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A03 アガトの巡礼

 チーン、、、チーン、、、

 虫の音のようなものが、ずっと聞こえていた。それは聞こえてきては遠ざかり、また近づいては去っていく。それがアガトの巡礼者の身につける鈴の音だとわかったのは、あとのことだった。

 ぼくは道端に倒れていた。この何日か、まともなものを食べていないせいだった。どれくらいそうしていただろう。ときどき、意識を失っては、また戻るという繰り返し。もう、とっくに時間の感覚がなかった。
 だれもぼくに目もくれなかった。たぶん、生き倒れなんてありふれているからだ。道すがら、ぼくも多くの生き倒れているひとを目にしてきた。他人を助けようなんてひとはいない。だから、ぼくも同じように、このまま死ぬんだと思っていた。

 だれかがぼくの肩をゆさぶった。そうされたのは、おかあさんに朝起こされていたとき以来のことだった。ぼくはすでに死んでしまったおかあさんを思い出した。
「もし? もし?」
 そう声をかけてくるのは、女のひとだった。それと、今まで通りすぎていた虫の音がうんと近くに聞こえた。だけど、ぼくは返事ができなかった。かすかにうめくことぐらいしか。
 でも、それでぼくが生きているのだとわかったのだろう。枯れ枝のような骨ばった手がぼくを抱き起こし、口に水が流し込まれた。ぼくはそれを無意識のうちに嚥下した。
「大丈夫かい? まあまあ、こんなに汚れて」
 わずかに目を開けると、痩せ細ったおばさんの顔があった。おばさんっていうのは失礼かな。貧しい生活が続いたせいで苦労を重ね、本当の歳よりも老けて見えるのかもしれない。しかし、その穏やかなほほえみは、死にかけていたぼくを安心させてくれた。
 こうして、ぼくはおばさんに助けられた。

 次に目を覚ましたときは夜になっていた。おばさんが近くにいて、たき火をしていた。何か作っているのか、おいしそうな匂いがぼくの鼻をくすぐった。
「おや、目が覚めたかい? 起きられそう? あんたに粥を作ってみたんだけど」
 なかなか力が入らなかったけれど、ぼくは自分ひとりで起きあがった。おばさんのおいしそうなお粥がそうさせたんだと思う。ぼくは鈴をくくりつけたおばさんの手からよそってくれたお粥を受けとると、すぐ口に運び始めた。
「ずいぶんとひもじい思いをしていたようだね。あんたのおとうさんやおかあさんは?」
 アツアツのお粥をかきこもうとするぼくに、おばさんがたずねた。ぼくはお粥を食べながら首を振った。
「じゃあ、家はどうしたの?」
 また首を振った。
「名前は?」
 もう一度。
「名前くらいあるだろう?」
「アー、、、アー、、、」
 ぼくは声を出そうとした。でも、できなかった。
 おばさんは驚いたような、憐れむような顔をした。
「あんた、喋れないのかい、、、?」
 ぼくは初めてうなずいた。

 ぼくは生まれながらに喋ることのできない子供だった。
 家は貧しく、読み書きも勉強できなかったけれど、おとうさんとおかあさんがいて、そして、まだ赤ん坊の弟がいて、自分が不幸せだと思ったことはなかった。
 あの日までは。あの恐ろしい夜までは。
 あの夜、ぼくの村は、突然、敵兵に襲われた。ぼくが住んでいる国は、ぼくが生まれる前からとなりの国と戦争をしているらしい。その敵がぼくの住んでいる国に攻め込んで来たのだった。
 村は焼かれた。おとうさんたち男のひとは戦ったけれど、敵には戦車があり、数も多かったので、手も足も出ずに殺されてしまった。たくさんの女のひとたちは、捕虜として敵に連れ去られた。そのとき、おかあさんは激しく抵抗したので、弟と一緒に殺されてしまった。
 ぼくだけが家の床下にある空の食糧庫の中に隠れたので殺されなかった。あのときのことを思い出すと、目をつぶることも恐い。夜もあまり眠れない。あれから、ずっと。
 でも、今夜ばかりはおばさんと出会うことができて、ぐっすりと眠れそうだった。

