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F04  ハートブレイク・ランニング

 走りだす前の鼓動は、少しだけ恋と似ている。
 風に冷やされたむき出しの腕。軽い靴と踏みしめられた堅い地面。短く切った頭髪は、風に掻き乱されて流されていく。
 頭は冴えていた。反面、疼くような興奮が胸のあたりに渦巻いて、それが熱病のように全身に広がっていくのを感じていた。たわんだ弦のように蓄えられた力が行き場をなくして暴れ始める。
 早く解放しなければ、自分自身を壊してしまう。
 スタートの合図は、ない。
 スタートラインも、ない。
 校庭に他の生徒の姿はなかった。舞は多分、ただ無気力に突っ立ているだけのように見えるだろう。舞がスタートラインに立っていることを知っているのは、舞ただ一人だけだった。
 踏み出した場所がスタートラインで、踏み出した瞬間がスタートだった。
 深呼吸して、眼を閉じる。
 そうして、リフレインする流行歌のフレーズみたいに、頭の中で繰り返される言葉を耳にする。

 ――別れようか、俺たち。

 心が引き金を引けば、足は動き出す。
 そうして景色が動き出せば、あの光景を追いやって、心を遠くに運び去ってくれるはずだった。
 いつだって、そうだった。
 ほとんど意識しない間にグランドを一周して、公道に飛び出す。登下校時には駅と高校を行き来する生徒で一杯の道も、今は閑散として誰の姿もない。
 舞は一週間に一度はこの道を全力疾走していたことを思い出した。
 トレーニングではなく、やむにやまれて。

 八時二十二分の電車で着き、朝礼に間に合わせようと考える生徒はまずまともとはいえない。一つは、不真面目であるという意味で。もう一つは、学校までの道のりを全力疾走できるだけの体力を有するという意味で。
 舞は遅刻覚悟でのんびり歩く生徒たちの間を縫って疾走した。何度も繰り返したルートは、どの程度の加減で走れば間に合うかまできっちり頭に入っている。
 このペースでいけば、多少力を緩めても余裕だろう。そう判断した直後、誰かが舞の名を呼んだ。
「森井」
 急停止して、辺りを見回す。背後から見覚えのある男子生徒が近寄ってくる。
「あ、せんぱい! 早くしないと、学校遅れちゃいますよ! 遅刻ちこく――」
 腕を振り回して、今にも走りだす仕草をする。立ち話をしている猶予はない。男子生徒はそれには答えず、厳しい顔つきで近づいてくるなり舞の腕を掴んだ。
「足、もう治ってるじゃないか」
 足踏みが、止まった。
「言ったよな、治ったら部活に戻るって」
「――そんなこと憶えてるの、先輩、だけですよ」
 もはや、舞が陸上部だった事を憶えている人など誰もいないと思っていた。
 忘却していた忘れ物を、思いもよらぬ形で、この手に戻された。
 新しい土産物とともに。
「俺、待ってたんだぜ。お前の走りが好きだったから」
 先輩はそう言って、照れくさそうに笑った。
「部活、戻って来いよ」
 知らないうちにスタートして、気づく間もなく全力疾走している。胸の鼓動の激しさで初めてそれと気づくような。
 恋に落ちたのは、たぶん、そのときだったのだろう。

 学校から駅までの間、寄り道する場所には事欠かない。夏に生徒たちが群れをなして詰め掛けるアイスクリーム屋。お昼のお弁当として人気のパン屋。場末のデパートに、昔ながらの商店街、そしてゲームセンター。放課後になると生徒達で賑わう界隈。
 まるで思い出の中を走り抜けているよう――。
 町は変わらずそこにあるのに、思い出の中には二度と戻れない。目に見える風景とは別に、時間の中に切り離されてしまった場所の記憶が、胸の中で疼いた。
 
