一覧へもどる

D09  サイレント・カラー

 色即是空。世にあるものはひとときの現象にすぎない。現象とはつまり色相だ。
 私達は諧調を頼りに世界の色あいを理解する。感覚器官が許す限りの分解能で、対象から信号を拾う。それは、視神経が三原色の波長をとらえてRBG値を答える、という意味にとどまらない。
 五感に届く振動。におい。温度。重量。それらが意識にもたらす痛み。喜び。悲しみ。恐れと、安らぎ。
 その時重要なのは隣合う色の差異だ。あまりに何もかもが強烈だと、コントラストが塗り潰されて何も感じない。あふれ返る信号から身を引き、ひとつを手に取り吟味しようとして初めて、感覚が戻る。
 何も感じなくさせる圧倒的な現象のかたまりから、特別なひとつを掬い出すとき、頼りになるのは自分に関わるキーワードだ。キーワードの集積であるところの、物語だ。
 物語は実体なき現象を取り分ける器である。
 物語でもって、私達は宇宙に「ここからここまで」と印をつけ、色即是空の荒野から、暖かい生命を汲み出そうとしている。

「はい、おそよう」
 おばあちゃんの皮肉で一日が始まるのはいつものことだ。
「お手伝いはいらないよ。畑仕事は午前中が勝負だ。のんきな子供が朝寝してるうちに、あらかた済んじまうもんさ。やれやれで休憩するところ」
 機嫌が悪いんじゃない。おばあちゃんは普段からこういうしゃべり方。
 その証拠に、私がお手伝いごっこの野良着じゃなくて短パン姿でいることにすぐ気づいてくれる。
「一緒に休憩するかい? じゃあ出といで」
 ヤカンの甘いお茶がもらえるという意味だけど、油断は禁物。いきなりまくしたてられることもある。
「帽子を被りなさい! 面倒がらずに! 手に持ってたって日差しは防げないよ! 日焼け止めは塗った?」
 大人の早口が走り出したら、事実を伝えるのが最優先だ。私はぶるぶると首を振った。
「塗らなーい、ときた。親の顔が見たいねえ。いや知ってるけどさ。あたしが産んだから」
 ひとりの会話がはかどってる以上、やっぱりおばあちゃんの機嫌は悪くない。
「そんならまあ、こっちの日陰にお座り。色の白いは七難隠すって言うんだよ。しーちーなん。七つの欠点ってこと」
 色白を誉められる代わりに七つもペケをもらいたいかどうか、女の子ならはっきり主張すべきだけど、お茶がなみなみ注がれたコップが来たので忙しい。
「帽子の中に何を持ってるの。おや古い写真を見つけたね。これを日に当てないように帽子で包んでた、そりゃ怒鳴って悪かったよ」
 お茶は甘いし誤解は解けるし、私はごくごく飲んだ。その間におばあちゃんは、プリントも見つけた。
「へえ、夏休みの宿題。家にある一番古い物の年齢を調べる。なら、おばあちゃんはどう? 結構古いよ」
 言うと思った! 私はプリントの下の方を指した。
「ああ、書いてある、人間はダメ。先生もさるもの、こういう揚げ足取りはお見通しだね」
 それから、原料を遡るのもダメ。
「どういうこと? 石油は昔の生き物の化石から出来てるけど、それはノーカウント、なるほど。でも石油ランプなんて、おばあちゃんが子供の頃でももうなかったよ」
 私は片手を「指印、コチラコチラ」の形にして、プラスチックのコップを突ついた。
「コップが何。え、プラスチックって石油から出来てるの?」
 驚いてる。小学生をあやすためじゃなくて、ホントに驚いてる顔。
「県がお祝い寄越すまで長生きしても、まだまだ知らないことばっかりだ。これ以上新しいことなんて覚えられそうにないよ」
 しょんぼりプリント読んでる。大丈夫、新しいことは私が受け持つ。その代わり昔の話は君に任せた。
「買った物でももらった物でも、その物がいつから家にあったか言える人に、話をしてもらうこと。こりゃおばあちゃんの得意分野だけどね。この写真はダメだ」
 どうしてー! という手話の最後のところを、私はパチッと打ち鳴らした。「どうして」は私の必須単語なので、おばあちゃん向けに作った簡易サインだ。
 おばあちゃんは、んっんと首を振っただけ。おばあちゃんが手話を覚えられない代わりに私が読唇を頑張る約束だから、いつもなら用件以上のおしゃべりをしてくれるのに、おふざけのオマケが何もない。
「夏休みの宿題よりだいじなものがあるんだよ」
「夏あすみのうく題よりだいなものなんてないよ」
 発声で「カブせ」のギャグをやったら、「ダメ」の顔がほころんだ。望みあり。
「話してやってもいいが……、秘密を守れるかい?」
 シュヒギム?
 これは筆談ボードに字で書いた。
「ええっと、守秘義務か。そうだよテレビっ子」
 テレビっ子は目下、手話画面付き探偵ドラマにハマり中。だから知ってる。シュヒギムだったら、宿題で発表できないよ。
「秘密にしたい理由までちゃんと聞いたってことを、発表すればいい」
 私は深くうなずいて、そうかそうか。そうかー? と、最後思い切り首を傾げた。
「家の歴史の聞き取り取材っていう宿題の目的には、合致してるはずだよ」
 なるほどアッチ。ってドッチー?
「言えない理由は言わないように、発表するんだよ」
 そんなことできる、かなー?
「あんたはできる子だよ」
 誉められた、えへー?
「これより古い物はうちにはないよ。何たって半世紀前のもんだ」
 アンセーキ! って何時代?
 日差しがきつくなってきて、私たちは家の中に移り、おばあちゃんは五十年前の話を始めた。

