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H01  「Where is the princess?」

 通りに面したオープンカフェは、平日の昼下がりでもそこそこ賑わっている。外のテーブルに付いている人物を確認して、アイナはシャツ の胸に隠した無線機のマイクに囁きかけた。
「こちら、ハートのA(エース)、”お姫様”を見つけたわ」
 無線機から返事が来る。
「慎重にやれよ」
 了解と短く答えて、アイナはコーヒーを買って、その人物に近づいた。
 くすんだような赤毛の20代半ばの女性が、コーヒーをテーブルに置いて新聞を読んでいる。アイナは彼女に話しかけた。
「こんにちは、”お姫様”」
「誰のことかしら?」
「”私の大事なお姫様”、あなたのお母様はそう呼んでたわよ、レイチェル」
 名前を呼ばれてレイチェルはこの上なく嫌そうな表情になる。

 彼女の名前はレイチェル・ブレロ。
 この街で一番大きな企業である、エイムズ社の社長令嬢だった。
 4年前まで。
 4年前、彼女は婚約者とともに誘拐され、婚約者は死体で見つかったが彼女は見つからなかった。
 警察が捜査を進めようとするのを止めたのは、他でもないエイムズ社社長本人だった。
 レイチェルはこの街を支配するマフィア、ブレロ一味のボス、ディーノ・ブレロに誘拐されたのだ。脅された両親は、警察に捜索願いを出 さなかった。

 3週間前、ディーノが誰かに撃たれて、死体となるまで。

「臆病者の父と母はようやく娘のことを思い出したのね。でも残念ながら、私はディーノの妻よ」
 喪に服すような黒いワンピースに身を包んだ彼女は、年よりも老けて見えた。その顔に明らかな疲労を見出して、アイナは不思議そうに問 う。
「ディーノは死んだ。あなたは自由よ」
「あなた、ハートのAね。若いけど優秀な交渉人。お探しの”お姫様”はいないの。魔女になったのよ。あなたに合わせると、さしずめ、真っ 黒な闇のスペードのQ(クィーン)ってとこかしら」
 コードネームを知られていることに驚きながら、アイナは動揺を隠して次の切り札(カード)を探す。
「若く見えるかもしれないけど、あなたよりは年上よ。分からないことがあるの。教えてくれない?どうして、あなたは婚約者を殺した男の 跡を継いだの?」

 ディーノの死後、レイチェルはブレロ一味の女ボスになった。そのことがアイナには腑に落ちなかった。

「妻が夫の死を悼み、その家業を継ぐことになんの不思議があるかしら?」
 レイチェルのセリフにアイナは新たに驚きを感じる。
「まさか、あなた、自分を誘拐したディーノを愛していたの?」
 確かに、ストックホルム症候群を筆頭に、危機的状況で誘拐犯と被害者の間に結びつきが生まれることは、統計的にも証明されている。
「ディーノは私に優しくしてくれた。私だけに優しくしてくれたのよ」
 涙をにじませるレイチェルに、アイナは眉をひそめた。冷徹なマフィアのボスであるディーノを優しいと言う人物がいるなど、考えたこと もなかった。
 ブレロ一味はこの街を恐怖と買収で支配していた。
「マフィアのボスである、スペードのQが警察と仲良くするわけにはいかないわ。私はこれで失礼するわね。それとも、私を逮捕できるような 罪状があるの?」
 挑発するようなレイチェルの素振りに、アイナはポケットから一枚の写真を取り出す。
「罪状はないけど、これはあるわ」
 写真には赤毛の3歳くらいの少女が映っていた。


