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H11 perfume of mystery

 小さな画面の中にアナウンサーの姿があった。
「今日の最低気温は三度。今年一番の冷え込みとなるでしょう――」
 あいりは携帯から流れる情報に耳を傾けながら、指先を襲う痺れを取り除く方法を考える。ひとまずワンセグを切って、この間買ったばかりのコートのポケットに手を入れて寒さをしのぐことにした。アスファルトの上で革靴が跳ねる。油膜を含んだ水たまりが陽の光を浴び、虹を浮かばせた。
 やがてあいりの口から小さなため息が漏れる。
「気が重いなぁ……」
 思わず出たひとりごとはあいりの本心そのものだ。
 あいりは所轄の警察官だ。もともと人使いの荒い職場ではあったがまさか異動初日から大当たりを引いてしまうとは思いもしなかった。
 しかも配属されるのは刑事課。凶悪犯罪に立ち向かわなければならないのに心の準備すらできてない。
 でも時は止まってはくれない。人が生きている限り世界が動いている限り、事件はどこかで起こっている。それに体を張って立ち向かわなければならないのが、あいりを含めた警察官の使命である。
 しばらくして、あいりは目的のシティホテルにたどりついた。
 まだ早い時間なせいかロビーにいる人間はまばらだ。だがその誰もがあいりにに注目していた。ベルボーイですら自分の職務を忘れそうな勢いだ。
 これが自他共に認める美人だったら気持ちがいい。けど、私の場合は絶対違うだろう。あいりはこっそり嘆息する。ロビーに飾ってある姿見に映るのはすらりと伸びた肢体。気配を消そうにも、身長百八十五センチの体は相当目立つのだ。
 あいりはそそくさとエレベータに乗り込み、最上階の部屋へと向かった。
 部屋の前には野次馬らしき宿泊客たちがちらほらいて、その奥には立ち入り禁止を示す黄色いテープが張り巡らされている。あいりは人の隙間を抜けると境界線前で張っている警察官に声をかけた。
「この中、入っていい?」
 お決まりの警察手帳をかざすと自分より二〇センチ背の低い警察官が敬礼する。相手の顔を見て挨拶する癖があるのか、あいりに目線を会わせようと必死だ。このままだと天上まで見えてしまうのではないかと思わず心配してしまうが。まぁいい。
 あいりは軽く会釈を返すと、警官の腰の高さほどあるテープを軽々とまたいで通過した。伸びた足が綺麗な弧を描き、床に着地する。
 その様子を見ていた一人の刑事がいた。あいりに近づくとやっぱり顔が十度上に傾いてしまう。今度は年上なので、さすがに申し訳なくなってくる。
「君は――」
「お疲れさまです。本日付で刑事課に配属になった瀬田です」
 背筋を伸ばすと目の前の刑事が見えなくなるのであいりは少しだけ前かがみの姿勢で敬礼した。刑事は鳥飼だ、と短く自己紹介する。
「課長に聞いたけど、刑事課初めてなんだって?」
「はい。前は生活安全課にいました。その前は交通課に」
「ふーん」
 鳥飼の口がへの字に曲がる。初日からそんなに気張らずにいればいいのに、と皮肉めいた言葉まで返された。
「ああ、嫌味じゃないですよ。この仕事は根気入るから……気楽にってことで」
 気楽に、ねぇ。
 殺人事件を気楽に受け取れたら世の中終わってる気がするんだけど。
 あいりは小さな毒を心に巡らせながら鳥飼のあとを追いかける。すると鳥飼がふと立ち止まった。
「おいワン公。道を空けろ」
 ワン公?
 気になったあいりが鳥飼の視線を追いかける。すると玄関の前でしゃがんでいる男ひとり。前あきの白いシャツの上に、学生が着るような濃いグレーのニット。黒い腕カバーが妙に目についた。同色のズボンもよれている。これで黒縁の眼鏡をしていたらまさに昭和時代の事務員だけどさすがに眼鏡はしてない。明らかに浮いた風貌の男。でも鑑識の腕章もしていない。
 この男、一体何者?
