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F11  『四本の筆』

  ◆◆

 キィと音を立て、扉が開いた。幾ばくか遅れて、高いベルの音がする。
「いらっしゃいませ」
「……こんなところに、画廊があるとは思わなかったな」
 石造りの路から足を踏み入れたのは、一人の壮年の男。口元に蓄えた髭に白いものが混じっているが、隠居するには早い年齢。窮屈なほど絵画が並べられた店の中を見回している。
「何かお目当てのものがおありでしょうか」
「いや――これといって、決まってはいないが」
 歯切れの悪い返事に、美術商は口端を上げた。
「それでは、この絵はいかがでしょうか」
 美術商が直接壁に立てかけてあった一枚の絵画を持ち上げた。サイズは、それほど大きくない。むしろ小さい部類だろう。
「ほう、これは……」
 その絵画はこの男のお眼鏡にかなうものだったのだろう。目に感嘆の光がさしたのが、分かった。
「これはどちらの方が描かれたものですかな」
 そう尋ねてくると思っていた。美術商は、また笑みを深めて告いだ。
「それならば、ひとつ昔語りを聞いていただけますか」


  ◇◇

 それはとても偶然だった。珍しく、朝日の昇る前に目覚めたわたしは、そのままベッドから、そして部屋から抜け出し、ふらふらと宛もなく寮内を歩いていた。
 くるくるとした金の巻き毛も好き勝手な方向を向いているが、気にしない。服だけはネグリジェから制服に着替えた。部屋履きのまま磨き上げられた床の上を進む。
 ここが絵画を学ぶ学院の寮であるだけあって、廊下には様々な絵画が掛けられている。その見慣れたもの達を後目に、わたしはその寮の端まで歩いてきていた。
 正直言えば、端まで来たことはなかった。寮にはたくさんの噂があって(曰く七不思議なるものだ)周りの人間が怖がるためだ。
 そう、わたしではない。わたしの周りに常にまとわりついてくる少女や教師達。彼らが止めるのだ。何かがあってからは遅い。噂の立つ場所にはいかないようにと。それはわたしの身を決して案じているわけではない。わたしの父親が著名な画家であり、その父がわたしを溺愛しているからだ。要するに、父へのご機嫌取り。
 一つため息をついた。わたしを見ている人間などいない。わたしが何を考え、何を望んでいるのか。誰も考えたことがないだろう。
 だからこそ、入学以降初めてのひとりきりを味わっていたわたしは、その綺麗とは言えない扉を躊躇なく開いた。それは重く、鈍い音を立ててゆっくりと動く。
 途端にたくさんの光が目に飛び込んできた。眩しくて、目が開けられない。手をかざして、陰を作るも、何も見えない。
 ようやく目が慣れてきた頃、誰かが振り返った。
「誰?」
 立ち上がった人影は、わたしと同じ制服を来ている――生徒だ。
「えっと、ごめんなさい。邪魔したかしら」
 首を横に振った立ち上がった生徒が近づいてきて、わたしの顔をとらえた。息を呑む音がする。
「……あなたがこの温室に来るとは思わなかったわ」
「わたしだって、ここが温室とは思わなかったもの」
 光に照らされた彼女の顔は、教室で見たことのある顔だった。つまり、クラスメイト。ただ、取り巻きにいつも囲まれているわたしにとっては、目立たない生徒としか印象がない。
「ここで何をしているの?」
「花をスケッチしていたの」
 朝しか時間がないからと、続けられた。思わず彼女の持っていたスケッチブックを覗き込む。すると、すぐさま胸元に寄せて、視線を避けられた。
「あなたに見せるほどのものではないわ」
「どうして?」
 思わず詰る声になる。
「あなたは、たくさん良い絵画を見てきているはず。きっと目が肥えているわ」
 思わずじっと相手の顔を見てしまった。彼女は訝しげに、首を傾げる。
「どうしたの?」
「……いえ、そんなことを言われたのは、初めてだなって」
 訳が分からないようで、眉尻を軽く上げている。
「あの巨匠の娘ならきっと才能があるだろう、って皆持て囃してくるばかりで、良い絵をたくさん見ているなんて、目が肥えているなんて、言われたことなかったから」
 彼女はそんなことと、笑いを漏らした。
「だって、あなたはあなたで、絵画を描くのが好きかどうかはまた別の話じゃないの?」
 じゃあはい、と彼女は胸元に押しつけていたスケッチブックをこちらに差し出した。わたしは戸惑って、笑う彼女を見る。
「見ていいわよ、どうせ下手なのだから」
受け取って覗きこんだ途端、わたしは目を見張った。
 そこにスケッチされていた薔薇は、朝の光に照らされている様子まで、見事に再現されていた。鉛筆の濃淡だけで、いくつかの薔薇の色が表現されている。薔薇の花束を抱えているような感覚に陥るほど、精美な絵画だった。
「とても、素晴らしいわ……」
 思わず口から出た独り言を、彼女はお世辞と思ったらしい。
「無理して、褒めなくてもいいのよ」
 いいえ、いいえ。
 とても美しい絵だと思う。
 そう告げたいのに。言葉に表せば、嘘のように感じてしまうほどの、力があった。
 彼女の絵画を、もっと注目されるべきだと感じた。
 今思えば、それも始まりだったのかもしれない。


