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H08  白雪異聞

 小さな影が、黒き闇間を飛ぶように駆けた。
 人里離れた暗い竹林の中を走るその影は、もし目にする人間がいたならば、さては人ならざるものかと怯えただろう。
 だがそれは、戦場《いくさば》の武士よりもやや軽装な鎧をまとう、れっきとした人間の男の姿をとっていた。
 ただ、大人びた顔に反して、非常にこぢんまりとした体とやや短めな四肢を持っている。
 清平《きよひら》の名を持つその影は、小柄な体躯にできる限りの速さで、林の奥へと懸命に走った。
 ふっと横目で見やれば、竹の向こうにちらちらと、不定形の赤がいくつも見え隠れしている。
 松明の炎が躍っているのだ。
 清平は歯を食いしばって、走る速度を更に上げる。
 土を蹴る音と鎧がこすれあう音、そして自身の息づかいだけが、やけに大きく清平の鼓膜を震わせた。
 やがて竹が途切れ、その奥に隠し立てるようにして在った屋敷が姿を見せる。
 手入れする者もおらず荒れ放題なその屋敷は、住む者などいないのではないかと思わせる。
 しかし清平は一寸の迷いも無しに屋敷へ飛び込み、非常時であると己に言い訳して、具足を脱ぎもせずに奥の間へと進んだ。
「姫様」
 膝をつき頭《こうべ》を垂れて、御簾の向こうにいます主に呼びかける。
「この一帯はすっかり囲まれております。皇子の手の者、数は五十を下らないかと」
「・・・そうか」
 鈴を転がすような高い声が返ると同時、主が伏せていた面《おもて》を上げる気配がした。
 しばらくの後、そっと御簾を退けて、清平の主が顔を見せる。
 女子《おなご》が年頃の男に顔を見せるのは恥知らず、と嗤われても致し方ない無作法だ。
 だが清平は主にそれを指摘する事もできずに、ただ息を呑む。
 主は美しかった。
 歳のころは十五、六。
 まるで人形が魂を得て動き出したのではないかと錯覚するかのごとく端正な顔立ちで、目鼻筋整い唇は血色も形も良く、欠点を挙げる隙のない美貌だ。
 何故ここまで美しき娘が、かようにうらぶれた屋敷に住まわっているのかと、人は疑問に思うだろう。
 だが、誰もがすべからく、その疑念を抱く前に目を奪われるのだ。
 彼女の、長く艶やかで、まつげまで同じ色をした、抜けるような白い髪に。

 白雪の君。
 それがこの姫に与えられた名であった。
 今上帝の愛情を一身に受けときめく后《きさき》の娘で、帝の子としては十九番目、姫としては十番目として、この世に生まれ落ちた。
 だが誕生の時、産みの苦しみに堪えきれず母は他界した。
 更に父である帝は、産婆がとりあげた子を見て、その真っ白な髪に絶句したという。
 物の怪《もののけ》。
 帝が最初にその姫を呼んだ名は、我が子に対するにしてはあまりにも辛辣《しんらつ》なものであった。
 我が后は妖怪に命を喰われたと、帝は心の底から姫を疎んじた。
 やがて帝の寵は他の女に移り、新たな正妃となったその継母は、異彩を放ちながらも自分より美しく育つ姫が、いつしか己の立場をおびやかすのではないかと畏《おそ》れた。
 畏れはやがて憎悪に変貌する。
 継母は星詠みの占者に姫の運命を詠ませ、占者は「帝の傍にあっては、いずれ御代《みよ》を揺るがす者」との宣告を下した。
 自分に都合の良い結果を詠むように、継母が占者に金を握らせた可能性なども充分に考えられる。
 だが、真偽の程など誰もわからない。
 いずれにしろ、白雪の君は朝廷の一族として存在する事を許されず、都外れの竹林の奥へ押し込められ、世間から抹殺された。
 捨てられたのである。

