一覧へもどる

G09  君ありて幸福

「もしも、世界から色が無くなったらどうする?」
「その時は注文する」
 画家の父に問われてアンナは笑顔で答えた。
 父が自宅とは別に建てたそのアトリエにはたくさんのイーゼルがあり、その上にも壁にも水彩、油彩を問わず絵が掛けられ、天井を見上げればカラフルな硝子の照明がぶら下がっていた。全ての色はアンナにとってあまりに身近なもので、無くなるなど到底考えられないことだった。
 だから、色がその場に無いのなら、有るところから取り寄せればいいと思ったのだ。

 そして、ある日あっけなく世界は滅んだ。



 あの時、注文する、と父に答えたことを後悔したことは一度もない。ただ、購入する問屋がどこにもないことには困った。世界の滅亡は色を失うという形で現れた。いまはすべてのものが白と黒の陰影でのみ存在を主張している。
 だから彼女は決心した。全ての色が失われた世界で、自分こそが色を取り戻す。
 はじめは賛同者もいたし、協力してくれる者もいた。しかし長い時の中、ひとり、またひとりと諦めてアンナの元を去っていった。『色』を知っている者は年々減り、モノクロの世界しか知らない若者が増えた。
 それでもアンナは諦めない。
 自分がまだ行ったことのない地域はいくらでもあり、見ていないもの、知らないものはたくさんある。黒一色の果物だって、中を切って見るまでわからない。もしかしたら、そこには赤や緑の果肉が、果汁が詰まっているかもしれないではないか。
 手馴れた様子でくるりと蜜柑を剥くと、皮とは明度の違う黒色が現れた。つう、っと手の甲に向けて流れる白っぽい汁に今回もハズレを引いてしまったとアンナが溜息を吐きだして視線を動かす。
 アンナが自分の父から譲り受けたアトリエには、父が生きていた頃と同じく無数に絵が掛かっている。しかし、その中の景色は全て白と黒に変わっていた。風景画も静物画も人物画も何もかもだ。
「これは何色、おばあちゃん?」
「これはね、黒だよ」
 嬉々として尋ねた孫のアルノーに優しく微笑んで、アンナは手の中の果物を見た。
 今まで幾度も引いたハズレ籤だ。慣れてはいるが、回数を重ねた今でもやはり辛い。興味しんしんに祖母の手元を覗き込んでいるアルノーを見て、アンナは「何でもいいから、そこらへんの紙を一枚もっておいで」と言った。
 自分の子供たちですら、アンナの色探しを、年齢を主な理由に諦めるように諌めてくる。
 そのなかで、幼い孫のアルノーだけはアンナを応援してくれる。そんなアルノーに、たまには落胆するようなことだけではなく、面白いものを見せてあげようと思ったのだ。
 素直に紙を持ってきたアルノーからその紙を受け取り、代わりに手の中にあった蜜柑の実を食べてしまうよう渡して勧める。
 蜜柑を食べているアルノーがアンナの手元を注視する中で、彼女は蜜柑の皮を紙にこすりつけた。
「これで出来上がり」
「なにをしたの?」
 蜜柑を口いっぱいに頬張ったアルノーが祖母を見上げるとアンナはにやりと笑って、ライターの火で紙を炙り始めた。
 真っ白だった紙にじんわりと薄く黒い文字が浮かび上がる。魔法のように自分の名前が紙に現れたのを見て、アルノーは歓声をあげた。
「蜜柑を手に入れたところで流行っていた遊びさ」
「ぼくもやってもいい?」
「いいけど、火は危ないから母さんの居るところでやりな」
 残った蜜柑をアルノーに手渡し、より強く文字を浮かび上がらせるためには直接皮を擦りつけるより、一度絞ってその汁を使ったほうがいいと教えて、アンナは楽しそうに駆け出す孫を見送った。



