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G06  奏でる音色

 静寂の夜に寄せては返す波の子守唄。朝に囀る鳥たちの啼き声。時を刻めば時計台の鐘が高らかに響き渡り、港に船が入れば活気ある人々の声が飛び交う。
 その港町は常に音で溢れていた。
 海を越え異国からの訪問者たちは、この国の街のそこかしこで音が楽しげに響き渡るのを耳にするだろう。
 それはこの国が、音楽を愛する女神を崇め、その守護を受けているからか。
 この地に生まれついた者は誰しも音楽を愛し、自分の楽器を持っていた。
 美しき声を持つ者は喉を震わせ唄い、繊細な指先を持つ者は鍵盤を叩いて音を弾ませる。頑健な爪を持つ者は銀色の弦を爪弾いて空気を響かせ、薄い唇を持つ者は笛に息を吹き込み音色を奏でる。陽気な者は手を叩いて拍子をとった。
 誰しもが音楽を愛し、愛されていた。
 一部の者をのぞいては、そう思っていた。


 唇に紅をさした途端に表情が赤い色によって引き締まる。
 これだから女は化けると云われるのよね、とミアは自嘲気味に唇の端を引きつらせた。そばかすが薄く散った肌は白粉で隠されている。茶色の髪は後頭部の高い位置でまとめ小さな金色の鈴を幾つも取り付けた髪飾で留めていた。
 胸元が大きく開いた胴着に腰を細く締めつけたスカートはたっぷりと襞をとっていた。裾には人目を意識したレースをあしらっている。靴は爪先の尖った華奢な布靴。踊る際に脱げてしまわないよう足首をリボンで縛っていた。
 素顔のままなら凡庸な町娘も、酒場の舞台に立てば舞姫となりて人々を魅了する。
 ミアは自らの衣装に抜かりがないことを素早く点検した。
 今日の衣装は新調したばかりものだ。眸と同じ碧色の布地で作ったドレスは常連たちの目にも新鮮にうつるだろう。この衣装に合わせて舞も、新しいものを用意していた。
 頭の中でステップを確認していると控室の扉が叩かれ、酒場の主人が「出番だ、用意はいいか?」と顔を覗かせた。ミアは了承の意を込めて、力強く頷いた。
 化粧台に置いていた細い腕輪を幾つも手首に通す。腕輪には小さな金色の鈴が五つ六つと取り付けられており細い手首が動く度に揺れて音を出す。
 彼女が好んで身につける金の鈴から、ミアは周囲から金の舞姫と称されていた。
 衣擦れと小さな鈴の音を従えて控室を出たミアに酒場の主人は小声で囁いた。

「お目当てが来ているようだぞ」

 昔は船乗りとして海に出ていたという主人は、陽に焼けた顔に茶目っ気を称えて口にした。
 主人の言葉に、ミアの心臓は大きく鼓動を弾ませる。頬が朱に染まるのを自覚する彼女の傍らで主人は口元をニヤつかせながら云った。

「頑張りな」

 今宵の舞台に対しての激励か。はたまたミアが秘かに心決めていたことを見透かしてのことか。主人の意がどちらに対してのものかは計りかねたが素直に受け取ることにした。
 幼い頃に身寄りをなくしたミアを友人の娘だったからというだけで、一人前になるまで養い育ててくれた主人の行いを思い出せば答えは自ずと出てくるだろう。