 この写真を撮ったのはおばあちゃんじゃない。
 これをくれた人は、後で分かったんだが、詐欺師だったよ。ドラマにも出て来るかい。人を騙してお金を盗む人。お金はね、盗まれなかったよ。
 それが詐欺だってことを見破ったのは、おばあちゃんなのさ。すごいだろ。
 農業技術交流のための短期移民って触れ込みだったよ。難しいか。要するに、写真に写ってる国で、農業をしませんかって誘いに来たのさ。
 自由チャンネル群島共和国って大層な名だった。今は何ってったけ、あの辺。政変で色々変わったんだよ。
 チャンネルと言っても通信回路じゃなくて、水路のこと。島と島が近くて、船で通るときにうんと気をつけなきゃいけないようなところを、水路って呼ぶんだ。青い海に島がごちゃっとかたまってる、きれいなとこだよ。ネットで見た限りじゃね。
 その頃、世界ネットには誰でも接続できたから、おじいちゃん達も自分の端末で下調べをしたんだよ。詐欺師の男が配った写真からGPSデータを取得すると、ちゃんと同じ森が表示されて、しかも全くオープンの値段がついてた。法的規制なし、誰でも買っていいってことさ。
 ミスター詐欺師は言葉巧みだったよ。
 出稼ぎとは違う。現地へ渡る移民組と、投資組とが互いに連携して果樹園経営をする。海外農地取得は日本政府の方針でもある。水路群島というくらいだし水は豊か、果樹もここでやってる物と変わらない。思えば日本の技術は熱帯のフルーツをこんな高緯度で作ってるんだなあ、さすがさすがってな具合。
 そのちょっと前に、洪水があってね。家族をなくした人はもちろん、家財をダメにしたり農具を流されたりして、みんな落ち込んでた。おまけに台地の果樹園は移せだ、谷には住むなだ、政府が勝手ばかり言ってきてね。明日のことを自分達で決めてみるってことに、みんなすごく興奮してたっけ。
 その頃のおばあちゃんは、日本語も半分ぐらいしか分からなくて、フンフン相づちだけ打ってたが、色んな書類が英語だったから、手伝えることもあるかと思ってね。常々おじいちゃんには南国訛りの英語ってバカにされてたし、ひとつ見返してやれと思ったのさ。
 写真をひと目見て、分かったんだよ。
 この森には水脈がない。
 どんなに深く掘ったって、水が出るはずない。本当さ。
 森の木をよくご覧。幽霊みたいだよね。長いドレスをひきずった女の人かな。幹の途中から、根っこが板みたいに分かれて広がってる。板根っていうんだよ。
 暑い地域だからね。植物がもう、めったやたらに育つのさ。木は休まず背を伸ばさないと、すぐに他の木の陰になってお日様が当たらなくなってしまうんだ。そうやって、上へばかりヒョロヒョロ伸びていったらどうなるか? じきにバッタリ倒れてしまうんだよ。
 上に伸びたら、その分だけ深い根っこを張ればいいと思うだろ。でもこういうスベスベした土壌には、保水力がない。降った雨が地面に染み込まずに、流れてなくなっちまうんだ。どこまで根っこを伸ばしても水に行き当たらないとなれば、木はムダなことはしないんだよ。
 そこで板根なのさ。衝立に寄りかかって体を支える要領だね。衝立が分からないって? 困ったね。突っかい棒だよ、要するに。
 木が突っかい棒をついてやっと立ってるような森に、水脈はない。熱帯の貧農育ちなら、誰でも知ってることだよ。
 自由チャンネル共和国はできたばかりで、旧政権時代のドメインをせっせと整理してた。森林の農地適性なんかの情報も、一時片付けられてたんだね。誰かが何かを問い合わせれば、どっかでほころびは発覚したろうよ。そうさせないのがつまりプロさ。詐欺師氏は自分が直結の窓口みたいな顔をして、着々とお金を集めてた。

