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H09  ミューズ

 リストの『ラ・カンパネッラ』は紫色です。
 高崎花純の高校二年生にしては少々ごつい指が白と黒の鍵盤を叩く度、紫の色彩は生まれ、泡のように弾けていきます。この曲は難易度が高い事でも有名ですが、花純は細かい部分のミスは有るものの、難なく弾きこなします。私の生徒の中でも花純の技術はピカイチです。今度のピアノコンクールでも彼女はきっと入賞するでしょう。
 最後の和音がフォルテッシッシモで鳴らされました。鍵盤から指が離れてもまだ音は響き、淡い紫色もうっすらと辺りを漂っています。やがて空気の中に音と色が溶けて無くなり、花純が小さく息を吐きました。
「すごい! すごいよ花純ちゃん!」
 拍手をしながら花純の双子の弟である葉純が興奮したように言いました。
 男女の双子なので当然ですが、花純と葉純はあまり似ていません。ふわふわとした茶色の癖毛に、大きな目をきらきらと輝かせている葉純と違い、花純は黒髪を太い二本の三つ編みにし、黒いフレームの眼鏡をかけ、なんとも野暮ったい印象です。「委員長」というあだ名が似合いそうだと、初めて会った時に思いました。
「葉純、うるさい。邪魔をするならすぐに練習室から出て行って」
 花純に叱られ、部屋の隅にいた葉純はしゅんとうなだれます。花純はそれを厳しい目で一瞥し、こちらを振り向きました。
「先生、今の演奏はいかがでしたか」
 レンズ越しに花純は真っ直ぐ私を見ます。平静さを装っていますが、声は緊張で強張っていました。
「薬指と小指のトリルもだいぶ滑らかになりましたし、ミスも前回より減っています」
 答えると、花純はあからさまにほっとした表情を浮かべました。葉純と違って大人っぽい雰囲気の花純ですが、彼女にはこういう微笑ましい所も有るのです。
「左手のここの部分。上った後の音がいつも少し遅れていますね。後は……」
 私の指摘に、花純は頷きながら楽譜に鉛筆でチェックを入れていきます。葉純がそっと練習室を出て行くのが視界の端に映りました。

 高崎家から帰る途中、バスを待っていると音大時代の友人からメールが有りました。同級生の羽鳥蓮也が国際的なピアノコンクールで、日本人初の入賞を果たしたという内容です。
 私はすぐさま携帯電話を操作して、羽鳥君に祝福のメールを送ります。今頃、彼の元には音大の同級生からのメールがたくさん届いていることでしょう。その中にどれだけ彼を心の底から祝福している人間がいるかはわかりませんが。

