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E05  魔法

「決まった?」
不意に横から声がした。
お姉ちゃんだ。
「まだ」
ぼんやり棚をみていた私は、あわてて答えた。
さまよっていた視線を棚に集中させ、真剣に選んでるふりをする。
でもぼんやりしてたのはお見通しだったらしい。お姉ちゃんは、もう、って感じに、あきれたような怒ったような表情をした。
「ちゃんと決めてよ。あんたが決めないと、あたしだって買えないんだから」
わかってる、と答えると、お姉ちゃんはふう、とため息をひとつつき、はやくしてよね、と念をおしてから、別な棚の方へ行ってしまった。
私も思わず息をはく。
まったく、ため息をつきたいのは私も同じだ。決めるのが苦手な自分に、私だってイライラしてる。


私とお姉ちゃんが今いるのは、近所のショッピングセンターに入っている画材屋さんだった。お姉ちゃんの図工で使う絵具が切れて、買いに行くのについてきたのだ。
お母さんから、ほしいのがあったら私も買っていいといわれ、お金は二人分もらってる。だから、私が決めるまではお姉ちゃんも買えないんだ。
好き嫌いがはっきりしてて、何でもパッパッと決められるお姉ちゃんは、こういうときも選ぶのがはやい。必要な絵具以外にも二、三色をすぐ選ぶと、私が選びおえるのを待ちながらいろいろ棚を見て回っていた。さっきはあんまり私が遅いから、しびれを切らしてみにきたんだろう。
妹の私はといえば、お姉ちゃんの正反対といっていいほど決めるのが苦手だ。
今日の夕ごはん何がいい、と聞かれたときでも、お姉ちゃんならすぐハンバーグ、シチューと答えるところを考え込んでしまう。
ハンバーグはおいしいけどこの間食べたばっかりだし、シチューは今日ちょっと暑いからむかないんじゃないか、じゃあ何がいいだろう……。
熟慮に熟慮を重ねてようやく心を決め、キッチンへ行ってお母さんに、ギョーザ、というと、なかなか答えないからお姉ちゃんに聞いてドライカレーにしちゃったわ、といわれる。そんな子だった。
それでも、お母さんは次の日の夕ごはんを餃子にしてくれたけど。 
ともかく万事がそんな調子で、レストランでメニューを決めるのと同じくらい、こういう買い物は難問だった。だから友だちとはなかなか行きづらくて、結果、よく一緒に行くのはお姉ちゃんで、そしていつもイライラさせてしまうのだ。
私だって、買い物のたびに自分にイラッとするけど、こればっかりはどうしようもない。焦れば焦るだけ、よけいに決まらなくなるのはいままでで十分わかってるから、気持ちを落ち着けて、でもなるべくはやく選ぶようにしてる。
まあ、たいていはいまみたいにうまくいかないんだけど。

しばらくたって、私はようやく一色選んだ。
青の絵具。
空色とか藍色とかぐんじょうとか、青にもいろいろ種類があって、しかもここのお店はけっこう大きいから、同じ名前の色でも何種類かあるのもある。
違いなんてよくわからなかったけど、何となく気に入ったのがひとつあってそれに決めた。さんざん悩んでも、決めるときなんてけっきょくこんなものだ。
少し深めの青色。紺っていうほど濃くないけど、ただ青っていうにはちょっとだけ暗い。水と混ぜたらもう少し薄い色になるのかもしれない。
もう一色くらい選びたいと思ったけど、ただでさえ決めるのが苦手な私には、そんなの無理だった。他の絵具を手に取るうち、最初に決めた青さえまた迷い始めてしまう。

もうこの青だけでいいかな。
あきらめ半分に思って、みていた棚から視線を外す。
そのとき、ふと下の方の棚の絵具が目に入った。いろいろみたつもりでいたけど、そこは見落としていたらしい。覚えのない絵具がならんでいる。
そのなかの一つに目がとまった。
緑のような、青のような色。
手に取ってみると、チューブにはエメラルドグリーンって書いてある。

