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F08  愛情木端微塵斬り、同情十把一絡げ

 エリシヤは、その可哀想さが人を惹きつけるらしい。
 と、羊を追いながらミロイ・ハウフは思っている。
 そうでなければ、自分よりも可愛くないうえに仕事が下手なうえに性格もはつらつとしていないうえに経済力もないうえに年上の女が、ミロイの想い人であるジャギと恋人関係にある理由が分からない。
 事実、ミロイが聞いてみたところ、ジャギはこともなげに答えたものだ。
「あんた、エリシヤのどこが気に入ったわけ?」
「……可哀想で見てられないんだ。あいつ」
 エリシヤは、とにかく夢見がちで、おまけに運がない。あの可愛らしいお馬鹿さんは、周囲が少しでも目を離したが最後、十中八九、どうしようもないトラブルに巻き込まれてばかりいる。
 エリシヤの不幸を数え上げればきりがない。たとえば、エリシヤは頬に大きな傷がある。昼食のジャムを頬に付けたまま森を散歩していて、おもむろに現れた腹ペコ熊さんからぶっ叩かれてしまったのである。
 たとえば、エリシヤはほとんどお弁当を食べられない。仕事場にお弁当を持っていっても、近所の悪ガキに盗られたり、その辺をうろつく野良犬に盗られたり、ことによっては烏に盗られたりするからだ。
 たとえば、エリシヤは迷子のままだ。自称八つのときにミロイ達の村に迷い込んで以後、元の両親と家は知れない。住んでいた町を覚えていなかったのである。そんなわけで、エリシヤは今日までずっと村長の家に居候している(ちなみに、村長の息子がジャギだ)。
 ほかにもほかにも……という引きもきらない話を聞いて、ミロイはなんだかなあ、と思うのであった。
 ミロイの暮らす村では、村人のほとんどが、羊を追いかけたり、羊の卵を収穫したりして、生計を立てている。羊産業は利ざやが少ない。だから村では働き者が評価されるしくみだ。
 そんな村では、エリシヤの不器用でどんくさい性質は多数の人間から忌避される。たとえばミロイから。
 また、一見矛盾するようだが、それと同時に多数の人間から保護の対象と見なされる。たとえば……そう、ジャギのような男からだ。
 ジャギは昔から無愛想だが、昔から心根の優しい男だった。口では冷たいことを言ったりするけれども、ミロイが毛刈りばさみを失くしたときは最後まで一緒に探してくれたし、風邪を引いたときはぼやきながらも羊の卵を差し入れてくれたりした。そんな彼だから、同じ屋根の下でエリシヤの可哀想さを見続けて、なんとも堪らない気持ちになるというのは、ミロイだって百歩譲って理解してやってもいい。だが。
 ミロイだってそれなりになだらかでない十六年間を生きてきた。可哀想さの資格くらい、得ているはずだ。ジャギが可哀想だと感じた者に対して情を分け与えるというのならば、自分にくれてもいいのではないか?
 そういうわけで、その日もミロイはジャギを捕まえて言ってみる。
「私、あんたが好き」
「おれは好きじゃない」
 またふられた。
「あんたにふられ続けてる私って可哀想だと思わない? エリシヤよりも」
「それを理由におまえから粘着されてるエリシヤのほうが百倍可哀想」
 と、これである。ミロイはため息をつく。ジャギの答えは今日も同じ。
 これはジャギの愛のなさを確かめる儀式だ。一年前、はじめてジャギに思いのたけをぶつけてからずっと、このやりとりが繰り返され続けているということに、ミロイは秘かに戦慄する。おののきながらも、心を削がれるこの行為をやめられない。まだ期待しているのだ。もしかして、今日こそは違う答えが得られるかもしれないと。
 ミロイの徒労の日々を見かねてか、ときどき、共通の友人であるリフター・ローチェスがこんなことを言ってくる。
「ミロイってどうしてそんなに破滅的なの」
「はめつてき?」
「ジャギは簡単に気持ちをひるがえすやつじゃない。本当は何も見返りがないって分かってるくせに。なのに、どうして?」
 どうして? それはミロイのほうこそ聞きたいくらいだが、そんなことを言ったが最後、ただでさえ恋人持ちの余裕を振りかざすがごとくはるか高みからの発言が、ますます天上の声に近づいてしまう気がして、ミロイは半眼で、あんたには分かんないのね、と気の抜けた声音で生返事を返すのみであった。
 それからしばらく時間が過ぎた。大雪が降ったり、エリシヤがトリモチに髪の毛をひっつけてしまったり、その後の散髪に失敗したり、リフターが結婚したりした。ミロイは相変わらずジャギに熱を上げている。
 その日もミロイは羊畑に向かうジャギを捕まえた。
「私、あんたが好き」
「おれは好きじゃない」
 やはり、である。
「あんたにふられ続けてる私ってたいがい可哀想だと思わない? エリシヤよりも」
「それを理由におまえから粘着され続けているエリシヤのほうが百倍可哀想」