 あいりの頭の中で疑問がぐるぐる回る。
「今日付でウチに配属になった瀬田だ」
「ああ、鉄壁の……」
「?」
「ああ、なんでもないです」
 男は言葉をごまかした。崩れた体を直し、正座の状態で頭を垂れる。
「ええと、警務課の甲斐です。わけあってこんな所にいますが……まぁ、今後ともよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
 丁寧さにつられてあいりはおじぎをした。顔を少し下げたところで男の胸章が目に飛び込む。甲斐健。これでカイケンとでも読むのだろうか。
 あいりはなるほど、納得する。
 が――
「警務課?」
 思わず口にしたあとで首を横にかしげた。警務課って事務専門のはず……だったような。
 警察署には交番とは違い警察事務という事務仕事専門の職員が存在する。もちろん公務員扱いだ。その中でも警務課という所は落とし物の受け付けをしたり、免許更新の手続きをしたり……簡単に言えば事務屋だ。署内での仕事がほとんどな為、一緒に外に出ることはあまりない。ましてや事件現場に現れるなんて皆無に等しい。
 では何故彼はここにいるのだろう?
「そっちは何か見つかったか?」
「いえ、まだです」
「じゃあ適当にやっとけ」
「はい」
 甲斐は清々しい返事を返すと再び玄関にうずくまった。あいりたちがその脇をするりと抜ける。だが疑問は胸につかえたままで――
「あの……何で警務課の人が?」
「上からの指示ってやつだ。まぁ、あいつは適当にあしらっておけばいい」
「? 何でですか?」
「すぐに分かる」
 そう言って鳥飼はさっさと現場である奥の部屋に行ってしまった。
 はて、一体どういうことだろうか?
 あいりは一度首を傾げ、振りかえり――ぎょっとする。鳥飼の言っている意味をすぐに理解した。
 甲斐が四つんばいになり床を左端から右端に鼻を動かしていたのだ。一歩進んで今度は右から左へと鼻を移動する。唇を突き出して鼻を持ち上げる姿は動物が自分のテリトリーを確認しているようだ。
 やがて床をあらかた嗅ぎまわった甲斐が立ち上がった。バスルームから三メートル手前、入り口からすぐ左手にあった引き戸式のクローゼットまで戻る。観音開きの扉はすでに開いていたので、甲斐は躊躇なく頭を突っ込んでいった。ハンガーを掛けるポールの高さはちょうどあいりの目の高さほどだ。長いコートも余裕ではいる大きめの収納スペース。そこには艶のあるシャツとぴんとアイロンのかかったズボン、そしてセーターがあった。よどみなく続いていている毛糸の波は一定で毛玉一つ見あたらない。百パーセント天然羊が見た目にも柔らかそうに感じられた。
「ん?」
 セーターを手にした甲斐が首をかしげた。真剣な表情。気になってあいりも身を乗り出す。
「どうかしました?」
 問いかけるが、返事はない。少しの間。そして。
「僕、これ持っていると落ち着きますぅ」
「は?」
 あいりは首をかしげた。
「この『すーっ』って感じ。自分の部屋と同じだぁ……これ手編みかなぁ」
 そう言って甲斐は目をとろんとさせるものだから、
「あの……?」
「でもこれ、苦そうな『すーっ』だ。甘いんだけどなぁ」
「はぁ?」
 言っている意味が分からない。
 すーっ? で、苦っ? で、甘? 自分の部屋と同じ?
