一覧へもどる

H05  磐縒姫(いわよりひめ)

「武州霞山城の天守に、磐縒姫なるものの棲まう。春秋長じ、性は峻刻狷介、ただ藩侯城主のみ、これに咫尺を得る」

「弘化三年閏五月、式部少輔殿、御継嗣のかくれたまひしに、鏡櫛紅、三器の儀もて、天守は巌撚の間へ参籠。一念通天、失せびと三途関頭より帰り来たり」

21:42
 行方不明の小学四年の女児の姓が「設楽」と聞いて、霞山警察署は、当初から、あらたまった対応を取った。
 設楽家とは、旧城主で明治の県令、今もなお市内外に多くの地所を有し、要職者を輩出している権門で、副署長・設楽祐一警視もそのひとりであった。
 捜索を願い出たのは、女児の母親、副署長の従妹にあたる四十五の婦人で、系図からいえば七万石の最も正統な後裔だという。
 この地ではすべての機会に上座を譲られるという彼女だったが、新任の若い署長にとっては、今日このとき、署長室にての応対が初の顔合わせになった。
 差し出された名刺には、「変わらぬ美しさを求めて/日本ヴェルメイユ化粧品/取締役・設楽彩香」
 なるほど話ぶりは理路整然としているし、身なりは相応、物腰も上品だったが、ただひとつ、その容貌はまずかった。
 ひととおりの話を聞き、丁重に送り出した後、署長は、同席の副署長にいくつか確認すべき事項を質した。
「ヴェルメイユにお勤めなのだな」
「ソルボンヌで化学を専攻しまして」
「ふむ。で、その子の父親というひとは」
「彩香は独り身です。百合の生みのふた親は、遠縁のものでしたが、五年前交通事故で亡くなりました。引き取って養女にしたんです」
「複雑な家庭の事情、かね」
 キャビネットに並んだファイルに目を投げて、署長が重々しく腕組をするのを、設楽祐一は言下に遮った。
「違う。あれはそんな人間ではありません。このことは、そういう話ではないのです」
 年長の部下は、それきり背を向けて、窓の外、間近に黒く聳える霞山城を見上げていた。

22:30
 女児の持たされていたGPS端末が、途絶えていた信号を再び発し、関係者が駆けつけた天守で、持ち物のポーチがみつかった。
 周辺の監視カメラの映像を解析した結果を受け、警察は、城の中曲輪を中心とする延べ面積四千平方メートルに範囲をしぼり、三次元的捜索を展開した。
 幸い濠は涸れている。昼間は観光バスがとまる駐車場に県警の輸送車が並び、警察犬は地面を嗅ぎまわり、動員された鳶組の男たちが、そここで瓦屋根を踏んだ。
 時ならずしてライトアップされた天守を、濠端で多くの市民が立ち止って見上げた。

23:06
 風が雨を孕みつつあったが 設楽彩香は書院入口に立ちつくしていた。
 手に握られているのは、昨日まで娘が持っていた磐縒明神の御守だった。
 肌身離すなとうるさく言い続けていればこそ、百合はあてつけに投げ捨てた。
 だいたい娘は、感情的な脆さが目立つ子だから、少しは幅がきくように、やれ誕生会の夏祭りのと手厚く出費してみれば、何のことはない、百合はそれらのモノの力を借りて、強い子に取り入り、弱い子をいじめていた。
 聞いて涙が出たのが初めてなら、手を挙げて頬を打ったのも初めてで、家を飛び出して行ったのが今朝のことなら、とどのつまりがこのとおり。