 ジャギの愛のなさを今日も確かめる。これがここ数年続いているということにミロイは秘かに戦慄するのだった。この儀式はいつまで続くのか? ミロイにできるのは、油断すると胸いっぱいにはびこってくるこの問いを、努めて見ないようにすることだけだ。
 ときどき、共通の友人であるリフター・ミスキット(姓が変わった)がこんなことを言ってくる。
「ミロイはこのまま歳をとり続けて平気なの?」
「このままって」
「キツい言い方かもだけど、わたしはあなたのことが心配なのよ。あなたがそうしたいと言うなら、そうすればいいとは思うけど……。諦めるなら、そろそろ潮時なんじゃない。ジャギにはエリシヤがいる。なのに、どうして?」
 どうして? それはミロイのほうこそ聞きたいくらいだが、そんなことを言ったが最後、ただでさえ既婚者の余裕を振りかざすがごとくはるか高みからの発言が、ますます天上の声に近づいてしまう気がして、ミロイは半眼でははあん、と分かったような分からないような声音でやる気のない相槌を打つのがせいぜい、なのであった。
 それからしばらく時間が過ぎた。芋が豊作になったり、村から競羊で三冠を取る羊が輩出されたり、リフターが可愛い男の子を出産したりした。ミロイは相変わらずジャギに熱を上げていた。
 そして、エリシヤは死んだ。
 昼食のジャムを頬に付けたまま森を散歩していて、おもむろに現れた腹ペコ熊さんから力いっぱいぶっ叩かれてしまったのである。今度は当たりどころが悪かった。即死だった。
 可哀想なエリシヤは、可哀想なままいなくなってしまった。ジャギの心を固く鎧って、ミロイが入り込むすきを一分も残さぬままに。
 エリシヤの骨を乗せた船を見送った後、ミロイはジャギの背中に言った。
「私、あんたが好き」
 返事はなかった。ジャギはまばたき一つせずに船を見送っている。川向こうに向かっていた船は、川の真ん中で向きを変え、いまはゆっくりと下流に流されている。ジャギの目はまだ船の影を追っている。
 もしかして、とミロイの胸に不安が広がる。ジャギは心を閉ざしたのではないのかもしれない。閉ざされたものは、こじ開けることができるだろう。だけど、あの船に乗せていたのなら? 心が彼岸に運ばれてしまっているのならば?
「……返事がないってことは、あんたも私のことが」
「だまれよ」
 いままでにない、固い、冷たい声がミロイを遮った。だが、一方で、どこか頼りなさげに喉が震える気配もあった……ような気もするし、ミロイの弱気が見せた願望の現れにすぎない気もする。ジャギはエリシヤとともに船出してしまったのだろうか? 確かめるために、ミロイは言った。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
「私、あんたが好き」
 無視された。
 待って、待って、待った挙句、ジャギがまともに口を利いてくれるようになるまで三年かかったが、ミロイはついにある日に答えを得た。
「私、あんたが好き」
「……おれは好きじゃない」
 そりゃそうだ。どこか安堵しながら、ミロイは久しぶりの続きを尋ねる。
「あんたにふられ続けている私もたいがい可哀想だと思わない? エリシヤよりも」
「あいつは死んだんだ。なのにまだおまえから粘着され続けている。……エリシヤのほうが百倍可哀想」
 そう言って、陰りのある、笑みとは呼べない表情を披露した。
 ミロイはにわかに胸が締め付けられるのを感じた。ジャギの優しさはジャギを傷つけただろう。生まれ持った心の優しさのせいで、最後までミロイのことを無視することができなかったのだから。
 だが、何にせよ、愛のなさを確かめる儀式はいまここに復活したのだ。この儀式がこれからも続いていくのだということにミロイはしばらくぶりの戦慄と、小さな安堵を覚えるのだった。
 ときどき、共通の友人であるリフターの息子がこんなことを言ってくる。
「ミロイってどうして結婚しないの」
「けっこん?」
「もういい歳したおばさんじゃん。どうせあてもないんだろ。おれがもらってやろうか?」
「すっげえむかつくうえに、失礼ね。あんたの母さんに似てるわよ」
「で、どうすんの」
「ありがとう。でもお断りですう」
「……なんで?」
「あいつじゃなきゃ、意味ないの」
「けっ、売れ残りおばさんの強がり……ぐぎえ、ぐ、苦し、か、母さん助けっ」
 母親から大人げないとの文句を散々食らった後、はるか高みからの憐れみの目、疑うべくもない天上の説教に、ミロイは半眼で教育の一環だと答えるのであった。
 それから長い時間が過ぎた。リフターに孫が生まれたり、ジャギの作った羊毛布団が王都で評判になったり、ミロイの両親が他界したり、羊が金の卵を産んだり、村が盗賊の略奪を受けたり、リフターが酔っ払いとけんかした揚句に川に放り込まれたりした。
 その日もミロイは、安楽椅子でウトウトしているジャギに言った。
