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G12  星降る夜と僕ら

「お嬢様! お嬢様! どちらにいらっしゃいますか?」
 響く声に、リオルは眉をしかめて顔を上げた。
 手元では、小さなランタンが仄かな明かりを放っている。ほとんど燃えつきかけていた炎を消すと、申し訳程度の明かり取り窓しかない屋 根裏部屋はひどく薄暗くなった。
 リオルはランタンに布を被せてから重い腰をあげた。
 階下につながる引き戸を開け、引っ張りあげていた梯子階段を下ろすと、女中頭が駆け寄ってくるのが見えた。
「まあ、お嬢様、そんなところに!」
「マチルダ、何か用?」
「何か用、ではございません。先ほどから皆でお探ししておりましたのですよ!」
 天井から顔をつきだした形の少女に、マチルダが眉をつり上げた。
 リオルはため息をついて、梯子階段を降り始める。支えにと差し出された手を無視して数段を飛び降りれば、女中頭は大げさに悲鳴を上げ た。
「お嬢様、危ないまねはおよしになってください!
「うるさいわよ、マチルダ。これくらいで怪我なんてするものですか。それより、何か用なのでしょう?」
「ええ、お嬢様。今宵のパーティのお衣装をお選びいただきたいと思いまして。お庭でのパーティですから、少し厚手の方がよろしいでしょ うか?」
 マチルダの叱責を片手で払ったリオルは、続いた言葉にあからさまに不機嫌な顔をした。
「私は行かない。前にもそういったわよね?」
 怒りのこもった視線を向けられて、マチルダはうろたえたように口元を覆った。
「ですが、お嬢様」
「叔父様にも叔母様にもお伝えしてあります。月蝕観賞でもパーティでも好きにしたらいいけど、私は行きません。あの二人に何か言われて るなら、もう一度はっきり伝えておいて」
 リオルの言葉は厳しく、有無を言わせぬものだった。
「私は部屋で静かに過ごします。さあ、そう伝えてきなさい」
 マチルダは、続けるはずだった言葉を飲み込んで、頭を下げた。
 自室の扉が閉まるのを確認して、リオルは息を吐く。知らず高ぶった気を落ち着けるように、二度、三度。 
 女中たちとの不毛なやりとりは、今に始まったことではなかった。
 彼女の両親は、彼女がまだ幼い頃に流行病にかかって病死した。
 近隣では大地主の部類に入る財産と、残された一人娘のリオルの後見人となったのは、父の弟夫婦だった。
 両親が相次いで亡くなるまでほとんどその存在を知らなかった叔父夫妻と、リオルは家族になりきれなかった。
 彼女が拒否したというよりは、屋敷に引き移ってきた叔父夫妻にその気がなかったのが主な要因だ。
 彼らの目当ては莫大な財産であり、その一切を相続したリオルの後見人となることは、財産を自由に使うための面倒奈手続きのひとつにし かすぎなかったのだろう。
 だから彼女は、女中たちと、雇われた家庭教師とに育てられたようなものだった。叔父夫婦からの愛情を感じたこともないし、逆に彼らに 親愛を抱いたこともない。
 叔父夫婦がほとんど存在を無視してくれていたのは、彼女にとっていっそ好都合なほどだった。
 けれど、その関係が最近崩れ始めている。
 リオルはもうすぐ成人に達する。そうなれば、法律で制限されていた両親の遺産も、すべてリオルの名義となる。叔父夫婦の後見はもう必 要なくなるのだ。
 その事実は、彼女自身よりもむしろ叔父夫婦にとって脅威であるらしい。後見人という名目を失えばこの屋敷の主面もできないと今更なが らに思い至ったのだとリオルは呆れ半分に推測している。
 その現状をどうにかするための手段が姪のご機嫌とりなのだとしたら、もうほとんど手遅れだ。
