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F05  いろはつき

 初恋の手解きを受けたのは、中学三年の冬のこと。

 「恋のイロハって?」
 「知らないのか? ははは‥‥教えようか。」

 教えてくれたのは、近所の大学生で、幼なじみの葉月晃くん。高校受験のための家庭教師をしてくれていた。わたしの受験は終わり、晃くんとは、その日が最後になるはずだった。
 晃くんはまだ就職が決まらないと言っていた。それで、たぶん、その日の彼は少しむしゃくしゃしていたのかもしれない。彼の行動はいつもに比べて、少し強引だった。

 「亜希、イロハのイを教えてあげるよ。手を出して。」

 素直に手を出したら、わたしの指をそばに引きよせ、爪の先にそっとキスをした。冗談だとわかっていたのに、キュンとした。
 イロハのイは指先にキス。イロハのロは‥‥不意に彼がわたしを見つめて、真剣な顔になった。じっと目を見つめて、近づき、顔を傾けたので唇と唇がふれそうになる。わたしは悲鳴を上げて逃げた。晃くんは笑っていたけど、その日から彼の顔をまともに見れなくなった。
 晃くんは就職浪人になることを許されず、もっていた教職免許で高校教諭に。桜の季節、わたしは再び彼の教え子になった。

*1*

 高校一年生は忙しい。学内の地図をおぼえるだけでなく、校内の噂や楽しい行事、人間関係、からかいやすい先生なんかを調べるの。女子の間では、若くてかっこいい先生は大人気。
 晃くんは二学年の補助教員として、古文の授業を担当することになった。週に一回は授業を担当。一学年は別の教官だったけど、女子は不満。晃くんの方が話題になりやすいから。

 「中村先生とレッスンしてもつまんなあい! 二学年のさあ、葉月先生の方が丁寧に教えてくれそうじゃない? 放課後に質問にいっちゃおうかなあ? にゃははあー。」
 「学年が違うなら無駄じゃなーい?」

 興味ない、という顔をして、友人はその言葉を聞き流し、雑誌を読んでいる。近頃追いかけているモデルの男の子がいるって。彼女はいくつも雑誌を買いこんで、彼の姿を探している。
 今まで、晃くんのことを特別にかっこいいとか、色男だと思ったことはなかった。この高校では、彼は新人の教師というだけで女子学生から注目されてモテモテ。教職員の中にも、同期の若松愛菜先生とか、セクシーな養護教員の森江美香先生とか、気になる女性がいて‥‥何となく、胸騒ぎ。この胸のもやもやって何だろう?
 放課後、葉月先生の姿を見たい、と友人たちが誘うので、四人で職員室へ向かう。二人の女生徒がうきうきしてわたしの前を歩き、背後には雑誌を抱いてあくびをしている女生徒という図。
 前を歩いていた二人が、職員室を覗いて歓声を上げている間、背後にいた美雪がわたしに話しかける。

 「次の教育実習生が来たら、飽きて熱が引くって。」

 彼女は廊下で雑誌を読んで、不意に笑顔になった。目当てのモデルを見つけたんだって。確かにかっこいい。

 「おっと! 悪いね、ちょっと退いてもらえる?」

 職員室から晃くんが体操服で出てきて、二人に片手をあげて謝った。友人たちは笑顔で道を譲りつつ「葉月先生、スポーツですか」と話しかける。彼の背中を見たとたん、顔がほてる。笑顔で振り返った彼と目があってしまって、あわててうつむいた。

 「亜希? まだいたんだ? お前、部活は何にした? 俺はバドミントン部の顧問だってさ。はは、やったことないのに。」

 これから部活だよ、と明るく言いながら走っていくけど、友人たちがきょとんとした顔で「亜希?」とつぶやく。晃くんはいつものクセで口にしただけだろうけど。
 彼女たちはじっとりした目つきで「そーゆーことは早く言えー」と怒る。で。晃くんの彼女? 知らない。休日に二人で遊びにいったりするのかって? しないよ! 彼の住所? んもー。

*2*

 夏前に部活の勧誘が一通り終わって、クラスの人間関係も落ち着いた。わたしは友人に誘われてバドミントン部へ。美雪は「運動は苦手」と言いながらも、マネージャー。バドミントン部は女性が多くて、晃くんはそこでもモテモテ。何だかむしゃくしゃする。
 あっという間に真っ赤に日焼け。腕は筋肉痛、二の腕はかなり太くなる。晃くんも部員と一緒に運動して、一層たくましく爽やかになってしまう。一緒にいると緊張。
 今まで、テニス部と合同で練習していたというけれど、新しく顧問が決まったので、練習メニューをテニス部から独立させて計画することになった。

 「葉月先生、夏合宿の候補地が決まりましたー。」

 部長が計画書を作って晃くんにもっていく。晃くんは部活の後、それを読んで「おお、校長先生に相談してみるよ」と答えた。
 数日後、なぜか若松先生がバドミントン部の副顧問に。

 「男性教諭が一人で女性の多いバドミントン部を引率するのはどうか、と指摘されたので、若松先生に副顧問をお願いしたよ。」
 「はい。どうぞ、みなさん、よろしくお願いします!」

 初々しい新人教諭が二人でそろうと女子部員の機嫌は悪化。若松先生はかわいいから。それから、若松先生と晃くんが二人でいるところをよく見るようになった。同期の先生同士だし、話もあうんだろう、と職員室でも噂になってしまう。お似合いって、何よ!

