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A05 狼は邪心を知る

 水面の向こう側、空が落下した。
 それが唯の錯覚であり、実際は自分が水中から飛び出したのだと気付いたのは、もう二度と触れることは無いだろうと思っていた澄んだ空気の中に放り出されてからだった。
 羽を持つかのごとく、時折水上を跳びながら上流を目指す魚とは、こういう気分なのだろうか。彼女は束の間の感動を物悲しい想いで受け止めた。
 しかし馳せた思いは早くも地に落ちた。次の瞬間、彼女は湿った泥と砂利、不揃いの草の根元へ落下した。自由に泳ぐ魚ではなく、釣り上げられた魚と呼ぶに相応しい扱い。頬には、痛みより先に冷たさと粘度の高い感触が届いた。彼女に嫌悪感は無かった。釣られた魚として食われてしまいたい。このまま土に返ってしまいたい。土の匂いが、鼻腔の奥で目頭を押した。
 再び力強い何かが彼女の髪を根元から束ね、先程よりもゆっくりと彼女を持ち上げた。頭皮が僅かにじりじりと痛んだが、今となってはその程度の痛みであることが、彼女の現状を自身に知らしめた。
 押し上げた瞼の向こうから、焦がれていたはずの陽光が攻撃的に刺さる。反射的に閉じた瞼の裏で、光る泥濘がひとつの影絵を形作っていた。その正体を再び視野に入れるよりも先に、耳朶がその声を拾った。
「生きているのか」
 地の底から響く、巨大でそれ故に重く寛ぐ声。それは問いではなく確認であったが、怪訝な色が隠す必要など感じていないかのように言葉を縁取っていた。
「これを、生きているとしてくださるのならば」
 中空で風に晒されながら、彼女は出来うる限り声を張り上げて応えた。虚しく隙間を抜けていく風のように擦れた声は、それでも相手に届いたらしかった。溜息のような吐息が彼女の頬を撫で、水草の匂いがそれを追いかけた。
「珍妙な」
 呟かれた声音は周囲の空気を撫で、木の葉の揺れと水際の波音がそれに呼応するようにささめきあう。そしてそれきり、黙りこくったように僅かな音も立てなくなった。
 その中にただ、地を這うような低音のみが言葉を紡ぐ。
「同胞にかつて首だけとなり仇敵に喰らいついた猛者がいたと聞くが、その後その様で生き延びたという話は無い。見た処そなた、人間であろう。あのような脆弱な生き物が四肢と胴を失くして在れる道理は無い。或いはそなた、鬼か怪の類か」
 唯一の発言者が沈黙を以って支配する空間を、彼女は嫌というほど知っていた筈だった。だがこの声の主が齎す空気はどうだ。強制も隷属も無しに、ひたすら周囲がその主の声を望んでいるのが判る。畏怖で震える心を叱咤し、彼女は声を絞り出した。
「わたくしには判断のしようがございませぬ。確かにこの身、かつては人でございました。しかしこのような有様になって永らえてまで、人で在れるとは思うておりませぬ。生きておるとも思うておりませぬ。我が身は……いいえ、我が首はただ、物として此処に有るだけでございます」
 それだけの言葉を発するのに、張り上げた喉はひりつき痛みを覚えた。かつて人々が褒めそやした美声は跡形も無く、己が耳にも障りある擦れ声は、閉じたままの瞳の奥から惜涙を呼び起こした。
「そう力まずとも良い」
 土の中を、濡れた空気が移動しているかのような囁きだった。彼女は瞼を震わせてその声音の心地良さに慄いた。
「舌先で話せ。聞こえている」
 濃厚な水の匂いと吐息がより近くある。風が止まり、木や水が沈黙を以ってそこにある所以のひとつが、自身の言葉を聴き取らんが為であることに、彼女は気付いた。同時に、瞼を貫いて眼球に刺さっていた陽光が、大きな影に遮られているということを。
 彼女は再び瞼を開いた。視界の中で渦を巻いていた極彩色の鱗粉が、波を割るように逃亡を企てる。その中心に、真っ青な空を背負って、それは佇んでいた。
 恐怖よりもまず瞠目した。昼日中にあってまるで夜の帳を纏ったかのような漆黒の鱗。成人した男の腰周り程もあるがっしりとした首から胴体。僅かに開いた口元から真珠で作った刃のごとく真っ白な二本の牙が鋭く覗いている。