 先輩は遅刻させたお詫びにファーストフードをおごると言った。何度も訪れた事のある店の窓側の席で、舞はポテトすら喉に通らない気持ちで、コーラばかりを啜っていた。
「どうして部活に戻らないんだ? あんなに走るのが好きだったのにさ」
 先輩はハンバーガーを齧りながら呟いた。強いて問い詰めるという風はなく、視線は窓の外を向いたままだ。
 理由は単純だった。走るのが好きだったからだ。陸上をしていたときの舞にはそれしかなかったから。
 怪我をして、走れなくなったとき、舞は自分の存在価値を失ったような気がした。泳ぎ続けないと呼吸ができない魚みたいに、絶望して、けれども魚のように窒息する事のない自分に気づいた。
 ただ、空っぽだった。
 そのとき扉を叩いた写真部の部室で、舞は新しい友人と新しい自分に出会った。
 何ヶ月もかけて、怪我を治すのとおなじように、少しずつ、自分の中身を詰めなおした。それが、今の舞。
 だから、陸上部に戻って、また以前のようになるのが怖かった。
 また、走るだけになるのが。
「あたし……戻ってもいいんでしょうか」
「当たり前だろ」
 先輩はそう優しく言って、舞の頭を軽くポンと叩いた。
 ちくりとした罪悪感を感じて目を伏せる。
 本当は、問われる前から心は決まっていた。
 もう、かつての不安も、悩みも、通り過ぎてしまった。
 走るだけの空虚な自分には、戻らないし、戻れない。
 陸上部に戻る目的は、もはや走ることばかりではなくなっていた。
 安っぽい内装の安いファーストフード店で、二人は見つめ合った。
 こんなに自然に、惹かれ合うように恋が生まれるのを、舞はそれまで知らなかった。

 道を折れて市街地を離れると、視界が開けて河川につきあたる。河川敷公園の広い敷地を横切り、堤防に登った。
 川風を受けながら走るのが、舞は好きだった。この土手を、何度となく先輩と走った。

 先輩は陸上部の部長をしているだけあって、とても真面目な人だった。度々、舞はデートしているのか練習しているのかよくわからなくなった。走っている時の舞たちはひどくストイックだった。ただの部活の先輩と後輩という以上に、先輩は舞の才能を伸ばすのに熱心だったし、舞もそれに応えようとした。色気の欠片もない関係だったが、元々練習にのめり込むタイプだった舞は労せずその関係に溶け込んでいった。
 付き合おうとか、好きだとか、そういう何か特別な約束があったわけでもなかった。舞は一緒にいられるだけで満足だった。

 大会を控えたある日、先輩は練習を中断して、河原に降りて休憩しようと言った。
 傾いた夕日が赤く照らしだした世界で、並んで水面を見つめた。先輩は黙り込んでいた。二人きりでいるのは珍しくないのに、なぜかそのときはひどく息苦しい気がした。
 これなら、まだ全力疾走していたときの方が楽なくらいだ。もういっそ、走りだしてしまおうかと思った頃に、先輩が遠くに向かって叫ぶように言った。
「舞。大会が終わったら、おれと付き合わないか?」
「は、はい!」
 条件反射のように即答してしまって、二人は顔を見合わせて吹き出した。ひとしきり馬鹿笑いをしたあとで、舞は笑いの発作が収まるのを先輩がジッと待っている事に気づいた。
 緊張して、余計に笑うのをやめられなくなる。
 いつまでも笑い続ける舞に、先輩は人差し指を舞の唇に押し当てた。嘘のように、笑いの波が引いて、かわりに、うるさいくらいに胸の鼓動が響きだす。
 ゴール直前で息も絶え絶えになったみたいに、満足に呼吸もできない。
 だから、先輩に唇を塞がれたとき、本当に息が止まってしまった。

 大会で大きな成果を上げた舞と、平凡な成績であるものの、惜しまれて部活を引退した先輩は、晴れて付き合い始めた。舞は一人でトレーニングするようになり、先輩は受験勉強に明け暮れた。今までのように、練習中に会うわけにはいかなくなり、二人の関係もまるでおなじというわけにはいかなくなった。
 部活一辺倒にみえた先輩が実はかなりの秀才である事は、その頃に知った。

