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H04  さいわいのきみ

 花兎は、うつくしいものが大好きだ。だけれどもここにはもう、うつくしいものは半分しか残っていない。
 いま、いなくなってしまったうつくしいものの代わりに花兎の前にのこったものは、とりどりのあざやかさをそろえた絵具の数々と、イーゼルにたてかけられたキャンバスだけだった。
 冬に埋もれた時計塔の街、アルエットの街角に、花兎の愛した小さな雪猫はもういない。
 宝石みたいな若葉色の瞳をした雪猫は、御堂の御使いさまのお迎えの手をとっていってしまった。
 とおい、花兎の手の届かない、神様のすまいへいってしまった。
「ばかだねえ」
 眠れる草木が春の訪れを待ち望む裏庭で、キャンバスに向かって溜息をつき、花兎は黙々と絵筆を動かす。
 冬の終わりの風はまだ少し冷たいけれど、部屋の中で絵は描けない。絵具のにおいがついてしまう。
 彼女が寒さをこらえてまで絵筆をはしらせる理由はひとつ。花兎のそばから去ってしまった、大事な幼馴染の雪猫。彼とのおもいでをこのキャンバスに描きこんでおくのだ。
 小さな雪猫。ばかな雪猫。
 おさないころ、よく風邪をひいていた雪猫は、花兎が母さんとお見舞いに行っても眠ってばかりだった。
 そのくせ雪猫が寝ている間に花兎が帰ってしまうと、あの子は起きだしてからわんわん泣いた。
 そうなったらお昼時だって夕方だってかまわずに、花兎が雪猫のところにもう一度訪ねていくまで、ぜったいに泣き止まなかったものだ。
 仕方がないのでそんな時、花兎はもう一度、今度は一人で雪猫の家へ出かけていく。
 母さんがつくってくれた、はちみつと、檸檬と、それからミルクのあたたかな飲み物を、綺麗な布でふたをした水差しに入れて。こぼさないように気をつけて。
 そうやって花兎が雪猫のところに届けものをすると、雪猫は涙でぐしゃぐしゃになった顔を、雪猫の姉さんの膝からはなして「はなうさぎ」と彼女を呼ぶのだ。
 それからふたりで向かいあい、水差しからまだあたたかなはちみつミルクをコップに入れて、一緒にいただきますをする。
 雪猫はそれを「おひさまのとびこんだミルク」だなんて呼んでいたっけ。けど、花兎はそれは檸檬を漬け込んだはちみつを、暖かなミルクに落とした飲み物だって、ちゃんと知っていた。
 だってはちみつに檸檬を漬け込むのは、昔から花兎の仕事だったのだ。でも、雪猫にはそのことは秘密。
 なぜかって、雪猫ったら、元気になってまたおひさまの下へ出ていくたびに、太陽に向かって「おいしくしてくれてありがとう!」だなんて、「ゆきねこ、元気になったよ!」だなんて、うれしそうにお礼を言うのだ。
 まぶしいだろうに、まっすぐ空を見上げて、花兎と手を繋いでいない方の手を、おひさまにおおきく振る。しかたないので花兎も、檸檬のつかったはちみつはおひさまじゃないなんてことは黙ったまま、雪猫と一緒に何度も手を振った。
 元気になると、雪猫はまた風邪をひくまでの時間を、花兎と一緒に過ごす。
 だって、雪猫の姉さんたちは女学校や奉公先に行ってしまうし、花兎の兄さんたちも親方や師匠に仕事を教わりに行ってしまう。仕方がないから、花兎もやっぱり雪猫と一緒に過ごす。
 ふたりで広場の噴水で、小さな指先をそうっと冷たい水に触れさせてみたり。市場でおじいさんからいらなくなった紙を貰って、木炭で一緒に絵をかいてみたり。通りの花壇の間を、順繰りに走り回ってみたり。
 いっぱい遊んで日が暮れると、雪猫と花兎はしっかりと手を繋いで、時計塔の鐘の音を聞きながら、一緒にお家へ帰るのだ。
 十字路を突っ切って、小さな橋を渡って、シュエット通りでさよならをする。