 ――ありがとう。

 そう唇の動きで主人に応えたミアは、毅然と顎を反らした。
 舞台を目にするのは既に酒が入ったほろ酔い加減の客たちである。
 舐められたら主導権を奪われて散々な目に会うのは、他の歌姫や奏者たちの舞台を目にして知っている。この国の者たちは音楽というものに対して妥協をしない。一つでも音を外してみせようものなら野次は必至だ。
 そして客たちは自らの楽器でもって、舞台を自分たちのものに塗り変えてしまう。客たちにすれば誰が歌い舞おうが楽しめれば満足らしい。
 しかし舞台で生活している者たちにしてみれば失敗は生活の困窮を意味する。一度でもケチがついてしまうと他の酒場でもなかなか雇って貰えなくなる。
 十二の頃から舞い始めて、五年になるが未だに出番前は臆病になる。
 最初が肝心。緊張に震えているなど、おくびにも顔に出してはならない。
 ミアが仕切りカーテンを開いて舞台へと躍り出ると打ち合わせのとおりに、伴奏を頼んでいた弾き手が鍵盤楽器に指を走らせ、古くから親しまれている民謡曲を奏で始めた。
 音楽に愛されるこの国では、酒場や食堂といった人が集まる処には大型の鍵盤楽器や竪琴といった楽器が常に置かれていた。
 楽曲に足りない音色は、その場に集う者たちが調達してくれる。
 流れだした曲に心当たりがある者がニヤリと笑って懐から横笛を取り出す。その隣で酒を飲んでいた者が手にしたグラスをテーブルに置いて、爪で硝子の淵を弾き始めた。ある者が床で足を踏み鳴らせば、違う者はケースから弦楽器を引っ張り出して弓を弦の上に滑らせた。
 幾つもの音が重なって酒場に渦巻く。
 ミアは曲に合わせて腕を伸ばし躰を反らして踊り始めた。
 上下する腕の動きに金の鈴が鳴る。回転に合わせて広がるスカートの衣擦れの音。ドレスの裾をたくし上げ軽やかにステップを踏み、跳ね、床を蹴ってリズムを刻む足音。髪が肌を打つ音。
 ミアは舞に合わせて、自らの全身を使って音色を生み出した。
 指先から髪一筋が宙を舞う効果まで計算され尽くしたミアの踊りは、酒場に賑々しく響き渡る曲と完全に調和する。
 奏者の指が大きく跳ね、最後の音を叩き込む。鍵盤の音に合わせてミアが腕を高らかに突き上げてポーズを決めれば酒場は喝采に包まれた。
 ふうっと一息吐きながら顔を上げたミアの目に一人の青年の姿がうつる。
 くたびれた感のある木綿のシャツに色褪せた茶色のベスト。同色のスラックスの膝には明らかな継ぎはぎが見てとれる。
 港で働く労働者たちが集う酒場では特に物珍しい装いではないが、日焼けするより先に赤くなってしまう白い肌や肉の薄い頬や細い肩は、船乗りたちの頑強な躰つきとは違っていた。
 柔らかそうな金髪と涼やかな目元を彩る青い眸もどこか貴族的だった。
 そんな彼は見た目だけではなくどこかしら周囲から浮いていた。
 グラスをかち合せながら今し方の舞台の、同時に自分たちが紡ぎ出した音色の出来栄えを称え合う者たちの中で、彼はただ静かに椅子に腰かけた姿勢からミアを真っ直ぐに見つめている。
 彼を見かけた時から感じていた違和を今のミアは把握していた。
 彼一人だけ周りの人間たちとテンポが違っていた。まるで周りの音が聞こえていないようだと思った直感は正しかった。
 彼は耳が聞こえない。それと同時に喋れない聾唖者だった。
 この音楽を愛する国では、それだけで異端の烙印を押される故に、彼は生まれた貴族の屋敷から父親の死と同時に、腹違いの弟の手によって家督を奪われ追い出されたという。
