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H07  薔薇の娘

 朝靄の未だ残る庭をマリアは歩いていた。邸の庭園は広く、少女の姿を隠す場所には事欠かなかったが、マリアは迷う事無く歩を進めた。
 程無く紅薔薇の茂みの陰に双子の妹の姿を認め、彼女はその顔容に微笑みの彩りを添えた。妹の名を呼ぼうと開きかけた唇が次の瞬間堅く引き結ばれる。妹、ミアが忍び泣いているのに気付いたからだ。それも、無惨に散らされた薔薇の花束を大事そうに抱えて。
 無言で佇む彼女が落とす影に目を止め、ミアが顔を上げた。マリアとよく似た、しかし何処か愁いを秘めた貌。その薔薇色の頬は、左側が赤く腫れ上がっていた。
 何故自分の居場所が判ったのかと訝しむ様子のミアに、マリアは地面を指し示す。足元に散らばる紅薔薇の花弁。それはミアへと導く標の如く、館からこの場所まで点々と続いていた。
 赤い花片の道を恨めしげに見遣ると、ミアは強ばった笑みをその頬に浮かべた。黙したまま何も語ろうとしないミアの代わりに、マリアが口を切る。
「御母様が?」
 その言葉を潮に、一時止まっていた涙が再びミアの頬を濡らし始める。紅涙を絞るミアの華奢な肩は小刻みに震え、マリアの想像が正しい事を何よりも雄弁に物語っていた。
 マリアは妹の細い背中を静かに抱き竦めた。小さく身動ぐミアに穏やかな声音で語り掛ける。
「一体何があったの?」
 暫しの逡巡の後、ミアが徐に口を開いた。
「御母様のお好きな薔薇が咲いたからお見せしようと思ったの。それで、お部屋にお持ちしたら」
 跡切れた言葉の代わりに、嗚咽がミアの白い喉から洩れる。時折噎びながら切れ切れに続く妹の話に、マリアは急かす様子も見せず耳を傾けた。ミアの語る処によると、母は差し出された花束を見るなりそれをミアに投げ付け、彼女の頬を打ったのだと言う。
「御母様は私のことがお嫌いなのだわ」
「そんなこと」
 無いと言いさしてマリアは口を噤んだ。そう告げた所で、ミアには見え透いた慰めにしか聞こえまい。
「いつもそう。御母様は決して私をお側に近付けようとは為さらない。マリアのことはあんなに慈しんでおいでなのに」
 これまで堪えていた、マリアへの鬱屈した感情が一気に噴き出したのか、ミアは又も涙に咽んだ。マリアはミアを抱く手の力を強める。
「私が醜いから、御母様は疎ましくお思いなのに違い無いわ」
「ミア、あなたは醜くなんか無いわ」
 マリアの言葉にミアは力無く頭を振った。己の右手に視線を向け、嘆息を洩らす。
「こんな痣があるのだもの、御母様がお厭いになって当然だわ」
 彼女の白磁の肌に浮かぶ褐色の痣。年端も行かぬ頃から右手の甲にある痣をミアは気に病んでいるが、それは決して彼女の美しさを損なうものではなかった。だが、実母に疎まれる所以を彼女がそこに求めようとするのも無理は無い。
 マリアはミアの両手を取った。母に渡す為に薔薇の刺をその手で一つ一つ取り除いたのだろう、その華奢な指先には細かい無数の傷があり、所々血さえ滲んでいる。
 妹の指先に、マリアは愛おしむように口付けた。それでもミアの涙は止まらない。
「御母様からも愛されないだなんて、私は要らない子なのよ」
「ミア、そんな事を言っては駄目」
 マリアの手をミアは素気無く振り払った。
「マリアには、私の気持ちは判らない。御母様に愛されているマリアには」
 母も二人の娘の片方しか愛せずに苦しんでいるのだとマリアは知っていたが、敢えて口に出しはしなかった。それを告げた所で何になろう。
 その代わりにマリアは、ミアの双眸を正面から見据えて別の言葉を口にした。