 音大を卒業したものの、仕事がなくて喫茶店のウエイトレスのバイトで糊口を凌いでいた私に、ピアノの先生の仕事を持ってきたのは母でした。母の知り合いの娘さんだというその子にピアノを教えていたのですが、その子が小さいとはいえ国内のコンクールで入賞したのです。それがきっかけで生徒も増え、今では実家の一室を改装してピアノ教室を開けるまでになりました。音大生の就職難が続く中、ピアノで生計を立てていける私はきっと幸せなのだと思います。
 生徒は基本的に私の実家まで通いますが、中には花純のように私が生徒のお宅にお邪魔する場合も有ります。高崎家は大変裕福なお家で、十畳ほどの防音室とグランドピアノが有るのです。
 その日も高崎家を訪ねると、花純はまだ高校から帰っていませんでした。花純は葉純と一緒に普通科の高校に通っています。花純ほどの実力が有れば有名な音楽科の有る高校にも入れたと思うのですが、普通科に入った理由を花純は教えてくれません。私が花純を教えるようになったのは彼女が高校に入学してからですから、中学生の時に何か有ったのだろうと思います。
 上品で若々しいお母様に「練習室でお待ち下さい」と案内され、私は一人で練習室に向かいます。花純を待っている間、手持ち無沙汰でしたので少しだけピアノを弾かせてもらうことにしました。指ならしをした後、『ラ・カンパネッラ』を弾きます。花純がコンクールで演奏するこの曲は私の十八番でもあるのです。
 テンポはアレグレット。始めの音はピアノですが、遠くから鐘の音が聞こえてくるイメージで少し硬めの音を心がけます。
 最初の音を鳴らしたその瞬間、目の前に少し緑色がかった黄色が広がりました。それは次の瞬間には花火のように景気よく散っていきます。私の指が白鍵と黒鍵の上を踊る度に小さな花火が打ち上げられ、様々な色が花開いて散っていくのです。黄色から始まったこの曲は冒頭の数小節で紫色へと染まり、菫のような淡い紫やラズベリーのような赤に近い色など何色もの紫が音を彩ります。
 私は音に色が視えます。ドなら赤、レは黄色でミはオレンジという風に、音が鳴らされるとその音に様々な色が塗られるのです。そこにシャープやフラットが付くとまた色は変わり、曲になるとその曲のイメージでまた色が変わります。音が奏でられた瞬間に色は生まれ、音の余韻が消えると色も空気に溶けるように消えていきます。小さい頃はそれが面白くて、何時間もピアノの前に座っていたものです。
 クライマックスに近づくとテンポはますます速くなります。コン・ブリオ、生き生きと。ピンクに近い紫色が一際大きく空中に花を咲かせました。
 そしてフィニッシュ。
 紫の大輪の花が消えていくのを見送り、私は息を吐きました。久しぶりに弾いたのでミスも多かったですが、まずまずといったところでしょうか。
 ふと拍手が聞こえてきました。扉の方へ首を巡らせるとブレザー姿の葉純が頬を上気させて立っています。
「葉純君、居たんですか。全然気づきませんでした」
 演奏を聴かれていたのが恥ずかしくて、そそくさと私は椅子から立ち上がり隣の丸椅子へと座り直しました。ここが先生である私の定位置です。
 葉純はにこにこしながらこちらへ近づいてきました。県内有数の進学校に通う彼は制服を着崩すことなくきっちりと着ています。
「先生の『ラ・カンパネッラ』はとても綺麗ですね」
「ありがとうございます」
 巧いではなく綺麗と言われた事に違和感を覚えましたが、私は素直にお礼を言いました。
「でも僕はたどたどしくて、ちょっとツンツンしている花純ちゃんの『ラ・カンパネッラ』の方が好きです」
 葉純があまりにも嬉しそうに笑って言うものですから、釣られてついつい私も微笑みを返していました。葉純は花純が大好きなのです。
「花純ちゃんから、先生は絶対音感を持っていて、そして音に色が付いて視えるって聞きました。そういうの、色聴って言うんですよね」
 隠すような事でもないので私は頷きます。色聴所有者のほとんどは絶対音感を持っている事が多いのです。「いいなぁ」と葉純が羨ましがるような素振りを見せました。
「先生みたいな人をミューズに愛されてるって言うんだろうなぁ」
 そう呟いて、葉純はおもむろにピアノ椅子に座りました。
「葉純君?」
 幼い横顔が真剣味を帯びます。そして彼の左手が黒鍵に触れたその瞬間、私は確かに鐘の音を聞きました。遠くの方から微かに聞こえてくる教会の鐘の音を。
 葉純が弾き始めたのはつい先ほどまで私が弾いていた『ラ・カンパネッラ』です。椅子の高さは私が演奏した時のままですし、指ならしもしていませんからミスも多く、とても未熟な演奏です。しかし、花純とは決定的に違う物が彼には有りました。
 葉純の指から生まれた色がまるで意志を持っているかのように動き、絵を描いていくのです。
 何も描かれていない白い画用紙に紫の水彩絵の具を幾重にも重ねるようにして、その絵は描かれていきます。時に濃淡を変え、時に他の色を混ぜながら一枚の絵が出来上がるまでを早送りの映像で視ているようでした。
 花純の時は――花純に限らず通常は音に色が付いて視えるだけで、何かの絵が描かれるなんてことは滅多に有りません。それこそプロの演奏家以外は。
 いいえ、一度だけアマチュアでもありました。あれは私が音大に入学して間もない頃、羽鳥君の演奏を初めて聴いた時です。その時も彼の演奏に合わせて私の目の前で絵が描かれていきました。
 葉純の指は滑るように鍵盤の上を縦横無尽に動き回ります。男の子で手が大きいからでしょうか、花純が苦労していた音の跳躍も難なくクリアしました。三十二部音符が続く所はさすがに花純の方が滑らかで音の粒も揃っていましたが、ミスをしながらも葉純の手は止まりません。トランス状態に陥った画家が一心不乱に絵筆を動かしているようです。
 私の目の前に広がる絵は徐々に完成されていきます。教会の鐘が音を響かせ、高い所からヨーロッパの街並みを見下ろしているような構図の絵です。
『ラ・カンパネッラ』はパガニーニが街に響く教会の鐘の音からヒントを得て作曲したヴァイオリン協奏曲を元にしています。四回に渡って改訂され、普通『ラ・カンパネッラ』と言えば最も新しく難易度の低い『「パガニーニによる大練習曲」第3番 嬰ト短調』を指し、これは四つの中で最も鐘の音が多く表現されている曲でもあります。
 ピアノは打弦楽器ですからヴァイオリンよりも鐘に近い音が出るとはいえ、本当に鐘の音がするわけではありません。しかし、葉純の音からは鐘の音が確かに聞こえるのです。小さな街の中で荘厳な鐘の音が響いているのです。
 最後の音が奏でられます。一際大きく鐘の音は鳴り響き、透明な水彩絵の具で描かれた鐘の絵が完成しました。しかし次の瞬間には絵はもう薄れています。やがて音の余韻が完全に消えると同時に絵も消えて無くなりました。葉純が放心したように前を見詰めています。
 私は葉純がしてくれたように拍手をしました。彼は驚いたようにこちらを振り向き、はにかむように笑います。拍手を止めた私は彼に尋ねました。
「葉純君はピアノを習っているのですか?」
 私が教えているのは花純だけです。葉純がピアノを弾けるなんて初めて知りました。
「花純ちゃんが前の先生に習っていた時に一緒に。花純ちゃんと連弾がしたくて始めたんですけど、先生がコンクールに出ろってうるさかったから、花純ちゃんが止める時に一緒に止めちゃいました」
「でも、今でも練習を続けていますよね?」
 楽器の練習は一日でもさぼると三日前の状態に戻ると言います。今でも練習を続けていなければ『ラ・カンパネッラ』ほどの難曲が弾けるはずが有りません。
 私がそう指摘すると、葉純は悪戯が見つかった子供のような顔になりました。
「リビングにアップライトが有るから、そっちで。でもやっぱり花純ちゃんみたいに巧くは弾けないなぁ」
 彼の返答に私は曖昧な笑みを返しました。その時、私は練習室の扉が少しだけ開いていたのに気づきました。葉純が閉め忘れたのか、それとも別の誰かが開けたのか。
 花純はその日レッスンには現れませんでした。

