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F12  白蛾降る

 雪の白を六花などと思ったことは一度とてない。
 それはいつでも死んで落ちてくる蛾に見えた。

 つま先が凍えるように冷たかった。
 踏み出す足にはもはや感覚はなく、がちがちと震える歯が音を立てる。目の前をひらりと雪片が舞い落ちて、足の沈む雪の上にまじってどれがどれだかわからなくなった。
 見上げても月は見えない、どこも一様に濃淡さえない暗色に塗りつぶされ、雪はそこからひらひらと降る。まるで空に集まった数えきれないほどの小さな蛾が死んで落ちてきているようだった。
 白い蛾の屍は土の上に降り積もり景色を白くする。しんとした静けさの中、ぱさぱさと落ちる蛾を思うとかすかな笑いが頬に浮かんだ。けれどそれも、寒さのせいでひきつった醜いものにしかならない。折檻のために浴びせられた水が肌に染みて凍るようだった。はだしの足は雪に焼け足裏がぶくりとふくれて踏みつけた雪の上でつるつると滑る。転ばぬように歩くことさえ難しい。
 それでも前に進もうという意思だけは殺せず、体が無意識に前に傾いだ。重みがそちらへかかれば当然支えようと足が出る。歩いているというのではない、ただ前へと向かう気持ちを足が支えているというだけのこと。青ざめた指で着ている物ををかき寄せ濡れ髪を顔にはりつけて歩く姿は狂女のように見えたやもしれない。だが、己の形を気に病む余裕などはなかった。
 ただただ白い景色の中を雪を踏んで進む。
「いやだ、そんなに思ったって、いいことなんて一個もありゃしない」
 ふいに雪の合間から覚えのある声が聞こえた。頭の中に唇の右のほうをちょっとばかりあげて拗ねたような目で笑う女の顔が浮かんできた。娼妓をしていた頃に知り合いだったその女は、なん年も前に病で死んだ。
 こわいこわいと泣きながら部屋を移されてものさびしい暗いところで最期を迎えたらしい。女が死んだという話は聞いたが、死んだ姿を見ることはなかった。どう始末されたのか誰も口にしないが皆知っていることである。部屋持ちだったその女の部屋には後日別の女が入った。死んだ女の顔をいまさら思い出すのが不思議だった。あの女の言葉が耳の奥から響いて消えない。
「そんなに長く遊びが続きゃしないでしょうに」
 続かないだろうとわかっていた。あの人はあまりにおおくの台物や酒を持ってこさせ花と呼ばれる祝儀を振りまく。紋日にはもちろん通ってきて祝儀をはずんだ。いちど病を得て入谷の寮に養生に出ていたことがあったが、そこから戻った時には祝いだと惣仕舞にした。同じ見世の娼妓をみな買い上げ、遣手や男衆のみならずすべてのものに祝儀をくれるのだから、なまじっかな金子では済まない。あの人の気持ちをうれしく思いもしたが、振舞う花の多さに胸が冷やりともしたものだ。
 幾人馴染の客を持っていても、どうしてもあの人が来るとそこに留まる時間が長くなる。話を聞く顔が変わってくる、笑みに想いがにじんでくる、世話をする手の濃やかさがいっそうになる、様子をつくろうのは得意であったが、あの人の前でばかりはそれが上手くゆかず、じきに隠しようもなくなった。
 気づけば隠していた気持ちは周りに知られ、抱え主である妓楼の主人の耳にも入っていた。誰から話が行ったのかはわからなかった。二階の誰かであろうとは思うが確かめることはできなかった。胸の内を知られようとお客であれば楼主もあまりうるさくは言うことはない。苦い顔をして男衆が見張りのようなことをしていたときもあったが、呼ばれぬということはなかった。だが死んだ女がかつて言ったように無理な遊びはそう長く続かない――。
 ぐらりと体が傾ぎ、過去が現へ戻る。まぶたに浮かんでいた青楼の彩はそれを開けば雪の白の中へと消える。寒さに身が震え、またぐらりと体が右へ揺れた。ずるりと足裏が滑る。踏み出した足はもはや体を支えられない。ふくれて扁平に張り出しだ土踏まずは踏ん張ることができずに頽れる。雪に埋もれた膝から骨に冷えた痛みが沁みる。そのままその場に尻を落とすと動けなくなった。ひらりひらりと雪は降る。蛾の屍が見る間に積もる。落ちれば混じって離れなくなる。それはなんでも同じこと落ちればそれまでのことなのだ。どれだけそこからあがろうとしても先に落ちたものがまといついて逃れられない。そうしてじきにそこに馴染み、いつしか自分もそれになる。