 リオルは、窓際に歩み寄って中庭を見下ろした。
 広い中庭には、丸いテーブルとイスとがいくつも持ち出され、きれいに並べられている。
 十年に一度と言われる月蝕を眺めるための宴の準備だ。
 リオルは、その慌ただしい光景を見下ろして、肩をすくめた。
 宴に参加するよう叔母から申し入れがあったのは、一月ほど前だろうか。マチルダにも言ったように、彼女はその依頼を即座に断った。宴 に呼ばれるのは叔父夫婦と交友のある人間ばかりだし、その席が内々のお見合いに発展することは目に見えていたからだ。
 叔父夫婦の思惑通りに動く小娘でいるつもりは、彼女にはない。
 リオルは窓辺を離れて、下ろしたままだった梯子階段二手をかけた。そのまま、慣れた足取りで階段を上る。
 明かり取りの窓の下には、先ほど隠したランタンと、飾り気のない大きな鞄が一つ置いてある。
 リオルはランタンを取り上げた。風防を開け、燃料皿に小さな丸薬を一つ落とし込み、火をつける。
 ポッと音を立てて立ち上がった炎は、鮮やかな紫色だった。
 不思議な色に燃える燃料丸薬は、十年前にもらったものだった。
 叔父夫婦とうまくいかず家を飛び出したリオルが出会った、不思議な少年からもらったものだった。
 少年は、魔法使いの卵だといった。
 丸薬は、十年たった今でも変わらず、不思議な紫色の炎を作り出している。
 燃える炎を見て、リオルはほっと息をついた。


 太陽は、西の草原の果てに沈みはじめた。東の空からは、丸い月がゆっくりと昇り始めている。
 その満月が欠け始めるのが、真夜中過ぎ。十年に一度の皆既月蝕だ。
 今日は、ラクシュにとって待ちに待った日だった。魔法使いは月蝕の夜に旅立つという古い習わしの通り、一通りの修行を修めた若い魔法 使いたちが、それぞれ一人立ちする日なのだ。
 ラクシュも、今宵旅立つことを許された一人だった。ただ、一人前の魔法使いとして祝福されての旅立ちではなく、どちらかといえば放逐 に近い。
 なぜなら、彼は落ちこぼれだったからだ。いっそ力なんてなければよかったのにと思ったことは、もう数え切れない。
 魔法の力をもって生まれた子供は、組織の手によって育てられる。それが両親の同意の元か否かに関わらず、赤子のうちに預けられ、もし くは連れされて集められる。
 魔法が、一握りの人間にだけ与えられた特殊な力だからだ。
 けれど、集められた子供たちのすべてが優秀な魔法使いに育つ訳ではない。
 もって生まれた力はそれぞれ差があり、その差は組織の中で歴然とした優劣につながる。
 能力の高い子供は優遇され、ただ力のかけらを宿しただけの子供は、ほとんどおとしめられるだけのために飼われたただの駒だ。
 そしてラクシュは、後者に属していた。
 ほとんどと言っていいほど魔法は使えない。唯一使いこなせるようになったのは、薬の調合などに関わる補助的な魔法だけだ。それがまっ たくといっていいほど評価されないものなのは、子供の頃から知っていた。
 けれど、時はきた。
 どんなに優秀でも、逆に劣等でも、旅立ちと定められた日は同じだ。今日を過ぎれば、一人の力で生きていかなければならない。
 ラクシュは、貧相な荷袋の口を縛りながら小さく口笛を吹いた。小さすぎて曲らしい曲にもならないが、昔教えてもらった子守歌のメロデ ィだ。
「うるさいぞ!」
 とたん、叱責が飛んでくる。ラクシュは形ばかり頭を下げた。 
 もしかしたら、浮かれているのかもしれない。
 ラクシュはそう思った。
 この牢獄と変わらない生活が終わるということに、心が弾んでいるのかもしれない。
 なにしろ、やっと落ちこぼれだと嘲笑されることもなくなるのだから。できもしないことをできないからと、頭を下げてまわることもない 。