「要らない子な訳無いわ。私にはミアが必要なのだもの」
 マリアのその言葉が胸に響いたのか、ミアの表情が俄に変わる。
「マリア、本当に?」
「本当よ、嘘なんて吐かないわ。だからもう自分の事を要らない子だなんて言わないで」
 感極まって涙ぐみながら、ミアはマリアに抱き付いた。
「ありがとうマリア。大好きよ」
 取り縋るミアの体を抱き締めながら、マリアは足元に視線を落とした。散らされ踏み躙られた赤い花片。思い掛けないその赤さは禍々しい程に美しく、いつまでもマリアの心を捕らえて離さなかった。


 月明かりの下、ミアは意識を取り戻した。彼女が気を失っている間に男は姿を消したようだ。今夜部屋を訪れたのが医者だったか弁護士だったかそれとも政治家だったか最早覚えてはいないが、誰にしろ床に倒れたミアに夜具を掛けてやる程度の情も持ち合わせていない事は確からしい。冷えた床に裸身を横たえていた所為か体の節々が痛むが、見た所特に大きな怪我はなさそうだ。
 綿のように疲れた体を起こすと、ミアは浴室に足を向けた。気怠さと今も身体に残る男の感触を一刻も早く洗い流す為に。
 ミアは夜毎男達に抱かれていた。無論、そんな暮らしを彼女が望んだ訳では無い。マリアの言葉に従っただけの事だ。ここに通ってくる男達は皆嗜虐的な行為を好んだが、そんな事はミアにとっては何でも無かった。肉体的な痛みなら幾らでも耐えられる。嵐のような劣情が通り過ぎるのをただ待てば良いだけだ。若く美しいミアを思う様蹂躙する彼らも、夜明けには在るべき場所に帰って行く。
 恋い慕う母から忌み嫌われ自分の存在価値をどこにも見出せない、そんな終わりの見えぬ精神的苦痛に比べれば、男達の慰み者になる事などミアには大した事では無い。
 それに、彼女の許を訪う男は何れも地元の名士達だったから、彼等にミアを供するマリアは相応の見返りを手にしている筈だ。自分はマリアの役に立っている、そう思うだけでミアの心は満たされた。
 大好きなマリア。自分を必要だと言ってくれたマリア。マリアの為ならどんな事でも出来る。どれだけ辛い事でも耐えてみせるしどんなに恐ろしい事でも遣り遂げてみせる。マリアの為に、自分は生きているのだから。
 浴室を出たミアはバスローブを身に纏うと大きな吐息を洩らした。シャワーを浴びた位では身体の疲れは取れない。出来る事ならこのまま何も考えず泥のように眠ってしまいたい。
 だが、今夜のミアにはまだ為すべき事があった。マリアの望みを叶える為に。
 予てからその為に用意していた物を机の抽斗から取り出すと、ミアは静かに部屋を出た。廊下の灯りは消えているが、中庭に面した窓から射し込む月光の御蔭で不自由は感じない。ミアは月影が描き出した道筋を緩やかに辿り始めた。


 自分は一体どこで道を踏み外したのだろうと寝台に横たわったまま薔薇の奥方は考えていた。
 比較的裕福な家庭に生まれ何不自由なく育ち、長じて資産家に嫁ぎ二人の子供にも恵まれた。数年前に夫は他界したが、傍から見ればこの上無く恵まれた人生。それなのに、幸せだとはとても思えないのは何故か。
 考えるまでもない、娘達の内一人にしか愛情を抱く事ができない所為だ。その愛情すら、甚だ歪である事も自覚している。
 そんな筈では無かった。双子が生まれた時はどちらも可愛いと思った。二人に等しく愛情を注ぐ積もりでいたのだ。それが、揺り籠で泣いているあの娘を見た瞬間、揺らぎ始めた。どこかで道を誤ったとするならば、あの刹那がそうであったに違いない。
 しかし、何故そうなってしまったのかは幾ら考えても判らなかった。おそらく一生掛かっても答は出ないだろう。それに、理由が分かった所で今さらどうなるものでもない。最早取り返しはつかないのだ。
