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E06  虹色の毒

 草木も眠る丑三つ時に、俺はその店を訪れた。その姿をめざとく見つけて、聡子さんがにこりと微笑む。
「いらっしゃい。今日はずいぶんと遅いのね。……まあ、忙しかったみたいだし」
 長い黒髪を一つにまとめ、黒目勝ちの瞳を細くして笑う。その姿は生前のままで、いつ見てもきれいだった。このバーのマスターである友人を羨む唯一の点だ。
 そう、生前のまま、三年前から変わらぬ姿で彼女はそこにいた。
 昔から少々みえる性質だったのだが、不運な事故で亡くなった彼女をこのカウンターで見つけたときは心底驚いた。
 仕事で詰まるといつも閉店間際にこの店へやってきた。彼女相手に話をしていると光明が差す。マスターである友人と他愛ないやりとりをしたのもいい思い出だ。彼女が亡くなり、俺がその姿をここで見つけてからは、友人抜きで酒を飲む。彼女は元気かと聞かれ、うんと頷くと友人は最後の戸締まりを俺に任せて裏にある自宅へ引っ込むのだ。
 今日は遅くなりすぎた。流石に友人の姿はもうない。
「本当に、疲れた。長い一日だったよ」
「まず最初の一杯?」
 普段はビールのあとにカクテルを色々と試す。それが慣わしだ。けど、俺は首を振る。
「いや、ビールは飛ばそう。何か適当な、おすすめのカクテルを」
「そうね、それじゃあ……アラウンド・ザ・ワールドで」
 そう言って目の前に差し出されたのはジンベースにパインジュースを加え、ペパーミントがさっぱりとした清涼感が溢れる一杯だった。きれいな緑色をしている。聡子さんは不思議と酒とグラスだけは現実のものに触ることができるのだ。それよりも政志さんに触れたかったと聞いたときは胸に迫るものがあったが、彼女の作るカクテルはとても美味しいので、実はかなり嬉しい。
「それで、どんな方法で殺されたの?」
「ああそれが……」
 被害者は松阪豊。なかなかの美男子。今でいうイケメンってやつだ。三十歳で、自室で服毒死していた。どこにでもある普通の作りの2DK。玄関は施錠されており、八月の暑い盛りで部屋にはクーラーが二十四度とかなり低めで付けられたままだった。青酸系の毒物が酒の中に混入されていた。残りの毒が入った瓶も、タンスの奥から発見されている。一見すると自殺のように思えるが、自殺ではなく他殺だ。
 鑑識の調べで死亡時刻は八日の夜十時から十二時前後だと発表された。
「実は犯人はもうわかってるんだ。恋人の葉山ひとみ。毒物を持ち込んだのは彼女だ」
「あら、犯人がもうわかっているなら、なぜあなたはここにいるの?」
 俺は肩をすくめてみせた。そして緑色のカクテルを飲み干すと、次を注文する。
「ブルー・マンデーを」
「憂鬱な月曜日、ね。ウォッカで作る?」
 本来はジンベースのものだが、ウォッカでもよく作られる。さっきのがジンだったので彼女のすすめにうなずいた。ブルーの液体を一口飲んで、続きを話す。
「最近流行のレインボーカクテルって知ってるかい?」
 大手メーカーが女性向けに発売した七本セットの酒だった。レインボーという名の通り、赤橙黄緑青藍紫の七つの色をしている。それを別売りの炭酸水で割って飲む。瓶にはおすすめのフルーツデコレーションなどがあり、自宅でそのまま缶を開けて飲むのではなく、グラスへ移し替え、少し気取った気分を味わえるのが人気の秘密だった。味も悪くない。
「そのうちの、藍色、インディゴカクテルに毒は混入されていた」
 流しにあった藍色の瓶だけに毒物の反応があった。まだ飲まれていなかった紫には毒物の反応はなく、流しに並べてあったすでに空になっている他の五本も、軽く洗ってあっただけなので検査でカクテルの成分が出た。しかし、毒物の反応はなかった。毒物が入っていたのは間違いなくインディゴカクテルのみだった。
「第一発見者は犯人である葉山ひとみ。少し早いお盆休みをとった友人と二泊三日の旅行に出かけていたんだ。その土産を渡すために九日の昼、彼の自宅を訪れた。合い鍵を持っていた」
 空のグラスを下げられたので次の酒は何にしようかと、聡子さんの後ろに並んだ棚を眺める。落ち着いた雰囲気のこの店には、ほとんどのバーがそうであるように、酒の瓶がずらりと並んでいる。何かリキュール系をと思いヴァイオレット・フィズを頼んだ。甘口でたまに飲むと旨い。幽霊の手が流れるように動きステアしたそれが目の前のグラスに注がれる。
「笑ってしまうことに、自分にはアリバイがあると主張したらしい。毒殺で、だ。何を考えてるんだか、取り調べした同僚に同情するよ」
