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F09  絶筆「明赫」~建館の由来

 フェス様は、隣の家が空いて入ってきたんです。
 隣はおじさんの家だったんだけど、おじさんが遠くに引っ越したので人に貸すことになって。
 うちに来たフェス様は、とても素敵なお兄さんでした。腰に伸びる髪は風が吹いた麦の穂みたいに輝いていて、目も晴れた空みたい。お顔も綺麗で、背がお父さんより高くてすらっとしていました。鴉の羽みたいなひらひらのマントで手にはステッキ、中のお服もスーツが素敵でタイに大きなブローチが光っています。絵本の王子様みたいってぼんやり見ちゃって、「口をだらしなく開けてないで」ってお母さんに怒られました。
「いえ、可愛い娘さんですね」
 フェス様はあたしに笑って、頭を撫でてくれました。嬉しくって、思わず飛びついちゃいました。お母さんに引っ張られたけど、フェス様は「妹が、同じくらいで」って抱いてくれて、あたし妹になりたいって思いました。子供だったから。
 だって、フェス様は本当に王子様でした。でも、かわいそうな王子様――あなたも知っているでしょ。最初の王妃様の王子様で、今の王妃様とは仲良くなかった。王妃様はフェス様がお嫌いで、フェス様が絵を描くのもおいやだった。絵描きなんて王子様のすることじゃないって。
 だから、フェス様はおじさんの家をまるまる、アトリエに借りたいというお話でした。
 うちは平民で、身分が違いすぎます。空家を王子様が借りに来るなんて、想像できるわけありません。親はびっくりして、こんな汚くて狭いところなんか使わせられませんってひれ伏しました。あたしはフェス様にしがみつきました、もう会えなくなっちゃうと思って。でもフェス様は、お城に近い街中のここがいいって首をふります。親は今度は、王子様からとても家賃はいただけませんって縮まったけど、それも、きちんと借りますってフェス様は言いました。それで契約することに決まって、ほっとなって腰にぶらがっちゃったあたしに、フェス様は微笑んでくれました。
 王子様なのに優しくて、偉そうなところもなくって、やっぱり素敵でした。
 それから、フェス様はちょくちょくいらっしゃいました。
 がたがたがらがらって馬車の音が外から聞こえてくるとあたし、街路に飛び出してました。フェス様の馬車はすぐわかります。秘密なので馬車の箱は普通でしたけど、お馬と馭者さんが立派だったんです。
 フェス様のアトリエは、家で一番広い一階の居間でした。だから玄関に入ったらすごい臭くて、鼻がつーんと痛かったです。でもすぐ慣れました。
 あたしは、小女さんになったんです。フェス様が、あたしにお手伝いして欲しいって……親は大反対しました。でもフェス様は「掃除だけですから心配ありません」と言ってくれて、他には頼めなかったのであたしになったんです。
 あたしは張り切って毎日お掃除してました。フェス様が絵を描いている間は、邪魔にならないようにアトリエ以外をお掃除して、終わるとアトリエの隣の部屋で絵本を読んで、ベルで呼ばれたら飛んでいって、お帰りになる時に絵のお道具を片付けして。時々お城の外を見るとか絵の題材を探すってお出かけになる時も、手抜きしませんでした。フェス様は、お手伝いのご褒美ってあたしのとこに来て、お話したり絵本を読んだりして遊んでくれました。
「あの、フェス様! お城って、この絵みたいに綺麗なんですか?」
「行ってみたいかい?」
「はい! フェス様のお城ですもの!」
 あたしは期待いっぱいにうなずきました。城壁が高くて、チビなあたしにはその中にあるお城は全然見えなかったんです。
「そうだね。……いつか、連れて行こうか」
 フェス様が困って言いにくそうなのは、内緒なのに連れて行けるわけないから……親にも怒られて、あたしは二度とお城に行きたいってねだりませんでした。あたしは本当に子供だったけど、フェス様は可愛がってくれて幸せだった。
「フェスでいいよ、アリア。きみにそう呼ばれると妹みたいで嬉しい。可愛い」
 そう名前を呼んで頭を撫でてくれて、あたしはそれが大好きでした。ひとりっ子で兄弟がいなかったし、何より本当にフェス様の妹で王女様になったみたいな気持ちになれたんです。
 だから、あたしはしばらく、フェス様がどんな絵をお描きなのか知りませんでした。