 捨てられたというのならば清平も同じであった。
 父親は高い官位を持つ公家の者だと聞いたが、本当の所は知らない。
 とにかく、誰かが興味本位で夜這いをかけた後放置した下級貴族の姫のもとに、最初から捨てられた形で生を受けた事だけは、確かである。
 その姫には子供を育てるだけの財力も後ろ盾も無かったので、子は、年老いても跡継ぎを得られずにいた武家の老人に、養子として引き取られた。
 最初に何という名を貰ったかは、覚えていない。
 物心ついた時には別の名で呼ばれていたからである。
 子供を引き取ってすぐに、老人の若い伴侶が男子《おのこ》を生んだのだ。
 その男子は喜びを運ぶ子、喜運丸《きうんまる》と名付けられ、大事に大事に育てられた。
 一方で養い子の彼は要らない子になった。
 小柄で細っこい姿を嘲るかのように、小さな捨て子、小捨丸《こすてまる》などと愛情のかけらも無い名前を与えられ、かえりみられる事が無かった。
 弟がよちよち歩き始めたのを皆がはやし立てる、そんな庭の片隅でただ無言で剣を素振り、食事の時間も一人別室で飯を食べた。
 いや、愛情が無いと感じていたのは、一方的な思いこみであったのかもしれない。
 たまに養父母が何かを言わんと呼び止めようとした時や、はじけんばかりの笑顔で後ろからちょこちょこついて来る幼い弟を、逃げるように避けて無視していたのは、小捨丸の方だった。
 良い顔を見せた後に嫌われるくらいなら、最初から深い関わりなど持たずに遠ざけていた方が傷つかない、と距離を置いたのだ。
 やがて孤独感が募りいたたまれなくなって、小捨丸は家を飛び出した。
 彼は、自分で自分を追いつめ、小捨丸ではなくなれる可能性を自ら捨てたのだ。
 その後、あてどなく町を彷徨《さまよ》い、ならずものにからまれこてんこてんに蹴り殴られて、金と唯一持ち出した刀も奪われた。
 降りしきる雨の中、あざを作った顔とはだけた着物という無様な格好で、橋のたもとに大の字に転がった。
 そして、もういっそこのまま死んでも構わないと思っていたところに、深く笠をかぶったかの人が通りかかったのだ。
 その人は笠の下からじいっと小捨丸を見下ろし、今と変わらぬ美しい声で問いかけた。
「そなたも捨てられたのか?」
 と。
 彼女は小捨丸を屋敷に連れ帰り、傷の手当てをして、質素ながらも十分な飯を食わせてくれた。
 そして、小捨丸が帰る場所が無いと言うと、「では」と微笑んで告げたのだ。
「私がそなたを拾おう」
 清平という名は、その時にもらった。
 清い心を持つ、拾《ひら》った・・・転じて、心平らかなる男子である、と。

 清くなどない、穏やかでもない。
 清平は自分をそう評価する。
 劣等感から自分の居場所を捨てた、そんな己の姿は、白雪の君にはどう映ったのだろう。
 聞いた事は無い。
 姫は清平の生い立ちを知っても、ただ、白いまつげを同情するようになかば伏せて。
「そなたも難儀をしておったのだな」
 と、ひとつ嘆息しただけ。
 清平の弱気を責める事も、彼の家族について悪態をつく事も無かった。
 その後の生活の中でも、清平が、山菜や茸を採り、春には筍を掘り出して、朝夕に火を熾《おこ》し食事を用意すると、黒目がちな眼を細めて礼を言う。
 いつまで経ってもみてくれはそこそこだが味のついてこない料理を、口に運んでは、おいしい、と返してくれる。
 時折、人里近くまで降りて季節の花を摘んで来ると、それはそれは嬉しそうに受け取り、艶やかな色の花を白い髪にさして笑顔をほころばせる。
 この人の口から、悪しき言葉を聞いた事は無かった。
 本来ならば、宮中できらびやかな着物をまとって大勢の家臣にかしずかれ、少なくとも貧乏による不自由などとは一切縁の無い暮らしを出来るはずの人なのに。
 なのに。
 世間から隔離され忘れ去られても、彼女が清平の前で父や継母やその他諸々の人間に恨み言をもらした事は、一度も無い。
 彼女はその名に違わず、無垢《むく》で何色にも染まらない白い心をもって、誰を憎む事も無く生きていた。