 それが嬉しくないはずがなかった。
 ラクシュは、遠い空を見上げた。
 昇り始めた月は、まだ低い。


 庭に集まった人々のざわめきは、風に乗ってリオルの部屋にまで届いていた。
 女中たちは料理や酒の支度に走り回り、自室に籠もるリオルにまで気を配る余裕はない。
 リオルは、屋根裏から持ち出した鞄とランタンを手に取った。
 なにもかも捨てて逃げ出す人間の荷物は、少なくていい。
 廊下には、予想通り人影はなかった。そのまま階段を駆け降り、中庭から一番遠い裏口から、誰にも見咎められず外へ出る。
 裏庭から、薪小屋の脇を抜けて敷地の外へ。脱出はひどくあっけないものだった。
 リオルは、小高い丘を目指して走った。あの少年との待ち合わせの場所。
 けれど、息せききって駆け上った丘の上には、誰の姿もなかった。目を凝らしても耳を澄ましても、彼女以外の気配はない。
 リオルは鞄を放りだした。放り出して、中から丸薬燃料の袋を取り出した。ランタンを掲げ、燃料皿に丸薬を落とし込む指は震えている。 マッチを何本も無駄にして、ようやく丸薬に火がついた。
 ポッと音を立てて紫色の炎が点る。
 紫色の炎は、あの少年との再会の合図だ。 
 リオルはそれを、高く掲げた。私はここにいる、と示すために。


 月は昇りきった。その端を、陰が少しずつ喰いはじめる。
 陰り始める月光の元、魔法使いの卵たちが、それぞれ思うままに歩き出す。
 けれどラクシュは、その旅立ちの流れから一歩離れて立っていた。
 落ちこぼれの劣等生には、この先の仕事のあてなどあるはずもない。逆に言えば、今焦って飛び出していく必要はないのだ。
 気づけば丘の上に残っているのは、もうラクシュひとりだった。
 月は細い輪郭だけを残して、完全に姿を消した。
 強い光が失せ、月光に隠れていた無数の星たちが夜空いっぱいに輝き出す。
 ふと、その光が地上に落ちたように、何かが視界の端で瞬いた。ラクシュはそちらに顔を向け、息を呑んだ。
 黒々とした地上で、紫色の光が小さく揺らめいている。
 彼がそれを、見忘れるはずがなかった。
 あれは、ラクシュが作った丸薬が燃える光だ。
 あれを自分以外の誰かに渡したのは十年前に一度だけ。
 丘の上で出会った少女。居場所がないと泣いていた少女。彼女は孤独を共有できる、ただ一人の友達になった
 子供の頃の他愛のない現実逃避。秘密の共有と、傷のなめあい。
 それはいつしか、二人で旅に出る夢のような計画に変わっていた。
 待ち合わせは、十年後の月蝕の夜。二人が出会った丘の上。
 再会の合図は、ラクシュの作った丸薬の光と、少女が教えてくれた子守歌のメロディ。
「まさか――」
 呟いた声は震えていた。
 だって、信じられない。
 あれは、ただの子供の約束だった。かなうはずがないとわかりきった、夢物語のはずだった。
 けれど、何度瞬いても、紫色の光は消えなかった。
 ラクシュは口笛を吹こうと息を吸い、そこで戸惑った。
 彼女が覚えていてくれたのは、嬉しかった。誰もが子供だましだと鼻で笑った燃料丸薬を、すごいとほめてくれたのは、あの少女だけだっ た。
 あの時の笑顔が、どれだけ支えになっただろう。
 けれど、今あの少女と再会することは、本当にいいことだろうか。
 彼女の家は、裕福だ。家族関係が複雑だとしても、食べることにも寝ることにも困らない。
 でも、ラクシュは違う。明日の寝床を考えながら生きていかなければならないのだ。
 再会なんてしない方が、彼女にとって幸せなはずだ。
 ラクシュは首を振った。
 彼が合図の口笛を吹かなければ、彼女はここへはたどり着けない。