「私、あんたが好き」
「おれは好きじゃない」
 そうでしょうとも。
「あんたにふられ続けている私っていいかげん可哀想だと思わない? エリシヤよりも」
「あいつがいなくなって何十年たった? なのにまだおまえから粘着され続けて、エリシヤのほうが百倍可哀想」
 ジャギの愛のなさを今日も確かめる。この儀式がここ数十年続いているということに、ミロイはもはや誰にはばかることなく戦慄するのだった。
 ときどき、共通の友人であった故人リフターの孫がこんなことを言ってくる。
「ミロイばーさんってどうして結婚しなかったの」
「しなかったって何よ、ってゆーかわたしゃまだ諦めてないわよ。あんたのデリカシーのなさって本当、あんたの父さんにそっくり」
「で、どーして?」
「……好きな人と結婚したいから、してないのよ」
「はあ? 意味分かんねーよ」
 だろうな、と思いながら言う。
「片思いをしてるの。いまでも、まだね」
「え?」
 目を丸くするリフターの孫からミロイは目をそらした。あれから幾度となくミロイの上を辛く悲しい時間が過ぎていったが、結局それらはジャギの可哀想さの基準にかなうことはなかったのだ。たったの一度でさえも。
 だというのに、いまのミロイはどうだ。こんながきんちょから憐憫の情をもよおされている。哀れまれている。かつてリフターが予見したとおりの末路、みじめそのものだ。なぜ、ないがしろにされ続けてなお諦めきれない? 妄念にして執念、恋であり、憎らしさでもある感情。それはもはやミロイの人生の一部だ。血と肉がジャギに恋をしてしまったのだ。いまさら「どうして」などという問いごときで、切って切り離せるわけがない。
 ほしいのはただ一言。可哀想だと言ってほしかった。
 その日は朝靄が村を覆っていた。ジャギは朝から船着き場にいて、対岸を眺めている。足を引きずり引きずり、ミロイはジャギを追いかけて、今日もまた伝えた。
「私、あんたが好き」
「おれは好きじゃない」
 そうよね。とっくに胸はつぶれきっていたが、形式的に、ミロイは聞く。
「あんたに一生ふられ続けている私って、可哀想だと思わない? エリシヤよりも」
「エリシヤがいた頃は」と、ふいにジャギが言った。
「いろんなものが、本当にまぶしくてきれいに見えた。あいつを包む世界はいつだって危なっかしくって、そこらに落ちてる石ころやトリモチだって、あいつやおれにとっては、極彩色の罠が口を開けて待ちかまえていたみたいなものだったんだ。危険だらけの、刺激に満ちた、色とりどりの世界が……」
 ミロイははて、と首をかしげた。
 ジャギの口から、いつもの百倍可哀想、が返ってこなかったからである。返ってこないばかりではない。ジャギはいつになく饒舌で、ミロイにとっては何だろうこれ、という感じだ。
「あの日エリシヤが船に乗ってしまって、おれの世界から色という色は失われたんだ……戻ってくる見込みもなかった」
 ジャギの深く皺が刻まれた顔から、いままで語られることのなかった何かを読み取ろうと、ミロイは息をつめた。そろそろ、本当に息が止まってしまいそうだったから、なおさら真剣だった。
 ジャギの黒い瞳が光る。
「だが少なくとも寂しくはなかったよ。おまえのおかげで……おまえのせいで」
 しぼんでしまった胸を、鼓動が激しく叩く。
 ミロイのおかげ。
 そう言った。
 言った。
 言った!
 と、快哉を叫びたいのに、息が止まってしまって、言葉が出てこないのだ。これは夢なのか? ミロイはそろそろ判断の基準をなくしかけていたので、心臓が移動してきたみたいにばくばくする頭では、この青天の霹靂がなぜふってわいたのか、何の上手い説明も考えつかなかった。ただ、どうしよう、どういうことだろう、と思うだけだ。もう夢なのか、起きているかも、ときどきミロイは分からない。ひょっとしたら三日くらい前から死んでいて、天国で夢を見てるって可能性だってあるんじゃないだろうか。
 だけど、もし、夢じゃないのなら……。
 せき止められた息は出口を求めて、やがて温かな涙となってミロイの目からあふれた。震えが足元から這い上がってくる。膝から力が抜けて座り込む。驚いた顔のジャギを大写しにしたのを最後に、ミロイの視界は、舞台の幕が引かれるように暗くなっていった。
 終幕を急かす砂嵐が二人の間に割って入ってくる。でももう障害を追い払えない。もう二度と立ちあがれない。これまでミロイを支えてきたものは、もはやすっかり折れてしまったのだから。
 むしばまれる意識の対岸から声が聞こえてくる。ジャギの小さな声が。
「こんなもので、おまえ……こんなものが、ほしかったのか……」
 可哀想なやつ。
 たしかにジャギはそう言った。真っ暗闇の中で、ミロイはぶるっと身震いした。


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