「ねえ、『赤』ってどんな色? 『青』は? 『緑』は?」
 少し大きくなった孫の言葉に、アンナは「そうだね」と言葉を挟んで記憶をまとめた。
 何も不思議なことではない。『赤』も『青』も『緑』も、『黄色』や『紫』だって、見たことのないアルノーにはわかるはずがない。色を知っている者は全て老人になってしまった。そして色の無い世界でこれがその色だと示してやることは出来ない。
 色が消えて、例えば信号機が使えなくなった。赤と緑は彩度が違うだけで明度は同じものだったからだ。
 それより困ったのは芸術家達だった。色で表現することが出来なくなって、父は画家を辞めた。失意に呑まれた父は、いまはアンナが使うアトリエから出てこないまま息絶えた。
 しかし、白と黒しかなくなった世界で、それでも人間は生きている。
 足元に咲いていた矢車菊を摘んで、アンナはアルノーに差し出した。
「この花の『青』はね、古くは宝石の最高級の誉め言葉として使われていた。いまは、どんな宝石だってただの石ころみたいな扱いだけどね、そのころ宝石ってのはただの硬い石じゃなくて、皆が喜ぶ石だったんだよ。この青を例えるなら、幸福、だろうね」
「幸福」
 花を手渡し、アンナは道を外れてとうもろこしの畑に入った。ぼきりと一本とうもろこしを折り取るとアルノーを振り返る。
「この黒は『緑』と呼ばれていた。表面は色が濃かったけれど、剥いていけば白く柔らかな色に変わる。この緑は、そうだね、生命力の表れ、とでも言おうか」
「生命力」
 繰り返す孫の言葉に頷きながら葉を剥いていくと黒かった葉は徐々に色を薄くしていき、最後には白っぽい実が現れた。それは重なる実が影を落とし、粒のひとつひとつまでくっきりと白い光に照らされる。
「この白は『黄色』。豊かな恵みを表す色さ」
 アルノーにとうもろこしを渡し「母さんに茹でてもらって食べるといい」と言うと、アルノーは顔を顰めながら受け取った。
「畑の人に怒られるよ」
「一本くらい、バレやしないさ」
悪ぶってみせたアンナの言葉にアルノーが苦笑して、とうもろこしと矢車菊を合わせて持つと空いた手を差し出した。
「だったら半分にして一緒に食べようよ。おばあちゃんと一緒に食べたい」



「ねえ、色が見つかったよ!」
 嬉しそうにアンナが暮らすアトリエにアルノーが駆け込んできた。
 アルノーに引きずられて、食事時でもないのに自宅に向かった。娘はどうしているのだろうかと少し考えたが、どうやら買い物かどこかに出かけているらしく顔を合わせなかった。
 こっちこっちと嬉しそうにアンナの手を引いて、アルノーは自分に与えられた部屋の扉の前で振り返る。
「ちゃんと見てね」
 じゃあんっ、と楽しげな言葉と共に、木製の黒い扉は開かれた。
「……ッ!」
「すごいでしょう、驚いた?」
 得意気にアルノーが笑う。アルノーの部屋の壁は一面、濃淡のついた黒で覆われていた。燃え上がるように天上に伸びる黒を指差し、次に凪いだ水面のような灰色を指差し、または揺れる黒を指差しながらアルノーが言う。
「この『赤』は薔薇だよ。『薔薇は情熱的』なんでしょう? この『青』は矢車菊。『幸せ』に見える? 上に塗ったのは蜜柑。『橙色』は『嬉しい』でしょ? こっちの下にあるのは……」
 楽しげに紡がれる説明を耳の中に入れながら、孫の描いた作品をアンナは呆然と見ていた。『色』ではない。アンナの言う『赤』も『青』も『橙色』もここには無い。
 だが、懐かしいものが目の前にあった。
 父の描いていた絵と同じ、『喜び』がそこにはあった。
 黒の濃淡が描いた絵には、まだ色が溢れていたころ、父が喜びをもって描いていた絵と同じものがあった。
「……れで、こっちに丸く塗ったのはとうもろこしの『緑』で……おばあちゃん?!」
 楽しげな説明が祖母を振り返って途切れる。驚いたアルノーの姿を見て、アンナは自分が泣いていることに気付いた。遅れて頬に手を伸ばすと、そこは確かに濡れている。

 ずっと、『色』を求めてきた。
 少し前、アルノーと分け合って食べたとうもろこしも本来の色ならもっと美味しく感じただろうと思っていたし、口にも出した。
 恋人が出来れば、その肌の温度を感じるたびに本当の肌の色が知りたいと思ったし、結婚して子供が生まれればその髪の色を知りたいと思った。他人も自分も全ての人が、判で押したような白い肌と黒い髪。それを見るたびに、この『白』は贋物だと憎み、この『黒』は本当はどんなにか素晴らしい色だったのだろうかといつも考えていた。
 遠く遙かな昔、まだ子供だった頃。世界から色が失われて消沈する父の姿を見たときから、ずっと。


 自分が父に『色』を、笑顔を取り戻してやると思っていたのだ。


 知っている色ではないけれど、これは本物だ。
 本物の、『喜び』だ。

「素晴らしいね、これは、とても美しい絵だね」
 何故祖母が涙を流しているのか全てはわからないまま、誉め言葉だけを受け取って、アルノーは照れくさそうに頭を掻いた。


一覧へもどる

inserted by FC2 system