 リアムという名と共に彼の素性をミアが知り得たのは彼がこの酒場に出入りするようになって半年が過ぎた頃だ。
 そしてミアがリアムの存在に気づいたのは、酒場に出入りするようになって三度目のこと。
 リアムがこの酒場に訪れるのは月に一度。
 ミアは週に三度は舞台に上がるが彼は月に一度しか訪れない。その理由は彼が支払う舞台の見物料にあるのだろうと推測している。
 舞台の見物料は特に設定されていない。酒場の出入口に設けた箱にその日の出来が良ければ客たちは気前よく硬貨を入れて帰る。元より酒場は客たちに酒や料理を売っているし演者から舞台の貸し賃を貰っているので見物料金が少なくても差し支えはないのだ。
 どれだけ客を喜ばせるのかは舞台上の人間次第である。それがそのまま収入になるから自分を目当てに頻繁に来てくれる客がいると助かる。
 ミアにもそのような客がいる。彼らは幼い頃からミアを知っていて贔屓にしてくれた。残念ながら若い男の常連客が少ないのは、言い寄ってきた男たちを振ったからだろうか。
 しょうがないじゃないと、彼女は思う。
 彼を見つけてしまったんだから。
 リアムは常連とは違い、月に一度見物する舞台に金貨を箱に入れていく。金貨なんてこの酒場に出入りするような人間の生活水準からすれば破格だ。
 さすがにリアムが飢え死にすれば世間体が悪いと考えてのことだろう。彼の生家からリアムの元には一定の額の金が払われているらしい。もっとも事情を知る者に云わせれば雀の涙程度の金額だという話だが。
 そしてミアはリアムが普段は港で船の荷降ろしの日雇い仕事をしていることを見知っていた。単純作業は聾唖者であるリアムにもこなせる仕事だろう。
 だが彼の華奢といって差しさわりない細い腕で、陽射しが強く照りつける甲板から荷を降ろすのは労が大きすぎるように遠目から観察したミアの目にもうつった。
 そうして彼は手に入れた賃金の大半をミアの舞台に支払う。
 どうして? と、ミアはリアムに問いかけたかった。
 金貨ではなく銅貨一枚でも十分なのに。それすら一回の舞台見学の相場を考えれば破格といえるのに。どうして彼は自分に貢ぐのか。
 私の舞にそれほどの価値があるというの?
 それを認めてくれるの?
 もしも今宵の舞台が成功したのならばミアは彼に真意を問いたかった。
 思い巡らす彼女の意識に新たな曲が流れ出す。繊細で穏やかな旋律は他の楽器を必要としなかった。
 ミアはひそやかに腕を持ち上げ、ゆるりと手首を踊らせる。
 この曲も伝統の民謡曲だ。近年有名な詩人が歌詞をつけたことで歌姫たちの間で流行した。
 それは悲しく静かに綴られた恋の歌。
 女は海に出ていく男の帰りを待っていると唄う。
 花が咲き枯れて朽ち果てようと待ち続ける。
 嵐の海に男を乗せた船がのみ込まれても。
 月が西の果ての海に沈み東の空から形を変えて生まれ変わっても。
 変わらず待っていると、涙を流しながら唄う女の非恋歌に合わせてミアの腕は宙を泳ぐ。
 金の鈴が奏でる音は女の涙を語り、緩やかに弧を描いて落ちる掌は月の動きを現わす。
 広がる碧色のスカートは広大な海を描き、囁くように紡がれる音色はミアの舞によって物語となる。
 酒場の客たちは今や息を殺して、彼女の舞を見守っていた。
 無粋な音は要らないのだと承知している。
 ひらりと翻った掌がミアの胸元に静かに重ねられると共に物語は閉じて音が止む。
 瞬きの沈黙を置いて割れんばかりの拍手が酒場を震わし、ミアは舞台の成功を確信した。口元を緩め今宵の客たちに笑顔を返さんとした時、その声は飛んできた。