 夏休みが終わり、私はおばあちゃんと別れて家へ戻った。
 宿題の発表は、板根の話だけで時間一杯になった。ろう学校は東京だったから、田舎の詐欺未遂事件のさわりぐらい話しても差し支えなかったと思うけど、盛りだくさんでとてもまとめられなかった。
 キーパッドは使用不可。読唇と筆談で集中力を使い果たした私は多分途中で眠ってしまい、おばあちゃんの長い話は日をまたいだので、夢と事実が混ざった記憶はますます混沌としている。
 ある日のこと、おばあちゃんは家出した。
 そしてミスター詐欺師のところへ行った。
 投資したはずのお金が互助口座に入れられてると近所の人が騒ぎ始めた頃、おばあちゃんはひとりで戻ってきた。
 直談判にねじ込んでやったのさ。と、回想中のおばあちゃんが言う。
 でも私の中のモノクロ映像では、若い娘が無声映画の女優みたいに両手を絞り、「一緒に行きたい」とか「連れてって」とかの簡単なセリフさえないシーンで、懸命に思慕の表現をしていた。
 映画を見ている私は、二人がそのうちケンカするはずで、原因は手紙であると知っている。故郷の両親におばあちゃんが書いた手紙。
 果樹園の先行きが不安だとか、いついつには災害支援金が給付されるとか、それまで仕送りは待ってねとか、そういう情報が闇へ回されない限り、あのタイミングで投資話が持ち込まれるはずがなかった。
 結婚を仲介するブローカーがいるなら、詐欺の根回しをするブローカーだっている。ブローカーがそんなに特別じゃなく出入りする土地では、井戸端会議程度で入手できる情報なのかもしれない。
 おじいちゃんの口座にだけ、お金は戻っていなかった。詐欺師氏もブローカーに情報料を払う必要があったから。
 嫁探しにお金を使い、その嫁が招いた詐欺で大金を失い、色んなことがありすぎたおじいちゃんは、自分の物語に見合う器で、現象を掬い取ることにしたようだ。
 彼の誇りは、集落を守ること。
 自分の親を告発しないよう頼むために帰宅したおばあちゃんが、みんなのお金を必死で取り戻してきたことは、危ういところでおじいちゃんの誇りと合致したんだと思う。
 おばあちゃんが日本語ではうまく言えず、南方英語で説明した熱帯の板根の話を、ネットで翻訳してみんなに見せたりしたらしい。
 おばあちゃんは両親と絶縁した。