エメラルドグリーン。

たしか前に家族で湖に行ったとき、お父さんが湖の色をそういっていた。
青とも緑とも言えなくて、不思議に思って聞いたら、エメラルドグリーンっていうんだ、って教えてくれたんだ。

夏の湖の色。

これにしよう、と思ってから、さっき決めた青と似すぎる気もしてやっぱり迷う。
手に持ったり棚に戻したりしながら悩んでいると、お姉ちゃんがやってくるのがみえた。
「決まった?」
さっきとまったく同じように聞く。
まだちょっと迷ってたけど、もう時間もない。
うん、とうなずこうとしたとき、ふとお姉ちゃんの手のなかにある絵具が目に入った。

エメラルドグリーン。

あ、と思った瞬間、お姉ちゃんは私の視線に気づいたらしい。
自分の手にある絵具をみて、それから私の持っているエメラルドグリーンに目をとめた。
「何、あんたもこれにしたの?いい色だよね」
お姉ちゃんはそういって笑ったけど、私はブンブン首を振って、あわてて絵具を棚に戻した。お姉ちゃんがびっくりしてる。
「どうしたの?別に同じの買ったっていいじゃない。それぞれ使えば」
「いい」
私はやっぱり首を振った。
お姉ちゃんと同じのを買う気はしなかった。
「だけど」
お姉ちゃんが何かいいかけたのをさえぎろうと、私はとっさに手近の緑の絵具を取った。
「青に緑まぜたらこの色になるもん。もともと青買うつもりだったから、これにする」
まだ納得していない感じのお姉ちゃんは、何度かほんとにいいの、って聞いてきたけど、私はそのたび、いいの、と首をふった。
「もう決めたから、レジ行こ」
今回は珍しく、私がそういう役になった。いつもだったら、グズグズしてる私をせかしてお姉ちゃんがいうのに。
レジにむかって強引に歩きはじめると、しぶしぶお姉ちゃんも続いた。
ほんとに、いつもとは逆だ。


お金をはらって、家へむかう。
帰り道、お姉ちゃんは何度か話しかけてきたけど、どこかご機嫌取りみたいな感じがあって、それが嫌で返事をしなかった。
少しするとあきらめたらしく、お姉ちゃんも黙ったまま、ずんずん歩く私を追いかけるようにはや足でついてくる。
けっきょく家につくまで二人とも、黙々と、まるで競歩大会か何かみたいに歩いた。

「お帰りなさい。けっこうかかったね」
玄関のドアをあけると、リビングから出てきたお母さんがいった。
いつもだったら多少不機嫌でも何か返事をするんだけど、今日はそんな気力もない。
小さくうなずいただけで横をすり抜け、部屋へむかった。
ドアをしめる直前、お母さんがあとから帰ったお姉ちゃんに、何かあったの、って聞いてる声が聞こえた。

勉強机の上に、絵具の入った袋を投げるように置く。
ベッドに行って座ってから、でも思い直してまた机に近づいた。
袋から絵具を取り出す。
青と緑。
どっちもいま使ってる絵具とは違って、どこかくすんだような感じの色だ。学校で買う絵具はもっとはっきりしていて、まじりっけのない感じがする。
いらない裏紙を机に広げ、二色とも絵具をチューブからしぼり出す。
筆とか水を用意するのが面倒で、指でまぜた。手をあまり汚したくないから、指先で。
爪の間に絵具が入りこんだ感じがしたけど、水彩だし、あとで洗えば平気だろう。
しばらくぐるぐるすると、紙のまんなかに、まざった色ができた。
どす黒い感じの、なんともいえない色。
緑のような青のような、でも茶色のような気もする。
少なくとも、エメラルドグリーンじゃないことだけはたしかだった。