  ◇◇

 あの時以後、彼女と話す機会はなかった。ただ、取り巻きの姦しい会話から彼女のことを少しずつ知っていった。
 父親は画家崩れであったこと。その父親が亡くなった際に、なけなしの遺産でこの学院に入学するよう、遺言があったこと。画具もなかなか買えない状態にあり、苦労していること。授業が終わると、一目散に教室を飛び出して、街へ降りていくこと。
 口さがない少女達は彼女のことを嘲って、男に媚び売って金でも稼いでいるのかもなんて、言うけれど。
 苦境でも絵画の勉強を続けたいのだろう彼女は、きっとそうではないと思っていた。


 ◇◇

 今日もチャイムの音と共に、彼女は慌ただしく画具やキャンパスを片付け、教室の扉を開ける。わたしは自分に取り巻きが貼りついていない隙が出来ているのを知った。
 慌てて自分も画具を片付け、鞄を抱えた。彼女が消えた扉の向こうへと急ぐ。
 道具の入った鞄も持ったまま、彼女は学院の門をくぐり、街へと降りていく。私も、そのままつけるしかなかった。
 そうして、彼女が辿り着いたのは。
「教会?」
 しかも結構大きな。確か有名な古代画家の壁画があったはず。
 彼女は躊躇せずに、中へと入っていく。慌ててわたしはその教会へと足を踏み入れた。既に彼女の姿はホールの中にはなかった。奥へと行ってしまったのだろう。
 中にいた男性がこちらを見て道を開けようとしてくれるが、その男性の動きが途中で止まった。
「その制服は」
 彼女の友達かと聞かれ、思わずうなずいてしまう。すると、勘違いした男性に呼ばれた彼女は奥からこちらへ向かってきてしまった。
「……あなたは」
 驚いたように目を見張っている。
「ごめんなさい。いつもどこに行っているか気になっていて」
 つけてきたと続きは言えなかった。彼女が自嘲的な笑みを漏らしたからだ。
「何を言われているかは知っているわ」
「わたしはっ!」
 同じと見られたくなくて、声を上げる。
「……言われているようなことはないと思っていたわ」
 奥から彼女を呼ぶ声がする。
「ごめんなさい、仕事中だから」
 彼女は頭を下げると、奥へとまた行ってしまった。そのかわり、先程の男性がわたしをも奥へと導く。
「いいものが見られるからこっちへ来てごらん」
「仕事……しているのですか、彼女」
 そうだよと彼は礼拝堂に導く扉を開けた。わたしの視線を上へと導く。そこには、あの有名な壁画があった。たくさんの聖人が色鮮やかに描かれている。
「で、こっちを見て」
 今度は床へと視線を導かれる。そこに広げられていたのは、画布。天井と同じ絵があった。
「これが彼女の仕事だよ」
「……複製を作っているのですか」
「そう。僕らは学院で古代美術の研究をしている。本当に彼女には助かっているよ。どうしてか、分かる?」
 いいえと小さく呟いた。 
「彼女は複製をより安く製作してくれている。しかも、正確に写し取ってくれる画力もある。とても重宝する人材だね」
「どうして彼女だと安く製作できるのですか?」
 使うものは、ほとんど変わらないだろう。
「彼女はとても少ない絵具の種類で、たくさんの色を生み出すことができるのさ。だから、比較的安価な絵具だけでできる」
 このことを他の人達にも伝えてくれると嬉しいと続けた。その言葉に、思わず顔を上げる。
「知っているのですか」
「いや、そうだろうなと思って」
  彼は、彼女をよほど買っているのだろう。そして、その期待に足る才能が彼女にはある。
 色を生み出す力は彼女の環境がもたらした才能だろう。絵具が満足に買えないという嘲笑めいた取り巻きの言葉を思い出した。
 わたし達は、与えられたたくさんの色から、そのまま絵画を描く。
 それと違って、彼女自身は色さえも生み出してしまう。
「ありがとうございました、教えていただいて」
 本人には悪いが、こんな一面を知れて良かったと思えた。