 眠って逝ったおばあちゃんを送るお通夜には近所の人もホームの人も来て、賑やかな集会になった。話題はやっぱり、切れ味鋭いおばあちゃんの皮肉について。
「あの涼しい顔で、筆談ボードには毒舌書くわけでしょう。バスター・キートンみたいって言ってこの子、おばあちゃんのしゃべることならもっと知りたいって、読唇を頑張るようになったんですよ」
 私の手話を、母がゴチャゴチャの主語で読み上げる。ろう者に馴染みのない人がいる時の、一般向けの布陣だ。
「バスター・キートンいうと?」
「それがね、何百年も昔の映画なんですよ」
「ほおんな昔じゃないよ」
 面会に行けば「お人形さんのようなしーちゃん」としてチヤホヤされていた都合上、私の反論も控えめだ。
 反抗バリバリの頃は、「全部身振りでやってくれるから無声映画がいいんですって」なんて母が人に話したと分かると、私は怒り狂ったものだった。
 言葉がなくて楽だから好きなんじゃない。キートンは全身全霊でしゃべってる。そして何より、おっもしろいんだってば。
 テレビドラマで勉強したおばあちゃんの日本語は、標準語をベースにした時代劇・流行語・その他ゴッチャなハイブリッドで、妙なイントネーションをおどけて取られるのが嫌さに、表情を抑えるようになったとか。
 私にイントネーションてなものは聞こえない。代わりに別のものが聞こえる。
 おばあちゃんが皮肉言うのって、嬉しい時だよね。
「へえ詩織、気づいてたの」
 いいことは妬み深い精霊に聞きつけられないようわざとクサすみたいな、民間伝承の類よね、と母は言った。
 そういう言い方もあるけどもっとこう、幸せに面食らって反射的に身をすくませるような、自分が恵まれていいはずないとブルブル首を振るような、どっか怯えた獣のような。
「あんたはいい風に言えるわよ。あの人の語彙が増えて刃先がずいぶん丸くなってからの付き合いでしょ」
 ピンポイントで噛み付く舌鋒はかなりの猛獣だったらしい。
 農家を継がないと言う男を連れて来た母に、おじいちゃんが反対しなかった時も、内心では嬉しがってると思わなきゃやりきれないほど、ものすごいことを言われたそうだ。怖くて聞けないや。
 子供の頃の私は、ろうのことを「悪性遺伝」と呼ぶと思っていて、何をどう間違えたのかずっと意味が分からなかったけど、私の肌色を指して「隔世遺伝」と言った人がいたんだと気づいた。近所でうっすら噂になるくらいは知られていたんだろう。
 欧系企業が進出している熱帯の国の、政府筋とも繋がった唯一の窓口だと人が信じるほどに、ミスター詐欺師は白い肌をしていたという。

 夫を捨てかけた家出主婦。
 みんなのお金を取り戻した女傑。
 単価の見込める一点豪華フルーツへ舵を切った果樹園経営者。
 農村の外国人花嫁。
 孫の心を開いた慰撫者。
 どんな物語でおばあちゃんという人を切り取ればいいのか、もう分からない。やわなハッピーエンドは冷たい視線でスルーされそうだ。
 物語は結局、ただの器なんだと思う。ただの道具。おしまいまで来たら中身をあけて、空っぽのまま転がしておいていい。
 器から解き放たれた色相は、別の因縁を得て集まり、でもまた分かれて、世界は幾度でもバラバラになるんだろう。
 変わり続けうつろい続けながら、ふたたび物語の中で交われる日を、私達はどこかで待つのかもしれない。
 手すりの振動が止んで、フェリーはエンジンを切った。船は波に揺られるまま。
 母と二人で、おばあちゃんを空即是色の海に撒いた。


一覧へもどる

inserted by FC2 system