 この人は真面目に捜査しているんだろうか。
 あいりは眉をひそめた。何となく刑事の言っていることが分かったような気が――
「あれ?」
 気がつくと甲斐の姿がない。どうやら反対側にあるバスルームへと向かったらしい。中をのぞくと洗面室をあさる甲斐の後ろ姿があった。癖のある髪がねじ曲がって乱れている。その鼻息は相当荒い。
 あいりは甲斐を追いかけることを止めた。
 バスルームに甲斐を残し、死体のある奥へと向かった。視界に入るベッドの一部分が近づくにつれ、白い手袋をつけた手に力がこもってしまう。ひき逃げ事故による死体は見たことがあるが、殺人事件は初めてだ。
 被害者のいるベッドに一歩近づくと状況が鮮明に見えてくる。
 人だった塊はうつぶせ状態で倒れていた。最初に白髪が混じった黒髪の固まりが目につく。顔はベッド側に向いていた。つむじより少し下のあたりが窪み、血が乾いている。身につけていたのはホテルに備え付けられていたガウンのみ……多少の乱れがあった。
 鑑識の調べによると、傷は右側頭部と後頭部の二ヶ所、だそうだ。
 あいりは死体の右側に正座をすると、絨毯に手をついた。上半身を倒し、被害者の顔を拝見する。大きく見開いた目。澱んだ白色は黒目より面積が広く、黒目は目の真ん中に小さくおさまっていた。額が広い。顔全体に広がるシワの重ね具合から言っても年齢は自分の二倍はありそうだった。筋肉がめいいっぱい引きつった跡がくっきりと残され、その風貌はまるで般若のようにも見える。相当苦しんだのだろうか。
 鑑識の所見を自分の目で確かめようと、被害者の顎と頭に手を乗せた。
 手袋越しにとはいえ、あまりの冷たさに鳥肌が立つ。さすがにこれだけは慣れない。それでも顔を丁重に持ち上げた。持ち上げた状態のまま頭を九十度右に戻すと、床に接していた右側頭部がようやく姿を現す。よく見るとこめかみに赤いかさぶたのようなものがあった。
 血が耳と頬の間を流れた跡。確かに傷は二ヶ所のようだ。
 鑑識の報告は続く。何かで頭をぶつけたようだが、今の所、壁や家具の角にその痕跡はない。つまり誰かに殴られた可能性が高いということだ。
「凶器は見つかったんですか?」
 鑑識が首を横に振った。一体何処へいったのだろう。
「ん?」
 ある場所がとても気になった。ベッドの両脇を固める作りつけのサイドボート。自分達のいる壁側に何かある。
 あいりは膝をついた状態でサイドボードへと身を乗り出した。そこにはフロントに繋がる内線電話が置いてある。ほんのわずかだが灰色の粉がふりかかっていた。
 あいりはそれを指でなぞり、鼻に近づける。この匂いは煙草、だろうか?
「……被害者は煙草を吸っていたのでしょうか?」
 あいりが問いかける。
「電話の側で煙草を吸った形跡があります……灰皿がなかったら火事になりそうですよね」
 鑑識の男が目を丸くした。側にいた刑事も慌てて指示を飛ばす。気にせず、あいりは、他に何かないかと範囲を広げ……動きを止めた。甲斐がいつの間にか後ろに立っていたのだ。何故かあいりに背を向けたままで。
「あの……そっちは何か見つかりましたか?」
 さっきの明るさはどこへやら。甲斐のか細い声が耳に届く。こっちの方は一度も見ることがない。何か嫌われることでもしたかと思ったが、すぐに違うと気がついた。
 これって。まさかと思うけど……
「おい、犬っころ」
 部屋を出ようとする甲斐を引き止めたのは鳥居だった。甲斐の肩がびくりと揺れる。
「な、何でしょうか?」
「最後に死体周りも臭い嗅いでおけ」
「ええと……やっぱりやらなきゃならないんですか?」
「当たり前だろ! 今嗅いだのが被害者のものかどうか位自分で確認してこい!」
 甲斐は瞼が潰れそうな位に目を閉じる。必要以上に近づきたくないのか、ベッドの上からめいいっぱい身を乗り出し鼻先だけ死体に近づける。ひくひく。イヤイヤな感じで死体の匂いを嗅ぐ姿は露骨だ。
 ――そして事件は突然起こった。
 甲斐が前進した瞬間、ベッドの端についていた手がずるんと滑ったのだ。甲斐はそのまま前のめりになってベッドから転落する。背の高さもちょうど良い被害者に折り重なって、しかもほっぺにチューな状態だ。
 やがて解読のできない悲鳴が部屋をこだまする。
 いやはや死体に負けずぴくりとも動かない硬直ぶり。やっぱりというか何と言うか――甲斐は死体に慣れていないらしい。まあ、それも当然なことだろう。
「ったく、使えねぇ犬だなぁ。おい! こいつ外に転がしとけ」
 鳥飼が外にいた警官に指示を飛ばす。すぐさま警官が二人やってきた。甲斐は彼らに腕と足を掴まれ、持ち上げられる。即席の担架があっという間に部屋の外へと消えてしまう。その手際のよさはあいりも感心してしまうほどだ。
 でもきっと喜ばしいことじゃないんだろうな……
 あいりは倒れた甲斐を見送りながら、ぼんやり思う。
 刑事課に配属されてから一時間、あいりの口からは何回目かのため息がこぼれていた。


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