 カクテルはゆっくり飲むものだと思っている。思ってはいるのだが……今夜はグラスがあっという間に空になる。指先で弾くと聡子さんにこらっ、と怒られたが、少しだけ微笑んで次を指定する。パントマイムはドライ・ヴェルモットを使いシェイクして作る。卵白を入れるのも結構好きなところだ。ピンク色が可愛い。
「物的証拠は出ているの?」
「ああ。彼女が買ったというのは初期の段階で認めた。二日の昼に合い鍵で訪れ、彼女の雑誌とともに持ち込んだ。レインボーカクテルは冷蔵庫へ入れておいた。かなり頻繁にそんなことをしてたらしい」
「彼女の雑誌?」
「ティーン向けの月刊誌で占いを書いてるそうだ。若者の間でそれなりに人気だって話で、自分の仕事を見てもらいたいからと毎月届ける。部屋には前の三ヶ月分その雑誌が置いてあった」
「へえ。占い師さんなのね」
「決め手になったのは、その問題の瓶。藍色の瓶の蓋だ。酒だし、ああいったもののキャップはほとんどが金属で出来てて、こう、ねじって開けるだろ? そのとき蓋か、または瓶側に少し端が残る」
「そうね。あれ、きちんととらないと危ないのよね」
「瓶を開けたときのその切り口が、残っていたキャップ部分と合わなかったんだ。他のすでに開いている五本分はきっちり合ったのに、問題の藍色の瓶のキャップだけが合わなかった。で捜索だ。馬鹿な女で、どこか遠くに捨てる算段でもしてりゃいいものを、鞄の中からすぐに見つかった。小さな穴のあいている金属製のキャップがね」
 本当に、愚かとしか言いようがない。それでアリバイだうんぬんと主張されても困る。
「動機はなんだったの?」
「なんでも自分の占いで豊が浮気をしてると出たそうだからとか」
「たかが占いで?」
 本当に。たかが占いで。本人に確かめてみもせずに、浮気していると決めつけた。それだけ彼女にとって占いは絶対だったのだろう。
「もてる男は辛いわね」
 くすりと笑って、聡子さんはトマトジュースを取り出した。
「次はこれでいい?」
「もちろん」
 差し出されたのはセロリスティックの刺さったブラッディ・マリー。毒殺とはいえ、殺人事件に似つかわしい真っ赤な酒だった。
「それで? 犯人も、その手口もわかっているのになぜあなたがここにいるのかしら?」
 そう。
 事件は解決している。
 今もまだ半狂乱でいる葉山ひとみはともかく、物的証拠はあがっている。裁判になっても十分納得させることはできる。
 なのになぜ……、
「アリバイを主張するからにはアリバイを作ったと思うんだ」
「そうね」
「旅行に行って、毒を飲ませることはできなかった。これが彼女の主張だ。つまり、意図的にその日旅行へ行っているんだ」
 そしてそれは、確実に毒を飲む日を知っていた、ということだ。
 だが、どうやって。
「……他に、彼女から普段と何か違うアクションはなかったの?」
「他に?」
「ええ……例えば、仕事の忙しさを聞かれたとか」
 そう言えば、毎晩メールが入っていた。メールが来れば当然返信をしていて、聡子さんの言う通り、仕事の具合を答えていた。
 すると彼女は笑う。
「それなら、私でも死ぬ日は計算できる。だからそれに合わせて旅行の予定を組んでおけばいいのよ」
「まさか」
 口をつけかけたブラッディー・マリーを噴きそうになる。だが、聡子さんの表情は変わらず笑顔のままだった。
「どれくらいの期間付き合っていたの?」
「もう二年になる」
「家に、何度も来ていたようだし……そうね、最初は何色を飲んだの?」
「え?」
「その雑誌には、今月の星座占いとでもあったのかしら?」
 俺は黙ってうなずく。
「ラッキーカラーが書いてあった?」
 質問の意図がわからずに戸惑う。
「始めの一つを操作しないと、思うようにはいかないから。ラッキーカラーが書いてあったんでしょう?」
 手元のグラスに視線を落とす。ブラッディー、血のような赤。
 俺のその態度でわかったのか、彼女は赤ねとつぶやいた。
「それで飲み始めたのは三日だったのね。二日の昼に持って来て、三日の夜から飲み始めた。ああ、一応一日余裕をもったのかしら。だから二泊三日なのね。もしずれていたら帰宅後すぐに回収して一からやり直すつもりだった……」
 一人つぶやく彼女に俺は混乱する。
「聡子さん?」
 すると、幽霊にしておくにはもったいないほどの微笑みを見せて、彼女はまた答えるでもなくさらに質問を投げかけてきた。
「松阪さんは、仕事が立て込んでなければ毎晩寝る前に何かお酒を飲むのよね。缶麦酒なら1本、焼酎ならグラス一杯程度」
「そう、だね。それ以上は翌日の仕事に差し支える。ナイトキャップ代わりに毎晩彼女の持ってきたカクテルを飲んだ」
 そうよね、と聡子さんはうなずいてみせる。
「だから彼女はメールで仕事が言うほど忙しくないことを確認した。毎日あなたが晩酌することを確認するため」
 そう言って、彼女は俺の目の前に並ぶ空のグラスを――――――、