 何より彼女が魅入られたのはその眼だった。緩やかに光を弾く眼球は流動する銀で出来ており、その中央で細められた瞳は、かつて一度だけ目にした海を思わせる深い青だった。三日月の瞳孔は藍色で、それを碧の虹彩が縁取る。象嵌細工の造りをその眼球に見た彼女は、目を見開いたまま心の中で首を振った。この瞳の前では瑠璃も翡翠も自ずから恥じ入るに違いない。
 その姿は、堂々たる巨体を持った大蛇であった。
 だが彼女の知る限り、蛇とはあのじっとりと陰湿な目つきをした生き物であり、大きくても精々が人の腕ほどしかなく、勿論人語など解すことは無く、そして何よりただ恐怖と嫌悪を与えるものでしかなかった。今、目の前に在る者を、蛇という類別に入れることは彼女には出来なかった。
 目にしてはならない者に出会ってしまった。威圧だけではない畏怖の象徴がそこにあった。五体が揃っていれば躰がひれ伏す事を懇願しただろう。だが今の自分は首だけの存在であり、そしてそれを持ち上げ視線を同じ高さで留め置いているのは、紛れも無い相手の尾であることは想像に難くは無い。せめても瞼を閉じることで自分の無礼を断つべきだと考えたが、意思に反して彼女の視線は相手の瞳に吸い寄せられたまま離れなかった。
 間近で視線を交わらせた一瞬の後、大蛇は鎌首をゆっくりと引いた。その際、先端が二つに割れた深紅の舌がしゅるりと滑り出て、すぐさま仕舞われた。まるで驚いて距離を置いた仕草のようだった。
「……まあ良い。日も高い、上へ参ろう」
 上、という言葉が何を指し示したものか彼女には判ずれなかったが、巨体が波打って川岸に沿い動き出したのを感じ、上流へ向かうのだと理解した。水音を追い驚くほどの速度で大蛇が砂利の上を滑る間、彼女は髪の根ではなく喉元に持ち変えられていた。まるで杯を捧げ持つかの如く。
 川面に岸辺の木々の陰が落ちるほどに狭まった所で、大蛇はようやく動きを止め、彼女を岩場に下ろした。巨岩がそこかしこに転がる中、彼女が置かれたのは細かな礫が無数に散った上だった。涼やかな音を立てて彼女を受け止めたさざれ達は砂利よりはるかに滑らかであり、しっとりと冷たくもあった。
 彼女よりも一段低い岩にとぐろを巻いて座した大蛇は、視線に合わせて鎌首をもたげ、目を細めて彼女を見つめた。ふいにまた、周囲の水音や葉音がなりを潜めて口を噤んだ。
「さて、何故そなたはそのような姿形で我の領地にある」
 幾ばくか圧迫されぬ口調ではあったが、光が斑に散った黒い鱗が更に威圧感を与えている。彼女は確信した。この大蛇はこの地一体の水辺の主であるのだと。
「畏れながら」
 震える声を叱咤し、勧められるがままに口先で囁くように応じた。
「畏れながら、わたくしにもしっかりとは判ずれないのでございます。ただ知らぬとはいえ、貴方様の御領地を穢しましたことを、申し訳無く思うております……この首ひとつではご容赦戴けぬこととは存じますが、何卒……!」
「そう畏まるな」
 彼女のか細い声を、重々しい響きがゆっくりと遮断した。知らぬ内に閉じていた目を開くと、大蛇はゆるゆると首を振って見せた。
「謝罪を求めているわけでも贄を求めているわけでもないのでな。ただの好奇心というもの、理由を知りたかっただけだ……しっかりとは、と申したか」
「はい。何故このような様で、生きているのか……意識があるのか、私には豪ほども」
「ふむ。ではそなた、自分は死んでいるはずだと思うているのか。ならば死んだ時までの記憶というのは残っているのか」
「覚えて、おります」
 そう言うだけで、彼女は全身が、今は頭部しかないその身が、震え上がった。
「わたくしは、父に首を撥ねられたのでございます」
 父は領土を治める王であった。その娘として生まれた彼女は、あまりの美しさに父王の溺愛するところとなった。父は全てを彼女に与え、彼女の為に全てを奪った。彼女は物心つく前から父王に恐怖を感じ、その過度な愛情が度を越していることに自覚的であった。父王が彼女を愛するあまりに人道を外れて行くにつれ、彼女はただ悲しみのあまりに、優しさだけを持ち得た人格者となるしかなかった。
 だが彼女が年頃になると、近在する領土の王や王子からの求婚がひっきりなしに届くようになった。彼女の美しさ、聡明さ、さらに悪王に囚われた姫君という実しやかな噂は遠近を問わず広がっていた。父王はもはや隣領と同盟を組まなくては立ち行かぬというところまで来て、ようやく彼女を嫁に出す決意をした。