 夕暮れ時の警察署は、人が入り乱れ、落ち着かない雰囲気だった。部屋の隅で新人警官に対して、苦情を言い立てる太った中年女性の声に うんざりして、アイナは資料を置いてコーヒーを買いに立ち上がろうとした。その時に、同僚のフレデリックが疲れた様子で部屋に入ってく る。
「ハートのA、資料は読んだのか?」
「読んだわ。なかなか手強い相手のようね」
 何人もの交渉人が話しても交渉に応じなかった、レイチェル・ブレロ。彼女を保護出来れば、証人としてブレロ一味の悪事の情報が手に入 る。何よりも、ようやく捜索願いを出した両親の元に彼女を帰してあげられる。
「それにしても、レイチェルと今まで交渉した人物、誰の報告書にも、彼女は間違いなくディーノを愛してるって書いてある。信じられない 」
「演技じゃないのか?……そういえば、フローラのお迎えはいいのか?」
 理解できないという素振りのアイナに、あっさりと演技と切り捨て、フレデリックは話題を変える。ブレロ一味の一員に殺され、殉職した アイナの相棒だったフレデリックは、いつもアイナと娘のフローラを気にかけてくれていた。
「大丈夫よ、ハートの2さん。今日はヒューのお姉さんが見ててくれるから」
 コードネームで呼ばれて、フレデリックは顔を顰める。
 その顔を見てアイナは笑い、それから可愛い父親似のフローラのことを思い浮かべた。
 もうすぐ学芸会だと言っていた。8歳のフローラは白鳥の役をもらったとか。
「そういえば……レイチェルとディーノの間には子どもがいたわよね?」
 ふと思いついて口にしたアイナに、フレデリックはアイナの机の上の資料を手に取り、慣れた手つきでめくっていく。
「えーっと、そうそう、名前はナタリー。ナタリー・ブレロ」
 名前を口にしてからフレデリックはアイナの顔を凝視した。
「ナタリーはディーノの死の直前に、事故にあってる」
 報告書に載っていなかった情報に、アイナは身を乗り出す。
「マフィア絡みの抗争かしら?」
「それは不明だが、退院した記録がない」
「3週間以上も入院するような怪我をしたの?」
「いや、そういう報告は書かれていなかったと思う」
 何かがおかしい。
 二人はそれに気付き始めていた。


 娘の写真をテーブルの上に置かれて、勢い良くレイチェルが立ち上がる。
「ナタリーに何をしたの?」
「何もしてないわ」
 あっさりと答えるアイナに、レイチェルは信じられない様子でアイナに詰め寄った。
「夫を失った私から、これ以上、何を取り上げようっていうの?夫はマフィアだという理由で、殺されても捜査もろくにしてくれないのに」
 胸ぐらを掴まれそうになって、アイナは無線機がずれないように慌てて体をそらした。そして、落ち着いた声で語り聞かせる。
「私にも娘がいるの。今年で8歳になったわ。その子がね、学芸会で傷ついた白鳥の役をもらったのよ」
「なんの話?子どもの自慢話なんて聞いている気分じゃないわ。話が終わったなら帰らせてもらうわ」

「いいえ、最後まで聞いて。娘は私に言ったわ。『ママ、痛(いた)むふりをしなくちゃいけないの』って。それが難しいって。あなたも難 しかったんじゃない、悼(いた)むふりは?」

 話にならないと帰ろうとするレイチェルの耳元に、アイナは囁きかけた。
「あなたの娘さんを病院に閉じ込めていたグリエルモの手下、ダーリオは逮捕されたわ」


 黒髪に黒い目のいかにも人相の悪い男が、個室の病室の前に椅子を置いて座っているのを確認して、フレデリックは周囲を確かめる。医者 や看護士たちが心配そうにこちらを伺っているのが分かった。
 深夜の病院は静まり返っている。
「面会時間は過ぎてる。ダーリオ、病院は四六時中お前がいるんで、迷惑してるぞ」
「さあ、そういう話はされてないね。誰も俺に言わなかった」
 そうだろう、とばかりに周囲に目を向けるダーリオと、誰も目を合わせたがらない。
「じゃあ、俺が言う。迷惑だ。帰れ」
「そういうわけにはいかないんだよ!」
「グリエルモの命令を破るのが怖いんだろう。お前もディーノのように消される」
 ディーノの腹心であるグリエルモの名前を出されて、ダーリオは歪んだ醜い笑みを浮かべた。グリエルモはディーノの腹心ながら、彼の地 位を狙い続けていた。
「グリエルモは誰も殺してない。彼はボス殺しの第一容疑者としてあんたらが拘留してるだろ。さぁ、ここは病院だ。警察は警察署に帰れよ 」
「ああ、帰るよ。ナタリーと一緒にね」
 ダーリオの言葉を無視してナタリーの病室を開けようとしたフレデリックに、ダーリオは背広の背中に手を突っ込み、ズボンに挟んでいた 銃に手をやった。