*3*

 夏合宿と言っても、全国大会へいきたいとか、団体戦で強豪校に勝つとか、そういう明確な目標のない部活動。要は、部活を名目に遊びにいきたいだけ。

 「学校で汗だくになるより、女の子に囲まれて避暑地へいった方が俺は楽しいかな? 亜希もたまには俺と旅行っていいだろ。」

 久々に晃くんの家に遊びにいったら、彼はそんなことを言いながら、庭先でバーベキューの準備をしていた。ご近所を招いてホームパーティ。彼のお母さんが家庭菜園で収穫してきた野菜を使って、トマト尽くしのディナー。

 「晃くん、亜希ちゃんの高校の先生か! 部活も一緒って仲がいいねえ! で、先生と生徒ってのは、つきあっちゃダメなの?」

 近所のおじさんがビールを飲みながら、茶化してきた。わたしの頬が熱くなったとき、晃くんのお母さんが手巻き寿司をもってきて、会話に入る。

 「亜希ちゃんのご両親がいいなら、おっけー。怖いのは、生徒の親が晃に怒鳴りこんでくること。うちの娘に何すんじゃいって。」
 「ガラが悪いな、母さん。教師の親なんだから、品のいい言葉遣いで頼むよ。生徒が見てんだから。」
 「何よ、今更、あっはっは!」

 うちの親も「晃くんならうちはいつでも大歓迎!」と笑うので、体中が火照ってしまう。親が認めているのに、わたしは一人で怒っていた。何を言ってるのよ、ダメよ、ダメーって。晃くんが「はいはい」と言いながら、トマトを竹串に刺して焼き始める。亜希はただの生徒だよ、と言われた。少し切ない。

*4*

 若松先生と晃くんは休みに入ってから、デートしたという。二学期から使う予定の教材を探して、二人で本屋を巡っていたと、三年生の先輩から話を聞いた。

 「うっそおー、葉月先生ってはっやあーい! 若まっちゃん、かわいいもんね、体育教諭の大塚先生も狙ってたって噂だしい。」
 「ええー、がっかりだよ、なんだよ、それえ、うはあ。」

 なんだ、それ? ガッカリだよ。わたしとキスみたいなことをしたくせに! 合宿も気が抜けてしまって、やる気なし。

 「暑いなー、みんなもだらけてるなー。練習が終わったら、泳ぎにいくか? 水着はもってきてるんだろ?」

 晃くんがにんまり笑って、男子生徒と一緒にそんなことを言いあった。夕涼みに湖にいくことになる。少ないながらも男子部員たちが、若松先生の水着ってどんなー、と叫んで大喜び。
 晃くんは男子と一緒に水の中で騒いでいたけど、若松先生は水着にはならなかった。ワンピースを着て、騒いでいる生徒を見守る。わたしたちは水着にはなったけど、練習後に泳ぎたくないっ。
 小一時間程度水に浸ったら、晃くんも岸辺に戻ってきた。髪を両手でかきあげて、ずぶぬれで歩いていく。その焼けた肌を見たら、恥ずかしくなって目をそらした。彼はわたしのそばを通り過ぎ、若松先生のところへ。若松先生も真っ赤になったけど、慌ただしくタオルを探して「はい」と晃くんに出している。

 「葉月先生、これ使って下さい」
 「ありがとう。気が利くね」

 晃くんはそれを受け取り、優しく微笑む。それから二人で話していい雰囲気。周りは晃くんと若松先生を囃して、二人は少し赤くなっていた。
 先生同士が付きあっても問題にはならない。だけど、先生と生徒がつきあったら、大問題だ。なんで? 教育効果ですか。むかつくなあ。晃くんがうちの高校に就職しなければよかった! 同じ高校にならなければ、彼が若松先生に出会うこともなかったのに。
 晃くんはあのとき、わたしにキスをしようとしたもん。あの日から彼のことを意識し始めたのに、こんなのはひどい。他にかわいい女性を見つけたら、あっさりとそっちを選んじゃうの?
 何でだろう。悔しい。つまんないな。青春ってつまんない。

*5*

 秋は寂しい。何となく、人恋しくなる。

 「あーあ、葉月先生と若松先生、本気で付きあってるのかなあ。」
 「やられたあ、合宿なんて言い出さなければよかったよ。」
 「亜希、あんた大丈夫?」

 友達に話しかけられて、はっとした。え? 何?
 振り返ったら、友人が心配そうな顔で「よし、新しい恋を始めよか」と呟く。わたしは両手を振って彼らに笑いかけたけど、美雪に言われてしまった。葉月先生のことが好きだったんでしょ、と。
 過去形で言わないでよ。わたしは終わってないのに。
 ううん。わたしの恋は始まってもいない。意識し始めたら、もうわたしたちは先生と生徒で‥‥このまま、この恋は終わるの? 七才の年齢差って、恋愛不可? 先生と生徒では恋愛はしちゃいけませんか? 教育って何? 愛情って何? 恋愛って何?
 職員室から晃くんが出てきた。出席簿を抱える姿もだいぶ様になってきたけど、わたしにとって、彼は今でも幼なじみ。

 「ん? おい、もう授業が始まるぞー。遅刻するなよ?」

 にんまり笑って背中を向けられた。友人は「はあーい」と答えて教室へ向かう。美雪が彼を見送りながら、わたしにささやく。

 「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ」
 「何よ、いろは歌?」
 「花はすぐに散りますよー、あたしらが高校生と言われてチヤホヤされる時期だって、さららっと終わっちゃうんだから‥‥ま、花は散っても好きだけどね、あたし。紅葉もきれいだし。」
 「何を言ってるのー? 訳がわかんないし。」
 「うえのおくやま‥‥から先がわからないのよね。何だっけ?」
 「知らなあーい。」

 美雪と話したら楽になった。色は匂えど散りぬるを‥‥花はすぐに散ってしまう。散ってもいいよ。花は花なんだから。
 秋はこれからが、本番。
 花が散った後で山の葉は美しく色づき、豊かな果実が熟すのだ。


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