「彩ちゃん」
 雨が強くなってきたところへ、後ろから傘をさしかけられた。
 彩香が会釈すると、設楽祐一は無言でクリップボードの写真を差し出した。
「3階床/C7」という注釈がある。図上、鑑識によってマーキングされた19センチの靴跡の列。それがいきなり途絶えている絵面の異様さ。
 受け入れがたくはあれど、意味するところは単純だった。少なくとも設楽の人間にとっては。
「兄さん、力を貸して下さいますか」
 彩香が驚く風もなく、ハンドバックから取り出した桐箱を見て、思わず背筋が伸びた。
 重要文化財指定の青銅の和鏡である。
 四十年前これを最後に見たときの光景が、祐一の脳裏によみがえった。
 昭和四十六年、この地でただ一度、十一月に積雪を見たまさにその日、祭儀は執り行われた。
 今は亡き十五代当主の伯父のあとについて、供奉の稚児役として、十の自分と六歳の彩香が、三器の載った折敷を、捧げ持って続いた。
 櫛と鏡が、降る雪に半ば覆われても、紅だけは雪を溶かし、かえって自らを際立たせた。
「これから櫛と紅を用意してきます。こちらでも段取りを願えますか」
「出来ることはする。しかし紅は…」
 ただの紅ではない。単純な色味だけとっても、他では見たことがない。家伝の漆器に入っていたが、あのとき最後のひとすくいまでが献じられ、その後どうなったのか。
 彩香は答える代りに、ただかすかに笑った。
『そのことなら大丈夫』
 見慣れた従妹の顔に、不意に伯父の面影が重なった。

23:42
 彩香が最初に立ち寄ったのは病院だった。
 専用直通のエレベーターに乗り、厚い絨毯を踏み、一番奥の個室のドアを叩く。
 花とレースに囲まれたベッドに、テレビをつけたまま、母は横になっていた。
「遅くにごめんなさい」
 返事はない。ただ画面のボリショイバレエに見入っている。もう何十度目か、ジゼルを裏切るアルブレヒトの不実に唇を噛んでいる。
 彩香はベッドの縁に座り、ハンカチで母の額の汗をふき、前髪のほつれをヘアピンで止めた。
 その艶のある肌と黒い髪。
 いまのこの母の内面を、何歳相当と見るべきかは知らないが、容姿だけは、間違いなく若い。社の広告に起用する同年代のタレントなどよりも。
 彼女こそは、その花も盛り、町中が熱狂したシンデレラ・ストーリーのヒロインだった。
 婚礼の日、白皙の貴公子と呼ばれた父と、オープンカーにのって紙吹雪の中、目抜き通りをパレードした。
 この日のウェディングドレスが、彩香誕生の折、バレエのチュチュに仕立て直されたことまでを、当時の地方紙は報じている。
 七歳の誕生日、トゥシューズとともにそれを与えられた彩香は、疑いもせず、週四日の厳しいレッスンに耐えた。
 そして十一歳の秋、市民ホールの楽屋の隅で見つけてしまった。
 絢爛なチュチュを着た猿の落書き。
 誰をあらわしているかは一目で分かった。その位置を一歩も動けぬまま、なすすべもなく膝が笑い続けた。
 自分の顔のことは知っている。そのうえで、そこまで彩香の胸を抉ったのは、それがそのまま新聞の政治面にでも載りそうな、洒脱な大人のタッチだったことだった。
 そこからが親子の修羅場の始まりで、あの時期に生まれた溝は未だ埋まらない。成人してようやく、それは二人が別々の人間であるというただそれだけのことと気づいた。
「お母さん、少し借りるわね」
 両手を伸ばし、母の頭から黄楊の櫛を抜くと、思いのほか白くなった髪が背へと流れた。

24:10
 関越自動車道を都心へとひた走る。プジョーRCZのフロントガラスに雨滴が弾け、照明が滲む。
 アクセルを踏み切ると、右膝の古い傷がかすかに痛んだ。30年も前、ハードル競技中に痛めた傷が、雨の日の負荷にはいまだにうずく。
 あの怪我なかりせば、という後悔も、気がつけばいつ以来か。
 陸上に打ち込んでいた中学の夏の日。
 もうお仕着せの習いごとは、バレエだけてなく、華もピアノもやめていた。
 ここは目に見える実力の世界。外見も家柄も関係なく、抜き去られた者は、ただ黙るしかない。
 何本かの白いテープを切り、強豪高校からお呼びがかかったところで、右膝靭帯が壊れた。
 高価な最新治療も、医師の宣告を覆さず、憧れた紛れのない世界は、まさに垂直の岩壁のように身じろぎもせず自分を拒んだ。