 刹那、一斉に向けられる銃口。

 看護士や医師に変装していた警察官たちが、一斉に銃を抜き、ダーリオに突きつけていた。
「話は、署で聞くよ。連れていけ」
 部下に命じ、そのままフレデリックはナタリーの病室に入っていった。


「ナタリーは無事保護されたわ。あなたは、夫の死を悼むふりなんて、もうしなくていいの」
 グリエルモにレイチェルが脅されていたことも、レイチェルの陰でグリエルモが悪事を働こうとしていたことも、アイナたちはすでに掴ん でいた。

「私が殺した。私がディーノを殺したのよ。娘は人殺しの子どもとして生きていかないといけない」

 未だ見つかっていないディーノ殺しの犯人が自分だというレイチェルの告白に、最早、アイナは驚かなかった。
「あなたはディーノに誘拐され、精神的にも肉体的にも虐待されていたわ。正当防衛よ。それに、ナタリーはディーノの娘じゃない」
 3週間前、ナタリーが交通事故にあって、血液検査をしたときに、ディーノはナタリーが自分の娘ではないことを知ったのだろう。ナタリ ーのDNAはディーノのものと親子関係が認められなかった。ナタリーは殺されたレイチェルの婚約者との間の子どもだったのだ。
 怒り狂ったディーノはナタリーを殺そうとした。
 だから、レイチェルはディーノを殺した。
「あの男を殺した瞬間に、私は”お姫様”(被害者)じゃなくなった。”魔女”(人殺し)になったのよ」
「いいえ。確かにあなたはもう”お姫様”じゃない。だって”お姫様”はあそこにいるから」
 レイチェルに告げてから、アイナは無線機のマイクに話しかける。
「ハートのAからハートの2へ。”お姫様”を連れてきて」
 向かいの通りに止めてあった車が開き、中からフレデリックと、彼に抱かれたナタリーが現れた。レイチェルは立ち上がり、駆け寄ってナ タリーを抱きしめる。
「あなたは黒い闇のスペードのQ(マフィアの女ボス)じゃない。ずっと、温かい赤い血の通う、ハートのQ(お母さん)だったのよ」
 その言葉に、レイチェルの目から嘘ではない涙が流れ落ちた。
 落ち着いてから、レイチェルはナタリーをフレデリックに預け、静かに語る。
「両親は家名に泥を塗った私を許さないわ」
 捜索願いを出したのは心配だからではなく、始末するためだと懐疑的なレイチェルに、
「大丈夫。あなたたちは警察で保護するわ。その代わり、証人として発言してくれるわよね?」
 交換条件を持ち出したアイナに、レイチェルは少し迷って、それから小さくうなづいた。

 部下の車に乗せられて警察署に向かう二人を見送りながら、フレデリックがアイナに問いかける。
「それで、学芸会は?今日じゃないのか?」
「フローラには仕事だって伝えてあるわ」
 仕事だから仕方がないと娘も納得しているはずだった。
「大丈夫、まだ間に合う。行こう」
 それでも、フレデリックは譲らない。
「でも、仕事中……」
「仕事は終わっただろう?」
 ユーモアたっぷりのフレデリックの笑みに負けて、アイナは彼の車に乗った。
 フローラは上手に痛むふりができるだろうかなどと、考えながら。


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