 おばさんはアガトの巡礼者なのだそうだ。
 ぼくにはよくわからないけど、アガトという神を信じる人たちは、本当の世界への道を探しているのだという。では、このぼくらが住む世界は本当の世界ではないのかというと、ここは前世に罪を犯したひとたちが罰を受けるべく生まれてくるところで、その証拠に神アガトの恩寵は届かず、そのせいで飢餓や戦いなどの苦しみや悲しみにまみれているらしい。アガトの信者たちは、前世の罪を贖いながら、だれもが幸福になれる本当の世界へ辿り着くべく巡礼しているのだと、おばさんは教えてくれた。
 その本当の世界へ行ける聖地が、この街道の西の果て、サルベジの町で見つかったという。おばさんが目指しているのもそこだった。
 おばさんは人生の何もかもに絶望したのだと、ぼくに話してくれた。
 おばさんの家族は、疫病でみんな死んでしまったという。おばさんの旦那さんも、おばさんの男の子も、女の子も。なんだか、ぼくたちはとても似ている気がした。
 だから、一刻も早くアガトの神がいる本当の世界へ行きたいのだと云った。
「よかったら、おばさんと一緒に行かない?」
 ぼくはうなずいた。だって他に行くところなんてなかったし、何よりも助けてくれたおばさんのことが好きになりつつあったから。
 おばさんはぼくのことを死んだ男の子のようだと云ってくれた。

 サルベジの町を目指したぼくとおばさんの旅は、それから何日もつづいた。
 ぼくたちはお金を持っていなかったので、道端や川の中で食べられるものを探したり、通りかかる村などで施しを求めた。でも、食べものは簡単に手に入らなかった。どこの村も長い戦争のせいで生活が苦しかったし、最近はアガトの巡礼者になるひとが多くて、毎日のようにたずねて来るらしい。みんな、自分たちが生きるのに精一杯だった。
 だから、ぼくたちはいつも空腹を抱えなければならなかった。それでも、ぼくたちは旅をつづけた。つづけるしかなかった。

 ぼくはおばさんと一緒に旅をしながら、読み書きを教わった。おばさん曰く、ぼくは喋ることができないのだから、読み書きは絶対に必要だと。確かに、ぼくは出会ってからずいぶんになるのに、おばさんに自分の名前を教えることもできなかった。
 勉強はおばさんが唯一持っているアガトの聖典を教科書にして、読んだり書いたりをおぼえた。もっとも、ぼくは言葉を発することができないから、おばさんが読むのを自分の心の中で繰り返すだけ。まちがっていても、おばさんにはわからない。それよりも、ぼくは字をおぼえることが苦手で、とにかく時間がかかった。
 ぼくは勉強がきらいになった。

 でも、やがておばさんは、ぼくに勉強を教えてくれなくなった。なぜなら、おばさんの体の具合が悪くなったからだ。
 どうやら、おばさんの家族を奪った病気が、おばさんをも黄泉の国へ連れていこうとしているらしい。
 歩く足は遅くなり、旅は進まなくなった。それでも、おばさんは歩けるかぎり、アガトの聖地へ行こうと歯を食いしばった。最後の希望であるサルベジの町を目指して。
 ぼくは、そんなおばさんの杖となりながら、一緒に歩きつづけた。

 とうとう、おばさんが倒れた。
 おばさんは高い熱を出し、下痢と嘔吐をくりかえした。
 ぼくは近くに住んでいる大人のひとに助けてもらおうとしたけど、声を出せず、読み書きもできないぼくに、だれかを呼んでくるということはできなかった。ウーウー、アーアー云っても、まったく取りあってもらえない。こういうとき、しっかりと勉強しておけばよかったと後悔した。でも、今は泣いているときではない。ぼくは助けをあきらめ、おばさんの熱を下げようと、近くの小川から濡らしてきた手ぬぐいを何度も取り替えた。
 でも、おばさんの熱はまったく下がらなかった。
 もう何十回目かになる手ぬぐいの交換をしようとしたぼくの手を虫の息のおばさんの手がつかんだ。
「もういいよ、、、もう、、、」
 ぼくは涙がこぼれた。おかあさんたちが殺されたとき、もう悲しいことなんて二度とないと思っていたけれど、それはまちがいだった。
 おばさんはぼくの頭に手を伸ばしてきた。ぼくは自分から頭を寄せるようにして、おばさんに抱きついた。おばさんは力のない手で、優しくぼくの頭を撫でてくれた。そのとき、手首にくくりつけてあった鈴が悲しげな音をたてた。