  ◇◇

 彼女が協力してくれたら。
 わたしがずっと心に秘めていたことを、望んでいたことをやれるかもしれない。
 そう思えたら、止まれなかった。止まりたくなかった。
 だから間違えてしまったのかもしれない。


  ◇◇

 いつものように教室を飛び出していく彼女を、思わず大きな声で呼びとめてしまった。扉に手をかけたまま、こちらを見ている。少し迷惑そうな彼女の顔を、この時見逃してしまった。
「あの、お願いがあるの」
 取り巻き達が聞き耳を立てていた。そのことにも気付けなかったわたしが愚かだった。
 今思えば、取り巻きの少女達は、恐れていたのだろう。彼女の才能を。それをわたしが知って親しくなるのを。
 父の七光りを、失念していた。
「わたしのために絵画を描いてくれない?」
「――ごめんなさい、急いでいるの」
 しまったと思った。失敗した。
 彼女は顔を伏せたまま、扉の向こうへと消えていった。
 その後わたしなりに彼女に会おうと、温室に行ってみたりしてみた。けれど、彼女に会えることはなかった。


 ◇◇

 朝、食欲もなく朝食を抜いたわたしは、一人で課業前の教室へと赴いた。足が止まる。
 扉が開いている。中を覗いてみると、彼女が自らのイーゼルの前に座っていた。
 ――泣いている?
 扉に手をかけたまま、わたしは立ち竦んだ。気配を感じたのか、彼女が顔を上げる。
「……ごめんなさい」
 教室に入り、彼女が手にしていたものをそっと覗きこんだ。息をのむ。
「これは」
「――あなたが声をかけてきたあの日から」
 ズッと鼻をすする音。彼女が持っていたのは、ぐちゃぐちゃに黒く塗りつぶされたスケッチブック。あの時の薔薇さえも、無残な状態へと変わっていた。
 高い画具で、そうやって傷つけられるのは、二重に痛いのだろう。
「前は筆が折られ、その前は絵具がなくなった」
 道具を失くした私はこの学院にもういられない。私はただ絵画を描きたかっただけなのにどうして。
 彼女は静かにわたしを責めていた。
「どうして、私にあんな声をかけたの」
「――欲しかったから」
 今一度、願ったら叶うだろうか。
「あなたの才能が欲しかったから。初めて会った時に言っていたでしょう。あなたは目が肥えているって。わたし自身には、描く才能がないわ」
 それでも絵画は好きなのと続けた。
「もっと色々な人に親しんでもらえるようになってほしいの、絵画に。巨匠の娘と呼ばれるわたしなら、その立場も利用できるかもしれない」
 そんなところにあなたが現れた。
「良い絵画を安価な絵具で描ける才能。より親しんでもらうためには、あまり高価な絵画を買えない人にも、手が届く素晴らしい絵画が必要だわ」
 あなたなら出来るでしょう。あの壁画を模写する才能のあるあなたなら。
「今回のことはわたしが悪かったわ。ごめんなさい。どうしてもあなたに協力してほしかったの」
 お願いと頭を下げたその先で、彼女は身じろぎする。
「……ちょっと考えさせてくれる?」
 その後、一週間彼女の姿が教室から消えた。