 これ以上考えても詮無い事と枕頭の灯りを消そうと手を伸ばしたその時、遠慮がちなノックの音が室内に響いた。
 こんな夜更けに何事かと奥方は訝しく思う。時計を見遣ると、夜更けどころか暁と言っても良い位の時間だ。どう考えても人の部屋を訪ねるのに相応しい時間ではない。
 娘達のどちらかだろうか。だがマリアならこんな風に控え目に戸を叩く事は無いだろう。そして、ミアがここを訪れる事も考え難い。こちらがあの子を遠ざけている内に、いつの間にやらミアの方でも奥方に近付こうとはしなくなってしまったからだ。
 かと言って、早暁から女主人の部屋に押し掛けるような無礼な使用人もこの屋敷には居ない筈だ。ならば、この訪問者は一体誰だろう。
 奥方があれこれ思い巡らしていると再び扉がノックされた。先程より少し力強い音。室内からの反応が得られぬ事に苛立っているのか。
 考え込んでいても埒が明かない。ノックに応じてみれば判る事だ。意を決して身を起こすと奥方はノックの主に答を返した。
「鍵は掛かっていません。お入り」
 緩々と扉が開き、訪問者が部屋に足を踏み入れる。月明かりを背にしている所為で定かではないが、背格好から判断するにどうやら若い娘のようだ。
 相手が後ろ手に戸を閉めたことで月光が遮られ、ようやくその姿を捉える事が出来た。それがバスローブ姿のミアである事を知り、奥方は喫驚した。内心の動揺を押し隠し強く叱責する。
「こんな時間に何の積もりなの。しかもその格好は人の部屋を訪れるのに相応しい服装ではないでしょう。礼儀というものを弁えなさい」
「御免なさい、御母様」
 悪びれもせず薄笑いすら浮かべて口先だけで詫び言を言うミアに、奥方は眉を顰めた。いつからこの娘はこんな表情をするようになったのだろう。幼い頃はいつも今にも泣きそうな顔をしてこちらの様子を窺っていたのに。
 奥方は小さく頭を振ると余計な考えを頭の隅に追い遣った。あの頃からはもう何年も経っている。ミアもいつまでも小さな子供ではない。母の愛を得ようと懸命になっていたミアは、もう何処にもいないのだ。
「用があるのなら早く済ませなさい」
 溜め息混じりにそう告げて、奥方はミアから目を逸らした。
「心配なさらないで、直ぐに終わるわ」
 寝台に足早に歩み寄ったミアが、隠し持っていた短剣で奥方の胸元を斬り付けた。
 一体何が起きたのか、奥方は咄嗟に理解が追いつかない。寝衣に徐々に広がる赤い染みと次第に強まる疼痛により、漸く己の置かれた状況に思い至り奥方は戦慄いた。呻くように言葉を吐き出す。
「殺したいほど、私を恨んでいるの?」
「恨むですって」
 ミアは然も可笑しそうに甲高い笑い声を上げた。
「恨むなんて気持ちは疾うに忘れてしまったわ。私が御母様を殺すのは、マリアがそう望んだからよ」
「マリアが、それを命じたの?」
 愕然として色を失った奥方の問い掛けを、ミアは事も無げに否定する。
「マリアは御母様が居なくなれば良いのにと言っただけよ。御母様の盲愛振りに嫌気が差したのですって。皮肉なものね、私がどんなに望んでも得られなかった御母様の愛情が、マリアには重荷でしか無いだなんて」
 不意に真顔になったミアが、短剣の刃先を再び奥方に向けた。
「だから、大人しく消えて頂戴。マリアの為に」
 突き付けられた剣を払い除けようとした奥方の手がミアのバスローブの帯に掛かり、結び目が解けた弾みに縛めを失った着衣の襟元が開けミアの肌が露わになる。だが、ミアは何の動揺も見せない。それどころか、辛うじて肩に引っ掛かっていたバスローブを邪魔だとばかりにその場で脱ぎ捨ててしまった。
