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G10  闇夜に輝く七色の光

「紗己ちゃん、今帰り?」
 背後から声をかけられ、はたと振り返る。
(この声は確か……)
「ゆっ……結花子さん!?」
 にこにこと笑顔を振りまきながら薄く茶色に染めた髪が太陽に輝いている。
 ここは駅から少し離れてるし……。それに――とあたしの瞳の奥が曇る。
「だ、大丈夫ですか、結花子さん? あの、か、体……」
「平気よまだ。それにね最近調子いいの。少しでも体力つけておこうと思って」
 少し膨らんだ腹部をさすりながら結花子さんは呟く。結花子さんの腹部には大切な胎児が宿ってもう臨月だって。そのわりには、つわりは少ないらしい。結花子さんはさらに言葉を続ける。
「……元気な赤ちゃん産みたいしね」
 結花子さんは茶目っ気たっぷりな流し目を送る。あたしはくすくすと小さく笑う。
「暑いのにホント元気ですね、結花子さんは」
「紗己ちゃんもまだあたしより若いんだからそんなしょげてないの! もっと胸張らなきゃ、ね?」
 どん、と結花子さんは喋りながらあたしの腰を叩く。ちょっと痛かったけど「痛くない」手だ。
「…………はいっ」
 知らず、あたしは笑みが溢れる。
 結花子さんは楽しい人だ。こーんな楽しい人に会えて本当によかった。20数年間生きてきて今までイイコトなんてなーんにもなかったけど、今は嬉しいし、今の時間は好きだ。
――結花子さんは、会ってまだ短いけどあたしの人生の先輩だった。

  *  *

 あたしが結花子さんと出会ったのはちょうど今から6ヶ月前。
 あたしは、26歳の専門学校生――まあ、大学で就職決まらずにこれからどうしようーかって悩んでた大学生活4年目の22歳の秋に考え抜いた答えなんだけどね。
 何もかもが上手く行かない時に、ふと立ち寄ったコンビニで見つけた「専門学校」の文字を見て――これだ! って思ってね。
 あの頃のあたしは自信がなかったんだよね。だから専門学校で改めて自分を見つめ直して自信をつけたかったの。
 絵を描くのが好きで大学では芸術を専攻したのだけど、他の子たちがみんな上手すぎて自分は才能が無いような感覚に陥った。ものすごい劣等感にね。小さい頃から絵を描くことに没頭していたあたしにとってそれは、「あたしの中のもの」すべて喪失してしまった――。
 真っ暗に染まっている――あたしの心の色が。
 それでもあたしは頑張りたかった――あたし自身の色が変われるように。


 そんな灰色な迷いの中に映ったものは、専門学校1年目の2月末。
「……うぅっ」
 いつものように電車から降りた駅のホームの先で誰かがしゃがみ込んでいるのが見える。
 その人は改札口に向かう階段の途中にいる。駅員さんには気づかれにくいし、ほとんどの乗客はさっさと歩いて改札口に向かって行く時間なのであたし以外にはちょうど人がいない。
 あたししか気づいた人がいない――少し躊躇したが、思い切って声をかけてみる。
「あの、大丈夫ですか?」
 その人はあたしの存在に気づくと一瞬だけ照れくさそうに俯く。が、すぐに顔を上げてあたしの方を見る。その顔はまだ苦しそうだ。
「……ありがと。でも大丈夫よ」
 自身を奮い立たせるように立ち上がる。しかし、よろけた弾みで手に持っていた食料が入っている包みがどすっと大きな音を立てて落ちる。慌ててあたしが拾う。
「あの、家…どこですか? そこまでお持ちしますっ」
 あたしはいても立ってもいられずその言葉が口をついて出る。
 一瞬だけその場に奇妙な沈黙が落ちるが、数刻後に彼女の豪快な笑いが響く。