 チリン、、、

「ごめんね、、、あんたをサルベジの町まで連れて行ってやれなくて、、、」
 そんなことはどうでもよかった。ぼくはおばさんと一緒にいられればよかった。
「ごめんね、、、」
 おばさんはもう一度云った。泣いていた。おばさんも自分の家族と死に別れたときのことを思い出していたのかもしれない。
 ぼくもまた泣きながら、そのままおばさんと一緒に寝た。

 次の日、おばさんの体は冷たくなっていた。
 人間は死んだら、おばさんが云っていた本当の世界へと帰っていくのだろうか。そうだといいなと、ぼくは思った。
 ぼくは近くの木の下におばさんを埋めた。そして、半日ほど、その場に座って、おばさんの魂を慰めた。
 やがて、ぼくは立ちあがった。おばさんの形見である鈴を自分の手首に巻いて。
 行こう、サルベジへ。おばさんが行くことができなかった聖地へ行って、本当の世界というものを見てやろうと思った。

 それからぼくは何ヶ月も旅を続けた。
 それは、まだ子供のぼくにとってつらいことが多かったけれど、手首の鈴の音を聞くたびにおばさんが一緒にいてくれるような気がして、何度も元気を取り戻した。
 サルベジの町が近くなるにつれ、アガトの巡礼者の姿も多く見かけるようになった。どうやら、多くの信者がおばさんと同じように聖地の話を聞き、サルベジを目指しているようだった。それだけ、このひどい世界から逃れたいと切に願っているひとが多いということだろうと、ぼくは思った。

 とうとう、サルベジの町に辿り着いた。
 でも、そこは聖地というイメージとはかけ離れたところだった。
 元々は、白壁の建物が整然と並ぶきれいな町だったのだろうと思う。でも、今は黒くすすけたようになっていて、すでに廃墟となっているものが多く見られた。なんだか、まるで打ち捨てられたみたいに、とても荒れ果てている感じがした。
 それでも、各地から集まってきたアガトの巡礼者たちが、次から次へとサルベジの街へと入っていった。その光景は、まるで住む場所を失った難民たちのようだった。ぼくもその列に並んで、少しずつ前に進んだ。
 アガトの聖地はサルベジのほぼ中心地にあった。白亜の神殿が厳然とそびえ建っていた。サルベジの町でも一番の大きさだろうと思われた。
 そのとき、町の外で、ドーンという大きな音がした。驚いて振り返ると、黒い煙があがって、たくさんのひとたちがこちらへ逃げてくるのが見えた。あれは軍隊の攻撃だと、ぼくは村を焼かれた記憶からわかった。
「軍がこの町に押し寄せて来たぞ!」
「しかも隣国のじゃない! この国の軍隊だ!」
 誰かが、そう叫んでいるのが聞こえた。この国の軍隊って、どういうことだろう。どうして、味方であるはずのぼくたちを攻撃しようとするのだろうか。
 神殿から何人もの僧侶が出てきた。そして、逃げまどうひとたちを誘導しはじめた。
「早く神殿へ! 軍はこの世界を見限ろうとするわたしたちを拘束するつもりです!」
 それで、どうして軍が巡礼者たちを攻撃しようとしているかわかった。隣国と戦闘状態である今、多くの民衆がアガトの信者となってこの世界からいなくなってしまえば、戦う兵も、調達する食料も補充できなくなってしまう。国を支えるべき人間がいなくなれば、国は滅びるしかない。きっとそれを権力者は恐れているのだろう。だから弾圧を加えに来たのだ。
 戦火は段々と神殿のほうへ迫ってくるようだった。ぼくは多くの巡礼者と一緒に、神殿の中へと逃げこんだ。