 汚すといけないから、と艶然と微笑むミアの裸身を目の当たりにし、奥方は言葉を失う。ミアの身体に無数の痣が出来ていたからだ。そんな母の様子に目を留めると、ミアは自嘲的な笑みをその頬に浮かべた。
「あまりに無様で驚かれたでしょう。御母様が疎ましくお思いになっても仕方が無いわ。でも、マリアだけはこんなに醜い私の事を必要だと、大切だと言ってくれるの。だから、私はマリアの為なら何だってするわ」
 奥方は頭を振る。出来る事ならそれは違うと口にしたい。しかし、言葉にする訳にはいかなかった。どうして言えるだろう。ミアは醜くなど無い、この上なく美しいのだと。そして、自分が本当に愛しているのは、ずっと愛していたのはマリアではなくミアなのだと。

 その事実に奥方が初めて気付いたのは、マリアとミアがまだ乳飲み子だった頃の事だ。二人を寝かし付けていると、ミアが急に泣き出したのだ。あやす為に揺り籠の中のミアの顔を覗き込んだ時、その泣き顔の美しさに心惹かれた。
 最初は気の所為だと思った。だが、その内にマリアまでが釣られたように泣き始め、二人の泣き顔を見比べた結果それが気の所為では無い事を知った。泣いているミアは、得も言われぬ色香を漂わせていたのだ。まだほんの赤子であるにも拘わらず。
 その泣き顔見たさに、何度も幼いミアの手の甲を抓った。苦痛に顔を歪めるミアを見る度、悦びが湧き上がるのが判った。身体の芯を貫く痺れるような感覚。虐げられるミアに、奥方は情欲を掻き立てられていた。
 昏い欲望の虜となった彼女は、夫や使用人の目を盗んではミアを苛んだ。同じ箇所を抓り続けた所為で、ミアの手には痣が出来た。白い肌に浮かぶ痣は、彼女の邪欲をさらに刺激した。被虐の徴とも言うべきその痣がとても愛おしく思え、消さぬ為にと憑かれたように痣を抓る姿を、ある日夫に見られてしまった。
 我が子を虐待するとは何事かと罵られた。その行為に劣情を覚えていた事は夫には言えなかった。言える訳がなかった。己の倒錯を知られる位なら、我が子を愛せず虐待しているのだと誤解される方がまだ増しだった。
 それ以降、ミアに近付く事は禁じられた。事情の判らぬミアは母恋しさに奥方の傍に来ては周りの者に遠ざけられた。小さな子供故、時折周囲の監視の目を潜り抜ける事も有り、そんな時は奥方自身がミアを追い返していたが、誘惑に負けてミアを打擲してしまう事も偶にあった。
 傷付き打ち拉がれるミアの姿に愉悦を覚えることへの後ろめたさを誤魔化す為、奥方は殊更にマリアを愛おしむ振りをしたが、聡明なマリアはその真意にいつしか気付いたようだった。
 ミアに対し優しい言葉を掛けながら残酷な仕打ちを繰り返すようになったマリアの姿に奥方の胸は痛んだが、その行為を止めさせることは出来なかった。元はと言えば、奥方がマリアの自尊心を打ち砕いた所為だ。自分を蔑ろにする母とその歪んだ愛情を独占する妹に対し復讐を謀るマリアに、掛けられる言葉など有ろう筈も無い。

 それにしても、と奥方は危機的な状況に置かれているのも忘れ、陶然とする。眼前のミアのなんと美しいことか。
 白磁の肌の其処彼処に生じた斑紋は、あらゆる色の薔薇の花弁のようだ。青薔薇、黄薔薇、黒薔薇。紫に橙、桃色の花片を身に纏ったミアは神々しいまでに麗しい。だが、何かが欠けている気がするのは何故だろう。
「御母様、さようなら」
 抵抗心を既に喪った奥方の胸を、ミアの刃が切り裂いた。返り血を浴びたミアの姿に、奥方は目を瞠る。
 紅薔薇の花弁によって完成された至上の美。己の血がそれを完璧なものにしたという事実と、それを視界に映しつつ最期の時を迎えられる事に、奥方はこの上ない悦びを感じ身を震わせた。


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