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G07 HINAKO
「ねぇ、手を握ってよ」
そっと差し出した手を、彼は優しく包み込むように握り締める。その温もりを感じ取り、私はホッと息をつく。こうやって、私は毎晩のように彼を寝所の枕元に呼び寄せて手を握る。もしも眠っている間に彼がいなくなってしまったらどうしようなんて、埒も明かない不安に苛まれてしまうからだ。
時刻は深夜を回っている。眠らなければいけないのに全然眠気がやってこない。頭のどこからか眠いと大声で喚いている声が聞こえてくるけれど、そんな体の欲求とは対照的に私の体は激しく脈打っていてとても落ち着いて眠れるとは言えない状態だ。いつもそう、それまでは普通なのにいざ眠ろうとすると決まって目が冴えてしまう。不安で、怖くて、絞られるように痛む胸を押さえながら彼を呼ぶ。毎晩それの繰り返し。どうしてこんなに不安がるのか自分でも分からない。襲ってくる恐怖と戦いながら浅い眠りに落ち、朝に息苦しい眠りから解放されて目を開けて彼の姿を目にし……そしてようやく安心するのだ。――よかった、また会えた……と。
不安に苛まれる私の頭を、彼は軽く撫でる。大丈夫、と口を耳元に寄せてそっと囁く。
「私はずっとお傍におりますよ、お嬢様」
彼のこうした動作は凄く心地が良くて安心する。……でも、落ち着く心とは正反対に悲しくなる。何故悲しいのか分からない。溢れて止まることのない涙をそのままに、撫で付けてくれる手に自分の頬を摺り寄せる。もっと触って、私の身体に。貴方を私に感じさせて。
「……すき、すき、すき……私は、貴方のことを愛してるの」
狂おしいほど渦巻くこの熱い想いを、どうやったらこの人に伝えられるのかが分からない。気持ちが溢れているかのように涙がしとどと流れ落ちる。止められない、止めることなんてできない。私はこの人さえいれば、もう他には何もいらない、必要とも思えない。この人が欲しくて欲しくて堪らなく欲しくて必死に手を伸ばす。
泣きながら手を伸ばす私に包み込むような微笑みを浮かべた彼は、その手をそっと握って指先に優しいキスをする。
「私も、お嬢様のことをお慕いしております」
彼の唇が指先を滑り、手の甲を伝って手のひらから腕へと上がっていく。そして頬から額、それから反対の頬を滑って最後に唇へと向かう。
「……愛しています……ひなこ」
静かな夜の一時だけ、彼は私の名前を呼ぶ。
愛おしそうに、大切そうに。まるで自分だけの宝物をそっと人知れず愛でるように。
けれど、何故か私は素直に彼の言葉を受け止めることができない。彼の囁く愛の言葉を耳にする度に、私の目の前は音を立てずに真っ暗になる。心に深い色の染みが広がっていくのを感じながら、必死に蓋をする。
夜は人を感傷的にさせる、だからこんなにも惑うのだろう。愛する人に愛される、これ以上幸福なことなんてあるはずないのに、不安に思うなんて……悲しいと思う必要なんてないのに。朝になれば、こんな不安はきっと無くなる。
握った手を放すことができないまま、私は自分の意識が少しずつ遠のいていくのを感じる。最後まで彼の顔を見つめながら、私はそっと目を閉じた。
愛している。誰よりも、何よりも、私は貴方を想っている。
だからこそ、私は貴方にも同じだけの想いを返して欲しいと思っている。
……ねぇ、貴方は私のことを、本当に愛してくれているのかな?
◇ ◇ ◇
成(なる)はようやく眠りについた雛子の頭を優しく撫で付けながら、先ほど自分の発した言葉をもう一度呟くように囁く。
「愛しているよ、ひなこ」
“愛している”
その言葉に嘘はない。成は真実、この小さなお嬢様のことを心から慕っている。……彼女の魂を受け継いだ少女のことを。
成には昔、心から愛した女がいた。同じ時に同じ胎から生まれ落ちた彼の分身たる女。物心付く前から共にあり、片時も離れることはなかった。成は女と共にあることで満たされ、幸福の繭に包み込まれているかのような気持ちで日々を過ごしていた。
しかし、そんな幸せな日々はいつまでも続くことはなかった。
女は死んだ。
半身たる成を置いて、女は成の手の届かない場所へと行ってしまった。
成は狂ってしまいそうになるほどの絶望や孤独感と戦い続けながら女を捜した。いなくなってしまったことを認めたくなくて、二度と会うことができないことを信じたくなくて。何日、何ヶ月、何年……気が付けば二十年の時が経っていた。泣くことも叫ぶこともできなくなってしまい、それでも成は女を捜すことを止めようとはしなかった。そんなある日、成はようやく女を見つけた。
「見つけた……ずっと、会いたかった……日向子(ひなこ)」
女の魂を内に秘めた少女。彼女の名前は雛子(ひなこ)、奇しくも成の求め続けた女と同じ名前だった。
それからの成は雛子の付き人として傍にいるようになった。旧家の一粒種として大事にされていた雛子の傍に、流れ者の成がいられたのは偏に雛子本人が強く望んだからだった。まるで成が傍にいなければ耐えられない、というほどに。
雛子は成と共にあるようになってから、成の求めるがままに自らの容姿を変えていった。長かった艶やかな黒髪を短く切り落とし肩口で揃え、よく身に着けていた和服から洋服を着るようになっていった。……その様子はまるで、雛子から日向子へと変わっていくかのようだった。
「愛している。雛子……ひなこ……日向子。今度こそ、離さないから」
成の瞳には、もう日向子の姿しか映っていない。雛子ではなく、日向子しか……。
日向子の心の色はまるで、木々の間から差し込む木漏れ日を表したかのような薄いクリーム色だ。周りの人間を優しく照らしてくれるような、名前の通り日向の色の心を持っていた。そして雛子はそんな日向子の魂を受け継いでいる。日向子と同一の魂を持っているのだから、雛子もいずれ成長したら日向子のように明るく、暖かな心で成を照らしてくれるようになるだろう。
雛子が日向子へと戻る日を待ち望みながら、成は愛の囁きと共に少女の瞼に唇を落とす。
けれど、成はまだ知らなかった。
魂と心は似て非なるものであり、決して同一のものではないということを。
雛子の心に広がる色は、日向子の色とは対を為すものだということを……。
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