 あっ、その写真! 懐かしい……その絵、代表作と言われてるんですね……今は。
 ――フェス様が入ってからは、一階がアトリエ、二階が誰かいらっしゃった時の客間になりました。あたしはエプロンとスカーフをつけて、魔法使いみたいに箒と雑巾を持って回ってました。
 でも一つだけ、掃除できない部屋がありました。
 三階の、絵の置き場になった部屋です。
 「うまくないから、アリアは見たらだめだよ」って、描き途中の絵も帰る時にそこにしまってました。お掃除もフェス様がするって言って。
 あたしは、言いつけを守りました。破ったら、怒ってもう来てくれなくなっちゃうって怖かったんです。それに、フェス様はいい絵が描けたら見せるって約束してくれました。だからあたし、待ったんです。
 でも、三階の他の部屋をお掃除していたら、鼠がその部屋に逃げてしまって……もし絵をかじられたりしたら大変って、あたしは鼠を追いかけて中に入ってしまいました。
 この時のこと、忘れられません。閉めきった薄暗い真ん中に置いてあったイーゼルの、絵。
 バケツでひっかけたみたいに、大きなカンバスが全部、真っ赤!
 あたしは悲鳴をあげて、尻餅をつきました。あなただって、昔は絶対びっくりしたんじゃないですか。そのまま腰が抜けて、震えて、動けなくなってしまいました。絵にはとても見えなかったし、まさか、フェス様の、血? ショックが、ぐるぐる渦巻きました。
 そこに、悲鳴か尻餅を聞きつけて、階段を駆けあがってフェス様が飛び込んできました。
 目が合った時、あたしはぼろぼろ泣き出してました。
「ごめっ、なさ……ねず、み、が」
「ああ、鼠を捕まえようとしたんだね、アリア。怖い思いをさせてしまったね」
 ごめんね、と駆け寄ってフェス様はあたしの背中をさすり、ハンカチで顔を拭いてくれました。そうしてあたしが落ち着いてくると、あの絵を指さしました。
「アリア。これは、血じゃない。絵の具だ。怖いかな、よく見てごらん」
 怖かったけどフェス様のお顔は真剣で、あたしは指の先を辿るようにもう一度、絵を見ました。
 やっぱり真っ赤です。しゃくりあげそうになりました。周りにしまわれているたくさんの絵も、きっと真っ赤なんでしょう。でも、きっと、フェス様にとっては赤じゃなきゃだめなんです。だから、あたしに見せようとしたんです。
「……どう、して、ぜんぶ赤、なの?」
「優しい色は、怖いんだ」
 だから思わず聞いていあたしに、フェス様は微笑みました。悲しそうで、辛そうで、でも、真っすぐな目でした。
「アリア。お城はね、綺麗で優しい色で飾られているよ。けれど私は、自分の心が薄められて、溶かされる気がするんだ。それが怖いんだよ。だから城外に出て、――そうだね、やっぱり私の血の色なのかもしれないね。ごめんね」
 優しいのに、血を吐くような声。今も耳に響いています。
 フェス様はお城で王妃様とのことがあって、その行き場が絵を描くことだったんでしょう。あたしはそのままフェス様に抱きついて、お城に行きたいって言ったことも思い出して、わんわん泣きました。優しくて素敵なフェス様と、ギャップがありすぎて……。
 それからフェス様は、絵を隠さなくなりました。それどころか、ご自分の絵の話をたくさんしてくれるようになりました。描いている時にアトリエに呼んでくれたりして。
 最初はやっぱり怖かったです。でも、フェス様の絵には濃さや色合いの違いがあって、違いを出すために絵の具まで自分で作っていました。そうやって赤一色でなんでも描きあげます。まるで魔法でした。フェス様に聞いて見ると、夕焼けの空と海、果物やお馬がだまし絵みたいにぱっと浮かぶんです。あたしはすぐ夢中になって、フェス様の絵もすっかり大好きになりました。
 そう、これがあの時の絵だったんです。最初の思い出……それから、一年でした。


