと押えた。
「この道を通るとね」
 急に話しかけられ、キリは「うん?」と首を傾げた。
「なんだかぎゅってするの」
「ぎゅっ?」
 照れたように笑い、レンは自分の胸へと手を持っていく。開いた手をきゅっと握る。キリも自分の胸へと当ててみる。
 きゅっ。
 だけど得体のしれない姉の想いは、初恋もまだのキリにはわからなかった。それが顔に出て、レンはくすりと笑った。
「キリもわかるよ」
 そのうちね、と紡いだ声は甘かった。
 その道を初めて三人で歩いた時は、まだ誰も恋というものを知らなかった。普段は馬車で通う道を歩いてみようと、誰が言い出したかは忘れたが、途中で足が疲れたとキリが駄々をこね、馬車を拾って家へ帰ったのことは覚えている。幾度か挑戦してみたが、歩き切ったことはない。
 だけどレンにとっては、この道が、この距離が、大切だった。
 だから素直に「ありがとう」とキリに言えた。結婚が決まってから、恥ずかしくてヨウに会うことができなくなっていたレンはキリの優しさが嬉しかった。ヨウへの愛しさは募るばかりだった。
 大好きな二人、大切な二人。
 緑と青が広がる、愛しい故郷。


 ふっと瞼を開ける。あの道を繋ぐのは、自分の恋だけではなかった。愛する人たちの思い出を永遠に繋いでいる。
 そんな穏やかで温かい日常が崩れたのがいつだったか。そんなことは思い出したくもない。水面を揺らした小さな波紋が、大きな波となり嵐を呼ぶ。そうして全てを壊していった。今となっては、あの短くも愛しい幸せは全て幻想だったのではないかと思うのだ。
 ヨウが殺され、復讐を誓ったキリが殺された。なのにレンは生き残り、たくさんの人の血でこの手を汚してきた。罪の意識と深い怒りに囚われ、何も見いだせずにさまよい歩き――行き着いた先は、ほの暗い闇の底だったとしても。
 悪夢は今日を境に覚める。
(この日を、待ち望んでいたわけじゃない)
 でも、死を恐れているわけでもない。ただ無様に生き残った体だけど、あっさり投げ出すことは出来なかった。キリもヨウも本当は生きたかったはずだから。
 三人分の足音が、ぴたりと止まった。
 いよいよ死のにおいが濃くなる。大げさな音を立てて、扉が開いた。見えたのは真っ青に包みこむ、故郷のものとは違う空。その下に広がるは人々のどよめき。何年ぶりに浴びた光が肌を焼いていく。
「前へ」
 進め、と促されて一歩。足元は地面ではない。ぎしりと床が軋む。
 たくさんの人が眼下に見える中、レンは真っ先に彼の姿を見つけてしまった。見つけようと思ったわけではない。目が、吸い込まれるようにそこに向かったのだ。
(……キリ)
 妹と同じ名を持つ青年が見上げている。
 ああ、――レンは呟いた。
 無でいようと思った。感情を殺し、表情を殺し、言葉を殺すつもりだった。だけど今にも泣きそうな顔で見上げている青年を見た瞬間、彼女の心には一筋の光が射したのだ。
「  」
 小さな声は誰の耳にも届かなかった。
 頭上に見えるは白く、肉食獣のように獰猛な光。それを反射して鈍くひかる銀の刃が首にあてられる。
(私の愛しい人たち)
 悔いがあるならただ一つ。また、あの道を三人で歩きたい。
 おいていかれて何度も死ぬことを試み、人を殺し、そうして看守である男に心を奪われた自分にはそれを願うことさえ許されない。だからせめて。
(この命は、あなたたちの為に)

 閃いた光の中、レンは静かに微笑んだ。
 あの道の果てに繋がっているのなら、この空も悪くない。

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