「この間はすみませんでした」
 次のレッスンに現れるなり、花純は深々と頭を下げました。私は彼女の姿に目を丸くします。
「随分とすっきりしましたね」
 驚く私を花純は真っ直ぐ見ました。コンタクトに変えたらしく眼鏡はかけていません。
 彼女の髪は胸の所まで有った野暮ったい三つ編みが無くなり、軽いショートボブになっていました。パーマをかけたのか、葉純のように髪がふわふわとしたウェーブを描いています。花純と葉純は似ていないと思っていましたが、こうして見ると雰囲気は違うものの顔の造作はとてもよく似ていました。
「気分転換をしたかったんです」
 花純は短く答えます。
「そんな事より先生、コンクールが近づいていますので、レッスン時間を増やしていただけますか。先生の時間が許す限り、見ていただきたいんです」
「私はかまいませんが、ご両親は何と仰っていますか」
「好きなようにしろと」
「わかりました。では後ほどスケジュールを調整しましょう」
「お願いします」
 花純はもう一度頭を下げました。顔を上げた彼女は思い詰めたような顔をしています。眼鏡をかけていない分、花純の表情は手に取るようにわかるのです。
 花純はようやくピアノ椅子に座りました。楽譜を譜面台の上にセットし、黙ったまま親の敵のようにそれを睨み付けています。
 やがて花純が口を開きました。
「先生」「はい」「先生は葉純の『ラ・カンパネッラ』にどんな色を視ましたか」
 私は花純の横顔をそっと窺います。やはり花純はこの間の葉純の演奏を聴いていたようです。
「あなたと同じ紫色でしたよ」
 ただし、葉純の生み出した色は花純と違って絵を描いていましたが。私は心の中でそう付け足します。
 花純は更に問いを重ねました。
「あの子の演奏をどう思われましたか」
「荒削りですが、良い演奏でした」
 正直に答えると花純の顔がわずかに歪みました。聡いこの子はきっと葉純の才能に気づいているのでしょう。
 色聴ではない花純が私と同じように葉純の演奏で絵を視たとは思えませんが(そもそも同じ色聴所有者でも視え方は個人によって違うのです)、聴く人が聴けば才能の有無はわかるものです。私の前に花純と葉純にピアノを教えていたという人のように。
 葉純君。
 あなたは先日、私の事をミューズに愛されていると言いましたがそれは違います。ミューズに愛されている人というのは、あなたみたいな人を言うのですよ。
 色聴に絶対音感、何時間もピアノの前に座って得た技術。幼い頃から数々のコンクールで入賞してきた私は「天才」「神童」ともてはやされ、自分こそがミューズに愛された人間であると思いこんでいました。羽鳥君の演奏を聴くまでは。
 今でも覚えています。羽鳥君が演奏したのはリストの『愛の夢』。曲の難易度としては『ラ・カンパネッラ』の方が上でしょう。それを弾きこなす私の方が技術は上だったのかもしれません。しかし、情感たっぷりに演奏された『愛の夢』は深い藍色で優しい夜の闇を描き出しました。爪痕のような細い三日月と銀色の小さなビーズをこぼしたような星々が暗闇に光を添え、泣きたくなるほど美しい絵を彼は音で描いてみせたのです。
 美しい音楽という物は常に残酷な一面を持っています。音大に在学した四年間、どれだけ練習を重ねても私の音が絵を描き出す事は一度も有りませんでした。
「葉純君の演奏は確かに良かったですが、技術はあなたの方が上ですよ」
「先生」
 花純が真剣な目でこちらを振り向きました。焦ったような声です。
「私、今度のコンクールで絶対に入賞したいんです」
「あなただったら大丈夫です」
 私は花純に微笑んで見せます。もっとも、今度のコンクールで入賞したところで将来に繋がるとは限りませんが。
 花純は恐らく葉純には敵わないでしょう。その事を彼女が知るのは果たしていつになるでしょうか。
 花純は小さく頷きます。私は慈悲深い女神の様に優しく花純に声をかけました。
「さあ、レッスンを始めましょう」


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