 その人は猿渡結花子さんと言って、2年前に結婚してこの辺りに引っ越してきたという。
 結花子さんは先天性の視覚障害で、不遇な幼少時代を過ごしたらしい。養護学校に通えたが、近所では障害児への配慮が行き届かなくて、いわれのない差別を受けたらしい。それでも彼女は恐れなかった。
「……結花子さん、お強いんですね」
 ただでさえ自信のないあたしは、自分が障害だったらもっと世界から閉じていたかもしれない――そう思うからこその言葉がすんなりと出る。
 あたしの言葉に結花子さんはううん、と首を振る。
「たぶん、わたしひとりじゃなかったから、かな?」
「……?」
「わたしひとりで生きるのは難しかったと思うの。なーんにも見えない世界なのよ? ずっと赤ちゃんでいるようなものじゃない? でもあたしにはいろいろな世界を教えてくれる家族がいたから――父さんと母さん、それに10歳下の弟が」
「弟がね、生まれた時いろいろ思ったのよ――わたしも小学3年生で、弟の顔も肌の色もわからないこと……いくらさわっても弟の色はわからないんだって……」
 結花子さんの顔に悲痛な表情が出る。あたしは黙って聞いていた。
「でもね、母さんが言ってくれたの」
『結花子、あなたには弟の姿は見えないかもしれないわ。でも母さんから見るとこの子は結花子と同じ姿――色を持っているわよ。この子が大きくなった時あなたに世界を教えてくれる日がくるわ。だから、この子の手だけはいつも握ってやって、ね?』
「……わたしはずっと弟の手を握っていたの。だから怖くなかったの」
 結花子さんの母親は弟が生まれた後から病気がちで病院通いが続いたこともあり、結花子さんが弟の手を繋いで世話をしながら、弟の手の温かさを――それから手の中を流れる血の色が同じだと確信できたのだと。
 あたしはそれを聞いて愕然とした。そして悲しかった。
 目が見えるということが当たり前すぎて他人の目――色――を気にしすぎて他人と関わることを怖れ、逃げていたのだ。反対に、結花子さんは逃げずに他人が見えない分、それをバネにして自分から「その人の色」を確認し積極的に働きかけている――。

 駅から少し離れたアパートの前まで着くと、結花子さんはあたしの方に向き直ってあたしの手を握る。結花子さんの手は温かく、七色の手だとあたしは思った。
「ありがと。あなたのおかげで助かっちゃった。お名前は?」
「はい……た、珠村紗己子です」
「紗己ちゃんね。あ、ケータイ番号とか教えてもらってもいいかしら?」
 あたしが頷くと、ぴぴっと赤外線で送り合う。
――それが、あたしと結花子さんの出会いなの。


 その日からあたしは結花子さんと電話やメールをしたり、暇ができるたび買い物したり、悩みを打ち明けた。結花子さんも最初こそ自分が視覚障害であることをコンプレックスに思っていたようだ。
 でもあたしの心の中に黒に近い灰色のような心を持っていることがわかると、自分の障害を放り出して自分のことであるかのようにあたしのそれを取り除こうとしてくれた。
 その気持ちは嬉しかったし、それに応えるようにした――。