 玄関の呼び鈴を鳴らすのが、フェス様だけではなくなりました。
 ええ、そう。エウドラさんです。街の喫茶室で知り合って、フェス様が意気投合して連れて帰ってきて。はっきり言って、あたしは好きじゃなかった。きったない格好で、下品で田舎くさいし、「お嬢ちゃん」って子供扱い。そのくせ、あたしがフェス様の変な相手なんじゃないかってにやにやするしっ……ごっついおじさんなのに、エウドラなんて女の名前な方が気持ち悪いわ! 思い出してもやっぱり嫌い!
「おい嬢ちゃん! 酒よこせ酒」
「ここは酒場でも酒屋でもありませんっ」
「酒が肝心要なんだよ。俺が絵を描くエネルギーなんだよガキ」
 あたしとエウドラさんが口げんかになると、フェス様が入ってくるのがいつもでした。でも、取りなしされるのはいつもあたし。「彼は女性至上主義なんだよ」とか通訳みたいに言ったり、あたしが悪いみたいで悔しかったです。フェス様を取られたみたいな気持ちでした。
 でも、エウドラさんのどんな話も、酔っ払っててもフェス様は笑って聞いていて、とても楽しそうで――二人はいつもずっと二階で絵のお話をしてました。あたしは絵も描けないし、絵のお話もできないし、やっぱりただの子供の女の子なんだって、諦めはついたです。何より、フェス様はエウドラさんの絵の才能を認めてましたし。エウドラさんも、いつも叫んでました。
「あんたは天才だよフェスさん! こんな絵の描き方、こんな絵の具を自分で作り出すなんて信じられない!」
 ってノートに、フェス様の言葉を全部写すんじゃないかって勢いで書き殴ってたんです。
「いえ、まだまだですよ」
「いいや、素晴らしいよ! あんたは俺の師匠だ!! 神様みたいだ!!」
 なのでエウドラさんが本当に弟子になったのか聞くと、フェス様は笑って首をふりました。
「そんなことはない。彼は彼、私は私だよ。それぞれの絵を尊敬しあっている。どちらが上といったことではなく、得るべきを得ているだけだよ」
 エウドラさんの絵は素晴らしいんだそうです。あたしはとうとう見ることはなかったですけど。
 フェス様はもちろん、王子様だとは明かしませんでした。エウドラさんは、貴族様がこっそり隠れて絵を描いていると思ったみたいです。絵描きは、身分の高い人がすることではないってされてましたから。でも、エウドラさんはただの売れない絵描きで、フェス様はエウドラさんにお城の展覧会への応募を強くすすめてました。入選すれば画家として認められて、賞金が出ます。貴族や王族の方々が気に入れば、お抱えにもしてもらえます。フェス様はそのつもりだったのかもしれません。自分にはできないことを、エウドラさんにたくさんして欲しかったんじゃないかって。エウドラさんもやる気になって、ますます熱心に来るようになりました。
 そうするとあたしはますます置いてきぼりで、泣いてフェス様を困らせてしまいました。
 でも一緒に絵なんか描けないし、でも悲しいのはどうしようもないし、結局、
「フェス様ぁ……あたしも文を読んで書けるようになりたいです」
 簡単な絵本は読めても、あたしは本や新聞は読めませんでした。女の子には必要ないって……でも、やっぱり少しだけでも二人に近づいてみたかったんです。フェス様は快く教えてくれて、「結果が新聞に出るから読んでね」って今からもう嬉しそうでした。エウドラさんが入選することを、フェス様は信じて疑っていなかったんです。
 そして本当に、エウドラさんが応募した絵は入選しました。
 あたしは新聞で知って、記事も読めました。でも。


 エウドラさんの絵も、インタビューで語ってることも、そっくりそのままフェス様でした。
 王妃様が大変お気に召して、エウドラさんは宮廷画家になったんだそうです。


 たった一つだけ、色が黄色だったのはどうしてだったんでしょう。
 赤は血の色だからまずい、と思ったんでしょうか。
 いえ、才能があったはずのエウドラさんが、どうしてフェス様の絵を盗ったんでしょうか。あたしは泣きました。お城には優しい色ばかりだからって吐き出していたフェス様の血まで、薄められてしまった気がして。あんなに仲がよかったのに。宮廷画家ですから、フェス様はお城で会うこともあったはずです。どう思ったのか……二人ともそれきりここにいらっしゃらなかったので、わかりません。
 そう、何も言い残してないんですね。エウドラさんも、フェス様も。
 ――それからしばらくして、フェス様のお使いが借家の契約を終わらせてアトリエを片付けに来、そしてあたしに一枚の絵を持ってきました。
「アリア。これを君に。私の最後の絵だ。ずっと見ていて欲しい。ずっと」
 お手紙に「明赫」、とありました。あたしは最初、わけがわかりませんでした。
 だって、真っ白だったんです。一面を白で塗って……あの時よりもっとずっとショックで、あたしは泣きました。泣き続けました。赤じゃないことに、どんなに見ても何も浮かんでこないことに、これが最後だということに。エウドラさんに裏切られて、傷ついて悲しんで、フェス様はもう、絵に血も吐けなくなってしまった……。
 あたしは、言われた通りにこの絵を自分の部屋に飾っていました。
 やがて、白い絵の具が少しずつ剥がれ落ち始めました。
 壁に飾って傷んだせい?って慌てましたけど、新聞でエウドラさんの絵も絵の具が剥がれ始めていると知って、思い出したんです。絵の具も作っていたフェス様……エウドラさんに、まだまだだって言っていたフェス様。
 そして、その下に赤い色がありました。今まで見たフェス様の絵で一番、深い鮮やかな。
 白い色は半分くらい、さらさら粉雪が落ち続けています。
 でも、出てきた真紅は、どんなに経ってもさっき塗られたばかりみたいに輝いています。


 だからこの絵は、このままあたしに見させてください。お願いします。
 これまで、七十年見続けました。あたしはもう、ここから動けないから……持って行かれたら、見に行けません。フェス様との約束が守れなくなってしまいます。
 お願いです。この絵を最後まで見させてください。下の真紅は何を描かれているのか、あたしに見させてください。
 あたしにはこの絵だけなんです。お願いします。お願いします。


 近年、発見された宮廷画家エウドラの遺書で判明した、先々代国王フェルナンデス四世の「赤の遺作」。妹の王女墓から発掘され、修復がなされた。
 ともに見つかったリストからさらに絶筆の存在及び所在が判明し、一時期アトリエであった跡地に王家によって美術館が建てられた。絵は全て収蔵され、孤高の名君と仰がれた王の鮮烈な内面を今に伝える。
 最高傑作であろう絶筆「明赫」はなお永久に、時が明らかにするのを待たれている。


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