「そして婚礼の朝、父はわたくしの首を撥ね、胴体に晴れ着を着せ輿に乗せ、首を篭に仕舞ったのです」
 ――あの王子には体だけがあればよかろう、私はお前を決して離しはせんぞ。
 しかし彼女はそこで死んではいなかった。首だけになってまだ動き、話し、瑞々しく美しかった。それがまた父王を、ひいてはその土地を狂わせていった。
 領土は攻め込まれ奪われ、狂った王は籠を抱えて逃亡を図った。森に入り込んだところで追っ手に出くわし、そして。
「そこで、わたくしの記憶は途切れてしまっているのです」
 おそらくは、父王は殺され、その際に崖にでも落としたのではないだろうかと想像は難くない。だが彼女がこの様で動き、話し、瑞々しいままでいる理由は何処にも見当たりはしない。
「挙句、ここへ流れ着いたか」
 人とは哀れな生き物だ、と地に落ちる声が小さく呟いた。目を伏せた彼女を見て吐息すると、大蛇は僅かに首を傾けて問うた。
「それで――そなたはどうしたい」
「どう、とは」
 雲が流れ、陽が陰る。鱗に覆われた体はますます夜の如くあり、その瞳だけが爛々と輝き、ひたと彼女を見据えた。
「このままでいたいのか。それとも死にたいのか。何故生きているのか知りたいか」
 突きつけられた問いは思いもかけないものであった。この身――この首は、今もって既にこの大蛇の自由になるべくしてあるようなものだ。それを問いかけられるとは、即ち彼女に選択を与える、ということだ。
 自由になるのならば答えは当に決まっていた。
 水から引き上げられた瞬間にそう願った。
 このまま死んでしまいたい。
 だが続けざまに差し出された選択肢は彼女の考えを凌駕していた。
「それとも、体を取り戻したいか」
 体を取り戻す。
 あの四肢を――野を駆ける脚を、花を摘む手を、脈打つ心臓を。
 それが叶うのならば。
「……未練たらしくも、我が身が恋しくございます」
「果たして見つけたところで体が元に戻るとも、また胴体が生きている保障すらない」
「もはや生きたいとは思うておりませぬ。ただ、死ぬならば、己が体と共に土に帰りたいのです」
 必死にそう言い募ってから、彼女は気付いて静かに自嘲した。そんなことが叶うわけがないのだ。
「ですが今のわたくしには過ぎた望みでありましょう。先を切り開く手も辿り着くための足も無いのです」
 己が肉体と共に永久の眠りに付くことさえ許されない。やはり死を選ぶべきだと考えた。出来ることならばこの大蛇に一呑みにされてしまいたい。
 大蛇は、しかし微かに微笑むようにすると、信じられない言葉を口にした。
「では我が力を貸そう」
 我がそなたの胴体を見つける手伝いをしよう。
「……何を申されます」
 彼女はこれ以上ないほどに目を見開き、ただ相手を見つめる他は無かった。それ以外の行動が出来ないという以前に、もはや何も口にすることが出来なかったのだ。
 大蛇は、木漏れ日を浴びながら何処かしら楽しげに口を開く。
「なに、ただの暇つぶしだ。ただ生きて行くのも千年を越すと飽きてくる。たまにこうして目的を作らんことには、退屈で仕方が無いのだ」
 瑠璃色の瞳が煌々と陽光を反射してこちらを見つめている。彼女はそれに目を奪われたまま、思わず問いかけた。
「貴方様は、やはり竜神でいらっしゃるのでは」
「何を突然」
「千年を生きた蛇は竜になると聞き及びます」
「千年生きたからとて竜にならねばならんという法はなかろう。我はここが気に入っている」
 まるでかつて誰かに同じことを言われたことがあるかのように、大蛇は少し気不味い素振りで目を逸らした。
「では尚のこと、ここから離れては」
「ここ、というのは、天上ではなく地上が、という意味だ」
 この大蛇にとっては戯れであろう、それでも彼女には礼を尽くさねばならぬ話である。だが彼女がこの大蛇に出来うる事など何一つとして思い浮かばない。自分の無力さに顔を歪めた彼女を取り違えたのだろう、大蛇は瞬いて顔を寄せた。
「案ずるな、碌に千年も生きているわけではない。そなたを守る術くらいは心得ている」