  *  *  

「ちょっとそこの人!」
 少し大きい都市の駅で呼び止められるなんて経験、そうそうないと思う。
 だからたぶん他の人を呼んでいるのだと思い、最初は気にしなかった。
 そのままあたしは、赤い四角が看板の全国チェーンの洋服ショップの方へと向かおうと足を進める。
「ちょっと無視しないでよ! 白い紙袋、もらっちゃうよー?」
 また聞こえる……ムシムシ、と思いながら、はたとあることに気づく。
(……あれ? 結花子さんへのプレゼントの入った白い紙袋……どこ?)
 右手に財布の入ったトートバッグはしっかり持っていたが、左手で抱えていた白い紙袋がなくなっていたことに気づく。ということは……。
 歩を進める白いスニーカーの動きを止めると、叫んでいた人が追いついてくる。
「あんただよ、あんた。ったく……俺が気づかなかったら誰かに持ってかれたのかもよ?」
 ぶつぶつと呟いて現れた人物は、初めて会う人で――顔一つ分長身の男の人で――最近の流行な髪型で切り揃えている。少し偉そうな口調だが、あたしより年上にはみえないな、と思った。まぁ、あたしは実年齢より若く見えることが多いから仕方ないのかなぁ。
「……あ、ありがとうございます、それでは」
 白い紙袋をがさっと取り返すと、お礼だけ言ってその場を後にする。
 あたしが後ろ髪ひかれる思いでちらっとだけ垣間見ると、届けてくれた人は呆気にとられてこちらを見ている。
 恥ずかしかったし、結花子さんとの約束の時間に遅れちゃうからね。ごめんなさーい、と心の中で謝った。

  *  * 

 さらにひと月ほど経ったある日のこと。
 あたしはたまたま学校が休みで、ブログの更新をしているそんな時に――彼女から電話がかかってきた。
「……もしもし?」
『紗己ちゃん? ごめんね……学校かしら?』
 電話の主は結花子さん。彼女の声は思ったほど落ち着いていたがすこし焦りがあった。
「いえ、今日は学校休みで、家にいます。結花子さんこそどうかしました?」
『……実は玄関先でコケちゃって、その時にお腹の痛みが……ね。上手く立てないの。……手伝ってもらえる?……』
「えっ? あの、それって陣痛じゃあ……もしもし!?」
 受話器から聞こえる音がツーツーと鳴り響く。


 あたしはものすごく不安になって、車を飛ばした。
 結花子さんのアパートは車だと新しくできた道を使えば15分で行くことができる。
 アパートの前まで行くと、結花子さんは玄関前でしゃがみ込んでいる。
「……結花子さん!?」
「あ……紗己ちゃん? ごめ……ごめんね。買い物行こうとしたらこれなんだもの……段差があることは知ってたのに……体が痛くて……ここは……」
 結花子さんはいつもの快活さを保とうと笑顔でふるまおうとしていたが、あたしにはかえって痛ましくみえた。結花子さんはここどこ……と言わんばかりにしきりに手を動かして場所の特定をつかもうとしている。
「結花子さん、陣痛かもしれない。あたしに捕まって。病院まで連れてく」
「えっ! そんな悪いわ……大丈夫よ、ごめんね紗己ちゃん、すべっただけだから。お医者様に言われたもの。あと一週間は大丈夫だって……」
「妊婦はひとりだけの体じゃないのよ!? 結花子さんにはもうひとつの命が宿ってるの! まだ人間じゃないけど……赤ちゃんを殺してもいいの? 結花子さん、いつもあたしを助けてくれてありがとう。でも今回だけはあたしを信じて。お願い……頼って」
 知らず、あたしの瞳の奥から涙が溢れ出る。今までは自分のわがままだけに泣いていたけど、初めて誰かの――結花子さんのために流した涙だ。
 これには結花子さんも虚をつかれたようでもちろん、目の見えない結花子さんはあたしが涙を出しているのはわからないと思うが――手だ。抱える手を伝ってあたしの表情が結花子さんには伝わっているような気がする。
「行くわ。紗己ちゃん。わたしを水谷病院へ……お願い」