似ても似つかない、うすぎたない青緑。

そんなの、本当はわかってた。
もともとくすんだ感じのする色同士をまぜたって、きれいな色ができるわけない。
それに、色はまぜるたび、にごりが増して黒に近づく、ってどこかで聞いた気がする。
だったらなおさら、きれいな色になんてなるはずがないんだ。
目の前の、にごった青緑色。
これじゃあ夏の湖じゃなくて、学校裏のきたない池の色だ。
嫌になって、紙を机にほったらかしたまま、指を洗いもせずにベッドに寝転がる。
とじた目の裏に、湖の色がチラチラとうかんだ。


「何やってるの」
ドアをあけたお姉ちゃんがいった。
お母さんと話しおわって、リビングから出てきたらしい。
この部屋はお姉ちゃんと共同だから、お姉ちゃんがくるのは当たり前だった。
「手、洗ってきたら?」
私の絵具まみれの指先をみていう。ゆるゆると首をふると、眉をよせた。
「シーツが汚れるよ。だいたい、何でそんなにきたなくなったのよ」
聞かれて、のろのろと机の方をさす。
お姉ちゃんは、机の上に乗ってる紙に視線をむけた。得体のしれない青緑をながめる。
「これ、今日買った絵具?」
私がうなずくと、へえ、と声をあげた。
「いい色じゃん」
「そんなことない」
からかわれた気がして、むっとして起き上がる。
エメラルドグリーンを買った人が、あれをいい色なんて思うはずがない。
「何でよ。嫌なの?」
お姉ちゃんがびっくりしたようにこっちをみる。
表情からすると、どうもほんとにいい色って思っていったらしい。
私には、とうていそうは思えなかった。
「だって、こんなのきれいじゃない。うすぎたないし、にごってるし」
ぶすっとしたままそういった。
自分のことばにさらに嫌な気分になる。もういい加減放っておいてほしかった。
それを感じたのか、お姉ちゃんは机の上の紙をまたちらっと見て、それから軽く首をかしげると部屋を出ていった。
さすがに愛想をつかしたのかもしれない。
ほっとしたような、ちょっとたよりないような気分で、私はまたベッドに寝転がった。

でもそのとたん、ドアがまたバタンとあく。お姉ちゃんが戻ってきた。
水の入ったボウルを持っている。
さっき出ていったのは、キッチンに水を取りに行ったからだったんだ。
びっくりして起き上がった私にはかまわず、お姉ちゃんはすたすた机に近づくと、ボウルをその上に置いた。
絵具のついた紙を手に取る。
「ちょっと…」
あわてて立ち上がってそばへよる。
嫌になってほっといたのは私だけど、勝手にさわられるのは、さすがに抵抗があった。
「いいでしょ別に。嫌なんだったらどうなったって」
お姉ちゃんはそういうと、片手で紙をおさえて、空いてる方の手をボウルの水につけた。
とめる間もなく、ぬれた指を絵具の上にはわせる。もうだいぶかわいてる絵具が、どんどん水びたしになっていった。

水に、あっという間に絵具がとけていく。
かたまった青緑が、みる間に淡くのびていき、やわらかな水彩の色合いにかわる。
にごった印象も、それと一緒にすぐ薄れていった。
現れたのは、おだやかな青緑色。
ほんの少しくすんだ感じで、でもいまではそれも水彩らしいやわらかさの一部に思える。
「水彩なんだからさ、水でとかなきゃ変な気もするよ」
満足そうな顔をして、お姉ちゃんがいった。
私はでき上がった、やわらかな青緑をみる。
さっきまでの得体のしれなさがウソのような、おだやかで落ち着いた色合い。
でもながめるうち、だんだんもやっとした気持ちがせり上がってきた。
お姉ちゃんはずるい。
何でも器用にできて、いつだって、こんなふうに私のつまずくところを軽々飛び越える。
そのくせぜんぜん自慢するふうでもなくて、だから友だちだって多いんだ。
不器用な私のことも、ときどきいまみたいに手助けしてくる。
まるでなんてことないような顔をして。
助けられる方の気持ちなんて、まるでわかっちゃいないくせに。
それでも「やってあげた」って恩を売ってくるわけじゃないから、嫌いになることさえできないんだ。