 ギブスが取れて早々に、転機は訪れた。
 家の蔵を訪ねて、ひとりの大学院生の青年があらわれた。明治のアマチュア博物学者・設楽精慧の集めた鉱物や昆虫の標本修復を任されたという。
 三階五層の複雑怪奇の構造を、幼いころから遊び場にしていた彩香が手を引いた。
 彼がアタッシュケースを開き、標本を展翅する繊細な手つきに、彩香は息を詰めて見入った。
 このモルフォ蝶の青をね、すり潰して外へ取り出そうとした者は大勢いるけれど、誰も成功しなかった。何故だと思う? 彩香さん。
 彼が来春から霞山女子に奉職すると聞いて、そのとき彩香の進路も決まった。入学式の日、彼が顧問を務める新設の地学部へ入部届を出した。
 おそらく最初で最後の、激しくも淡い感情だった。それ自体はどこにも結実しなかったが、鉱石を砕いてフラスコを振った三年の時間が、ひとりの人間の行く末を固めた。
 その後、筑波に六年、パリ第Ⅵ大学に六年、サン・エティエンヌ研究所に十年。

 6区のラグランジュ街に「Le club des couleurs perdues(失われた色クラブ)」というサロンがあった。
 人生の宿題として追い求める工芸的な色がある。それが会員の条件だった。
 フェニキアのティリアン・パープル。セネガルの丹の橙。宋代の青磁の釉薬。エル・グレコの緑。チャンカイ文化の織物の白。
 色そのものの講釈は多く聞かされた。だが今はそれよりも、ひとりの人間がある色を追うに先立って、その色が人の心を捉えて囲い込む、その機微をこそ聞いてみたかった。
 彩香の「運命の色」は、あの雪の日を最後に、失われた紅の色だった。
 再現の試みは、高校時代にまでさかのぼる。
 ふとくぐった山門は、果てのないつづら折りの入り口で、それから今にわたり、和漢洋の原料と、最新と最古の技法を、取り替え引き換え、実験台に乗せた。
 古い家も古い街も好きでなかったはずなのに、なぜ家伝の紅。自分はただ出来ぬことに対し、意地になっているのか。
 迷いながらもデータは積み重なり、年を経るごと、紛れの水分は飛びゆき、求める紅色はますます眼の底で鮮やかになっていった。


25:07
 プジョーは、江東区・本社研究センターの地下駐車場に滑り込んだ。
 何重もの個人認証をくぐり、三階の自室に達する。
 金庫を開き、てのひらに乗せたシャーレに、四十年ぶりにこの世に現れた紅色が光る。
 常温で安定が確認できたのが実に一昨日のこと。四十年。正確には、あの雪の日から39年と185日。
 書き連ねてきたヘキサの羅列は、ついに収斂した。
 はじめてHPLCの蓋を取った瞬間から、成ったという確信はあった。
 そう。成ったればこそ、自分はいま、こうして呼ばれているのだ、紅の本来の主である化生の存在から。
 と同時に、これは警告でもある。
 価値と占有をめぐる不易の構図がここにある。
 新製品の第三者への提供禁止は、業界内、あるいはVIPとのオーダーメイド契約としては格別珍しくもない。
 かつて疑い深いクライアントのもとへ、製法データの紙ファイルを丸ごとトラックで搬入したこともある。
 ともかくも、そこだけは技術の進歩、たった一枚のSDカードをバッグにしまいこみながら、思わず溜息が出た。
 一段落したら、役員規約の背任の項目を熟読せねばならない。

26:15
 霞山城の雨は上がっていた。
 喧騒は去り、静寂の中、祭儀は始まっていた。
 篝火が、白壁に長い影を落とし、人間そのものさえ影絵芝居のように物を言わなかった。
 当主を先頭にした行列は、玉砂利を鳴らしながら、白い蛇のように郭内をうねり、要所で尾を切り離して進んだ。
 中枢の六人だけが天守の扉をくぐり、最後まで隋身した稚児二人も、第三層への階段の手前で役目を終える。
 ここからがソロパート。
 彩香は、幼きものたちを目顔でねぎらいながら、四十年前、見送った父の背を思い出していた。