 通りを挟んで西側の家に雪猫が帰り、東側の家に花兎が帰る。そうして二人はそれぞれの母さんの腕に「おかえりなさい」と抱きしめられて、その日の遊びはおしまい。
 そうやって毎日毎日いっぱい遊んで、次のお祈りの日まで雪猫がまた風邪をひかないと、今度は花兎にとって特別な時間がやってくる。
 花兎は、週に一度のお祈りの日が大好きだ。
 素敵なワンピースを着て、淡い飴色の髪を綺麗にとかして、さいごにリボンでかざってもらう。
 それから父さんと母さんと、兄さんたちにつれられて、花兎は御堂へいく。そして、お祈りの時間が始まるまでのわずかな時間、花兎は御堂の広間の奥の部屋へと、兄さんに連れていってもらうのだ。
 なぜって、奥の部屋にかかっている大きな絵画は花兎にとって、とてもいとおしいもの。
「花兎は、この絵が好きだねえ」
「好き。いっとう好きよ」
 代書屋に奉公に出ている一番下の兄さんは、そう言いながら花兎の頭をくしゃくしゃとなでる。
「兄さんたちよりも好きか?」
「兄さんたちはとっても好きよ」
 銀細工師に弟子入りしている二番目の兄さんは冗談交じりにそう言うと、花兎をあやすように、彼女を抱き上げた腕を少し揺らす。
「それじゃあ、なかよしの雪猫よりも?」
「雪猫は、特別好きよ。雪猫は花兎のいちばんのなかよしだもの」
 仕立て屋の師匠についている一番上の兄さんはそんな言葉と共に、花兎のくしゃくしゃにされた髪を丁寧に直すのだ。
 花を抱いた聖女の戴冠。それがその絵のすべてだった。
 聖女のい抱く花を彩るのは、エカルラートの赤色。奥行きのある背景の空には、セレストとアジュールのふたいろが混ざり合っている。ジョーヌ・プランタンに似た色合いの黄金の冠は、今まさに天上からの御使いによって、聖女の頭上へ授けられるところ。
 壁いっぱいにかけられた絵画は、花兎のあこがれだった。繊細な筆致、豊かな色づかい、そしてなにより清廉にしてやすらかに、たおやかに描かれた聖女の横顔。
 うつくしいすべてを絵画の中にのこしたひとは、いったい誰だというのだろうか。
 それを考えるたびに、花兎はとてもしあわせな気持ちになる。
 けど、御堂の絵画を見ていられるのも、お祈りの時間がはじまるまでだ。
 時計塔の鐘が鳴りだすと、兄さんたちは花兎を抱えたまま、急いで御堂の広間へとってかえす。鐘が五回響いたところでそっと御堂に入り、加えて三回鳴ったところで椅子に座り、鐘の音が十回になるころには、母さんや父さんの横に、兄さんたちと花兎はお行儀よく座っているのだ。
 そうしてみんなで祭司さまの説法に耳を傾ける。
 ただ、祭司さまのお話はちょっと長いしむずかしいので、花兎は時々退屈になって、通路を挟んだ右隣の椅子にちょこんと座る雪猫が、居眠りをするのを盗み見てしまう。
 ステンドグラスをすり抜けて、御堂いっぱいに満たされるおひさまのひかりはうつくしい。
 でも、そんな色とりどりのひかりに、ねむたそうにして時折こくりと首をゆらす、雪猫のはしばみ色の髪が透けてきらめくのはもっとうつくしい。
 花兎がこっそりと雪猫にみとれているうちに、祭司さまの説法は終わり、みんなで祈りをささげる時間になる。
 いつもそうだ。雪猫は花兎の時間を簡単にとりあげてしまう。
 にこやかな祭司さまに見守られながら、隣に座る三番目の兄さんにせかされて花兎があわてて立ち上がることも、雪猫が一番上の姉さんにやさしく揺り起こされて、寝ぼけまなこでゆっくりと立ち上がることもいつものこと。
 聖句をとなえてお祈りをする間は、花兎にとって待ちきれない時間だった。
 おとなの、こどもの、おんなの、おとこの、さまざまな声がのびやかに、ひとつの音をうたって御堂をこだまするさまはうつくしい。花兎のいっとう好きな絵画のうつくしさや、花兎の特別好きな雪猫のうつくしさとはまた別に。でも、花兎がもっともうつくしいと感じるものは、まだこのあとに控えていた。