 彼女の頬を撫でるように、風が再び流れ始めた。水音が鼓膜を叩き、水面が陽を乱反射する。その光を受けて、彼女を頂き周りを取り囲むさざれ達が、見事に輝き始めていた。彼女は出来る限り目を見開いて、その煌めきを確かめようとした。果たしてそれらは、どれも美しく丸みを帯びた石であった。石英、翡翠、琥珀、瑪瑙、大小様々に、川底で研磨された天然の宝石たちは、彼女の知るどんな宝飾品よりも美しく彩られていた。
 不意に彼女は、今自分が置かれているこの場所が、目の前にいる大蛇の玉座であるということを理解した。
 同時にあの時父が、彼女を抱えて座していたあの玉座の冷たさを思い出し、この場所がどれほどの優しさに満ちているのかをつぶさに感じ取った。
 するりと音を立てずに彼の黒い尾が伸びて、彼女の長い黒髪をひと房、掬い取るようにした。
「我は、美しいものが好きだ。それだけだ」
 だから泣くな。
 恐怖そのものでしかなかった美しいという言葉が、これほどまでに心に染み渡るのだということを、心臓を失くして初めて、彼女は知ったのだった。


「というわけで、この蛇神とお姫様は、彼女の胴体を捜す旅に出たのさ!」
「美女と野獣じゃなくて、プリンセスアンドスネークなのね! エキゾチック!」
「彼らはお姫様がお嫁に行くはずだった国を目指して旅をするんだけど、アクシデントやデンジャーなサムシングを乗り越えていくたびに、その絆が深まっていくんだ。一人と一頭は力を合わせて困難を克服していくのさ!」
「愛の力ね! ラブイズオーケー!」
「そしてとうとう彼女の胴体を発見するんだけど、その時にはもう、彼らの絆は深まり過ぎていて、お姫様の首と蛇神の尻尾の先は、完全にくっついちゃってるんだ」
「ワオ! 一心同体!」
「そこで、彼女はこう言うのさ。『わたくしが探していたのは、わたくしの体ではなく、わたくしを真に愛してくださる者だったのかもしれません』てね!」
「ファンタスティック! ハッピーエンドね!」
「つまりだ! 『道』とい字は、このにょろにょろしてる部分が蛇神で、『首』の部分がお姫様を表してるってわけさ! そして『道』の意味は、自分を探す途中で真実の愛を見つけるためのロードってことなんだよ!」
「オーライ! ヴァージンロードってわけね!」
「違うよ。全然違う」
 僕は思わずツッコミを入れてしまった。途端、ジョージとミシェルの非難がましい目がこちらを同時に見つめる。
「何だい何だいリョウジ! 何が違うんだよ!」
「いやだから、『道』ってそんな出来方したわけじゃないから」
「何よ何よ、じゃあどういう意味があるっていうのよ!」
「知らないよ……カウンターに行って書庫から漢字字典でも出してもらえば?」
「はん、これだからこの国の学生は……自分の文化の成り立ちも知らないのかい!」
「言っとくけど漢字は完全に借り物だからね」
「リアリィ!? この国のものじゃないのかい!?」
「これだから君のとこの学生は」
「オーマイガッ!」
 二人は文化交流でこっちに来た留学生なのだが、最近やたらと古典にのめりこんでいる。特に神話関係には目がないらしく、やたらと資料を引っ掻き回している。
 ちなみに二人ともめちゃくちゃ日本語が上手いのだが、時々ちょっとすれている。
 今話していたのはいわゆる天孫降臨伝説の一端なのだが、ジョージに語らせるとやたらと美化され、挙句会話部分の演技に熱が入り過ぎて、途中から字の文の意訳がおろそかになるきらいがあるのだ。
 この国の文化を好きでいてくれるのは嬉しいんだけど……ちょっとなぁ。
 ジョージはエメラルドみたいな瞳をキラキラさせて資料を見つめている。一緒に覗き込んでいるミシェルが、壁の時計を見て悲鳴を上げた。
「いけない! ジョージもうこんな時間! 4限目が始まっちゃうわ!」
「ワオ! それじゃ失礼するよリョウジ! ハリーアップハリーアップ!」
 滑るように図書館を出て行くジョージの後ろ、金髪を靡かせたミシェルの姿も消えた。
 あきれる僕に、背後の彼女が声をかける。
「でも、『道』って字が私たちのとこで生まれてたら、意味は私たち自身を表すことになっただろうね。そうは思わない?」
 僕は笑って自分の首を見て、胴体を見下ろし、尻尾の先にある、彼女の顔を見た。
「そうかもね」

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