 三層目。
 さらなる上層への道は、一部、観光順路をなぞる。
 壁には、歴代城主の肖像や系図などのパネルが並び、反対の壁には磐縒明神の由来が説かれている。
『霞山の地祇・磐縒の起源は、元和二年の本城築城に先立ち、遠く神代にまで遡ります』
 この関東平野の片隅に、ようやく人の生活の煙が立ちのぼり始めた原初の時代。
 足を止め想像してみる。
 その頃、化粧は神事に属し、祝祭のときだけ、ひとはその余分にあずかり得た。いま頬に乗った伝統の白粉は、不自由な時代に似て鈍く重い。
 それから何と多くの時が流れたことか。
 今日、人は地に満ち、自らを彩る色を千万となく溢れさせた。ただひとつの神の色を、尽き果てるにまかせたまま。
 神の嘆きはいかばかりか。
 天を覆い、地を裂くかわり、「彼女」の指は、ただ因縁の糸を静かに手繰った。
 その結果。
 失われたものを正当に補給するため、系図の上に置かれたチェスの駒。それが自分というものの意味ではないのか。あたかも城の基礎に組み入れられる一石のように。あるいはヘキサの一角に配される原子のように。
 最上層への階段へ足をかける。
 それならばそれでもよい。感情は平静だった。
 子供を人質にとったことも一概に卑怯と責められまい。
 名君の誉れ高き設楽家の祖さえ、戦国のならい、敵性の武将に対して同じことをやったのだ。
 窓から見える空にはもう星が光っている。

 最上層。
 この稲妻模様の襖の向こう、千年を生きた「彼女」はおわす。
 心中をもう一度照らしてみた。含むところはない。心底から。何一つとして。
 ただし今夜、この身に代えても、百合だけは無傷で返してもらう。
 五年前、菩提寺の位牌に手を合わせ誓った。聞けば自分より若くして奇禍に逝った二人だった。安らかにお眠りください。至らぬ者ながら、私は、今日からこの子の命を、自分の命の上に置きます。
 驚天動地の倒錯は、親子ならばごくありふれたこと。子のためならば親は躊躇わず、火の中へでもゆくだろう。
 彩香は襖を開けた。
 正面に垂らされた御簾の表を、月光がさやけく照らしている。
 高麗べりの畳の上を、折敷を捧げ持って膝立ちで前進する。
 これが長距離の最後のホームストレート。
 所定の位置まで来たところで、目を伏せたまま、わずかに御簾をあげて折敷を差し入れた。
『神よ、ご照覧あれ』
 断崖へと寄せる波濤のように、耳の中の血流が鳴るのを、彩香は聞いていた。

 一拍の後、それは起こった。
 目の前の御簾の端から、百合が寝返りを打つように転がり出てきたのだ。
 まるで自動販売機。
 口角があがったのは安堵のためだった。
 抱きとって、額にかかる前髪を払う。目は閉じられているが、呼吸は安らかである。重みが腕に懐かしい。この子が家に来た頃、よくこうして、眠っているところを抱きあげ、意味もなく鏡の前に立ったりしたものだ。
 その重さだけに心を寄せて、きつく目を閉じた。
「Merci beaucoup Maitresse」
 第十六代当主の声が、今夜はじめて天守に響いた。


 退出の際、敷居の外で向き直り、百合を抱いたまま指の先で襖をしめる。
 そのとき御簾越しにはっきり気配を感じた。
 彩香は一度だけその奥へ目を凝らす。
 ふいに思い出した。ずっと忘れていたひとつのこと。自分は「彼女」の顔を知っている。それも幼い頃から。拠るところが絵なのか夢なのか想像なのか、思い出せないがとにかく知っている。
 濡羽の黒髪に、みずみずしい雪の肌。月のように冴え輝く面輪の磐縒姫。
 御簾の向こう、紅を乗せた唇が笑ったような気がした。


一覧へもどる

inserted by FC2 system