 いや、ただ一度だけ、彼女が他人に対して嫌悪感をあらわにした事があった。
 彼女の異母兄にあたる、帝の二の皇子が訪ねて来た時だ。
 歌も贈る事もせずにいきなり屋敷に乗り込んで来た皇子は、勝手に姫の部屋まで踏み込み、引き連れた取り巻きに清平を取り押さえさせた後、悠々と御簾を上げた。
 そして憮然とした表情で固まる姫君を前に、
「これはこれは、噂に違わぬ美しい妹姫よ」
 と、若者の域を過ぎて小皺の浮き始めた顔をにやけさせたのだ。
「このような僻地で小鬼にまつわりつかれて、そなたも迷惑しておるだろう。
 私のもとにおいで。
 私の妻となれば皇族に戻れるし、何の不自由も無い」
 そう言う皇子の一重の細い目が、嘲るようにこちらを一瞥した時、清平の心の臓が、大きく脈打った。
 姫がこの皇子の手を取れば、彼女はきらびやかな暮らしへ戻れる。
 もう、ぼろ屋敷で暮らしたり粗末な食事をしたりする必要も無い。
 そして自分は打ち捨てられるだろう。
 また独りだ。
 だが、姫は。
「侮るな!」
 その場の空気をぴしゃりと叩き、居合わせる者がとっさに背筋を伸ばすような気迫で声をあげ、皇子をぎっと睨みすえる。
「貴様の見え見えの下心にすがるほど、私は心まで落ちぶれてはおらぬ!」
 そうして、皇子が差し出した手をぱしんとはたいた。
 皇子はしばしぽかんと呆けていたが、やがて口が底意地悪そうに三日月をかたどって。
「それは残念だよ、我が妹。
 後悔するだろう、私の温情を受けなかった事を」
 取り巻きの男達を連れて立ち去りながら、そんな捨て台詞を吐いた。
 その背を見送る姫の眼に、苛烈とも呼べる憤怒と侮蔑の炎が揺らいでいたのを、清平は初めて見たのだった。

 皇子の意趣返しは迅速で周到だった。
『我が義母君が畏れる妖《あやかし》の姫と、付き従う小鬼を成敗せんが為に』
 と、后である継母の顔を立てる名目で、私兵を率いて白雪の君の屋敷を守る竹林を取り囲んだ。
 成敗など建前だ。
 彼は姫の守護者たる清平を排除し、力ずくで姫を手に入れようとするだろう。
 味方は居ない。
 清平だけで戦わねばならない。
 だが、清平の中に悲壮感は無かった。
 捨てられた自分を拾って名を与え、頼りにしてくれた、自分を見捨てなかった女《ひと》。
 彼女を守る為に散る命なら、どんなに無様な死に方をしても後悔はしない。
「・・・姫」
 清平は頭を垂れたまま、白き姫に告げる。
「私が皇子の兵を相手し、隙を作ります。
 その間にお逃げください」
 しかし姫は首肯しなかった。
 髪も肌も白い中、それだけがひときわ鮮やかに映える赤い唇を薄く笑みの形にすると、御簾を上げきって全身を清平の前にさらす。
 その姿はいつもの、粗末ながらも女性らしさを失わない楚々とした着物姿ではなく、清平より更に軽装の戦装束に身を包み、腰には小太刀をはいていた。
 姫に請われて、剣術を仕込み軽鎧のまとい方も教えた事はあるが、これはまさか。
 あっけにとられる清平の前で姫は懐刀を抜き放つと、ぶつりと。
 長く美しい白髪をうなじのあたりで勢い良く切り落としたのである。
「いつまでも白雪などという名前に胡座をかいて、自ら手を汚さぬ人間ではいられまい」
 はらはらと白が畳に舞い散る中、姫は決然とした瞳で清平を見つめる。
「たとえ血に汚れても、私は私の身と誇りを守る為に戦う覚悟を決めた」
 清平は瞬きし、そしてはっと現実に立ち返ると、深々と主の前に額《ぬか》づく。
「・・・お供いたします、どこまでも」
 白は血に汚れれば紅に染まる。
 だが、このひとの白き心までは何色にも染められまい。
 自分が守り抜こう、このひとを。
 このひとの、白雪のごとき心を。

 都にはある噂があった。
 いわく、都外れの竹林には美しく白い女鬼とそれを守る小鬼が棲み着いていると。
 ある時、皇族の一人が兵を率いて征伐に向かったが、手痛い反撃に遭っただけで首を取る事はかなわなかったという。
 その後、彼らがどこへ行ったかは誰も知らない。
 ただ、遥か東国に、人目をしのんでひっそりと暮らす白き美姫と小さきその従者の逸話が残るばかりである。


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