 あの人が通わなくなったのはよいお客ではなくなったからだ。周囲に振舞う花が少なくなり台の物も酒も一枚一本と減った。あの人が用意した三つ布団や名の刻まれた象牙の箸を見る数もまた減った。そうしてあるときから待てども呼ばれることがなくなった。どうやらもはや呼び出せるほどの金子がないのだと気づいたときには悲しかった。見世に来ても入口で追い返されているらしいことを聞いて、空いた時間に部屋で泣き伏した。苦界に身を沈め、最初のなん夜かを泣き明かした後から、もはや泣くまいと思ってきたが、それでもそのときばかりは泣いた。涙はじきに止まったが心はずっと泣き伏したままだった。泣きながら門のうちで数年を過ごし馴染の客のひとりに請け出されて大門を抜けた。
 ひょうと風が吹いて体の芯に寒さが沁みる。降り続く雪は止む素振りなど少しも見せない。雪を見ると二月初午を思い出す。稲荷に詣でて願掛けをしたがついに叶いはしなかった。あの人は去り、請け出された先に待っていたのは冷たい地獄だ。通う間は懐の広いよい客だと思っていたが、囲われた先では疑り深く悋気の強い嫌な男になった。待つ家に少しでも男が顔を出し目でも合わせようものなら、相手が物売りであろうと庭師であろうとお構いなく、色目を使っただろうと勝手な疑いをかけられた。しょっちゅう怒鳴られ、ひっぱたかれ、髪をつかまれ引きずられる。だからしじゅう顔が腫れ体のどこかが青くなっっていた。髪をつかんで水を張った桶に顔を抑えられ、苦しむ様を愉快そうに笑われたこともあった。そのとき一緒に笑ってやったら、血を吐くほど腹を蹴られた。一度などは棒で打たれ、縁側から蹴り転がされ庭石で額を切ったこともある。溢れだした血が目に染み、くらくらと意識がくらんで今度ばかりは死ぬだろうと思った。そうして情けなくなった。そのときはこわいと泣くより情けなかった。
 じわじわと腕も足もうまく動かなくなってくる。起きていることも満足にできず、その場に横たわった。顔まで雪に埋もれたが、冷たいと思うこともできない。自分がどこへ向かっていたのかわからなくなっていた。
 ゆっくりまぶたが落ち、それを重たく持ち上げる。
 ふと自分が向かっているのはここより少し先にある寺だったと思いだした。なんという寺だったか、名は忘れたが人づてにあの人が葬られているのだと聞いていた。あの人が亡くなったことも人づてに聞いたくらいで、墓を見たことはもちろんない。ただそこへ行きたかった、死ぬのならそこで死にたかった。もう戻る当てはないのだ。
 訪ねてきたときから機嫌の悪かった男に水を浴びせられさんざん打たれ、しまいに刃物を向けられたのが堪えきれずに屋敷を飛び出した。もうあすこには戻れない。戻ったならば殺される。だが他に頼るものもない。そうしてさまよううちにどうせ死ぬのならあの人の側がいいと思った。だから寺を訪ねてきたのに、ここへ来てこれではたどりつかずじまいだ。どうやらつくづくあの人とは縁が薄いらしい。
 最後にあの人の名をもう一度見たかった。教えたことのない本当の名を教えてから死にたかった。けれどもはや叶わない。
 薄く開いた目の先にまつげに絡んだ雪があった。目をこらせばそこに、六角の模様が浮かんで見えるのだろうか。けれどそれを見定めるには目はぼやけまぶたはあまりに重い。
 雪輪模様は好きだった。それでも雪を花だと思えたことなどなかった。どんなにきれいな白をしていても、それは蛾なのだ。屍はじきに土に混ざり泥の色をして粘つきはじめる。どんなにきれいに整えたところでその内実は粘つきまなぐさい我が身そのものだ。
 うつくしいのはうわべだけ。
 それでもその白い色をうらやましいと思っていた。

 降っていた蛾も見えなくなった。
 積もる音ばかりがしばらくのあいだ聞こえていたような気がした。


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