  ◇◇

 あれから二週間目に入ろうと言う時。
 わたしは朝早く目覚める習慣がついていた。光が差し込むか否かのタイミングで身を起こすと、扉へと向かう。開けようとすると、下のすき間から、一通の封筒が差し込まれているのを見た。拾って裏返すと、差出人の名前は、彼女だった。
 慌てて中を開く。
「……『温室で待っています』」
 読み上げてすぐ、部屋を飛び出した。
 あの時より重たく感じる扉を開く。同じように光が差し込んできた。そして同じようにとらえた姿に、ほっとする。間に合った。
 彼女は、制服を着ていなかった。私服に、大きな鞄を抱えている。嫌な予感がした。
「――学院を辞めるの」
「ええ。あんなに嫌がらせを受けたら、辞めるしかないわ」
「どうして」
「ここにいても、これ以上私は伸びていけないわ。それよりあの人達のところで働いていた方がよっぽど勉強になるもの」
でもでもと言い募ろうとするわたしを制して言う。
「だって、いつかはあなたが迎えに来てくれるでしょう?」
 言葉が出なかった。
 彼女は一枚のキャンバスを差し出した。
「――これは」
「題名は『四本の筆』」
 はっとして顔を上げる。まさか。
「碧、紅、黄、白――四色の絵具のみを使って描いたものよ。それをあなたにもらって欲しい」
 それは、彼女の混色という才能を余すことなく使って描かれた絵画だった。筆も画具も失ったのに、再びそれを得て彼女はわたしのために絵画を描いてくれた。
 じっと彼女の言葉の続きを待つ。
「ずっと待っているわ。だからあなたが夢を叶える時、迎えに来てくれる?」
 涙がにじみそうだった。
 ええ必ずと紡いだ言葉が、きちんと言えた自信はない。それでも彼女は笑ってくれたのだった。


  ◆◆

 美術商が最後まで語り終えると、その壮年の男が何かに気付いたように、再び絵に目を戻した。
 その絵画は、温室が遠景でかかれている。朝日が差し込んでおり、花々に散った水滴がきらめいていた。温室の向こうも庭園になっており、生垣が続いている。ぼんやりとした風景の中に、一人の少女が立っていた。彼女の表情は細かく描かれていないものの、笑っているように感じる、そんな絵画だ。
「もしかして、この絵画は――」
「ええ、絵画という文化を農民など一般家庭にまで普及することに一役買った画家フレス・ニユが画商クロイス・ルヴに譲った最初の絵画『四本の筆』です」
 クロイス商会の鑑定書もございますよ。その言葉で本物と判断したらしい。その男は絵画を食い入るように見ている。
「美術館の展示にはもってこいの絵画でしょう?」
 驚いたようにこちらを振り返った。
「ご存知でしたか」
「ええ、副館長くらいは絵を商う者として、存じ上げていますとも」
 その男は笑みを浮かべた。身分を隠していたつもりだったのだろう、照れ笑いと見て取れた。
「とても良い絵画だ。うちの美術館で引き取らせていただいてもよいだろうか」
 それを望んでいた。深くうなずくと、彼もまたうなずき帰っていく。
「またのご来店をお待ちしております」
 美術商はその絵画に、売約済みの札をかけた。


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