 町の図書館や塾近くのカフェ。スポーツ一辺倒の舞にとっては、馴染みのない施設。駅前の繁華街を通りぬけながら、慣れない待ち合わせ場所にドギマギしていた日々を思い出した。

 先輩の志望大学は、舞の学力では到底入る事のできない大学だった。しかし、先輩自身大学で陸上を続けるために選んだ大学だっただけあり、舞にはスポーツ推薦で入る道も残されていた。
「俺には無理だったけど、舞ならできるよ」
 そういって笑った先輩の言葉に嘘はないと思っていた。おなじ大学に進めば、また以前のように一緒に走る事ができると信じていた。舞は推薦のためにトレーニングに打ち込み、先輩は受験勉強に追われた。

 学校へ続く見慣れた道に入る。そこは、同時に先輩の家へ通じる道でもあった。見慣れた風景に、鼻の奥がつんとするのを感じた。先輩に会える事に心を浮き立たせながら、何度となく通った道。
 弾むような足取りのかつての舞が、自分を追い抜いて行く。

 その日舞は先輩からの誘いで、先輩の家に向かっていた。今まで、先輩を迎えに行ったり、練習の途中で家に立ち寄ったりする事は何度となくあったが、実際に家に上がるのははじめての経験だった。
 久しぶりのデートが嬉しくて、舞は精一杯おしゃれをした。だが、出迎えた先輩は顔に疲れを滲ませ、舞の顔を見てもそれが晴れる事はなかった。
「最近練習はどう?」
「結構、調子いいです。……先輩は?」
「俺は、ちょっと行き詰まっているかな」
 ベッドに腰掛け、先輩が隣に座ったとき、舞は体温が上がるのを感じた。ほんの少し手を伸ばせば触れ合う事の出来る距離で、見つめ合う。
 親は今日は出かけていて遅くなる、と先輩が言った。
 期待していなかったといえば、嘘になる。例えば、優しいキスを、温かな抱擁を、あるいはそれ以上を。
 ただ、大して言葉を交わす事もなく、先輩が覆いかぶさってきたとき、なんだか怖くなってしまった。
 舞は走って逃げた。
 今とおなじように、この道を全力で走った。

 裏門から入り、校庭のトラックに戻ってくる。
 ゴールが近づいてくる。
 あの時間が、近づいてくる。

「先輩、また、自己ベスト更新したんですよ!」
 部活中、学生鞄を脇に抱えて校門へと向かう先輩を目に止めて、舞は声をかけた。
 先輩の家を飛び出した一件を忘れていたわけではなかった。だからこそ明るい話題で声を掛けたかった。先輩は受験勉強で気が立っていただけだと自分に言い聞かせて。
 先輩の気持ちは、わかっているつもりだった。
 だから、まだ受け入れる事のできない舞の気持ちも、わかってくれると思っていた。
「へえ」
 だが、振り向いた先輩は、ひどく他人行儀で冷たい顔をしていた。
「――別れようか、おれたち」
 本屋に行こうか、と言うのとおなじくらい、ひどく簡単な言い方だった。
「……どうしてですか、先輩」
「意味、ないから」
 その言葉が本気だったとは思いたくない。

 涙が溢れてきて、視界から校庭を隠した。見えないまま、感覚だけでトラックを辿る。
 あの日から、舞の視界は白黒だ。思い出ばかりが色鮮やかだった。まるで、失われた未来を弔うように。
 二人が歩むはずだった未来は砕け、運命はねじ曲げられた。進むべき道は途切れ、未来は掻き消えてしまった。
 失ったものがあまりに大きすぎて、胸が張り裂けそうだ。
「返して! わたしの未来を返して!」
 無謀な願いと知りながらも、舞は叫ばずにはいられなかった。
 結果からすれば、そんな未来など、はじめから存在していなかった。
 だが舞の心の中には確かに存在した。
 もしかしたら、一度は先輩の中にも。