 お祈りの時間が終わると、雪猫は一番上の姉さんに手をひかれ、他の何人かのこどもたちと一緒に、そうっと御堂の隅の小部屋に行く。
 雪猫が席を立つ時、彼が決まって花兎ににっこり笑い、言葉を声には出さずに「ばいばい」と手を振ってくるのは、花兎への挨拶だ。だから花兎もそのたびに、そうっと雪猫に微笑み返す。花兎は父さんから「挨拶されたら、挨拶をかえすんだよ」と、ちゃんと教えられているのだ。
 雪猫が小部屋へ消えると花兎はいつものとおり、どきどきしながらぴんと背筋を伸ばして待っている。
 だってもうすぐだ。もうすぐ、いちばん大好きな雪猫が見られる。花兎はそれまで、静かに待っていられるのだ。
 やがて小部屋から出てくる、白い外衣を羽織ったこどもたちがきちんと御堂の前の方に整列しおえると、パイプオルガンの音が空気をふるわせて響き渡り――花兎の、一番好きな時間ははじまった。
 凛と、最初の音が天井に届くと、追いかけるようにして歌声が御堂を満たした。
 週に一度、聖歌隊のこどもたちはのびやかに、平和をたたえ御神を言祝いでうたう。
 その中で雪猫の澄んだ声はいっそうたかく御堂に響き、あまやかに花兎のこころへと、しあわせな気持ちをはこんでくるのだ。
 うつくしい、うつくしい。
 花兎は、うつくしいものが大好きだ。お祈りの日はうつくしいものがよりあつまった特別な日だから、とてもしあわせ。
 御堂の奥の絵画と、なないろのおひさまに寄り添われる雪猫と、ひとびとの声の唱和するお祈りの時間。それから、雪猫のやわらかくてやさしい歌声。これは、特別とっておき。
 花兎の愛する雪猫は、こどもたちのなかで一番綺麗に歌を歌う。
 聖歌に耳を澄ませている時、花兎が想い抱くのはただ幸福だけだ。
 小さな雪猫、優しい雪猫。
 花兎は、雪猫が大好きだった。誰よりも何よりも、いちばん雪猫がいとおしかった。
 ――だというのに、雪猫は行ってしまった。
 お祈りの時間が終わるたび、雪猫と一緒に手と手を繋いで祭司さまにさよならのあいさつをしにいくのは、いつも花兎の役目だった。
 それは雪猫と花兎が、幼い子供から小さな少年と少女になってからも同じだったし、これからもずっと続いていくはずだった。
 なのに雪猫はあの日、都の御堂からきた御使いさまにその歌声を気に入られて、褒められて、御使いさまにこう言われたのだ。
 花兎の手を放して、雪猫は都へ来るようにと。
「きみは都で一番の音楽学校で学ぶといい。国一番の大聖堂で、その歌声を披露するといい」
 都の大聖堂。それは神様のおすまい。そして、雪猫や花兎からしてみれば、とてもとてもとおいところ。
 雪猫は最初はいやがった。「花兎が一緒じゃないなら、嫌だよ」と。
 でもいろんなひとから説得されて、迷って迷って、さいごには雪猫ったら、都の御堂へいってしまった。
 小さな雪猫。花兎をおいていってしまった、ばかな雪猫。
 ……ちがう。ほんとうは、ばかなのは花兎。
「雪猫が都へいったら、家族に楽をさせてあげられるんだって。花兎とさよならするのはさみしいけれど、でもいま都へ行ったら雪猫が大きくなった時に、花兎と一緒に暮らして家族になって、そしてしあわせになれるんだって」
 雪猫の姉さんたちや花兎の兄さんたちのように、街の若者は成人前から仕事を学ぶ。成人した後も何年かはひとりで働き、まとまったお金ができたら想い人と婚礼をあげる。
 だけど大聖堂の聖歌隊のひとりになるなら、雪猫は大きくなるまでにまとまったお金を稼ぐこともできると、そうすれば成人してすぐに大好きな花兎と家族になることだってできるのだからと、雪猫は説得された。