 いや、



 色とりどりのグラスを見せる。

 聡子さんが最初に作ったアラウンド・ザ・ワールド。
 次に俺が頼んだブルー・マンデー。
 ヴァイオレット・フィズにパントマイム。そして手元にあるブラッディー・マリー。
 緑、青、紫、桃、赤と並ぶ、グラスになみなみ注がれたカクテルたち。
「もう一杯となれば、オレンジ色のカクテルを指定したでしょう? 気づいてなかった? これはもう性癖と言っても間違いじゃないレベルよ……松阪さん」
 見事なグラデーションが目の前のある。
 獅子座のラッキーカラーは赤! その文字が頭の中で弾ける。
 いや、今月だけじゃない。甘い物好きな俺のために、先月もひとみは月初め、彼女の雑誌と一緒にマカロンをいくつも買ってきてくれていた。酒のおともにと、少し値の張るウィスキーもともに。早めの誕生祝いだと言っていた。
 あのときもメールで、今日は何を食べたか、味はどうだったかと聞いてきた。
 味なんてどうでもよかったのだ。彼女が気にしたのは色。初めに手にとった色だ。
 風呂の中で雑誌を読む癖のある俺が、風呂上がりの一杯をするとき、占い欄に左右されるかを確かめる予行演習だったのだ……。
 赤を最初に手に取れば、あとは虹の七色、順番通りに毎晩一本ずつ死のカウントダウンが始まる。
 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……六日目に死がやってくる。
「浮気、してたの?」
「警察官には出会いが少ないって? これだけの男、誰も放っておかない」
 我ながら見目が良い。
 聡子さんは呆れたように肩をすくめて最後のカクテルを俺の前へ差し出す。
「レインボー」
「比重を優先しちゃうから、貴方の好きなグラデーションは難しいけれど」
「……もう、聡子さんのカクテルが飲めないなんて、この世に留まってもいいことがない」
 彼女は言った。
 なぜここにいるのか? と。
 気になっていたひとみのアリバイ主張のタネが明かされると、どこか重苦しかった身体が急に楽になった気がする。
「さよなら」
「聡子さんは?」
「私は、政志さんに最後のお酒を飲んでもらわないと」
 それが彼女の未練。
 俺はそっと最後のカクテルに手を伸ばして、そして――消えた。


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