 その時、舞の胸を何かが捉えた。
「ゴール!」
 誰かがそう叫んだ。ゴールテープを切る感触に、一瞬足を絡め取られそうになる。だが舞は走り続けた。止まるどころか、さらにスピードをあげる。
 まだ、ゴールなんかじゃない。
 まだまだ、終わるはずがない。
 冬になったら、クリスマスだ。受験はすぐそこで、一緒にお祝いする事はできないけれども、プレゼントを渡して、先輩を勇気づけるつもりだ。先輩の家の近くの道に呼び出して、プレゼントを渡す。そして、先輩はこの間は変な事してごめんな、と言う。
 だから舞は「いいよ」と言うつもりだ。受験が終わったら、その時は――。
「ゴール!」
 再び、舞の胸がゴールテープを切る。振り切るように、そのまま走り続ける。
 先輩が大学に受かったら、一人暮らしになり、二人は遠距離恋愛になる。毎日電話しあってお互いに今日の出来事を報告しあうのだ。一年後には舞もおなじ大学に入り、また一緒に走ったり、デートしたり、先輩の家に行って、料理を作ってあげる事もあるかもしれない。
 料理なんかした事ないから、受験勉強の傍ら、料理の練習もしないといけない。
 そういうの、全部、全部なくなってしまった。
「ゴール!」
 三度目のゴールの後、とうとう、憤慨する声がそれに続いた。
「いい加減にしろよ!」
 ゴールテープの両端を持って渡していた二人の女生徒のうち、小さい方が憤慨して地団駄を踏んでいる。
「もう、行こうぜ、英理」
「そうね。もう暗いし。門限もありますので」
 そう言って、おもむろに布のゴールテープを巻きとって、仕舞い始める。
「まだ、まだなの! これから、大学卒業するまでにプロポーズされるの、それで……それで、卒業と同時に結婚するっ」
「どんだけ妄想だよ?!」
 真琴の容赦のないツッコミが飛ぶ。それが最後の一押しとなって、フルカラーの夢が目の前で音を立てて崩れていく。
「うわあああああ」
 体力の限界とともに、膝から力が抜けて、舞は倒れるようにして止まった。
「舞!!」
 地面に手をついて座り込む舞に、二人が慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫かっ!」
「足、痛むの?」
 心配そうに覗き込んでくる二人に見つめられて、それまでせき止められていた感情が溢れ出した。止まったら、気持ちを抑えられない。
「まだ、終わってない。終わりたく、なかっ、た……!」
 再び立ち上がろうとする舞を、二人が止める。
「バカヤロウ、また怪我したらどうするんだよ!」
「そうよ、あんなひと、忘れてしまいなさいよ。拒まれたからって別れるような最低男なんか」
「違う……先輩は、先輩は、気づいてたんだ。あたしが自分の夢を先輩に押し付けてた事。自分の都合のいいようにしか、先輩と付き合ってなかった事。本当は、先輩が最悪の時でも、ちゃんと受け止めてあげなくちゃいけなかった」
 あの時、逃げ出す以外に方法があったはずだった。けれど、決定的瞬間は過ぎ去り、もう戻って来ない。
「……でも、あたしにだって、夢を弔う権利くらいある!」
「舞……」
 真琴が肩を竦めて言う。
「わかったよ、舞。好きなだけ話聞いてやるから、さっさと着替えて来いよ。その方がいいだろ、走るより」
「それに、わたしたちらしい、でしょ?」
 英理が微笑んで付け足す。
 舞が足を怪我していた時、他愛もない会話で空虚を埋めてくれたのはこの二人だった。久しぶりに、その時の気持ちを思い出した。
 涙に濡れた顔をぐりぐりと乱暴に拭って言う。
「走ったらお腹空いた。……お好み焼き食べたい」
「はいはい」
 舞の頭をくしゃくしゃと撫でて歩き出した二人を、名を呼んで呼び止める。
「真琴、英理」
 二人の友人が、足を止めて振り返る。
「また、恋がしたいよ」


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