 約束破りをきっと怒るだろう。けれど、家に戻ってベッドに潜り込んでしまえば、もうそれが彼女の日常だ。
 せめて月が再び満ちるまで。それだけの間あの光を眺めたら、そっと旅立とう。
 けれど、ラクシュが見つめる紫の光は、一つの場所に落ち着いてはいなかった。きっと彼女がラクシュを探しているせいだ。一向に合図が 聞こえないのに苛立って、不安になって、懸命にラクシュを探しているのだ。
 ラクシュは、たまらなくなった。
 駆け寄りたいのをこらえて、口笛を吹く。
 子守歌のメロディは、少し震えながら、風に乗って流れていった。
 ふらふらと揺れていた光が、一直線にこちらに向かってくる。
 ラクシュは、近づく光を見つめていた。
 心臓は、痛いほどに早鐘をうち始めている。手足は緊張に強張って、背中には冷たい汗が流れ始めた。
 それなのに、口元にはこらえきれずに笑みが浮かんだ。
「ラクシュ!」
 近づいた光は、その後ろに少女の姿を浮かび上がらせた。
 十年前の面影を残した少女。少女はラクシュの姿を認めると、ランタンも鞄も放り出して駆け寄ってきた。
 そのまま、勢いを殺しもせずに飛びついてくる。
「うわっ!」
 体当たりに等しい突進を支えきれずに、ラクシュはもろともに倒れ込んだ。背中を強打しなかったのは、丘の斜面に生えた青草のおかげだ 。
「よかった! ちゃんと会えた! 口笛が聞こえないんだもの。すごく不安だったのよ、私。忘れられたんじゃないかって」
 ラクシュの上で身を起こした少女が、勢い込んで言う。まさにそのつもりだったラクシュは、曖昧な笑みを浮かべた。
「僕は、君の方が忘れてると思ってたよ」
「そんなはずないじゃない!」
 憤慨したリオルが、上から睨みつけてくる。その顔が一転して不安そうに歪んだ。
「ねえ、もしかして魔法が使えるようになったの?」
 それを不安そうに尋ねられることがおかしくて、ラクシュは強ばっていた力を抜いた。
「まさか。落ちこぼれだって言ってたろ。これからやっと、魔法なんて忘れて生きていける」
「よかった!」
 リオルは安心したように笑った。
「ごめんなさい。よかったなんていったらひどいよね。でもよかった。ラクシュだけが遠いとこにいっちゃったんじゃないかって、ずっと心 配だったの」
「それはこっちの台詞だよ。君こそホントにここにいていいの?」
「帰れなんて言ったら、怒るからね!」
 リオルが眉をつり上げた。虚勢だとわかる、泣きそうな表情だ。
「お願いだから、帰れなんて言わないでね? 私、ラクシュとの約束があったから今日まで我慢してこれたんだもの。一緒に行ってくれるよ ね?」
「うん、言わない」
 ラクシュは頷いた。目の前の境遇から逃げだすためには、二人が揃わなければならないのだ。そうでなくては、子供の頃に交わした約束は 、叶わない。
「言わないよ。一緒に行こう」
 リオルは、満面の笑みを浮かべてラクシュに抱きついた。
 ラクシュは、リオルを抱きかかえたまま体を起こす。そっと立たせたリオルに、改めて右手を差し出した。
 リオルは、飛びつくようにそれを握った。
「どこに行きたい?」
「どこでもいいわ。でも、知らない場所がいい。それに、ここからうんと遠い場所がいいわ。それなら、たどり着く前にいっぱい話ができる よね? 私、話したいことがたくさんあるの」
「僕もだ」
 ラクシュは頷いた。
 どんなに辛かったことも、彼女にだけは聞いて欲しいのだ。
「うんと遠くへ行こうか」
「うん。遠くへ」

 手を握って歩きだした二人の頭上で、満天の星空の中を流れ星が一つ、尾を引いて流れていった。


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