 雪猫が「なら、いきます」だなんて返事をして、「いかないで」と泣く花兎をなぐさめて、ひとりで都へ行ってしまって、もう十年。
「わたしは、雪猫と十年一緒に居られたなら、それでよかったのに」
 キャンバスにまた一筆、色を重ねて描き足しながら、花兎はこらえるように微笑した。また、ばかなことをと自分でもおもう。
 でもそれ以来、花兎のしあわせは、ずっといなくなったままだった。
 秋祭り、春の雪解けの市。ふたりの誕生日も、十六で迎えた成人の祝いも。とおりすぎた十年間をずっと、雪猫といっしょにすごしたかったのは、花兎のわがまま。
 雪猫は花兎が泣くからといって、支度金の一部を使い、イーゼルとキャンバスと絵筆と、それからとりどりの絵具を買ってのこしていった。都に行ってからも、手紙と一緒にときおり絵具をおくってくれた。「御堂の聖女様の絵が大好きで、一緒に木炭で絵を描くのも好きな花兎だから、きっと泣きやんでくれるっておもって」と。
 なのに花兎は、泣いて泣いて、泣きわめいて、とうとう雪猫の出立にもたちあわなかった。「雪猫は寂しそうだったよ」と、あとから雪猫の姉さんたちにきかされてまた泣いた。
 ふさぎこんだ花兎はそれからひどく沈みこんで、都にいった雪猫からはじめて手紙が来てようやく、ひさかたぶりに少し笑った。
 おとなになったからにはきちんとわかる。あれは花兎のわがままだった。いくら十年離れるのが嫌だからといって、せっかくみいだされた雪猫の音楽の才能を摘むなんて。
 さいごに雪猫が花兎と顔を合わせ「都にね、いくことにしたんだよ」と、さみしそうに微笑んだ日。おひさまにありがとうと手を振った無邪気でおさない雪猫は、いつのまにか大人びた、しっかりと将来を見据える事のできる少年になっていた。花兎は自分よりもこどもだとおもっていた雪猫の変貌におどろいて、いっそう彼をひきとめようとわがままをいった。
 いまはもう遠いさよならの日をおもいだして、花兎はキャンバスに色を加えてゆく。ねえ、花兎の大事な雪猫。花兎のさいわいであるきみよ。
「そうやって、わたしはあなたをまっていたんだよ」
 今日、雪猫はアルエットの街に帰ってくる。学校を卒業したあの子は、立派な音楽家になったと聞いた。小さな雪猫だった少年がおとなになったいま、小さな花兎だった彼女も、もはや少女ではない。
 花兎はさいごの一筆をキャンバスから離すと、かたわらの筆置きに絵筆を戻す。
 この十年、雪猫からのたよりと一緒にふえていったとりどりの色は、雪猫と花兎のあいだの距離をたしかに埋めてくれた。でも、その役目もきっと今日で終わり。
 花兎は雪猫から届いた、さいごの手紙を思い出す。
「春になる前に、そちらに帰ります。こんどこそ、僕といっしょにいてくれますか」
 返事なんて、ずっと昔から決まっていたひとつ以外にあるわけがない。
 ――時計塔の鐘の音とともに、十字路の手前、小さな川にかかった橋の方から、はずんだ声が聞こえてきた。花兎はあわてて庭を突っ切って、前庭へ顔をのぞかせる。
 シュエット通りの向こうから、里帰りしている雪猫の姉さんたちと、その小さな子供たちに囲まれて歩いてくる、はしばみ色の髪の青年の姿が見えた。背丈も顔立ちも十年前とはずいぶん変わっているけれど、その表情には面影があるし、花兎にはきちんとわかる。
「雪猫!」
 花兎がうれしくなって、小走りで通りに飛び出すと、それに気付いた青年は、ふわりとあたたかな笑みをこぼす。
「ただいま、花兎」
 若葉色の瞳をほそめてやさしくわらう雪猫に、花兎もあふれんばかりのしあわせをまとって「おかえりなさい」と、まちのぞんだ音をほころばせた。


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