「今の奴を歌ってくれよ。歌も上手いんだろ?」

 声の主はミアのことをよく知らないのだろう。でなければそんな無茶な要求をしてくるはずがない。
 突然の出来事にミアは慌てて口を開いた。

「ダメヨ。ウタエナイワっ!」

 酒場に響いた彼女の声はしわがれていた。醜くひび割れたしゃがれ声に酒場は騒然となる。
 美しく舞った娘の口からまるで老婆のような声が出てきたのだ。ざらついた醜い声は、ミアの外見からはおおよそ想像つかない代物だった。
 ミアは咄嗟に己の喉に手を掛けた。幼い頃に頚を締めつけた指の力を思い出して彼女は恐慌に陥った。耳の内側でどくどくと血流が鳴っている。その場の音が一切掻き消されてミアは逃げるように身を反転させた。
 仕切りカーテンの向こう、廊下を走り店の裏口から夜へと飛び出す。
 開いた扉の外側は夜気に満ちていてミアの頬を冷ややかにはたいた。
 興奮が冷めれば汗をかいた肌に寒気が押し寄せる。鳥肌が浮いた腕を抱えてミアはその場に崩れた。
 なんて失態を演じたの。軽く流せば良かったのにっ!
 喉の奥から後悔と共に嗚咽が溢れる。
 金の舞姫のもう一つの名は、しゃがれ声の舞姫という。
 この町の者はミアの別名を知っているから、やはり今宵の客は海の向こうからやってきた者だろう。言葉に外国訛りがあった。
 ミアは幼い頃に無理心中を図ろうとした母の手に掛かって喉を潰されていた。
 だから彼女は踊り手となった。音楽を愛するこの国では踊り手より歌い手の方が重宝されるが、喉を潰されたミアには美しい声など出せるはずがない。
 普段でさえ声を出さないよう細心の注意を払っていた。自らの声を聞けば否が応でも母に殺されかけた自分を思い出してしまうからだ。
 そして女神の寵愛を失ったあぶれ者の自分を強く意識してしまう。
 何がいけなかったの? 何が違うの?
 ミアの胸にかねてよりくすぶっていた疑問があった。母や女神に問いたかった。
 何故、自分は殺されかけなければならなかったのか。声を失わなければならなかったのだろうか。
 海で死んだ父を待ち続ける母には民謡の女とは違い、養っていかなければならない子がいた。それが重たかったのだろうと思う。
 それでもどうして自分だけがこんな目にあうのか、と納得できる答えを探していた。
 そんな時にリアムがミアの前に現われた。
 生まれた時から女神の寵愛を授からなかった彼に惹かれたのは必然だったのだろうか。
 リアムならミアの声を訊くことはない。彼女の過去を訊ねる声も持たない。
 だけど彼ならばミアが求める答えを教えてくれる気がしていた。
 かさりと音がしてミアが顔を上げれば、視線の先にどこかで予期していた姿があった。
 月明かりを受けてこちらを心配そうに見下ろす白い顔。青い眸のリアムはゆっくりとミアの前に跪いて首を傾げた。

 ――大丈夫?

 そう問うているのがわかった。声や言葉などなくとも伝わる想いがあった。
 そんなこと知っているわ、とミアは心で囁く。
 だって彼が自分を見つめる眸を知った時からわかっていた。
 音を知らない彼はミアの舞を通して音楽と触れ合っていた。
 例え女神の寵愛を得ることはなかったとしてもリアムは音楽を愛してる。そして自分も母に愛されなかったとしても音楽を愛していた。
 踊りを通して自分を育ててくれたこの町の皆と繋がっていたかったのだ。
 きっと自分もリアムも、この国の他の誰とも違わない。声を出せずとも音を知らずとも、音楽を愛する心は皆と同じだ。
 ほんの少し、他の者よりも失ったものが多かっただけなのだろう。でも、なくした分だけ掴んだものもある。後ろ盾を失くしながらもここまで生きてきた強さ。そして、親を亡くした自分を見守ってくれた人たち――それは何物にも代えがたい宝だ。
 答えを得たミアはリアムを見上げて微笑んだ。
 彼はホッとしたように笑顔を返してきた。ややあっておもむろにポケットから金貨を取り出して彼女へと差し出してくるのを目にし、ミアは彼を説得せねばと心に決める。
 彼が金貨に拘るのはミアが好んで金色の鈴をつけているからなのか。耳が聞こえない彼には金の舞姫なんて通称など耳に入ることはないから、単純に好きな色だと思われているのかも知れない。
 確かに嫌いではないけれど、もっと好きなものを見つけた自分には金貨よりも欲しいものがある。
 貴族生まれの彼のことだから文字を読める教育は受けているだろう。
 この数カ月、酒場の主人から教えて貰ったミアの書き文字はたどたどしくて見栄えは良くないかもしれない。けれどリアムにミアの心は伝えてくれるはずだ。
 金貨を用意できなくても彼には自分の舞台を見に来てほしい、そう伝えたい。
 リアムの存在一つでミアの舞は格段と上がるのだ。
 何故ならミアを高ぶらせる胸の鼓動。
 それはリアムが奏でる至上の音色だったから。


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