 神殿の中は、確かに広かったけれども、とても外にいる全員を収容できるとは思えなかった。それなのに、ぼくたちは奥へ奥へと通されていく。不思議な感じがした。
 その理由が奥の院に入ってわかった。町の広場よりも広い奥の院の中心に、大きな穴が口を開けていた。それは確かに穴なのだけれども、下に見えるのはむき出しの土や暗い穴の底ではなく、まるで水のようにゆらめく、銀色に近い光の渦だった。
 それはゆるやかに回りながら、ときどき模様みたいに七色に変化していた。ぼくが驚いたのは、その光の渦に向かって、次々と巡礼者が飛び込んでいることだった。巡礼者が光の渦に飛び込むと、水に入ったときのように浮かんでくることはなく、そのまま姿を消していた。確かに、光の渦を見つめていると、心が自然と穏やかになり、吸い寄せられるような気持ちになっていく。でも、まるで自殺でもするように多くのひとたちが落ちていく光景を見るのは、とても心臓に悪い気がした。
「これが本当の世界への入口なのですか?」
 ぼくのすぐ近くで、若い男女が案内役の僧侶に質問していた。僧侶のおじさんは無表情にうなずいた。
「少なくとも我々は、そう信じております。アガトの聖典には、こちらの世界とあちらの世界をつなぐ門があると記されています。これこそが、その門なのでしょう。しかし、残念ながら、それを確認することはできません。この中に入って、戻ってきた者はいないのですから。そんなわけで、これが本当にアガトの聖なる門であるかは、誰にもわかりません」
 あまりにも率直すぎる僧侶のおじさんの言葉は、たぶん、二人が期待していたものと違っていただろう。もっと、これが聖典に書かれている門だと断言してもらい、安心したかったはずだ。若い男女の顔には、ここまで来て、本当に信じていいのかという迷いがあった。
 いきなり、足の下から突き上げてくるような振動があった。どうやら、軍の砲撃がいよいよ神殿に迫ってきたようだった。追いつめられた巡礼者の多くは、目をつぶって、光の渦に身を投じていった。
「どっちにしろ、もう終わりだわ。軍に捕まったら、わたしたちは死ぬまで強制労働をさせられる。逃げても戦争の道具にされる」
「そうだな、、、それなら、いっそのこと、、、」
 若い男女は決意を固めたようだった。お互いの顔を見つめ合い、最後の口づけをかわす。そして、抱き合ったまま光の渦へと飛び込んだ。
「急いでください! もう、あまり神殿がもちそうもありません!」
 旅立った二人を見届けた僧侶のおじさんが大きな声を出して、まだ迷っている信者に告げた。その声に背中を押されるようにして、またたくさんのひとたちが穴へと殺到した。
 ぼくは穴の淵に立ったまま、アガトの門へ多くの信者が、ある者は叫び、ある者は祈り、ある者は信じながら落ちていく、まるで煮えたぎった鍋の中に人間という食材を入れるような異様な光景を眺めつづけた。
「さあ、坊や、きみはどうする?」
 さっきの僧侶のおじさんがぼくに声をかけてきた。自分の身も危ないというのに、一人で旅してきたぼくのことを気遣ってくれているらしい。
 ぼくは、、、ぼくは、、、
 手首にくくりつけたおばさんの鈴を見つめた。

 チーン、、、チーン、、、

 考え抜いた末、ぼくは答えを出した。
 ぼくは気にかけてくれた僧侶のおじさんにお礼のつもりでほほえむと、首を横に振り、穴の淵から離れた。僧侶のおじさんは穏やかな顔でうなずいてくれた。
「そうか。ここから出るなら、向こうの裏口を使うといい。坊や、生きろよ。強く生きろ」
 ぼくは僧侶のおじさんに手を振りながら、教えてもらった裏口から神殿を出た。そして、軍が神殿へ取りつこうとしているうちに、サルベジの町から脱出した。
 ぼくはこの世界に留まることにした。この世界は、争いと貧困がはびこる、ろくでもない世界かもしれない。苦しみと悲しみに満ちた世界かもしれない。でも、ぼくはこの世界に生まれた。おとうさんとおかあさんの子として生まれ、優しくしてくれたおばさんや僧侶のおじさんと出会った。ここがぼくの世界だ。ここの他にぼくが生きるところなんてない。そう思った。
 サルベジからさらに西へと、ぼくは新たに旅立った。
 ぼくはこの世界で生きていく。死んでしまったひとたちのためにも。いくら口がきけなくたって、読み書きもまだおぼえていなくたって、いつか、この世界に生まれてよかったと思える日まで。

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