私が考えてることなんて少しも知らずに、お姉ちゃんはボウルに手を入れ、指先をささっと洗った。くるっと私の方をむき、あんたも洗う?ときいてくる。
しゃくだったけど、黙ってうなずいて手をひたした。さすがに絵具がこびりついたままってわけにもいかない。
絵具はもうかわきはじめていて、とれるまで少し時間がかかった。ボウルのなかが、すんだ青緑色にそまる。昔やった色水を思い出す。
こうして水にとけたのをみると、エメラルドグリーンにみえなくもなかった。

私が洗いおわると、ボウルを持ってお姉ちゃんはドアへむかった。流しに水をすてるんだろう。
気持ちはまだわだかまっていたけど、まかせっぱなしも悪い気がして、あとに続いて部屋を出た。ボウルはお姉ちゃんが持ってるから、私のやることなんてないんだけど。
廊下を抜けてリビングに入る。
座って雑誌を読んでいたお母さんが顔を上げた。
お姉ちゃんの持ってるボウルの水をみたとたん、その眉間にしわがよる。
「いったい何に使ったの!ボウルは食べ物を入れるものなんだから、そんなことに使うものじゃないでしょう!」
お姉ちゃんが首をすくめた。うしろで私もびくりとする。
こういうとき、お姉ちゃんは口ごたえせずにさっとあやまる。ごめんなさい、といいながら、お姉ちゃんは急いでキッチンへむかった。ボウルの水をすてるためだ。
そこへまた、お母さんの声がひびく。
「そこは料理をするところ!流すなら洗面所へ行きなさい」
ぱっときびすを返して、お姉ちゃんがリビングを出ていった。
私もあわてて続く。
これ以上リビングにいたら、お説教がはじまるに決まってる。そんなのごめんだった。

リビングを出たところにお姉ちゃんがいた。
私と目があうと、へへ、って感じに笑う。
やっちゃったね、っていうような、はにかんだ共犯っぽい笑い。
思わず私も同じように、へへっと笑ってしまった。
お姉ちゃんが、洗面所へむかって歩き出す。
そのうしろを歩きながら、やっぱりお姉ちゃんはずるい、と思った。
だって、部屋を出たときのもやもやした気持ちが、あとかたもなく消えてしまってる。
いつもそう。
お姉ちゃんのあの器用さのせいでどんなに落ち込んだり、イライラしたり嫌になったりしても、それは長くは続かない。どこかの瞬間、必ずお姉ちゃんがそれをといてしまうんだ。
それはさっきの笑顔みたいなことだったり、具体的なことばだったり、ちょっとした何かをくれることだったりいろいろで、それにたいていは大したことじゃない。
特にお姉ちゃんにとっては本当に、何の気なしにやっていることがほとんどだろう。
でもそういう何かがあると、気持ちのわだかまりが不思議なくらい、するっと消えてしまうんだ。
まるで、そう、魔法みたいに。
私はそのたび、ずるいなぁ、って思って、そして、かなわないな、って思うんだ。
前の、ずんと重たい感じじゃなくて、からだのどこかが、ふわっとふくらむ感じに。さっきの、絵具が水にとけていくみたいに。
その感覚は、嫌いじゃなかった。

「あのさ」
洗面所について、ボウルの水を流しているお姉ちゃんの背中に声をかける。
お姉ちゃんは作業をしながら視線を上げずに、なあに、と返してくる。
ほんの少しだけ息を多めに吸って、いった。
「今度あのエメラルドグリーンの絵具、かして」
お姉ちゃんがぱっとふりむいた。
びっくりしたような目と視線があう。
それはほんの一瞬で、でもそれからお姉ちゃんは、いいけど一体何なの、って笑った。


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