  *  *  

 その日の夕方、ロビーで待っていると、病院の看護士から結花子さんの家族の方が来た――と連絡があった。あたしは携帯電話の時計を見た――まだ16時30分だ。結花子さんのご主人は18時にならないと帰ってこないらしいから誰だろう、と漠然と思った。結花子さんの母親は入院中で父親も仕事中だと聞いている。
 足音が近づいて現れたのはものすごく若そうな青年だった。20代前半くらいで、普通の流行の服装に身を包んだ青年だ。そういえば、結花子さんには10歳下の弟がいたかな。
「猿渡結花子さんの弟さんですか?」
 あたしの言葉に青年は微かに頷く。
「姉……が最近お世話になっているというお友達の方、ですね。病院まで連れてってもらい本当に何から何まで感謝してます」
 丁寧にお礼を言われて、あたしは「いえ…」と言いかけながら顔をあげると、その人――結花子さんの弟――の顔を見てびっくりする。
「あぁ――っ! あ、あなた……あの時のっ駅のっ」
 間違いない、駅で会った結花子さんのプレゼント届けてくれた人だ。
 あたしは、素っ頓狂な叫び声とともに人差し指をびしっと目の前の青年の鼻先に立てる。指差された青年は変な顔をする。
「……は? あ、お……お前、あの時の紙袋女っ!」
 あたしは眉を八の字に曲げながら全身をがたがたと震わせる。 
「もー信じられないっ! こんな偶然ってある!? あなたが結花子さんの……?」
「そりゃーこっちの発言だ! 姉貴が恩義に感じてるのが……お前が?」
「ていうかあなた何歳よ? この前の駅でも思ったけど……その偉そうな口調、何!?」
「23歳だよ!」
「ほらーやっぱ年下じゃないっ! 年上にはもっと謙虚に……」
「……えっ?」
 あたしの言葉に、結花子さんの弟はものすごく変な顔であたしの方を見た。むしろあたしが「ん?」と次の言葉を躊躇するほどだった。あたし、なにか変なこと言ったかしら?
「お前……20歳くらいじゃないのか?」
「あ、あたしはこれでも26よっ」
「そ、そうか……。それは、すまなかったな」
 結花子さんの弟は途端に自信なさそうに応える。あたしは思わずむきになって実年齢を言ってしまったが、怒るほどでもなかったか――うん、とひとり頷く。
「まあ、いいわよ別に。あなた名前は? あたしは珠村紗己子。結花子さんには人生の先輩でいろいろ教えてもらってるの」
「俺は……佐多啓太。今年の3月に大学を卒業して今は……保育士だ。大学を卒業するまでは姉の補佐をしていたのだが、卒業してからは難しくて……そんな中でおま……あなたみたいなのがいてくれて助かってる。ありがとう」
 不思議と心の中に染み入る笑顔で啓太は応える。ありがとう、という言葉にあたしは心の中で澱んでいたものがゆっくりと溶け出していく気がした。


 分娩室の扉が静かに開く。
 赤ちゃんが無事生まれた、と助産婦さんの口から紡がれたとき不思議な感覚に包まれていく。あたしと啓太は思わず顔を見合わせるが、すぐに口の端が上がって二人同時に静かに笑い合う。
 結花子さんへの共通した想いがあるだけで心がこんなにもかわれるのだ。今まで黒く染まっていた灰色が、薄明かりの虹色に変わるように――ね。

  *  *  

「紗己ちゃんのおかげよ、ありがとう」
 出産を終えた結花子さんがケースごしの赤ちゃんを優しく見つめながらあたしの方に振り向いて呟く。あたしは何を言えばよいかわからずただ俯く。
 そばで見守る啓太もぶっきらぼうに呟く。
「おまえのおかげだよ…ありがとな」


 病院の建物に背を向けると、外はもう暗闇にどっぷり浸かっていた。風が夜の木々の梢をかき鳴らす。
 でも、あたしの視界は涙でいっぱいだった。
「……あたしでも役に立つんだ……よかったよ……」
 なんでもない出来事なのにぐすぐすと涙が溢れ出る――どうしようもなく。昔の自分が自分のわがままで出る涙のように冷たくない、素直で暖かい涙だ。
 灰色から白に世界の色が変わるように、何かが変われる――素直になれる気がした。
 携帯電話のメールの着信の色が七色に光る――『明日、姉貴の家にきてほしい』と届いていた。


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